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ハ長調のポートレート08
日期:2018-06-29 10:33  点击:231
 亜紀子様のご入浴
 
 
 亜紀子は、お風呂が大好きである。
 
 赤ん坊によっては、お風呂をいやがって泣く子もいるのだが、亜紀子は一度も泣いたことがない。
 
 むしろ、お風呂に入ると、喜んで泣きやんでしまうくらいである。
 
 お風呂へ入れるのは、原則として、パパ——すなわち坂上勝之の役と決まっている。もちろん、仕事で帰りが遅くなった時は、ママのエリが入れるのだ。
 
 勝之が、初めて亜紀子をお風呂に入れた時には、おっかなびっくりで、のぼせてしまったものだ。
 
 何しろ、ちょっと乱暴に扱ったら壊れるんじゃないか、と心配になる。
 
 しかし、やはり赤ん坊を風呂に入れるのは、男の方が向いてるんじゃないか。慣れて来ると、勝之はそう思うようになった。
 
 頭を左手で受け止めるように持って、体をお湯につけ、右手でそっと体を洗ってやる。
 
 ——すると亜紀子は、気持ち良さそうに目をつぶって、その内スヤスヤと眠ってしまうのだった。
 
 勝之が、
 
「おーい、すんだよ」
 
 と、声をかけると、
 
「はい」
 
 と、エリがお風呂場へ入って来て、亜紀子を受け取る。
 
 バスタオルでくるんで、後はエリの役目だ。
 
 勝之は、やっとホッとして、一人湯船につかるのだった……。
 
 男の方が、お風呂に入れるのに向いているというのは、一つにはもちろん力があるからで、まあそんなにまだ重たくないとしても、やはり赤ん坊の方も安心する。
 
 それと、左手で頭を支えながら、親指と中指で、両方の耳を、お湯が入らないように押さえるのだが、ママがやると、手が小さいので、ちょっと指が届かないのである。
 
 しかし——勝之が、できるだけ亜紀子をお風呂に入れるようにしているのは、実は勝之自身のためだったかもしれない。
 
 エリは、昼間もずっと亜紀子と一緒だが、勝之の方は、夜になって帰ってから、やっと亜紀子とご対面だ。
 
 何しろ朝、出勤のころには、亜紀子はぐっすりおやすみである。
 
 だから、
 
「俺の顔を忘れるんじゃないか」
 
 という心配もあった。
 
 それはともかく、亜紀子をお風呂に入れて、気持ちよさそうにスヤスヤと眠り始める亜紀子を見ていると、勝之は、つくづく我が子への愛情を確かめられるのだ——と言ってはキザだろうか?
 
 しかし、ともかく勝之が、亜紀子をお風呂に入れることを、帰りに同僚と一杯やることより、よっぽど楽しいと思っていることは確かだった……。
 
 
 
「おい、大丈夫か?」
 
 朝、勝之は玄関を出ようとして、エリに訊いた。
 
「ええ」
 
 エリが肯《うなず》く。
 
「でも——何だか顔色が良くないみたいだぞ」
 
 ゆうべから、エリは少し風邪気味なのだ。
 
「大丈夫よ。却《かえ》って、寝たらだめなの。こんな時は、忙しく駆《か》け回っている方がいいのよ、その内、ケロッとしちゃうわ」
 
 と、エリは微《ほほ》笑《え》んだ。
 
「それならいいけど——無理するなよ」
 
「ええ」
 
 エリはサンダルをはいて、「行ってらっしゃい」
 
「行って来るよ」
 
 ——ドアを閉めると、エリはチェーンをかけようとした。
 
 ヒョイとドアが開く。
 
「ああ、びっくりした!」
 
「今日は、早く帰るようにするからな」
 
「はいはい。じゃ、楽しみに待ってるわ」
 
 と、エリは笑顔で言ったのだが……。
 
 正直なところ、頭痛もして、確かに風邪を引いていると分っていた。
 
 しかし、熱っぽくはない。
 
 熱さえ出なければ、大丈夫だろう、とエリは思っていた。こんなこと、時々あるんだもの……。
 
「さ、頑張って!」
 
 と、エリは自分に言い聞かせるように言った。
 
 
 
