17 スポットライト
「凄《すご》いなあ」
と、克彦は会場を見回した。
一万人、と一口に言っても、この大ホールに詰《つ》め込まれていると、その熱気だけでも大変なものだ。
「あと十五分よ」
と、千絵が言った。「彼《かの》女《じよ》、来ると思う?」
「どうかな」
二人は、舞《ぶ》台《たい》の袖《そで》に立っていた。
リサイタルの準備は、主《ぬし》のいないまま、進められていた。
TVカメラも、何台も入っている。
もちろんリサイタルの中《ちゆう》継《けい》もあるが、それ以外の局も、果してアイドルが現われるかどうか、ニュースとして取材に来て、待ち構えているのだ。
「もし来なかったら、大変ね」
と、千絵が言った。
「暴《ぼう》動《どう》になるよ」
と声がした。
「あ、仁科さん。——どうですか、楽屋のほうは」
「お通夜みたいだ。もう松江社長は死にそうな顔をしてる」
「当然だわ、安中常務が犯人だったなんてね」
「しかも、奥《おく》さんも看護婦と安中を殺したんだからな。——坂東もだが、松江だって、ただじゃ済《す》むまい」
と、仁科は言った。
「永原浜子さんを刺《さ》したのも、貴代なんでしょう?」
「うん。君らが行く前に、浜子さんは事務所へ行った。そして、貴代が出てくるところを見たんだ」
「じゃ、机を荒《あ》らしたのは、貴代だったんですね」
「永原の机に、夏美の恋人が安中だったという証《しよう》拠《こ》が残っていないかと、気になったんだね。で、浜子さんが貴代を後でスタジオへ呼び出した」
「警察を呼んだのは貴代だったのか。で、浜子さんは貴代に、どうしてあんな真《ま》似《ね》をしたのか、問い詰《つ》めたんですね」
「そういうことらしいな」
克彦が肯《うなず》いて、
「安中が、夏美さんを妊《にん》娠《しん》させたんですね?」
「うん、そうらしい。ともかく、まだ安中貴代が興《こう》奮《ふん》していて、話がはっきりしないようなんだが……」
「夏美さんが引退したいと言い出すのを恐《おそ》れて、安中が誘《ゆう》惑《わく》したんですね」
「もしかしたら、それも松江の命令だったかもしれない。当の安中が死んじまってるんじゃ、立証できないがね」
「ひどい話ね」
と、千絵が言った。「私、タレントになるの、やめよう」
「なれないから心配するな」
「あら! いくつか話はあったのよ。TV《テレビ》のインタビュー見て、結《けつ》婚《こん》して下さい、って手紙も来たし」
仁科が笑って、
「それを考えるのは、もう少し先でいいさ」
と言った。
「でも、仁科さん」
「何だい?」
「夏美さんのこと——父親のこととか、今度の事件の背景とか、記事にしてませんね」
仁科は肯《うなず》いた。
「うん。永原さんのことを考えるとね。——もちろん、今度の事件で、あちこちが、かぎつけて書くだろう。でも、僕《ぼく》はそんなハイエナの一匹《ぴき》になりたくない。書くのなら、夏美の『夢《ゆめ》』の姿を書きたいね」
「じゃあ……」
「アイドルなんて、しょせん虚《きよ》構《こう》じゃないか。小説の主人公のようなものさ。映画のヒーロー、ヒロインのような、ね。映像が消えれば消えてしまう。それなら、アイドルは、幸福な少女のままでいればいいのさ」
克彦は、ちょっと笑って、
「それじゃ出《しゆつ》世《せ》できないや」
と言った。
「言ったな!」
と、仁科も笑った。「——さあ、五分前だ。あちこちでレポーターが声を張り上げてるだろうな」
「秒読み開始ね」
と、千絵が言った。
朱子がやって来た。
「あら、ここにいたの? お客に殴《なぐ》り殺されないように、裏口から逃《に》げたほうがいいと思うけど」
「朱子さんは?」
「私は夏美さんの付《つき》人《びと》だもの。ここで待機してなきゃ」
「来ると思う?」
「さあ」
朱子は首を振《ふ》った。「もう、こんな世界にいや気がさして、来ないんじゃないかしら。それが当たり前のような気がするけど」
「でも、ファンがいるよ」
