1 幻 影
「確かですか?」
宮《みや》入《いり》の言葉に、そのアパートの管理人は不服そうに、
「そうだと何回も言ってるでしょうが」
と、口を尖《とが》らした。「信用できんのですか、ええ?」
「いや、そうじゃありません」
宮入は写真をポケットへしまい込んで、いささか恥じた。「気を悪くせんで下さい。念のためです」
「確かですよ、その写真の男です」
と、管理人はぶっきらぼうに、「もう何週間か、顔を合わしてませんがね、半年前から住んでるんだ。見間違えたりはしませんよ」
「分りました。ありがとう」
と、宮入は言った。「部屋にいることは確かなんですね?」
「昼間、少なくとも私が受付にいる間には、ほとんど出入りしてませんね。しかし、夜六時以降は、受付も人がいなくなりますから。その後は出入りしても一切分りません」
管理人は、たぶん宮入と同年輩だろうと思えた。五十歳前後、というところだ。
しかし、頭の毛の量から言えば、宮入の方がずっと多い。その代り、宮入の髪は、半分以上、白くなりかけていた。
「宮入さん」
と、三《さえ》枝《ぐさ》がやって来た。「裏口はありますが、出入りできないようになっています。例の部屋の窓はカーテンを引いたままです」
三枝も、髪型は宮入に似ている。しかし、こちらは二十八歳という若さである。当然、髪はつややかに、真黒な光を発している。
「そうか。じゃ、今は部屋にいるんだろう」
と、宮入は肯《うなず》いた。
「時々、ドアの前を通ると、ガタゴト音はしてますよ」
と、管理人は言った。
「分りました。ご協力、感謝します」
と、宮入は会釈して、三枝を促した。「行こう」
二人の刑事が、廊下を奥の方へ歩き出すと、
「——ね、刑事さん」
と、管理人が声をかけた。「何か、危いことがあるかね」
宮入は、チラッと三枝の顔を見てから、振り返り、
「いや、大丈夫ですよ」
と、ニヤッと笑って見せた。「ちょっと話を聞きたいだけです。騒ぎにはなりませんから」
「ならいいけどね」
と、管理人は肩をすくめた。「何か壊されたりすると、こっちが叱《しか》られるんでね。給料から、修理代を差し引かれることもあるんだよ。何せ、このアパートの持主はケチでね」
「苦労しますな」
と、宮入は肯いて見せた。「その階段ですね?」
「そう。上って、真直《まつすぐ》奥へ行った突き当りだよ」
「どうも」
宮入と三枝は、コートを着たまま、階段を上って行った。
アパートの中でも、薄暗い廊下は、外のように寒かった。宮入は、両手を強くこすり合せた。
「——宮入さん、どうします?」
と、階段を上りながら、三枝が言った。
低く、押し殺した声になっている。
「やるさ」
と、宮入は答えた。「待つことはない」
「武器は?」
「ないはずだ。持っていたら、射殺すればいい」
三枝は、黙って肯いた。
——殺してやりたい、と宮入は思っていたのだ。武器を持っていたら、却《かえ》ってありがたいようなものだ。
久《く》米《め》三《さぶ》郎《ろう》のような奴《やつ》でも逃げようとするところを射殺したら、問題になるだろう。その久米は、全く無警戒な、交番で勤務中の警官を、いきなり刺して殺したのだ。しかも、逃亡の途中でも、職務質問した巡査を殴りつけ、重傷を負わせている。二度と、勤務につくことのできないほどの傷だった。
その巡査は、宮入のよく知っている男だった。——宮入は、久米を、この三か月、追い続けて来た。
アパートの管理人に、久米の写真を見せて、ついしつこく念を押していたのは、いざ目の前に「獲物」を見付けた興奮を、押し隠すためでもあり、また、「終り」の近付くのが惜しいような気持があったからでもあろう。
二階に上ると、宮入は、ちょっと唇に指を当てて見せた。
——本来なら、凶悪な殺人犯なのだから、応援を呼び、アパートの他の住人を避難させるべきかもしれない。しかし、そうなると、久米を射殺することはできなくなる。宮入は、あえて、二人で久米を逮捕することに決めたのである。
二人はコートのボタンを外し、拳《けん》銃《じゆう》をぬいた。——一番奥の部屋。
宮入は、ゆっくりと歩き出した。一歩遅れて、三枝が続く。——宮入は、落ちついて来た。
いざ、となると奇妙に落ちついて来る。もちろん、こんな状況になることは、宮入の二十数年の刑事生活の中でも、数えるほどしかないのだが……。
すると——途中のドアの一つが、宮入たちの目の前で、急に開いた。
何か、物音か話し声でもしていれば、二人も用心したのだろうが、あまりにも唐突だった。二人は、足を止め、買物袋を下げた主婦が出て来るのを見ていた。
ほんの一、二秒。その主婦が宮入たちを——その手に拳銃が握られているのに、目を止めた。
一瞬、凍りついたような沈黙が流れた。
その主婦が、悲鳴を上げた。その甲高い叫びは、廊下に、いやアパート中に響きわたった。
「黙って!」
と宮入が言った時は、もう手遅れだった。
「静かにしろ!」
主婦は、ますます怯《おび》えた。悲鳴を上げ続けた。宮入は焦った。