「坂上さん、少しは赤ちゃんの面倒もみてるの?」
 
 勝之は、少し古手の女子社員にそう訊かれて、
 
「少しはね」
 
 と、肯いた。「もちろんおしめもかえるんだよ」
 
「不器用そうだけど」
 
「今は簡単になってるからな。それに、お風呂はたいてい僕が入れる」
 
「へえ、偉いのね」
 
 と、ちょっと見直した、という顔になる。
 
「いや、あんな楽しいもの、女房にやらせる気がしないね。僕の独占だ」
 
「オーバーねえ」
 
 と、相手は笑う。
 
「しかし、しょせん男は赤ん坊を自分で産むわけにはいかないんだからさ。父親としては、ああやって風呂へ入れてやる時に、一番、我が子を身近に感じるんだよ」
 
 と、勝之は言った。
 
「なるほどね。でも、女の子でしょ? 大きくなって来たら、その内、パパとじゃいやだって言い出すわよ」
 
「そうか……。そうだなあ」
 
 と、勝之は本気で心配(!)し始めた。
 
 電話が鳴った。
 
「——はい、坂上です。——あ、これはどうも!——は?」
 
 勝之は、一瞬、返事をためらった。「——いや、かしこまりました。——は、結構です。——では、お待ち申し上げております」
 
「——何なの?」
 
 電話を切って、勝之は、
 
「大阪のお得意さんだよ。上京して来て、今夜はヒマだから、付合えってさ」
 
「仕方ないわね、仕事じゃ」
 
「うん……」
 
「何か用事だったの?」
 
「いや……。子供を風呂へ入れてやるつもりだったのに」
 
「まあ」
 
 と、その女子社員は笑い出してしまった。
 
 勝之は家に電話を入れた。——もう四時だ。もう少し早く分っていれば……。
 
 
 
「そう。分ったわ。——いいわよ。お仕事でしょ。——ええ、私は大丈夫よ」
 
 エリは、夫からの電話を切って、息をついた。
 
 実のところ、エリは気分が悪くて横になっていたのである。少し熱も出て来たようだった。
 
 夫が帰れないというのでは仕方がない。
 
 何とか起きましょ。
 
「フア」
 
 と、亜紀子がママに向かって、プラスチックの三角の積木を投げつけた。
 
「こら!」
 
 と、エリはにらんだが、笑い出して、「元気ねえ、亜紀ちゃんは。あなたが元気でいてくれて、助かるわ」
 
 そろそろ半年を過ぎて、亜紀子が母親から受け継いだ免《めん》疫《えき》も切れてくる。これから寒くなるし、用心しなくてはならない。
 
 立ち上がったエリは少しめまいがして、柱につかまり、目を閉じた。
 
 玄関のチャイムが鳴った。——誰か来た。
 
 しかし、インターホンまで駆けて行く元気がなかった。
 
「——お義《ね》姉《え》さん。私」
 
 勝之の妹、美由紀だ。良かった!
 
