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ハ長調のポートレート04
日期:2018-06-29 10:29  点击:304
 満員電車にて
 
 
「ねえ、見て、ほら」
 
 と、友だちの一人がつっついた。
 
 少しぼんやりしていた美由紀は、我に返って、
 
「え? なに?」
 
 と、振り向く。
 
 何しろ電車はかなりの混雑である。電車の中がこみあっていても、学生が多いと、そう殺《さつ》伐《ばつ》としたムードにならずにすむ。
 
 しかし、この電車は勤め人が多いので、時にはあちこちで喧《けん》嘩《か》も始まる。ただ、今友だちが美由紀をつついたのは、喧嘩が始まったからではなかった。
 
「また乗ってるよ」
 
「本当だ。よくやるわねえ」
 
 美由紀はいつも大体同じグループで、この電車に乗っている。五人か六人だから、おしゃべりを始めりゃ、いともにぎやかではあるのだ。
 
 友だちが、「また乗ってる」と言ったのは、いつもではないが、まあ三日に一度くらいの割で、よくこの電車に乗って来る親子連れだった。——「親子連れ」といえば、別にどうってことはないようだが、この場合の取り合せは少々変わっていて、「父と子供」。それも、「赤ん坊」なのだった。
 
 赤ん坊は、まあせいぜい一つかそこいら。父親は、サラリーマンらしく、ちゃんと背広にネクタイのスタイルである。それで、リュックみたいなのを前にかついで、子供を抱っこしているのだから、いやでも目立っている……。
 
「——何かいやねえ。もう、生活の疲れがにじみ出ていて」
 
 と、一人の子が言った。
 
「奥さんに逃げられたのかね」
 
「そうよ、きっと」
 
 なんて、勝手なことを言い合っている。
 
 もちろん、みんな本気でそう思ったり、馬鹿にしているわけではなく、何もすることのない電車の中で、ただ時間潰《つぶ》しのおしゃべりの種にしているだけのことなのである。
 
 美由紀は、あまりその話に加わらなかったが、確かにその男が人目をひくのはしょうがない、と思った。
 
 よく見れば、せいぜい三十歳というところなのだろうが、印象は四十——それも四十代の後半といってもおかしくない。顔立ちや、体つきではなく、寝ぐせのついて、ピョコンと立った後頭部の髪の毛とか、しわになったまま、アイロンもかけていないズボンとか……。
 
 そんなものが、「老けてる」という印象を与えているのだ。
 
「あれじゃ、逃げたくなるわよ」
 
 と、一人の子が言った。
 
「逃げられたから、ああなったんじゃないの?」
 
「言えてる」
 
 ——その男は、もう人に見られることなんか、慣れっこなのだろう。ただ、吊《つ》り革につかまって、眠そうな目で窓の外を眺めている。
 
 すると——何が原因だったのか、急にその赤ちゃんが、ワーッと凄《すご》い声で泣き出したのである。
 
 
 
