5 狂 気
「どちらへ行きますか」
ハイヤーの運転手が訊いた。
松《まつ》永《なが》彰《しよう》三《ぞう》は、言葉を押し出すように、
「家へ戻ってくれ」
と、言った。
「ご自宅でございますね」
運転手は、ただ、念を押しただけのつもりだったろう。
「そう言っただろうが!」
松永に怒鳴られて、運転手は真赤になった。
「申し訳ありません……」
と、消え入りそうな声で言うと、車をスタートさせた。
松永を乗せる運転手は、何人か決っていて、もう顔なじみである。松永が、よほどのことでない限り、怒鳴ったりしないことを、よく知っているから、余計にびっくりしたのだろう。
松永自身も、分っている。こんな風に怒鳴りつけるなんて、俺《おれ》はどうかしている……。
車は都心を離れて、静かな住宅地を抜けていた。
東京まで出て来ても、車なら一時間ほどの距離なのである。——もう夜、十時に近い。道も空いていて、おそらく一時間かからずに家へ帰り着くだろう……。
しかし、松永の体は熱く燃え立っていた。苛《いら》立《だ》ちとも、憤《いか》りともつかぬものが、手のつけようがないほど、荒々しく駆けめぐっていたのだ。——こんなことは初めてだ。
俺は一体どうしてしまったんだろう?
松永の中に、自分を恐れる、「いつもの冷静な自分」がいた。大手企業の会長職といっても、もちろん生身の人間だ。時には女がほしくなっても、不思議ではないだろう。
だが……。広い座席で、松永は身震いした。
せっかく、こうして東京まで出て来たのに、何の意味もなく、帰らなくてはならない。
七、八年前に、マンションを買ってやって、それきり手を切っていた女の所へ行ってみたが、そのマンションはもう別の人間に転売されて、女はどこかへ行ってしまっていた。
何度か、二人で旅行もしたことのある、バーのホステスを訪ねて行くと、そのバーはもう持主も変っていて、ろくでもない女ばかりの店になっていた。
——松永は、満たされなかったことで、ますます燃え上る欲望をかかえて、悶《もん》々《もん》としていたのである。
もう何年も、こんなことはなかった。いや何十年も、か。
それは、以前は手近に常に女を置いておけたからかもしれないが、それでも、こんなにまで狂おしい思いに身を焼いたことがあっただろうか?
——車が、ゆるやかな坂道を上っていた。静かな、人気のない住宅地である。車は一台のバスを追い越した。ちょうどバス停があって、バスは停《とま》っていたのだ。
少し行って、赤信号があり、車は停車した。赤信号か。俺の前にも、赤信号が灯《つ》いている。しかも、いつ変るか知れぬ赤信号が……。
不意に、車の前を、一人の少女が横切って行った。あのバスから降りた子だろう。横断歩道を、足早に駆け抜ける。車のライトの中に、白いソックスがまぶしく光った。
十五か十六か……。紺のコートを着て、学生鞄《かばん》を下げ、マフラーが肩からなびいていた。白い頬《ほお》、白い足、そしてソックス……。
車のライトを浴びて、ほんの一瞬だったが、少女は魔法のように光って見えた。もちろん——アッという間もなく、横断歩道を渡り終えた少女は、歩道を、さらに先の方へと、背中を見せて歩いて行く。
信号が青になった。車がゆっくりと滑り出し、すぐに、あの少女を追い越す。松永は振り向いた。そうせずにはいられなかった。
百メートルほど走った所で、
「停《と》めてくれ」
と、松永は言った。
運転手は、急いで車をわきへ寄せて、停めた。
「——ここで降りる」
と、松永は言った。
運転手は振り返って、
「お具合でも?」
と、訊いた。
「何でもない」
バスが追い抜いて行った。松永は、ドアを開けた。運転手が、あわてて降りて来たが、もう松永は自分でドアを閉めていた。
「——お待ちしてますか」
「いや、行っていい」
「そうですか……」
運転手が当惑したのも、無理はない。こんな所で、松永は降りたことがないのだ。
「いいんだ」
と、松永はくり返した。
「はあ。——ありがとうございました」
運転手は一礼して、車へ戻ると、エンジンをかけた……。
松永は、ハイヤーが遠ざかるのを見送って、それから、道を渡った。
小さな公園がある。公園といっても、せいぜい家二軒分くらいの広さしかない、空地のようなものだが……。
歩道に沿って、背丈ほどの植込みがある。その陰に、松永は身を潜めた。
そっと顔を覗《のぞ》かせて見ると、さっきの少女が足早にやって来るのが、街灯の光に照らされて見える。あと五十メートルくらいか。——あの少女はこの前を通りかかる。
公園の中には、ポツンと一つ、水銀灯が立っているだけだ。おそらく、顔はかげになって見えまい。何をしても。——何《ヽ》を《ヽ》し《ヽ》て《ヽ》も《ヽ》。
どうしようというのか?
