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ハ長調のポートレート05
日期:2018-06-29 10:30  点击:237
 無口な男
 
 
 勝之が、台所へ入って来た。
 
「おい、大丈夫か?」
 
 と、妻のエリへ声をかける。
 
「ええ、大丈夫よ」
 
 と、エリは微《ほほ》笑《え》んで、「あなた、いいわよ、あっちにいて」
 
「うん……。もう帰ると思うけどな」
 
 と、勝之は少し低い声になって言った。「悪いな。今日だけだから」
 
「平気よ。——あ、それじゃ、これ、持って行ってくれる?」
 
「うん」
 
「ちょっと亜紀ちゃんの様子をみてくるわ」
 
「分った」
 
 勝之は、おつまみの皿を手に、リビングへ戻って行った。
 
「やあ! ちょうど何かほしかったところだ!」
 
「お前のかみさん、気がきくな」
 
「うちなんか、全然だめだ。さっさと寝ちまうよ」
 
「こっちだってそうさ……」
 
 誰が何をしゃべっているのやら……。
 
 何だか勝之にもよく分らなかった。
 
 ともかく、もう十一時をとっくに回っていて、しかも宴会は一向に終わりそうもなかったのである。
 
「——一度、うちへ遊びに来いよ」
 
 と、会社での昼休み、勝之が言ったのが、ことの始まり。
 
 亜紀子が生まれてからはもちろんのこと、結婚して、新居を構えてから、一度も同僚を呼んだことがない。
 
 それはまあ、たまたまそうなっただけのことで、別に勝之が特に付合いの悪い人間というわけではなかった。
 
「じゃ、週末にでも邪魔するか」
 
「いいとも。歓迎するぜ」
 
「じゃ、俺も」
 
 ——たまたま昼食の席に、同年代か、少し年上の人間がやたら大勢いた。
 
 俺も、俺も、というわけで……。何とこの狭いリビング(といっても、マンションとしてはごく普通の広さだが)に七人も客が入って、身動きもとれない、という感じだった。
 
 せいぜい三人ぐらいのつもりでいた勝之は、さすがにいささか焦《あせ》って、帰ってからエリに恐る恐る、
 
「実はね……」
 
 と、話をしたのだが、
 
「いいじゃないの」
 
 と、エリは明るく笑って、「たまには会社の方もお呼びしないと。私は大丈夫よ。三人でも七人でも同じよ」
 
 
 
 でも、やっぱり——三人と七人じゃ、大分違っていた。
 
 飲む酒の量、ビールの数、おつまみの量……。
 
 エリは、夫がゾロゾロと客を連れて帰って来た七時から——いや、鍋《なべ》物《もの》を軽く食べることにしていたので、その一時間前からずっと台所に立ちっ放しだったのだ。
 
