16 清算の時
「——これでいい」
と、男は満足気に肯《うなず》いた。「俺《おれ》は大《だい》体《たい》無器用で、人を縛《しば》るのなんて慣れてないんだが、これは正に会心の出来だ!」
「あんた、こんなことして、ただで済《す》むと思ってんの!」
坂東の愛人は、グルグル巻《ま》きに縛られて、男をにらみつけていた。
「いくら吠《ほ》えても、つないである犬は怖《こわ》くも何ともないさ」
「何ですって、この——」
「静かにしなさいよ」
千絵がウーンと手足を伸《の》ばして、「ああ、やっと自分のものって気がして来たわ、この手足が」
「でも、どうして?」
朱子はキョトンとしている。
「この子の顔に傷《きず》をつけるなんて、人間のやることじゃねえよ」
と、男は言った。「長いこと、辛《つら》い思いをさせて悪かったな」
「いいえ。でも、あなた、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
「何とかなるさ」
と、男は笑った。
「だめよ。また同じような生活に戻《もど》ったら、その体じゃ一年と生きてられないわ」
千絵は首を振《ふ》って、「警察へ行きましょう。あなたが私たちを助けてくれた、って証言してあげるから。——ちゃんと病院に入れてくれるわよ」
「やさしいなあ、本当に……。よし。じゃあ、言う通りにしよう」
「良かった! きっと後《こう》悔《かい》はしないと思うわよ」
千絵は微《ほほ》笑《え》んで言った。
朱子は、この千絵という娘《むすめ》に感心した。今の今まで誘《ゆう》拐《かい》され、監《かん》禁《きん》されていたとは、とても考えられない。
あの克彦より、妹のほうがしっかりしているようだ。
「ともかく、まず警察へ行きましょう」
と、朱子は言った。「きっと芸能レポーターが目を回すわ」
「この女、どうする? 水にでもつけとくか?」
「塩水につけると赤くならないわ」
リンゴと間《ま》違《ちが》えている。
「いいわよ。少し、縛《しば》られてる身も味わってみると反省するかも」
「あまり期待できないな」
三人は、部《へ》屋《や》を出た。千絵がヒョイと顔を見せて、女に言った。
「今の内に眠《ねむ》っといたほうがいいわ。留《りゆう》置《ち》場《じよう》ではきっと寝《ね》辛《づら》いわよ」
「大きなお世話よ!」
と、女が喚《わめ》いた。
「じゃ、ご機《き》嫌《げん》よう」
千絵はドアを閉めた。
「——何がどうなってるの?」
と、母の雅子がため息をついた。
「ごめん、黙《だま》ってて」
と、克彦は頭を下げた。
「それにしたって——」
と、雅子は納《なつ》得《とく》のいかない顔で、「千絵なんか誘《ゆう》拐《かい》する物好きがいるとも思えないけどね。——うちは大《だい》体《たい》、金持でもないんだし」
「だから、そうじゃないんだよ。千絵の奴《やつ》、星沢夏美と間《ま》違《ちが》えられて——」
「それだって変じゃないか。人をさらおう、っていうのに、顔も知らないなんて」
「そりゃ、まあ……変だけどさ」
「千絵にからかわれてんじゃないの? あの子はいたずら好きだからね」
克彦は困ってしまった。
ついに意を決して、母親に千絵が誘拐されたことを打ち明けたのに、一《いつ》向《こう》に信用してくれないのである。
「大体、あの夏美って子は、姿をくらましてるんだろ?」
「うん」
「姿をくらましてる者を、どうして誘拐するの? おかしいじゃないの」
どこがおかしいというのか、よく分からなかったが、克彦のほうも混《こん》乱《らん》して来た。
「おかしいったって、おかしくないんだから、仕方ないじゃないか!」
「千絵に騙《だま》されてるんだよ。見ててごらん、今に『ただいま』って、帰って来るから」
——この楽天性を、千絵も受け継《つ》いでいるのに違《ちが》いない。
克彦としては、一《いつ》切《さい》の事情を母親に納《なつ》得《とく》できるよう説明できる自信もなかったし、どうせ同じことなら、放っておくほうがいい、と思った。
「で、あの夏美って子はどこに行ったの?」
「分からないんだ。——自分で出て行っちまった」
「まあ。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なのかね? 何だか人殺しを捜《さが》してるんだろ? お前、捜しに行ったらどうなの?」
夏美のほうを心配しているのだ。変った母親である。
「それに何だかリサイタルとかいうのがあるんだろ?」
「うん。あと三日だ」
「やらないと会社が潰《つぶ》れるとか言ってたね。心配だねえ」
「うん……」
克彦は、何とも言いようがなかった。
玄《げん》関《かん》で音がした。
「ほら、きっと千絵だよ」
だったらいいんだけどね。克彦が出て行こうとすると——千絵がヒョイと顔を出して、
「ただいま、お兄さん」
と言った。
「ほら、ごらん」
と、母親が得意そうに言った。
「千絵、お前……」
克彦は唖《あ》然《ぜん》として言《こと》葉《ば》もない。
「大変よ、これから二、三日は」
と千絵が言った。
「どうして?」
「レポーターとか記者が押《お》しかけて来るから。私、手記をいくらで売ろうかな。お兄さん、整理係になってくれる?」
克彦は自分の頭をぶん殴《なぐ》った。——痛い! 夢じゃないのだ!