「行くぞ!」
と、三枝へ声をかける。
二人は駆け出した。一番奥のドア。
「久米! 開けろ!」
と、宮入は怒鳴りつつ、ドアを激しく叩《たた》いた。「警察だ! 出て来い!」
部屋の中で、何かが駆け回るか、ぶつかるような音がした。久米があわてている。
「入るぞ」
と宮入は、ドアの鍵《かぎ》に銃口を当てて、引金を引いた。
ガーン、と金属が鋭い音をたて、もともと大して頑丈とは言えない鍵は吹っ飛んだ。
ドアを開けると、同時に、宮入たちは、頭を低くして、部屋の中へ飛び込んだ。
「久米! 抵抗するな!」
と、宮入は叫んでいた。
だが——様子がおかしい。部屋の中は暗かった。カーテンを引いたままだから、当然といえば当然だが。
強い匂《にお》いが、宮入の鼻をついた。
「これは……」
「宮入さん! ひどい匂いですよ」
と、三枝が顔をしかめた。
「明りだ。明りをつけろ!」
三枝が、手探りで、明りのスイッチを押した。
宮入はハンカチを出して、口と鼻を押えた。
「——久米ですか」
と、三枝が、青ざめた顔で言った。「ひどいな、こりゃあ」
布団が敷かれて、その上に、誰かが横たわっていた。——そ《ヽ》れ《ヽ》は、「かつて誰かだったもの」に過ぎなかったが。
死んでいるだけではない。腐敗し、かつ、何か獣が食いあさったかのように、ボロボロになっていた。強烈な腐臭が、部屋を満たしている。
「——久米らしいな」
と、部屋へ上って、宮入は言った。「おい、カーテンを開けて、窓を開けろ。匂いがひどくてかなわん」
返事がないので、振り向くと、三枝は、青い顔をして、玄関のわきにもたれている。
「おい、大丈夫か」
と、宮入は言った。
「すみません……。そんなひどいのは初めてで……」
三枝は、今にも吐いてしまいそうな様子だった。無理もない。宮入も、色々ひどい死体は見たが、こんなのはめったにない。
「分った。そこにいろ」
部屋を横切って、宮入は、カーテンを開け、窓を開け放った。——ドアも開いているので、風が抜けて、宮入は深呼吸した。
しかし……。この死体の状態は、どういうことだろう?
久米は殺されたのか? それにしても、ひどすぎる……。
ふと、宮入は思い付いた。——廊下にいた時、ドアの中で、何《ヽ》か《ヽ》が動く音がしていた。
それに、この死体の様子から見て、少なくとも死後一週間はたっていよう。しかし、管理人は、いつも部屋の中で、物音がしていたと言っている。
「おい、三枝」
と、宮入は声をかけた。「誰かいるのかもしれないぞ。中をよく探すんだ」
三枝は、よほど気分が悪いのか、玄関にうずくまって、顔を伏せていた。
「おい! しっかりしろ!」
と、宮入がいくらか、苛《いら》立《だ》って、言った。「その死体がもし久米でないとしたら、どこかに奴は隠れているかもしれないんだぞ」
その時——急に頭の上を何かがかすめた。宮入は、びっくりして頭を低くしていた——鳥か? 何だろう?
それは鳥のように見えた。羽ばたく音が聞こえ、どこかにぶつかる音がした。
さっき聞こえたのは、この音だったのだ、と宮入は気付いた。
「やれやれ……。鳥か」
と宮入は息をついて、「久米の飼ってた鳥が、逃げ出したのかもしれないな。——おい、三枝。だらしないぞ。下へ行って、本署へ電話して来い」
何か用を言いつけた方がいい、と思ったのである。三枝はゆっくりと立ち上った。
宮入は、大分落ちついて、死体を見下ろすことができた。——顔も、ひどくやられているが、久米の面影は残っているように見える……。
「久米らしいな、やっぱり」
と、宮入は言った。「なあ、三枝」
と、顔を向けると——そこに久米がニヤニヤと笑いながら立っていた。
その手には拳銃が握られている。
何も考えなかった。判断するより早く、宮入の体が動いていた。
宮入は両手で拳銃を構えると同時に、引金を引いた。久米の胸に弾丸がうち込まれて、血が飛んだ。
二度、三度、引金を引いた。銃声が鼓膜を打った。弾丸は確かな狙《ねら》いで、久米の心臓に叩き込まれた。
久米の体がよろけて、廊下へと後ずさると、大の字に倒れた。
——宮入は、肩で息をついた。
やった……。久米を射殺したのだ。
宮入は、夢見心地だった。——こんなに呆《あつ》気《け》なく終ってしまうのか?
玄関へ出て行って、宮入は、三枝の奴はどうしたんだろう、と初めて思った。久米がいつの間に三枝とすり代ったのか。
廊下へ出た宮入は、アパートの住人たちが、ドアを細く開けて、覗《のぞ》いているのに気付いた。
宮入が振り向くと、ドアがあわてて閉じられる。
宮入は、仰向けに倒れている久米を見下ろした……。
何だ、これは?——こんな馬《ば》鹿《か》な!
宮入は叫び出しそうになった。
胸を血に染めて倒れていたのは、三枝だったのだ。
「違う……。確かに——確かに、久米の奴だったんだ!」
宮入の手から拳銃が落ちる。宮入は、三枝の傍に、膝をついて、呆《ぼう》然《ぜん》と座り込んだのだった。
——開け放した窓から、何かが広い空間へと飛び去って行った……。