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殺意はさりげなく05
日期:2018-09-10 11:02  点击:305
 4 恋
 
 
「後は……牛乳と、それから何だっけ」
 君《きみ》原《はら》小百合《さゆり》は、足を止めて、考えた。「もう一つあった。何かあったんだけどなあ」
 と、呟《つぶや》いている。
 いつも、買物に来る時には、必要なものをメモしておこうと思うのだが、ついつい面倒で、パッと出て来てしまう。だって、お腹《なか》も空《す》いているのだ。自分が早く買物をして来て作らなければ、いつまで待っていても、誰《だれ》も食事の仕度をしてはくれないのである。
 そう。——法《のり》子《こ》の家みたいに、黙っていてもお手伝いさんが何でもしてくれて、
「お嬢様、お食事の仕度ができましたよ」
 とか呼んでくれるわけじゃないのだ。
「お嬢様、お風《ふ》呂《ろ》のお湯が入りました」
「お嬢様、おやつをお持ちしました」
「お嬢様——」
 お嬢様ね。一度そう言われてみたいもんだわ。
 牛乳五百CCのパックを、スーパーの店内用のプラスチックのかごへ入れる。左の腕に、かごの重みがぐっと加わる。
 長いこと買物していると、腕にはっきりと食い込んだあとが残る。——こんなこと法子は経験したこともないだろう。
 法子。法子。
 小百合は強く頭を振った。
 やめて!——本当に今日の私はどうかしてる。
 法子のことを殺してやる、なんて、とんでもないことを考えたり。馬《ば》鹿《か》げてるわ。あんないい子のことを。
 そりゃあ、法子はお金持だ。でも、それは法子のせいじゃない。
 人間は、生れて来る家を選ぶことはできないのだから。ただ——ほんのちょっと、幸運だったり、不運だったりすることはあるかもしれないけれども。
「そうか、マーガリン!」
 思い出した。良かった! これなしじゃ、明日の朝、困るところだった。
 あとは卵と……。野菜は高い。本当にいやになるくらい。
 何といっても祖父と二人では、食べる量も知れているのだ。それなのに、スーパーでパックしてある量は多すぎる。むだにするのはもったいないけれど……。
「——あ、そうだ」
 おじいさん、レモンを買っておいてくれって言ってたな。ビタミンCがいるんだとか……。
 別に、レモンでなきゃいけないわけではないけれど、まあ気持の問題ということもある。レモンを少しずつ絞って、お湯で薄めて飲むのだ。
 おじいさんは、肉類が好きで、あんまり野菜を食べないから、他《ほか》のものでビタミンCを摂《と》るんだということらしい。
 レモン、レモン、と……。
「ええ?」
 見付かった。でも——三個でワンパック。
 三つもいらない。せいぜい二つ。
 どうして、一つずつバラにして売ってくれないんだろう?
 小百合は、棚を捜した。しかし、三つずつのパックしか、売っていないようだ。
 そのパックを一つ、手に取って、小百合は迷った。家計は必ずしも楽じゃない。少しでもむだなものは買いたくなかった。
 でも、おじいさんは毎晩レモンの汁を飲んでるから、風《か》邪《ぜ》をひかずにすんでいる、と信じているのだ。買って行かないわけにも……。
 どうしよう?——小百合がそのワンパックを手にして、考え込んでいると、
「どうするかなあ……」
 という呟きが、すぐ横で聞こえた。
 見ると、少しノッポの男の子が、小百合と同じ、レモンのパックを持って、考えているのだった。
 男の子っていっても——小百合よりは上。たぶん……十八ぐらいか。
 少し色の落ちたジャンパーを着て、ジーパンをはいた足はスラッと長い。横顔は、どことなく坊っちゃん風の甘い印象だった。
 視線を感じたのか、その男の子が、小百合を見た。その瞬間に、どうしてどぎまぎして目をそらさなかったのか、小百合は自分でも不思議だった。
 二人は、お互いの手にしているものを見た。
 口を開いたのは彼の方で、
「君……レモン、買うの」
「ええ」
 と、小百合は言った。
「三つ、いるのかい」
「いいえ、三つじゃ多いから、どうしようかと思って……」
「そう! 僕は一つありゃいいんだ。紅茶につけるだけなんだから」
「私は二つあれば」
「じゃあ、これ、一つだけ買って、後で分けないか」
「ええ」
 と、小百合は肯《うなず》いた。
「よし。それじゃ——」
 と、彼が手にしたレモンを棚へ戻し、同時に小百合も戻してしまって——それから二人はまた顔を見合わせて、笑い出した。
「よし。僕が買う。君、レジ出た所で待っててくれよ」
「ええ」
 小百合はかごを持ち直した。「もう私はこれで終りなの」
「僕も、あと二つか三つさ」
 と、彼がポケットからくしゃくしゃになったメモを取り出す。「ええと……クッキーと、それからカップラーメン」
「こっちよ」
 と、小百合が歩き出しながら、「案内してあげる。捜すの、面倒でしょ」
「悪いな。こんな所、初めてなんだ」
「私、詳しいから」
「——ずいぶん広いんだよな」
 と、彼はスーパーの中を物珍しげに見回しながら、「捜してたら、一時間もかかりそうだ」
「カップメンはその棚。何でもいいのなら、今日の特売の分が、あっちに別になってるわ」
「何でもいい! 安い方が」
「じゃ、あそこで選んだ方がいいわ」
 と、小百合は言った。
 二、三分で、買物はすんだ。
「並ばないと。——こっちが早いわ」
 と、小百合は列の最後についた。
「——あっちの方が、列が短いぜ」
「あの人、まだ新しいから、レジが手間取るの。こっちの人はもうベテラン」
「へえ」
 と、感心した様子。「君、いつも来てるのか」
「主婦ですからね」
 と、小百合が言うと、彼は仰天した様子で、
「ええ? 結婚してるの?」
「ちょっと! 大きい声出さないで」
 小百合は真赤になって、「おじいさんと二人暮しだから、ご飯の仕度をしなきゃいけないのよ」
「そうか。——びっくりした」
 と、彼は目をパチクリさせた。
 面《おも》白《しろ》い人。それに、ちょっと可愛《かわい》い顔立ちだ。少なくとも、クラスの男の子なんかとは段違い。
「僕は関《せき》谷《や》征《まさ》人《と》。『征服』の『征』って字を書くんだ」
 え? どうして名前なんか言うの?
