亜紀子様のご入浴
亜紀子は、お風呂が大好きである。
赤ん坊によっては、お風呂をいやがって泣く子もいるのだが、亜紀子は一度も泣いたことがない。
むしろ、お風呂に入ると、喜んで泣きやんでしまうくらいである。
お風呂へ入れるのは、原則として、パパ——すなわち坂上勝之の役と決まっている。もちろん、仕事で帰りが遅くなった時は、ママのエリが入れるのだ。
勝之が、初めて亜紀子をお風呂に入れた時には、おっかなびっくりで、のぼせてしまったものだ。
何しろ、ちょっと乱暴に扱ったら壊れるんじゃないか、と心配になる。
しかし、やはり赤ん坊を風呂に入れるのは、男の方が向いてるんじゃないか。慣れて来ると、勝之はそう思うようになった。
頭を左手で受け止めるように持って、体をお湯につけ、右手でそっと体を洗ってやる。
——すると亜紀子は、気持ち良さそうに目をつぶって、その内スヤスヤと眠ってしまうのだった。
勝之が、
「おーい、すんだよ」
と、声をかけると、
「はい」
と、エリがお風呂場へ入って来て、亜紀子を受け取る。
バスタオルでくるんで、後はエリの役目だ。
勝之は、やっとホッとして、一人湯船につかるのだった……。
男の方が、お風呂に入れるのに向いているというのは、一つにはもちろん力があるからで、まあそんなにまだ重たくないとしても、やはり赤ん坊の方も安心する。
それと、左手で頭を支えながら、親指と中指で、両方の耳を、お湯が入らないように押さえるのだが、ママがやると、手が小さいので、ちょっと指が届かないのである。
しかし——勝之が、できるだけ亜紀子をお風呂に入れるようにしているのは、実は勝之自身のためだったかもしれない。
エリは、昼間もずっと亜紀子と一緒だが、勝之の方は、夜になって帰ってから、やっと亜紀子とご対面だ。
何しろ朝、出勤のころには、亜紀子はぐっすりおやすみである。
だから、
「俺の顔を忘れるんじゃないか」
という心配もあった。
それはともかく、亜紀子をお風呂に入れて、気持ちよさそうにスヤスヤと眠り始める亜紀子を見ていると、勝之は、つくづく我が子への愛情を確かめられるのだ——と言ってはキザだろうか?
しかし、ともかく勝之が、亜紀子をお風呂に入れることを、帰りに同僚と一杯やることより、よっぽど楽しいと思っていることは確かだった……。
「おい、大丈夫か?」
朝、勝之は玄関を出ようとして、エリに訊いた。
「ええ」
エリが肯《うなず》く。
「でも——何だか顔色が良くないみたいだぞ」
ゆうべから、エリは少し風邪気味なのだ。
「大丈夫よ。却《かえ》って、寝たらだめなの。こんな時は、忙しく駆《か》け回っている方がいいのよ、その内、ケロッとしちゃうわ」
と、エリは微《ほほ》笑《え》んだ。
「それならいいけど——無理するなよ」
「ええ」
エリはサンダルをはいて、「行ってらっしゃい」
「行って来るよ」
——ドアを閉めると、エリはチェーンをかけようとした。
ヒョイとドアが開く。
「ああ、びっくりした!」
「今日は、早く帰るようにするからな」
「はいはい。じゃ、楽しみに待ってるわ」
と、エリは笑顔で言ったのだが……。
正直なところ、頭痛もして、確かに風邪を引いていると分っていた。
しかし、熱っぽくはない。
熱さえ出なければ、大丈夫だろう、とエリは思っていた。こんなこと、時々あるんだもの……。
「さ、頑張って!」
と、エリは自分に言い聞かせるように言った。
「坂上さん、少しは赤ちゃんの面倒もみてるの?」
勝之は、少し古手の女子社員にそう訊かれて、
「少しはね」
と、肯いた。「もちろんおしめもかえるんだよ」
「不器用そうだけど」
「今は簡単になってるからな。それに、お風呂はたいてい僕が入れる」
「へえ、偉いのね」
と、ちょっと見直した、という顔になる。
「いや、あんな楽しいもの、女房にやらせる気がしないね。僕の独占だ」
「オーバーねえ」
と、相手は笑う。
「しかし、しょせん男は赤ん坊を自分で産むわけにはいかないんだからさ。父親としては、ああやって風呂へ入れてやる時に、一番、我が子を身近に感じるんだよ」
と、勝之は言った。
「なるほどね。でも、女の子でしょ? 大きくなって来たら、その内、パパとじゃいやだって言い出すわよ」
「そうか……。そうだなあ」
と、勝之は本気で心配(!)し始めた。
電話が鳴った。
「——はい、坂上です。——あ、これはどうも!——は?」
勝之は、一瞬、返事をためらった。「——いや、かしこまりました。——は、結構です。——では、お待ち申し上げております」
「——何なの?」
電話を切って、勝之は、
「大阪のお得意さんだよ。上京して来て、今夜はヒマだから、付合えってさ」
「仕方ないわね、仕事じゃ」
「うん……」
「何か用事だったの?」
「いや……。子供を風呂へ入れてやるつもりだったのに」
「まあ」
と、その女子社員は笑い出してしまった。
勝之は家に電話を入れた。——もう四時だ。もう少し早く分っていれば……。
「そう。分ったわ。——いいわよ。お仕事でしょ。——ええ、私は大丈夫よ」
エリは、夫からの電話を切って、息をついた。
実のところ、エリは気分が悪くて横になっていたのである。少し熱も出て来たようだった。
夫が帰れないというのでは仕方がない。
何とか起きましょ。
「フア」
と、亜紀子がママに向かって、プラスチックの三角の積木を投げつけた。
「こら!」
と、エリはにらんだが、笑い出して、「元気ねえ、亜紀ちゃんは。あなたが元気でいてくれて、助かるわ」
そろそろ半年を過ぎて、亜紀子が母親から受け継いだ免《めん》疫《えき》も切れてくる。これから寒くなるし、用心しなくてはならない。
立ち上がったエリは少しめまいがして、柱につかまり、目を閉じた。
玄関のチャイムが鳴った。——誰か来た。
しかし、インターホンまで駆けて行く元気がなかった。
「——お義《ね》姉《え》さん。私」
勝之の妹、美由紀だ。良かった!