「ねえ、夏美さんはどうしたの?」
「それより、お前のほうの話が先だ!」
「晩ご飯のほうが先よ」
と、雅子が言った。「千絵、ちょっと手伝ってちょうだい」
勝手にしてくれ! 克彦はふてくされてソファにひっくり返った……。
「今こそ、チャンスだ!」
松江が顔を紅《こう》潮《ちよう》させて怒《ど》鳴《な》った。「坂東の奴《やつ》を見返してやる!」
「社長——」
安中が心配そうに、「あまり興《こう》奮《ふん》なさると血圧にこたえますよ」
「分かっとる!」
松江は、居間の中を、グルグルと歩き回った。「俺《おれ》は喜んでるんだ! 分かるか? こんなにいい気分になったのは生まれて初めてだぞ!」
「それは分かりますが——」
松江は急に立ち止まって、不安そうな表情になった。
「まさか坂東の奴が無罪放《ほう》免《めん》になることはないだろうな?」
「ないでしょう。まあ当人は、知らんと言ってますが、誘《ゆう》拐《かい》された女の子も、ちゃんと坂東を見ているわけですし、言い逃《のが》れはできませんよ」
「フン、いい気味だ。Mミュージックは大パニックだろうな」
「何人かのタレントのマネージャーから、うちへ移りたいという打《だ》診《しん》が来ています」
「そうか! いよいよ、これからは俺の時代だぞ!」
と、松江は握《にぎ》り拳《こぶし》を振《ふ》り上げた。
「しかし、社長、明日のリサイタルに、もし夏美が現われなかったら、それどころじゃなくなりますよ」
安中の言《こと》葉《ば》に、松江はいやな顔をした。
「せっかくいい気分でいるのに、変なことを言うな」
「ですが——」
「分かっとる!」
と、松江は怒《ど》鳴《な》った。「手がかりはないのか? 夏美をかくまっていたという兄妹には訊《き》いたのか?」
「五百万出すと言ってみました。しかし、本当に知らないようです」
松江はソファにドカッと座り込んだ。
「——すると後は、神だのみしかない、か」
「本人が自主的に姿を現わすのを待つしかありません」
松江は、ゆっくりと両手を組み合わせた。
「来ると思うか?」
「分かりません。しかし……責任感の強い娘《むすめ》ですからね。可能性は五分五分だと思いますよ」
「五分五分か」
松江は、ため息をついた。「そこへ賭《か》けてみるしかないな……」
「今となっては、仕方ありませんね」
「明日の——」
「午後六時開演です」
松江は、時計に目をやった。十一時を少し回っている。
「あと十九時間か……」
松江は呟《つぶや》いた。
十二時まで、あと五分。
安中貴代は、ベッドから出ると、サンダルをはいた。
病室のロッカーを開けると、タオルを沢《たく》山《さん》積んだ棚《たな》の奥《おく》から、紙《かみ》袋《ぶくろ》を取り出す。
中から、小さく丸めた白い布《ぬの》を出した。——いや、白衣である。
貴代は、白衣を身につけ、看護婦の帽《ぼう》子《し》を頭にのせた。靴《くつ》をはきかえる。
ちょっと見には、看護婦としか思えない。
鏡《かがみ》の前に立って、自分の姿を見ると、
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だわ」
と、肯《うなず》いた。
それから、机の引出しを開け、厚みのある封《ふう》筒《とう》を取り出す。
「さあ、これでおしまいだわ……」
貴代は呟くと、封筒をポケットに入れ、病室のドアをそっと開けた。
廊《ろう》下《か》は、静まり返っている。人の気配もなかった。
貴代は、廊下へ出て、音のしないようにドアを閉めると、急いで歩き出した。