「ごめんなさい、突然来ちゃって」
 
 セーラー服の学校帰り。美由紀は、玄関で靴を脱いだ。
 
「いいのよ。今日、あの人、遅くなるって」
 
「そう、別にいいの。兄貴に用事じゃないのよ。ただ、亜紀ちゃんの顔を——お義姉さん! どうしたの?」
 
 居間へ入ってから、美由紀がびっくりして言った。
 
「どうって?」
 
「顔色悪い。——青白いよ」
 
「ちょっと風邪気味なの」
 
「寝てなきゃ! 私がやるわ、亜紀ちゃんのミルクぐらいなら」
 
 美由紀は張り切って、「任せといて!」
 
 と、腕まくりした。
 
 天の助け、というのもオーバーかもしれないが、正直なところ、エリは美由紀が来てくれてホッとした。
 
 美由紀にすすめられて、医者へ行き、注射を一本打ってもらって薬をもらい、帰って来ると、亜紀子は美由紀に抱かれて、眠っていた。
 
「——気分はどう?」
 
「ありがとう。注射が効いたみたい」
 
 と、エリは言った。「今寝ると、なかなか夜、眠らないかもしれないわ」
 
「でも、寝るな、とも言えないしね」
 
「そうよ。——お風呂へ入れられれば、ぐっすり寝ると思うんだけど」
 
「お風呂好きだもんね」
 
「でも——私一人で入れると、こっちが湯ざめしちゃって……」
 
「だめよ、風邪引いてるのに」
 
 と、美由紀が言った。「ひどくなったら困るでしょ」
 
「そうね」
 
 と、エリは肯いた。「晩ご飯、何か取りましょうか」
 
「うん。おそばでいい。——兄さん帰って来るまで、いてあげるわ」
 
 申し訳ないとは思ったが、エリも今一つ気分がすぐれないので、美由紀に頼ることにした。
 
「——そうだ」
 
 と、美由紀が言った。
 
「どうしたの?」
 
「私が、亜紀ちゃんをお風呂に入れてあげる!」
 
「ええ?」
 
「だって、お湯に入れて、洗ってあげればいいんでしょ?」
 
「そりゃそうだけど……」
 
「大丈夫。落っことさないわ」
 
「そんなことじゃないの。疲れるわよ、やっぱり」
 
「でも、やるわ。——ね、やらせて」
 
 美由紀に熱心に言われて、エリも承知した。
 
 何といっても、その方が亜紀子も眠るし、それにエリも、いつもの通り亜紀子を拭いてやるだけでいいわけだ。
 
「じゃ、いい?」
 
 と、エリは言った。
 
「はい、どうぞ」
 
 先にお風呂に入った美由紀は、戸を開けて亜紀子を受け取った。「わあい、スベスベしてるんだ、亜紀ちゃんの肌って」
 
「そうよ。——じゃ、呼んでね、ここにいるから」
 
「任せとけって」
 
 エリから説明してもらって、美由紀もやり方は分っている。
 
「さ、お姉ちゃんと一緒に入ろうね。——あんないかついパパと入るより、お姉ちゃんの方がよっぽどいいよ」
 
 勝手なことを言っている。
 
 エリが、お風呂場の前でバスタオルを手に立っていると、玄関で、ドタドタッと音がして、
 
「おい帰ったぞ!」
 
 と、勝之が息を切って、やって来た。
 
「あなた!」
 
「亜紀は?」
 
「今、お風呂に——」
 
「一人で?」
 
「まさか! 美由紀ちゃんよ」
 
「あいつが入れてるのか? 危ないじゃないか!」
 
「大丈夫よ。ちゃんと説明して——」
 
 と、お風呂で、
 
「キャッ!」
 
 と声が上がった。
 
「どうした!」
 
 勝之が、戸を開けると、
 
「お兄さん! 帰ってたの?」
 
 美由紀が、両手で亜紀子を捧げ持つようにして、自分が頭までびしょ濡《ぬ》れになって、目をパチクリさせている。
 
「足をすべらせたの。でも、大丈夫! 亜紀ちゃんは高く持ち上げたから」
 
「まあ、大変ね」
 
 と、エリが笑った。「じゃ、こっちへ」
 
「うん。——お兄さん! 向こうに行ってよ!」
 
「あ、はいはい」
 
 妹は一七だ。勝之は後ろを向いてやった。
 
 せっかく、お得意に謝ってまで帰って来たのに。——勝之は不満だった。
 
 畜生、明日はきっと早く帰って来て、亜紀子を風呂へ入れてやる!
 
 坂上家は、差し当たり、至って平和なのである……。

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