「ごめんなさい、突然来ちゃって」
セーラー服の学校帰り。美由紀は、玄関で靴を脱いだ。
「いいのよ。今日、あの人、遅くなるって」
「そう、別にいいの。兄貴に用事じゃないのよ。ただ、亜紀ちゃんの顔を——お義姉さん! どうしたの?」
居間へ入ってから、美由紀がびっくりして言った。
「どうって?」
「顔色悪い。——青白いよ」
「ちょっと風邪気味なの」
「寝てなきゃ! 私がやるわ、亜紀ちゃんのミルクぐらいなら」
美由紀は張り切って、「任せといて!」
と、腕まくりした。
天の助け、というのもオーバーかもしれないが、正直なところ、エリは美由紀が来てくれてホッとした。
美由紀にすすめられて、医者へ行き、注射を一本打ってもらって薬をもらい、帰って来ると、亜紀子は美由紀に抱かれて、眠っていた。
「——気分はどう?」
「ありがとう。注射が効いたみたい」
と、エリは言った。「今寝ると、なかなか夜、眠らないかもしれないわ」
「でも、寝るな、とも言えないしね」
「そうよ。——お風呂へ入れられれば、ぐっすり寝ると思うんだけど」
「お風呂好きだもんね」
「でも——私一人で入れると、こっちが湯ざめしちゃって……」
「だめよ、風邪引いてるのに」
と、美由紀が言った。「ひどくなったら困るでしょ」
「そうね」
と、エリは肯いた。「晩ご飯、何か取りましょうか」
「うん。おそばでいい。——兄さん帰って来るまで、いてあげるわ」
申し訳ないとは思ったが、エリも今一つ気分がすぐれないので、美由紀に頼ることにした。
「——そうだ」
と、美由紀が言った。
「どうしたの?」
「私が、亜紀ちゃんをお風呂に入れてあげる!」
「ええ?」
「だって、お湯に入れて、洗ってあげればいいんでしょ?」
「そりゃそうだけど……」
「大丈夫。落っことさないわ」
「そんなことじゃないの。疲れるわよ、やっぱり」
「でも、やるわ。——ね、やらせて」
美由紀に熱心に言われて、エリも承知した。
何といっても、その方が亜紀子も眠るし、それにエリも、いつもの通り亜紀子を拭いてやるだけでいいわけだ。
「じゃ、いい?」
と、エリは言った。
「はい、どうぞ」
先にお風呂に入った美由紀は、戸を開けて亜紀子を受け取った。「わあい、スベスベしてるんだ、亜紀ちゃんの肌って」
「そうよ。——じゃ、呼んでね、ここにいるから」
「任せとけって」
エリから説明してもらって、美由紀もやり方は分っている。
「さ、お姉ちゃんと一緒に入ろうね。——あんないかついパパと入るより、お姉ちゃんの方がよっぽどいいよ」
勝手なことを言っている。
エリが、お風呂場の前でバスタオルを手に立っていると、玄関で、ドタドタッと音がして、
「おい帰ったぞ!」
と、勝之が息を切って、やって来た。
「あなた!」
「亜紀は?」
「今、お風呂に——」
「一人で?」
「まさか! 美由紀ちゃんよ」
「あいつが入れてるのか? 危ないじゃないか!」
「大丈夫よ。ちゃんと説明して——」
と、お風呂で、
「キャッ!」
と声が上がった。
「どうした!」
勝之が、戸を開けると、
「お兄さん! 帰ってたの?」
美由紀が、両手で亜紀子を捧げ持つようにして、自分が頭までびしょ濡《ぬ》れになって、目をパチクリさせている。
「足をすべらせたの。でも、大丈夫! 亜紀ちゃんは高く持ち上げたから」
「まあ、大変ね」
と、エリが笑った。「じゃ、こっちへ」
「うん。——お兄さん! 向こうに行ってよ!」
「あ、はいはい」
妹は一七だ。勝之は後ろを向いてやった。
せっかく、お得意に謝ってまで帰って来たのに。——勝之は不満だった。
畜生、明日はきっと早く帰って来て、亜紀子を風呂へ入れてやる!
坂上家は、差し当たり、至って平和なのである……。