松永は、息を殺し、汗をにじませて、身を隠している自分が、信じられなかった。
握りしめた手にじっとりと汗がにじむ。
この手が——何秒か、何十秒か後には、あの少女を捕え、この公園の中へ引きずり込んで、組み敷いているだろう。恐怖に震え、声も上げられずに顔を引きつらせる少女のコートをはぎ、服を裂いて、白い滑らかな肌に荒々しく爪《つめ》を立てるのだ。
犯罪?——そう。犯罪だ。
それが何だ。今、この俺の中にたぎるものの要求の前で、法や道徳には何の力もないのだ。
足音が聞こえる。それとも、これは俺の心臓の高鳴りか?
いや——そうだ。足《ヽ》音《ヽ》だ。
松永は、巨大な波に呑《の》み込まれ、翻《ほん》弄《ろう》されるように、欲望に身を委《ゆだ》ねた。
四肢に熱い血が駆け巡り、力が漲《みなぎ》った。あの少女を、片手でつかんで振り回すことさえできるような気がする。
足音が……。あの——白い滑らかな足。まだ熟れ切っていない胸や腰。
松永の手は、既に少女の柔らかい肌の感触を皮膚で感じていた。
——少女が、今、松永の前を通り過ぎようとする。
なぜ、こんなに静かなんだ。
松永は、ゆっくりと息を吐いた。——もう、寒くも何ともない。
帰って来た。帰って来たのだ、我が家に。
一体、何時なのか?
居間へ入った松永は明りを点じた。——午前三時。こんなに時間がたっていたのか。
松永は、ソファに、やっと辿り着いて、身を沈めた。二度と立ち上ることがないような気がする。——少し間を置いて、体が冷えて来た。
汗をかいていたせいだ。急速に体が冷えて行くのが、自分でも分った。このまま放《ほう》っておいたら、ひどい風邪を引いてしまうだろう。
しかし、そう分っていても、ソファから立ち上ることもできなかったのだ。
たまたま客を乗せて来たタクシーをつかまえるまでに、あてもなく、何時間歩いただろうか? 今にも道に倒れてしまうかと思った時、一台のタクシーが、目の前の家に客を降ろしたのだ。
渋る運転手に、こんな遠くまで走らせるために、松永は料金の三倍近い金を、先に渡さなくてはならなかった。しかし、あの時の松永は、百万、と言われてもためらわずに出しただろう。もちろん、そんな現金を持ち歩いているわけではないにしても。
——風邪を引くのか。それもいいだろう。
高熱を出し、肺炎にでもなって、誰も知らない内にのたれ死にしてしまうがいい。お前のような奴《やつ》は。
松永は、ゆっくりと天井を仰いだ。
俺は一体何ということをしようとしたのか……。法子と変りのない、まだ人を疑うことも知らない少女を、俺は踏みにじろうとしたのだ。
もし——もし、あ《ヽ》の《ヽ》瞬《ヽ》間《ヽ》に《ヽ》、反対の方向から誰かが自転車でやって来る音が聞こえなかったら、俺は今、犯罪者、それも最も憎むべき獣《けだもの》になり果てていたに違いない。
少女の足音が遠ざかるのを聞きながら、松永は叫び出したくなるのを必死でこらえなくてはならなかった。そして——何分じっとしていたのか。
よろめくような足取りで、夜の道へとさまよい出た松永は、自分がどこへ向っているかも知らないままに、歩きつづけたのだった……。
——ひどい一日だった。本当にひどい……。
「——旦《だん》那《な》様」
気が付くと、マチ子が居間の入口に立っていた。パジャマの上にカーディガンをはおって、寝ぼけた顔で立っている。
「何だ。起こしたかな」
「お帰りにならないんで、一時ごろまではお待ちしていたんですけど……。お具合でも——」
「心配ない。悪かったな」
と、松永は立ち上りかけてよろけた。
「危いですよ!」
と、駆け寄って来て、マチ子はびっくりしたように、「お顔の色が——。ひどい汗! このままじゃ、お風邪を」
「うむ……。もう寝るよ」
と、松永は肯いた。
「だめです。そのままおやすみになったら、それこそお風邪を召しますよ。熱いお風呂へお入りになって、よく体を拭《ふ》いてからでないと」
マチ子は、松永の腕を取って、引張って行く。