——屋《おく》上《じよう》へ出ると、いつもより風が強い。湿《しめ》った、雨の気配を含《ふく》んだ風だった。
手すりにもたれた白い影があった。
「誰《だれ》?」
と、その影が訊《き》く。
「私よ、早野さん」
「——驚《おどろ》いた」
早野岐子は、ホッとしたように息をついた。「そんな格《かつ》好《こう》で来るから、誰かと思いましたよ」
「人に見られちゃ困りますからね」
と、貴代は言った。
「——残りの五十万は?」
「持って来たわ」
「それはどうも。当分、楽ができます」
と、早野岐子は笑った。
「——渡す前に、訊いておきたいことがあるの」
「何ですか?」
「これで百万円、あなたに渡したことになるわ。でも——これで最後だって保証があるの?」
「むずかしいことをおっしゃいますね」
と、早野岐子は笑った。「どうすればいいのかしら? 誓《せい》約《やく》書《しよ》でも書きましょうか?」
「あなたを信用してもいいの?」
「信じていただくしかありませんわね」
貴代は、しばらく早野岐子を見つめていたが、やがて肩《かた》をすくめた。
「分かったわ」
と、ポケットから封《ふう》筒《とう》を取り出し、差し出す。
早野岐子は、それを受け取ると、中をあらためようとした。
「待って!」
と、貴代が鋭《するど》く言った。「誰《だれ》かいるわ!」
「え?」
早野岐子は振《ふ》り向いた。
貴代は、相手の体を、手すりに押《お》しつけながら、その両足をかかえ込《こ》んで持ち上げた。
「何するの!」
と、早野岐子が叫《さけ》ぶ。
封筒が落ちて、中から、札《さつ》の大きさに切られた新聞紙が飛び出し、風に散った。
「死ね! 死ね!」
貴代は、暴《あば》れる早野岐子の体を、手すりの上に押し上げようと必死だった。
「離《はな》して!——人殺し!」
早野岐子の叫び声は、風に吹き散らされて行く。
安中は、妻の病室のドアを開けた。
中は暗く、ベッドの、盛《も》り上がった形が、ぼんやりと見えている。
「眠《ねむ》っているのか?」
と、安中は声をかけた。
ベッドが少しきしむ。身動きする気配。
「——何もかも明日だ」
と、安中は呟《つぶや》くように言って、椅子《いす》に座った。「夏美さえ、リサイタルに現われたら、総《すべ》てはうまく行く。——俺《おれ》たちの仲も、そのときになったら考えよう」
静かな息づかいが聞こえる。
「俺は疲《つか》れた……。当分、一人になって、どこか遠くへ行きたいよ」
安中は息をついた。「何もかも忘れて……。このまま警察が何もかぎつけなけりゃ、安心なんだが……」
ドアが開いた。安中はギクリとして立ち上がった。看護婦が立っている。
「あなた!」
と、その看護婦が言った。
「貴代、お前——」
安中が唖《あ》然《ぜん》とした。
「やって来たわ! あの看護婦を、今、屋《おく》上《じよう》から突《つ》き落として来てやった!」
「待て! 明りを点《つ》けろ」
部《へ》屋《や》が明るくなると、ベッドに、星沢夏美が起き上がった。
「夏美……」
と、安中が呟《つぶや》いた。
「やっぱりあなただったのね」
と、夏美は言った。
「聞いたわね!」
と、貴代が目を燃え立たせて、夏美をにらんだ。
「私を屋《おく》上《じよう》から落とそうとしたのは、あなたね。——そして、その間に、安中さん、あなたは、私の父を殺したんだわ!」
「君を突《つ》き落とそうとしたって?」
安中は愕《がく》然《ぜん》とした。「本当か、貴代!」
貴代がじっと夫を見つめた。