と、克彦が言った。「間《ま》違《ちが》いなく、これだけの数のファンがね」
「でも、その義務感で縛《しば》るのは、気の毒《どく》よ」
と、千絵が言った。「いくらアイドルだって、一人の人間だわ」
「——ありがとう」
と、声がした。
みんなが、信じられないという表情で、振《ふ》り向くと、夏美が立っていた。
「——どうやってここまで来たの!」
と、朱子が、やっと我に返って言った。
「お客と一《いつ》緒《しよ》に入ったの。この格《かつ》好《こう》でメガネかけてたら、誰《だれ》も気付かなかったわ」
夏美は、まだ千絵の服を着ていた。
「どうするの、夏美さん」
と、朱子が言った。
「まだ迷《まよ》ってたの、ここへ来たときは」
と、夏美が言った。「芸能界に復《ふく》讐《しゆう》してやりたい、とも思ったわ。私の歌《ヽ》を取り上げて、父を殺した。そして——もう一つの命もね」
「これだね」
と、克彦が、カセットテープをポケットから出した。
夏美が克彦を見る。
「君の歌だ。ベランダで録音した」
「あのときに?」
「うん。——もし今日会ったら返そうと思ってたんだ」
「どうして? 取っておこうと思わなかったの?」
「これは、君の——人間としての君の歌だ。僕《ぼく》は、やっぱり、音程の怪《あや》しい歌を聞いてるほうが安心するよ」
夏美はテープを受け取ると、じっと見ていたが、
「——歌の意味を、知ってる?」
と、訊《き》いた。
「うん。『暗い夜、海の底に』っていう歌だろ? 意味も聞いたよ」
朱子がハッとした。——夏美が手首を切ったとき、呟《つぶや》いた「海の底」という言《こと》葉《ば》は、それだったのか。
夏美は、克彦の目を見て言った。
「それでも——私のファンでいるの?」
「もちろんさ」
夏美は、克彦をそっと抱《だ》いて、唇《くちびる》を触《ふ》れさせた。
「——前にも一度、ね」
「うん。二度あることは三度ある、と期待してるよ」
と、克彦は言った。
夏美は、声をあげて笑った。
そして、克彦から離《はな》れると、朱子のほうへ、
「時間は?」
と訊いた。
「あと一分」
「それじゃ——もう一度キスしてあげられるわ」
夏美と克彦が抱き合っているのを、千絵は横目でにらんでいた。——つけ上がるのが怖《こわ》いわね!
「もう、手首を切ったりしないね」
「ええ。——私、誰《だれ》かにあの歌を聞いてほしかったの。あのとき、あなたと目があって、もう、これでいい、と思った。あの歌を聞いてもらえて、これで私の重《おも》荷《に》がおりた、と……」
「分かるよ」
場内が騒《さわ》がしくなった。
「時間だわ」
と朱子が言った。
夏美が克彦から離《はな》れた。——もう、そこにはアイドルの顔があった。
「マイクは?」
「センターにあるわ」
ざわめきが広がる。——夏美は千絵のほうへ、
「この服、もう少し借りておくわね」
と言った。
「プレゼントするわ」
と千絵は肯《うなず》いた。「今度の記念に」
「ありがとう」
夏美は微《ほほ》笑《え》んだ。
それから、ステージのほうへ向いて、大きく一度息をつくと、真直ぐに背筋を伸《の》ばして、歩き出した。
——凄《すご》い歓《かん》声《せい》が、ホールを揺《ゆる》がした。
そして拍《はく》手《しゆ》、口《くち》笛《ぶえ》、「ナツミ」という叫《さけ》び声。
夏美がステージの中央に出て、深々と頭を下げると、興《こう》奮《ふん》は最《さい》高《こう》潮《ちよう》に達した。
克彦も熱心に手を叩《たた》いていたが、仁科につつかれて、振《ふ》り向いた。
仁科が指さす先を見ると——最前列に、見たことのある顔が、熱《ねつ》狂《きよう》的《てき》に叫《さけ》び声を上げているのだった。
なるほど。夏美がどうして容《よう》疑《ぎ》者《しや》として手配されなかったか、克彦も、やっと納《なつ》得《とく》がいった。他《た》を圧するような大声で、
「夏美ちゃん!」
と怒《ど》鳴《な》っているのは、あの変った刑《けい》事《じ》、門倉だった。