「こんにちは」
 
 ベランダで洗濯物を干していたエリは、いきなり義妹の美由紀がヒョイと顔を出したので、びっくりして、
 
「キャッ!」
 
 と、声を上げてしまった。「ああ、びっくりした! 美由紀さん、いつ来たの?」
 
「ごめんなさい。チャイム鳴らしたんだけど、誰も出ないから勝手に入って来ちゃったの」
 
「あら、ごめんなさい。ここにいると聞こえないのよね」
 
 と、エリは笑って言った。「すぐ終わるから何か冷蔵庫から出して飲んでて」
 
「いいわ、別に。手伝いましょうか」
 
「何言ってるのよ。——珍しいじゃない。学校、早く帰れたの?」
 
「今日はテストで半日」
 
「あら、ご苦労様。——これでよし、と」
 
 軽く息をついて、エリは中へ入った。
 
「亜紀ちゃん、この間熱出したんですって?」
 
 と、美由紀は居間に入って、言った。
 
「そうなの。夜中にね。大変だったわ。二人して、大騒ぎ」
 
 エリは、台所へ入って行って、「——紅茶飲む?」
 
 と、声をかけた……。
 
 美由紀は一七歳。エリは二八だから、一回り近く離れている。しかし、もともと妹がいるエリは、美由紀のことが本当の妹のように思えるのだ。
 
 カラッとして明るく、まあいかにも「別世代の人間」ではあるけれど、何となくエリとは気が合った。
 
「——亜紀ちゃんは?」
 
「今、寝てるわ」
 
 と、エリは言った。「本当に、静かな時間なんて、ほとんどないんだから」
 
 紅茶を飲みながら、美由紀は、
 
「はたで見てる方が可愛いね、赤ちゃんって」
 
 と、言って笑った。
 
 セーラー服の美由紀を見ていると、同じような制服だったエリは、つい昔のことを思い出す。まるで、ついこの間のことのようだ。
 
「——それで、結局、大丈夫だったの?」
 
 と、美由紀が訊いた。
 
「ああ、熱出した時のこと? そうね。日曜日だし、夜中だし……。もう近くの先生に片っ端から電話をかけまくったわ。でも、今のお医者さんって、時間外には電話も出てくれない人が多いのよね」
 
「そんなもんなの?」
 
「もちろん、お医者さんの立場にしてみりゃ分るけど。——結局、やっと捕まえた女医さんにあれこれ説明してね」
 
「診《み》てくれたの?」
 
「それが——」
 
 と、エリは思い出して笑ってしまった。「その女医さんがね、『ぐったりして元気がないようなら、連れて来てください』っておっしゃったの。で、『すぐに連れて行きます!』って、勝之さんが……。それで——ヒョイと見たら、いないじゃないの、亜紀ちゃんが。あれっと思って、居間を覗《のぞ》いたら……。あの子、マガジンラックの雑誌を次から次に引っ張り出してたの」
 
「へえ、面白い!」
 
「もう、勝之さんがあわてて、もう一度女医さんの所へ電話してね、『元気はいいようです』って。——汗かいちゃったわ」
 
「その女医さん、怒ってた?」
 
「よくあるんですよ、って笑ってたって。——本当に、後になると笑い話だけど、その時は、大変な病気だったらどうしようとか、悪いことばっかり考えちゃうのよね」
 
 美由紀は肯いて、
 
「なかなか大変なんだ、子育てって」
 
「そりゃそうよ。美由紀さんはまだ縁がないでしょうけどね」
 
「あったら大変。——でもね」
 
 と、美由紀は立って、畳の部屋でスヤスヤ眠っている亜紀子を見に行きながら、言った。「あ、よく寝てる……」
 
「もう起こしてもいいわよ。大分眠ったから、ご機嫌悪くはならないと思うから」
 
 と、エリは言った。
 
「そう? でも、可《か》哀《わい》そうじゃない。せっかくおやすみなのに、さ」
 
 美由紀が、亜紀子の小っちゃな手にそっと人さし指の先を当てると、亜紀子がギュッとその指を握った。
 
「へえ、結構力もちだ」
 
「そうでしょ? そうやって、ギュッとしがみつかないと、生きていけないのかもしれないなあ、なんて思うことがあるわ」
 
「やっぱり不安なんだろうね」
 
 美由紀は、まじまじと亜紀子の顔を見ながら、言った。「私——末っ子でしょ。だから、赤ちゃんって、苦手だったんだ」
 
「そう?」
 
「だって、見たことないじゃない。扱い方も分んないしね。それに、好きじゃなかった。うるさいし、言うこと聞かないし」
 
「そりゃそうね」
 
 と、エリは笑って、「正直言えば、私もよ。あんまり子供好きじゃなかったの」
 
「へえ、そうなの」
 
「勝之さんと結婚しても、子供なしでやって行こうかな、と思ったりもしたけど……。でも、やっぱりできてみればね」
 
「可《か》愛《わい》い?」
 
 と訊いて、美由紀は照れたように、「野《や》暮《ぼ》な質問だったか」
 
「そりゃ手間はかかるわよ。でも、お人形のように手のかからない子だったら——そんな子はいないでしょうけどね。きっと、こんなに可愛いと思わないでしょうね。手がかかるから可愛いの。それは何だってそうでしょう」
 