「そうよ! あなたは私の体に手も触《ふ》れなかったくせに、この女には子供を作ったじゃないの!」
安中は青ざめた。
「貴代……。どうしてそれが分かった?」
「永原さんに聞いたのよ。あの人は私の所へ来て、夏美を妊《にん》娠《しん》させたあなたを絶対に許さない、と言ったわ」
貴代は、夫を、憎《にく》しみの目で見ていた。「——凄《すご》い怒《いか》りようだったわよ。あのおとなしい人がね。当たり前でしょうね。自分の娘《むすめ》を、それも、ただ歌手をやめさせないため、それだけのために、騙《だま》し、引っかけて妊娠させた男を、許せるわけがないでしょう」
「そんな言い方はよせ!」
と、安中は目をそらした。「僕《ぼく》は——夏美、君のことが好きだった。でなきゃ——ずっと男しか相手にできなかった僕が、君を抱《だ》けるはずがない」
「言い訳はもういいわ」
夏美は冷ややかに言った。「あなたは父を殺した。それで充《じゆう》分《ぶん》だわ」
「仕方なかったんだ! あれは争っているときのはずみだった。殺す気はなかったんだ」
と、安中は首を振《ふ》った。
「でも、殺したわ。——その事実は消えないのよ」
貴代は、看護婦の帽《ぼう》子《し》を取って、投げ捨てた。
「あなた。この娘を殺しましょう」
「何だと?」
「この子は、私とあなたの殺人を知ってるのよ! 生かしておけないわ」
「馬《ば》鹿《か》を言うな! 夏美は——」
「何なの? この十七の女の子が、一体何なのよ?」
「夏美なしでは、僕《ぼく》は破《は》産《さん》する」
「それがどうしたの! お金が手に入っても、刑《けい》務《む》所《しよ》でどうやって使うのよ!」
「待って」
と、夏美は静かに言った。「誰《だれ》も、あなたたちを告発するとは言っていないわ」
「夏美——」
「明日のリサイタル——いいえ、もう今日のリサイタルね。私、行ってもいいのよ」
「本当かい? 全部、準備は整ってるよ! 凄《すご》いニュースになるぞ」
安中の目が輝《かがや》いた。
「今まで通り、歌手としてやって行ってもいいわ。その代り——」
「君の取り分は上げるよ。充《じゆう》分《ぶん》に払《はら》うようにする」
「そんなことじゃないの」
と、夏美は首を振《ふ》った。
「じゃあ、何だい?」
夏美はベッドから出ると、ゆっくりと安中に近づいた。そして、安中の首に、両手をかける。
「前のように、私を抱《だ》いて」
「夏美……」
「できる?——そうしてくれたら、私は今まで通り、仕事を続けるわ」
「あなた!」
と、貴代が言った。「騙《だま》されてるのよ! そんな女の子のために——」
「黙《だま》ってろ!」
と、安中は怒《ど》鳴《な》った。「夏美のおかげで、俺《おれ》たちは食って来れたんだぞ!」
「食べるぐらいが何よ! あんたの妻は私なのよ!」
「静かにしないと」
と、夏美が言った。「聞きつけて、人が来るわ」
貴代は青ざめた。——夫が、夏美を抱いてキスするのを、見て、貴代の体が震《ふる》えた。
「やめて!——やめてよ!」
叫《さけ》び声を上げて、貴代が夫へと背後から飛びかかった。
安中が、低くうめいた。
夏美は、素早く身を引くと、ドアを開けて、病室を出た。
夜勤らしい看護婦がやって来た。
「どうかしました?」
「あの病室で、けが人が出たみたいです」
「まあ、けが人?」
看護婦が急いで入って行く。
夏美は、急ぎ足で階段のほうへ歩いて行った。
「——誰《だれ》か来て! 人が刺《さ》されてる! 誰か!」
看護婦の叫《さけ》び声が、夏美の背後で響《ひび》き渡った……。