 勝之がいささか気にするのも、当然のことだった。
 
 しかし、酔えば酔うほど、人間は時間の方にも気が回らなくなる。
 
 勝之も飲んではいたが、あまり酔えなかった。
 
「——坂上」
 
 と、二年先輩の同僚が、「お前はいい奥さんを持って幸せだ」
 
 多少ろれつが回らなくなって、「幸せだ」が「しわわせだ」と聞こえたりしている。
 
「うん……」
 
 と、勝之は肯《うなず》いた。
 
 おつまみの皿が、たちまち半分近く空になる。
 
 これじゃ、いくらエリが頑張ってもキリがないな、と勝之は思った。
 
「おい、戸山。お前は飲むといやに静かになるな」
 
 と、誰かが言った。
 
「そうですか」
 
 戸山は、確かに話にもあまり加わらないで、一人、ポツリポツリと飲んでいる。
 
 ——戸山は、しかし、もともと無口な男なのである。
 
 アルコールが入っても、一向に変わらない、というだけだ。
 
 戸山は勝之より二つほど年上のはずで、二八かそこいら。エリと同年齢ぐらいだろう。
 
 しかし、いやに老け込んだ感じで、見た印象は三十代も後半だった。
 
 会社には必ず何人か、「変わり者」という定評のある人間がいて、何かと話の種になるものだが、戸山もその一人だった。
 
 昼休みもたいてい一人でポツンと本など読んでいるし、帰りに一杯、とか誘われても、あまり付合わない。
 
 それに、途中入社で、まだ三年もたたないくらいだった。
 
 今日、こうしてやって来たのは珍しいことだったが、勝之と仕事の上で関係が深い、というせいもあっただろう。
 
 ——勝之は、ふと亜紀子の泣き声を耳にして、
 
「ちょっと失礼」
 
 と、立ち上がった。
 
 ——寝室へ行くと、案の定で、
 
「あら、いいの?」
 
 エリが亜紀子を抱いている。
 
「うん。目を覚ましたのか? やかましいからな」
 
「仕方ないわよ。お酒が入ると、声も大きくなるし」
 
「僕が抱こうか。疲れるだろ」
 
「じゃ……。ちょっとお願い。おつまみは大丈夫?」
 
「うん。まだ充分だ」
 
 と、勝之は言った。
 
 エリは、ベッドに腰をかけて、
 
「ああ、やっと座れた!」
 
 と言って笑った。
 
「いや、大変だな! こんなに大勢来るなんて」
 
「お仕事よ、これも。——ね、一人、ほとんどしゃべらない人がいるのね」
 
「ああ、戸山だろ」
 
 と勝之は肯いた。
 
「戸山さん、っていうの?」
 
「君と同じくらいの年《と》齢《し》だ」
 
「へえ! 老けてる」
 
「だろ?」
 
「奥さんは?」
 
「いない。——いや、結婚して、子供もいたんだけど、病気で奥さんを亡くしてるんだ」
 
「まあ、その年齢で?」
 
「うちの会社へ来た時はもう、やもめで、両親の所から通ってるらしいよ」
 
 もちろん、その辺の話は、社の「情報担当」の女子社員から聞いたのである。
 
「じゃ、割と苦労してるんだ」
 
「そのせいで老けたのかもしれないな」
 
 ——リビングの方から、ワッハッハ、と豪快な笑い声が聞こえて来た。
 
「そろそろ何か用意した方が良さそうね」
 
「しかし、無理をしなくていいぜ」
 
「沢山買い込んどいてよかったわ」
 
 と、エリは言った。「さて、と——」
 
 ベッドから立ち上がったエリが、少しふらついた。勝之はびっくりして、
 
「おい、大丈夫か?」
 
「平気。——平気よ。ちょっとめまいがしただけ」
 
「もういいよ。横になってれば?」
 
「そうもいかないわ。おつまみを出したら、亜紀ちゃんを寝かしつけるから」
 
「うん……。しかし、寝るかな」
 
 と、勝之はリビングの騒ぎを聞いて、ため息をついた……。
 
 
 