「おい、待ってくれよ。——おい」
いやも応もない。二階へ階段を押し上げるようにして、松永は連れて行かれると、バスルームに引張って行かれ、
「さあ、早く、お脱ぎ下さい」
と、マチ子にどんどん服を脱がされた。
その内に、バスタブに熱いお湯が満たされて、バスルームの中は湯気で真白になってしまった。
「さあ、少し熱めですけど、お入りになって、ゆっくりあったまるんですよ」
「うん……」
パンツまで脱がされてしまって、松永は何だか看護婦に命令されている病人みたいな気分で、大理石を貼《は》ったバスタブへ足を入れ、目を丸くした。
「熱い! おい、熱いよ」
「大丈夫です! 死にやしません」
「しかし——」
ぐいと肩を押されて、バスタブの中で尻《しり》もちをつく。「——熱い!」
「じっとしてれば、すぐ慣れます」
マチ子は、大きなスポンジを取って来ると、
「さ、体をさすりましょ」
「いや……。もう大丈夫」
「だめです。背中をこっちへ向けて下さい」
有無を言わさぬ感じで、マチ子はゴシゴシとスポンジで松永の背中をこすり始めた。力があるので、皮がむけそうな勢いである。
しかし……しばらくすると、お湯の熱さが皮膚になじんで来たのだろうか、ゆっくりと疲れが、体から抜け出して行くのを、松永は感じた。
生き返って来る。——そうだ。俺は少しの間、死んでいたのかもしれない。
「——さあ、もう出た方がいいですね」
と、マチ子が言った。「着替えを出します。すぐおやすみですね」
「ああ」
マチ子がバスルームを出て寝室へと入って行く。——このバスルームは松永の寝室に隣接して作られた専用のバスで、法子などは二階の奥の、別のバスルームを使っているのである。
松永は、バスタブを出て、分厚いバスタオルを取り、体を拭《ぬぐ》った。——明るい光に照らされた自分の顔が、広い鏡に映っている。
そうだ。これが俺の顔だ。俺は自分の顔を取り戻したのだ。
「——やっと、いつものお顔に戻られましたね」
と、マチ子が覗いて言った。「安心しました。さっきはもう、本当に死人みたいな顔色でしたもの」
「そうか?——心配かけたな」
松永は、バスローブをはおった。まだ少し汗をかきそうだったからだ。
寝室へ入って、松永はベッドに座ると、
「もう大丈夫だ」
と、肯いた。「明日は目が覚めるまで、寝かしておいてくれ」
「かしこまりました」
「電話や客もお断りだ。頼むぞ」
「はい。——じゃ、やすませていただきます」
「ああ。ありがとう」
松永は、マチ子を見た。——パジャマ姿のままで、松永を風呂へ入れ、腕まくりして体をこすったりしていたので、パジャマがびしょ濡《ぬ》れになっている。
やっと自分でも、それに気付いて、マチ子は赤くなった。乳房がすけて見えている。
「あの……おやすみなさいませ」
と、頭を下げて出て行く。
松永は、しばらくベッドに腰をおろしたまま、動かなかった。
頭は冴《さ》え、目も覚めていた。得体の知れない熱に浮かされていた時とは違っている。
息を吹き返した体が、再び松永を駆り立てているようだった。しかし、あの少女を待ち伏せていた時の、あの不気味な昂《こう》揚《よう》とは、違っていた。
——松永は立ち上ると、寝室を出た。
階段を下りて、一階の廊下を奥まで進んで行く。小さなドアを開けると、正面のベッドで、マチ子が起き上った。
「あの……何かご用ですか」
マチ子が少し怯《おび》えたように言った。裸の肩が毛布から覗いている。
「パジャマはどうした」
「あの——濡れてしまって。ちょうど一つ洗ったばかりだったので……」
「そうか」
松永は後ろ手にドアを閉めた。
「旦那様……」
「黙ってればいいんだ。——怖がることはない」
小さな明りがポツンと一つ、ベッドのわきに灯《とも》っていた。
「少し狭いな、このベッドじゃ」
と、近寄って、松永は言った。「今度は私があたためてやろう」
毛布をはいで、松永はマチ子の上にのしかかって行った。