3 祖 父
無精ひげののびたその男を、君《きみ》原《はら》耕《こう》治《じ》は一瞬見分けられなかった。
殺風景な部屋の中では、その男は一塊の空気のように、透明だった。そこにいても見落としてしまいそうだった……。
「宮入君」
と、君原耕治は言った。「分るかね、私のことが」
その男は、君原の声が聞こえるのに何分もかかる、というように、ゆっくりと反応した。
まず伏せていた顔を上げ、それから重そうな瞼《まぶた》を上げた。瞼は二、三度上下して、
「——久しぶりだな」
と、君原が微《ほほ》笑《え》んで言うと、また瞼があわただしく上下した。
「君原さんですか」
と、平穏な声で言う。
「ああ、思い出してくれたか」
「ええ」
と、宮入はかすかに肯いて、「何かご用ですか」
「いや——」
君原は、ちょっと言葉が出なかった。
「見物ですか。——部下を殺した刑事を」
宮入の口調には、苦い自《じ》嘲《ちよう》も感じられなかった。それが却って不気味だ。
「なあ、宮入君」
と、君原は言った。「君と組んだのも、ずいぶん昔のことになるね」
「そうですね」
「俺はすっかり年齢《とし》を取った。——このところ、やたら朝早く目が覚めてね。孫娘が、遅刻しなくていい、と笑ってるよ」
宮入の顔に、ふと懐しい表情が現われた。
「お孫さん……。女の子でしたね」
「うん、そうだ」
「名前は……何だったかな」
君原は、宮入が思い出すまで待とうと思った。——宮入は、二、三分も考えていたが、やがて首を振って、
「いかんな……。どうもここへ入ってから、忘れっぽくなりましてね」
と言ったが、急にパッと目を見開いて、「そうだ。小百合ちゃん。小百合ちゃんでしたね」
声が弾んでいる。君原も思わず何度も肯いていた。
「そう。小百合だよ。小百合」
「ずいぶん大きくなったでしょう。私がよく抱っこしたもんですが……。中学生ぐらいですか」
「もう十六。高校一年さ」
「十六!——そうですか」
「なあ、お茶でも飲もう」
安物の茶碗で、色がついているだけのお茶をすする。
「——申し訳ありません」
と、お茶を一口飲んでから、宮入は頭を下げた。
「何だい? 君に金でも貸してたかな」
「君原さん……。部下をね、間違って射殺したなんて——」
「なあ」
君原は、遮るように言った。「平凡な言い方だが、間違いは誰にでもあるんだよ」
「間違いなら、誰にでもあります」
と、宮入は言った。「しかし、あれは——確かに、久米だったんです。私が撃った時にはね」
——君原としては、それに何とも答えられなかった。
宮入のような、ベテランが、単なる恐怖や緊張で、判断を誤るということは、めったにない。ましてや、幻を見る——幻覚におそわれるなどということは。
しかし、今の言葉でも、宮入がはっきりとそう信じているのは分った。
「確かに、世の中には不思議なことがあるもんだからな」
と、君原は言った。
「色々考えたんです。この病院の中で」
「何を?」
「どうしてあの時、三枝の顔が久米に見えたのか。——もちろん理屈にゃ合わんことですが」
「うん。それで?」
「私はね——もともと、三枝のことを殺したかったんじゃないかと思います」
君原は、唖《あ》然《ぜん》とした。
「三枝という若い刑事は知らないがね、俺も。そんなにいやな奴だったのか?」
「とんでもない」
と、宮入は強く打ち消した。「あいつはいい奴でした。もちろん、世代の違い、というか、とてもついていけないところはありましたが、仕事はよくやるし、骨惜しみもしませんでした」
「それで?」
「いやな奴とか、だめな奴なら、殺したいとは思わないでしょう? 軽《けい》蔑《べつ》してりゃすむことです」
「ああ、そうだな」
「しかしね……。あいつは、昔の私みたいでしたよ。張り切っててね。頭の回転も良かった。いや、私にないものを持ってました。——若さと、動きの素早さとね。私は、もしかしたら、それで奴を憎んでいたのかもしれないと思うんです」
「おい、よせよ。そりゃ、誰だって年齢《とし》を取りゃ若い奴らをねたましく思うもんさ。その度に殺しやしない」
「でも、私は殺したんですよ」
と、宮入は言い返した。「——何度考えても、分りません。なぜ三枝の顔が、久米に見えたのか」
「そうか。しかし、君がこうしていつまでも自分を責めてるのは感心しないな。君にはまだ仕事がある」
宮入は、唇の端を引きつらせて、微笑した。