 エリがリビングへ行くのに、勝之もついて行った。どうせ亜紀子もすっかり目が覚めてしまっている。
 
「——あら、すみません」
 
 と、エリが空の皿を手に取って、「すぐ何かお持ちしますね」
 
「や、奥さん、どうもすみませんね!」
 
「すっかり楽しんでおります!」
 
「どうぞごゆっくり」
 
 と、エリは笑顔で言った。
 
「じゃ、すみませんが、もう少し酒を——」
 
「はい。すぐに」
 
 と、エリが台所へ戻ろうとすると、
 
「奥さん」
 
 と、呼んだのは……戸山だった。
 
「はい。何か、お持ちします?」
 
 と、エリは振り向いて言った。
 
「いいえ、もうおやすみになって下さい。我々は失礼します」
 
 ちょっと戸惑いの様子で、他の面々が顔を見合わせた。
 
「でも——いいんですのよ。ゆっくりして下さって」
 
 と、エリは言った。
 
「いや、お顔を拝見すれば分ります。お疲れですよ、かなり。——みんな、もう失礼しよう」
 
「戸山。せっかくあちらが、ああおっしゃってるんだぞ」
 
「我々はここで座って飲んでるだけだ」
 
 と、戸山は言った。「しかし、奥さんは、夕方からずっと台所で立ちづめのはずだ。もうみんな充分飲んだじゃないか」
 
 何となく、しらっとした空気になる。
 
「じゃ、お前だけ帰ったらどうだ?」
 
 と、一人が言った。「俺たちはもう少し、この可愛い奥さんのそばで、楽しんで行く。なあ?」
 
 笑い声が起こった。
 
 すると——戸山が顔を真っ赤にして、突然、
 
「いい加減にしろ!」
 
 と、怒鳴ったのだ。
 
 みんな仰《ぎよう》天《てん》して、目を丸くした。
 
「遠慮ってものを知らないのか、君らは! 赤ちゃんのいる家に上がり込んで、真夜中まで大声で騒いで、それがどんなに迷惑なことか分らないのか!」
 
 誰も言葉が出ない。
 
 勝之も、リビングの入口で亜紀子を抱いて立ったまま、唖《あ》然《ぜん》としていた。
 
 戸山が、こんな風に怒るのを、初めて見たのだ。いや、およそ感情をむき出しにするということのない男なのである。
 
 それが突然こうして怒鳴り出したのだから、びっくりしてしまう。
 
「坂上さん」
 
 戸山は、少し落ち着いた口調になって、勝之の方へ言った。「あなたもあなただ。奥さんが疲れてることぐらい、分らないんですか」
 
「いや……。それはまあ……」
 
「会社の同僚との付合いと、奥さんの体と、どっちが大事なんです? どうして、『家内がもう疲れてるんで、引き取ってくれないか』と言えないんですか」
 
 そう言われると、勝之の方も、返す言葉がない。
 
「——お産の後、一年くらいは、用心しなきゃ。同僚の手前、亭主関白のふりをして見せるなんてことほど、馬鹿げたことはありませんよ。それで奥さんに寝込まれたら、どうするんです」
 
 戸山の言葉は、本心からのものだった。勝之にも、それはよく分った。
 
「——そうだな」
 
 と、勝之は肯いた。「じゃ、すまないけど、これでお開きにしてくれ」
 
 みんなが、何だか酔いも半ばさめてしまった様子で、モソモソと立ち上がった……。
 
 ——玄関へ見送りに出た勝之とエリは、最後に靴をはいている戸山を見ていた。
 
「いや……」
 
 戸山は、少し照れたように、「余計な口を出したようで」
 
「そんなことないです」
 
 と、エリは言った。「優しいんですね」
 
「とんでもない」
 
 戸山は首を振った。「前の会社で——僕は、それで家内を亡くしたんです」
 
「まあ」
 
「同僚の手前、見栄を張って。——お産の後、まだ一か月そこそこの時、大勢引き連れて帰って……。夜中までドンチャン騒ぎをやりましてね」
 
 戸山は目を伏せて、「家内は次の日から熱を出して寝込みました。でも、赤ん坊がいると、無理をして起きますからね。——結局、肺炎になって、呆《あつ》気《け》なく……」
 
「そうだったのか」
 
 勝之は亜紀子を抱いたまま、「——いや、ありがとう。僕の方が悪いことをしたね」
 
「いや、とんでもない。——あんなことで会社をやめるなんて、つまらないですよ。もっとつまらないのは、男の見栄なんてもののために奥さんを病気にすることですね」
 
「よく憶《おぼ》えとくよ」
 
「お気を付けて」
 
 と、エリは言った。
 
 ——みんなが帰って、リビングには、空のコップや使った皿が、山になっている。
 
「片付けるの、明日にするわ」
 
 と、エリは言った。
 
「そうだ。少しぐらい散らかってるのが何だ。病気するよりいい」
 
「じゃ、あなた、これ、全部洗ってくれる?」
 
 エリに言われて、勝之はギョッとした。
 
「ワア」
 
 亜紀子が元気よく手を振り回した。

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