「君……十七?」
「年齢《とし》? 十六。高一よ」
「僕は高三。——学校、どこ?」
「県立」
「そうか。僕はK学園」
 私立の子か。そうね、どこかいい家の坊っちゃん風……。
 小百合は、何だか胸がドキドキして、困惑していた。関谷——何だって? 征人。そう関谷征人っていった。
 向うが名乗ったんだから、こっちも名前を言うべきかしら? でも、全然知らない男の子に名前なんて……。
「毎日、来てるの」
「大体ね、冷凍食品とかで間に合わせる日もあるけど」
「ふーん、偉いなあ。うちはお袋なんて、年中出歩いてて、週に三回は出前取ってるよ」
 と、関谷征人は言った。
「うちもたまに」
 レジの列は、思ったより早く、短くなって来ていた。——ふと、小百合は、もっと長く並んでいられたらいいのに、と思った。
「今日はどうして買物に来たの?」
 と、小百合は訊《き》いた。
「クラブの仲間が集まるんだ。その買い出しさ」
「紅茶とかクッキーは分るけど、カップラーメンは?」
「きっと夜中までしゃべって、お腹が空くと思ってさ。カップラーメンぐらいなら作れるだろ」
 小百合は笑った。
「あんなもの、作る、なんて言わないんじゃないかしら」
「そうだな」
 と、関谷征人も笑った。
 その明るく、少し鼻にかかった笑い声は、小百合の胸を震わせた。どうしたんだろう?
 どうしてこんな気持がするの?
「……君の番だ」
 小百合は、前の客が、おつりを受け取っているのに気付いた。ここで支払いをすませたら、もう、終りだ。
 それでいい。——それでいいんだわ。
 だって、こんな私立高の坊っちゃんが、私のことなんか、本気で気に入るわけないもの。そうでしょう?
 小百合は、お金を払った。おつりを受け取り、財布へしまってから、買った物を入れたかごを手に、レジの先の台へ移る。
 手さげの袋に、品物を詰めている内に、すぐ関谷征人もやって来た。
「自分で入れるのか」
「そうよ。人手の節約」
「じゃ、レモン。——一つだけこっちだね」
 そうだった! 小百合はレモンのことなんか、すっかり忘れてしまっていたのだ。
 二個のレモンが、小百合の袋の中へ落ちて行く。——これで、もう口をきく必要はないんだ。
「重くない?」
 と、関谷征人が言った。「持ってやろうか」
「いつも、もっと重いのよ」
 どうして持ってもらわないの? もう少し長く、一緒にいられるのに。
 二人はスーパーを出た。
「寒いね」
 と、関谷征人は言った。「僕はこっちだ。君は?」
「私は反対の方よ」
 そうだわ。こうなるに決ってた。私なんか……。私なんか……。
「じゃあ」
 と、関谷征人は言って、微《ほほ》笑《え》むと、歩き出した。
「ねえ」
 言葉が、吹き上げるように、飛び出して来た。「私、君原小百合」
 征人が振り返った。
「小百合?」
「君原小百合——っていうの」
 心臓の鼓動が、こめかみにまで響いた。
「明日も、ここに来るの?」
 と、征人が訊いた。
「たぶん」
「じゃ……この前で会おうか」
 征人は腕時計を見た。「——六時に」
「六時に」
 小百合は肯いた。
「じゃ、さよなら」
 と、征人が手を上げる。
「明日——」
 スーパーに出入りする客には、ぼんやりと立っている小百合がかなり邪魔になったかもしれない。しかし、時には多少の迷惑も仕方ないことがある。——人が恋に落ちる時などには。
 小百合は、家への道を急いだ。冷たい風が、春のそよ風のように感じられる。
 関谷征人、関谷征人、関谷征人。
 口の中でくり返してみると、その名は、まるでずっと昔から親しいものだったかのように思えて来る。
 明日。六時にあそこで会える。それから?
 二人は話をするだろう。笑ったり、肯いたり、友だちのことをしゃべったりするだろう。
 今はもう、それだけでいい。明日、六時。
 ——そのことだけで充分だ。
 こんなことがあるなんて! こんな日が来るなんて!
 小百合は、飛びはねるように歩いていた。走ろうとする足を、なだめて抑えなくてはならなかった。スーパーから家まで、アッという間だった。
「ただいま!」
 玄関を入ったところで、「アッ!」
 小百合は思い出したのだ。レモンのお金を征人に渡さなかったことを。

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