「もうおしまいですよ。仲間を殺した刑事なんか、一生、この病院の中から出られないんです」
「そんなことはない」
と、君原は首を振った。「早くここを出て第一線に戻るんだ」
「ありがとう……。君原さんは、いいおじいちゃんでしょうね」
「どうかな」
と、君原は苦笑して、ポケットから、折りたたんだ何枚かの紙を出し、机の上に広げながら、並べた。
「——何です?」
「新聞の縮刷版のコピーだ。見てくれ。何か気がつかないか」
宮入は、その一枚ずつを手もとに引き寄せて眺めた。
「ああ、憶《おぼ》えてますよ。女の子が殺された事件……。変質者でしょうね。まだ捕まってないんじゃありませんか」
「そうだ。三件ともね」
「こんな奴らがうろつき回ってるのかと思うと、ゾッとしますね」
「その三つの事件だが、同一犯人だと思わないか」
と、君原は言った。
「可能性はあるでしょうが……。ほとんど手がかりらしいものがないようですね、この記事だと」
「日付を見てくれ」
「日付?」
「事件の起った日だ」
宮入は三つの記事を見て、
「——初めの二つは二月二十九日ですね」
「四年離れてな。三つ目は二月二十七日。その年も、うるう年だ」
宮入の目に、興味の光が見えた。
「どうして気が付いたかというとね」
と、君原は言った。「うちの孫の小百合が二月二十九日の生れなんだ」
「そうですか」
「初めの事件は、小百合の四歳の誕生日。二度目は八歳の誕生日だった」
「三度目は——」
「十二歳の誕生日の二日前。——どう思う?」
宮入は、息をついた。
「確かに、偶然にしては、できすぎていますね」
「そうだろう? 二つならともかく、三つだよ。——俺だって、小百合の誕生日がなきゃ、思い付かないだろう。その類《たぐい》の事件は、このところ決して珍しくない」
「そうですね」
「前の二度の誕生日のころは、まだあれの両親が生きていたからな。俺も忙しく飛び回っていたし」
君原は、三枚のコピーを指で叩いて、「誕生日の新聞をコピーして、プレゼントするってのがあるだろう? 俺もそれをやろうと思ってね。生れた年から、どうせ四年に一回だし、と。毎回の誕生日のを、と思ったんだよ。それで縮刷版をめくっている内に気が付いた」
「なるほど」
宮入は肯いたが、「——でも、どうして、これを私の所に?」
「今の署内にゃ、知ってるのがいないからな、あんまり。それで君のことを思い出したんだよ」
「私はこのざまですよ」
と、宮入は肩をすくめて見せた。
「しかし、俺がこんな話を持って行って、誰かが本気で聞いてくれると思うか?」
宮入は少し考えて、
「無理かもしれませんね」
「だろう?——俺は何とかして防ぎたいんだ。次の殺人を」
宮入は、君原を見つめて、
「今、何と言いました?——次の殺人?」
「ああ、あと一週間すると二月二十九日。小百合は十六歳になるんだよ」
と、君原は言った……。
「——何だ、『ただいま』ぐらい言いなさい」
と、松永彰三は、居間へ入って来るなり、テーブルの上のお菓子を口に放《ほう》り込んだ法子に言った。
「うん……。ただいま」
法子は、やっとお菓子をのみ込んで、「喉《のど》につまる! お茶、もらうね」
と、祖父のお茶を取ってガブガブ飲んでしまった。
「おい! せっかく冷ましたのに」
と、松永彰三は顔をしかめた。
「いいじゃない。マチ子さんにまたいれてもらえば。——マチ子さん!」
大声で呼ぶと、バタバタ足音がして、この家に来て三か月ほどになるお手伝いの子が、顔を出した。
「はい、お嬢さま?」
「おじいさんに、お茶いれてあげて。冷ましたのをね」
「はい」
小柄で、少し太った娘である。二十一歳だが、十代に見える。
もう一人、この松永家に通って来ている神《かみ》山《やま》絹《きぬ》代《よ》はもう二十年からのベテランで、その代り夕食の仕度をすますと帰って行く。
マチ子は一階の奥の部屋に、住み込んでいた。——少しあわて者のところはあるが、気のいい娘だった。
「——あの子がいれたお茶は、たいてい、苦いか薄いかだ」
と、松永彰三は、ため息をついて、雑誌を広げた。
「いいじゃない。平均して、ちょうど良くなるわ」
と、法子は言った。
「口が達者になったな」
と、松永が笑う。
「おじいさんに似たのかな」
法子は、ソファの後ろに回って、祖父の首に腕をかけた。「——ね、小百合を誘っといた」
「そうか。うるう年仲間だからな」