「そうね。——うちは犬や猫も飼ったことないし、私、何かを手間かけて育てたってこと、ないのよね」
 
 と、美由紀は言った。
 
「じゃ、亜紀ちゃんで練習してちょうだい」
 
「そうね。——おい、練習台」
 
 美由紀がちょっと頬《ほお》っぺたをつついてみると、たぶん偶然ではあったのだろうが、亜紀子がギャーッと泣き出した。
 
「わ! ごめん! ごめんね!」
 
 と、美由紀はあわてて謝ったのだった……。
 
 
 
 帰りの電車だった。
 
 クラブのある日は、いつも遅くなる。美由紀は、うまい具合に空席を見付けて、座った。
 
 もちろん朝の電車に比べりゃずっと楽なのだが、それでも座れることはめったにない。
 
 今日はツイてる、と思った。いくら若くたって、疲れる時は疲れるんである。
 
 何だかウトウトしそうになって……。
 
 ワアワア。——赤ちゃんの声みたい。亜紀ちゃんの夢でも見てんのかな、私?
 
 中途半端な気分で、そんなことを考えていると、コツンと、何かが頭に当たった。
 
「こらこら。だめじゃないか」
 
 目をパチクリさせて、見上げると——あの、朝の電車の「親子連れ」が、立っている。
 
「ごめんね。この子がそれを投げちまって」
 
「あら」
 
 膝《ひざ》の上に、おしゃぶりが落っこちていた。
 
「はい、どうぞ」
 
 と、男の人へ渡して、美由紀は、「どうぞ、座ってください」
 
 と立ち上がった。
 
「あ、いや、大丈夫。君も運動部で、疲れてるんだろ。座っててくれよ」
 
「いえ、少しウトウトしてたら、すっかり元気になりました」
 
 とは、いささかオーバーだが、確かに大分楽にはなったので、立つのはいやじゃなかった。
 
「じゃ……。悪いね」
 
 と、腰をおろすと、フーッと息をつく。
 
「——朝、よく同じ電車に乗ってますね」
 
 と、美由紀が言うと、その男は顔を赤くして、
 
「じゃ、君、あの中に? そりゃ知らなかった」
 
 と、照れ笑いをした。
 
「ここんとこ、見かけませんね」
 
「この間、これが凄《すご》い勢いで泣いた時、あそこにいた?——それじゃ、分るだろ。もうあの電車には乗りにくくてね。できるだけ、他の電車を使うようにしているんだよ」
 
「そんなこと、気にしなくていいのに。文句言う人には言わせときゃいいんだわ」
 
「いや、朝の満員電車の中で、苛《いら》々《いら》してる時に、ギャーギャー泣かれちゃね。そりゃ、いやな顔もしたくなるさ」
 
「あの時はどうしたんですか?」
 
「目にゴミか何か入ったらしいんだ。でも、あれだけ泣いたから、涙で流れちゃったんだけどね」
 
「赤ちゃんは、何か訴えようとしても、泣くしかないんですもの。泣かせてあげなきゃ。ねえ」
 
 それを言うなら、私たちの方がよっぽどうるさいかもしれない、と美由紀は思った。
 
「君の所、赤ちゃんがいるの?」
 
「兄の子が、今やっと六か月ぐらい」
 
「そうか。やっぱり赤ちゃんが身近にいる人でないと、なかなか笑ってすませちゃくれないもんだよ」
 
 みんな、昔は赤ちゃんだったのにね。
 
 この人だって、きっと好きでこんな赤ん坊を、満員電車で連れ歩いているわけじゃないだろう。理由なんか、赤ちゃんにとっては関係ない。
 
「男の子?」
 
「うん。今、九か月だ。抱いてるだけでも疲れるよ」
 
 と言いながら、その男は笑った。
 
 いい笑顔だ、と美由紀は思った。
 
「また、あの電車に乗ったら、お姉ちゃんのこと、思い出して手を振ってよ」
 
 と、美由紀が言うと、赤ちゃんは美由紀の顔を見て、笑った。
 
「やっぱり可愛い女の子には目がない」
 
 と、男が言ったので、美由紀は吹き出してしまった。
 
 ——周囲の人が、何事かと不思議そうに眺めていた。

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