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殺人はそよ風のように18
日期:2018-09-06 15:26  点击:1014
 17 スポットライト
 
 「凄《すご》いなあ」
 と、克彦は会場を見回した。
 一万人、と一口に言っても、この大ホールに詰《つ》め込まれていると、その熱気だけでも大変なものだ。
 「あと十五分よ」
 と、千絵が言った。「彼《かの》女《じよ》、来ると思う?」
 「どうかな」
 二人は、舞《ぶ》台《たい》の袖《そで》に立っていた。
 リサイタルの準備は、主《ぬし》のいないまま、進められていた。
 TVカメラも、何台も入っている。
 もちろんリサイタルの中《ちゆう》継《けい》もあるが、それ以外の局も、果してアイドルが現われるかどうか、ニュースとして取材に来て、待ち構えているのだ。
 「もし来なかったら、大変ね」
 と、千絵が言った。
 「暴《ぼう》動《どう》になるよ」
 と声がした。
 「あ、仁科さん。——どうですか、楽屋のほうは」
 「お通夜みたいだ。もう松江社長は死にそうな顔をしてる」
 「当然だわ、安中常務が犯人だったなんてね」
 「しかも、奥《おく》さんも看護婦と安中を殺したんだからな。——坂東もだが、松江だって、ただじゃ済《す》むまい」
 と、仁科は言った。
 「永原浜子さんを刺《さ》したのも、貴代なんでしょう?」
 「うん。君らが行く前に、浜子さんは事務所へ行った。そして、貴代が出てくるところを見たんだ」
 「じゃ、机を荒《あ》らしたのは、貴代だったんですね」
 「永原の机に、夏美の恋人が安中だったという証《しよう》拠《こ》が残っていないかと、気になったんだね。で、浜子さんが貴代を後でスタジオへ呼び出した」
 「警察を呼んだのは貴代だったのか。で、浜子さんは貴代に、どうしてあんな真《ま》似《ね》をしたのか、問い詰《つ》めたんですね」
 「そういうことらしいな」
 克彦が肯《うなず》いて、
 「安中が、夏美さんを妊《にん》娠《しん》させたんですね?」
 「うん、そうらしい。ともかく、まだ安中貴代が興《こう》奮《ふん》していて、話がはっきりしないようなんだが……」
 「夏美さんが引退したいと言い出すのを恐《おそ》れて、安中が誘《ゆう》惑《わく》したんですね」
 「もしかしたら、それも松江の命令だったかもしれない。当の安中が死んじまってるんじゃ、立証できないがね」
 「ひどい話ね」
 と、千絵が言った。「私、タレントになるの、やめよう」
 「なれないから心配するな」
 「あら! いくつか話はあったのよ。TV《テレビ》のインタビュー見て、結《けつ》婚《こん》して下さい、って手紙も来たし」
 仁科が笑って、
 「それを考えるのは、もう少し先でいいさ」
 と言った。
 「でも、仁科さん」
 「何だい?」
 「夏美さんのこと——父親のこととか、今度の事件の背景とか、記事にしてませんね」
 仁科は肯《うなず》いた。
 「うん。永原さんのことを考えるとね。——もちろん、今度の事件で、あちこちが、かぎつけて書くだろう。でも、僕《ぼく》はそんなハイエナの一匹《ぴき》になりたくない。書くのなら、夏美の『夢《ゆめ》』の姿を書きたいね」
 「じゃあ……」
 「アイドルなんて、しょせん虚《きよ》構《こう》じゃないか。小説の主人公のようなものさ。映画のヒーロー、ヒロインのような、ね。映像が消えれば消えてしまう。それなら、アイドルは、幸福な少女のままでいればいいのさ」
 克彦は、ちょっと笑って、
 「それじゃ出《しゆつ》世《せ》できないや」
 と言った。
 「言ったな!」
 と、仁科も笑った。「——さあ、五分前だ。あちこちでレポーターが声を張り上げてるだろうな」
 「秒読み開始ね」
 と、千絵が言った。
 朱子がやって来た。
 「あら、ここにいたの? お客に殴《なぐ》り殺されないように、裏口から逃《に》げたほうがいいと思うけど」
 「朱子さんは?」
 「私は夏美さんの付《つき》人《びと》だもの。ここで待機してなきゃ」
 「来ると思う?」
 「さあ」
 朱子は首を振《ふ》った。「もう、こんな世界にいや気がさして、来ないんじゃないかしら。それが当たり前のような気がするけど」