「たぶん来ると思う。おじいさんも、って、招《よ》んどいたよ」
「ああ。いいじゃないか」
と、松永は肯いた。「おい、制服ぐらい脱ぎなさい」
「うん。——夕ご飯、七時にね」
「マチ子に言ってくれ」
「はあい」
法子は、鞄を振り回しながら、居間を出て行く。
夕食は、神山絹代の作ったものを、マチ子があっためるのだが、しばしばこがすこともあった。
松永は、仕事を思い出して、電話を取って来て、かけた。
今も週の半分は会社に出る。会長職だが、結構仕事はあるのだし、その方が、若くいられる。
法子一人を残して、息子夫婦が海外での事故で死んでしまってから、松永は二十歳若返ったつもりでいた。まだ四十代前半。
法子を、しっかりした男と結婚させるまでは、現役で頑張らなくてはならない。
「——ああ、私だ」
と、松永は言った。「社長は?——うむ、昨日の件で、報告しろと伝えてくれ」
立ち上って、居間の窓辺へ寄る。
木立ちが並ぶ庭は、手入れだけでも、相当な経費である。
「——そうか。向うの単価を、どこまで値切ったのか、知りたい。——うむ」
コードレスの電話なので、持って話すのも楽だ。
「分った。——今夜でもいい。九時前なら、電話してくれ」
松永は受話器のボタンを押して切った。——電話がすぐに鳴り出した。
何だ? 電話セールスじゃあるまいな。法子にかかって来ているのかもしれない。
「——はい」
と、仕方なく出る。
「松永様でいらっしゃいますか。大《おお》内《うち》でございます」
「何だ、君か」
松永は相《そう》好《ごう》を崩した。——目が、庭の木立ちへ向いている。
「今年はもう来たのか?——早いじゃないか。ええ? 構わんよ。——うん。明日でもどうだ。いや……。明日なら夕方だな、家にいるのは」
鳥かな、あれは? 何の鳥だろう?
話しながら、松永は、その黒い影が、木立ちの間を渡って行くのを目で追った。
「——そうか。じゃ、待ってるよ。——うん、今年は期待に添えるかもしれんな」
そう言って笑うと、松永は電話を切った。
鳥か……。小鳥ではない。あの大きさからすると……。
目をこらしたが、もう何も見えない。
その影は、梢《こずえ》の間に溶けるように消えてしまった。
「——旦《だん》那《な》様」
と、声がした。
マチ子が、お茶を運んで来たのだ。
「ああ、ありがとう」
松永はソファに戻った。「これをそこに置いてくれ」
と、電話機を渡す。
「いかがですか」
と、マチ子は、心配そうに、「少し熱すぎたでしょうか?」
一口飲むと、熱くて、苦かった。
「いや、こんなもんだな」
「そうですか」
と、マチ子がホッとした様子。「いつもうまくいかなくて……」
「——なあ」
「はい」
「マチ子っていうのは、誰がつけたんだ?」
マチ子は面食らった様子で、
「あの——親です」
「そうか。いい名だね」
「さようですか……」
と、照れて赤くなっている。
松永は、マチ子の、豊かに盛り上った胸の辺りに目をやった。——健康的にすぎて、「女」を感じさせない肉体だったが、しかし、今は松永の目をひきつけていた。
「あの……」
と、マチ子がもじもじして、「他にご用は……」
「行っていい」
「失礼します。——夕ご飯は七時、とお嬢様が」
「うん、それでいい」
マチ子が急いで居間を出て行く。
女か。——もうずいぶん女ともごぶさただ。
法子が大きくなって、まぶしいような娘になってくると、却って松永は女のことなど考えなくなってしまった。
そうだ。——法子が「女」になって、松永は自分を必要以上に老いさせてしまった。少なくとも、「女」に関しては、だ。
法子から、「男」と見られたくない、という思いがあったのだろう。男なんて、不潔、と言われてしまいそうで。
しかし——何か、松永の内で、うごめくものがあった。
まだ五十代のころには、松永は女をマンションに住まわせたりしていたものだ。もちろん今だって……。
女の肌の匂い、感触を、松永は思い起こした。——胸苦しいほどの勢いで、欲望が頭をもたげて来た。
松永は、電話をかけようとして……少し迷った。
それから、廊下へ出ると、マチ子が歩いて来るのを見て、
「車を呼んでくれ」
と、言った。
「お出かけですか?」
「当り前だ」
「あの——お食事は——」
「早く車だ!」
と、怒鳴るように言って、松永は階段を駆け上った。
その勢いに、マチ子は目を丸くしていたが、やがてあわてて電話をかけに走り出していた。