 「でも、ファンがいるよ」
 と、克彦が言った。「間《ま》違《ちが》いなく、これだけの数のファンがね」
 「でも、その義務感で縛《しば》るのは、気の毒《どく》よ」
 と、千絵が言った。「いくらアイドルだって、一人の人間だわ」
 「——ありがとう」
 と、声がした。
 みんなが、信じられないという表情で、振《ふ》り向くと、夏美が立っていた。
 「——どうやってここまで来たの!」
 と、朱子が、やっと我に返って言った。
 「お客と一《いつ》緒《しよ》に入ったの。この格《かつ》好《こう》でメガネかけてたら、誰《だれ》も気付かなかったわ」
 夏美は、まだ千絵の服を着ていた。
 「どうするの、夏美さん」
 と、朱子が言った。
 「まだ迷《まよ》ってたの、ここへ来たときは」
 と、夏美が言った。「芸能界に復《ふく》讐《しゆう》してやりたい、とも思ったわ。私の歌《ヽ》を取り上げて、父を殺した。そして——もう一つの命もね」
 「これだね」
 と、克彦が、カセットテープをポケットから出した。
 夏美が克彦を見る。
 「君の歌だ。ベランダで録音した」
 「あのときに?」
 「うん。——もし今日会ったら返そうと思ってたんだ」
 「どうして? 取っておこうと思わなかったの?」
 「これは、君の——人間としての君の歌だ。僕《ぼく》は、やっぱり、音程の怪《あや》しい歌を聞いてるほうが安心するよ」
 夏美はテープを受け取ると、じっと見ていたが、
 「——歌の意味を、知ってる?」
 と、訊《き》いた。
 「うん。『暗い夜、海の底に』っていう歌だろ? 意味も聞いたよ」
 朱子がハッとした。——夏美が手首を切ったとき、呟《つぶや》いた「海の底」という言《こと》葉《ば》は、それだったのか。
 夏美は、克彦の目を見て言った。
 「それでも——私のファンでいるの?」
 「もちろんさ」
 夏美は、克彦をそっと抱《だ》いて、唇《くちびる》を触《ふ》れさせた。
 「——前にも一度、ね」
 「うん。二度あることは三度ある、と期待してるよ」
 と、克彦は言った。
 夏美は、声をあげて笑った。
 そして、克彦から離《はな》れると、朱子のほうへ、
 「時間は?」
 と訊いた。
 「あと一分」
 「それじゃ——もう一度キスしてあげられるわ」
 夏美と克彦が抱き合っているのを、千絵は横目でにらんでいた。——つけ上がるのが怖《こわ》いわね!
 「もう、手首を切ったりしないね」
 「ええ。——私、誰《だれ》かにあの歌を聞いてほしかったの。あのとき、あなたと目があって、もう、これでいい、と思った。あの歌を聞いてもらえて、これで私の重《おも》荷《に》がおりた、と……」
 「分かるよ」
 場内が騒《さわ》がしくなった。
 「時間だわ」
 と朱子が言った。
 夏美が克彦から離《はな》れた。——もう、そこにはアイドルの顔があった。
 「マイクは?」
 「センターにあるわ」
 ざわめきが広がる。——夏美は千絵のほうへ、
 「この服、もう少し借りておくわね」
 と言った。
 「プレゼントするわ」
 と千絵は肯《うなず》いた。「今度の記念に」
 「ありがとう」
 夏美は微《ほほ》笑《え》んだ。
 それから、ステージのほうへ向いて、大きく一度息をつくと、真直ぐに背筋を伸《の》ばして、歩き出した。
 ——凄《すご》い歓《かん》声《せい》が、ホールを揺《ゆる》がした。
 そして拍《はく》手《しゆ》、口《くち》笛《ぶえ》、「ナツミ」という叫《さけ》び声。
 夏美がステージの中央に出て、深々と頭を下げると、興《こう》奮《ふん》は最《さい》高《こう》潮《ちよう》に達した。
 克彦も熱心に手を叩《たた》いていたが、仁科につつかれて、振《ふ》り向いた。
 仁科が指さす先を見ると——最前列に、見たことのある顔が、熱《ねつ》狂《きよう》的《てき》に叫《さけ》び声を上げているのだった。
 なるほど。夏美がどうして容《よう》疑《ぎ》者《しや》として手配されなかったか、克彦も、やっと納《なつ》得《とく》がいった。他《た》を圧するような大声で、
 「夏美ちゃん!」
 と怒《ど》鳴《な》っているのは、あの変った刑《けい》事《じ》、門倉だった。

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