13 眠れぬ夜
法子は、寝つけなかった。
いや、眠らなかったわけではない。少し遅目ではあったけれど、眠りに入り、一時間ほどして、目を覚ました。それからまた三十分ほどウトウトして、ふっと目を開いてしまう。
こんなことは、珍しかった。法子に限らない。十六歳の少女は、一度寝入ったら、そう簡単に目を覚ますものではないのである。
「だめだ……」
と、呟いて、法子は起き上った。
眠れないことで苛《いら》々《いら》していると、ますます眠れなくなる。そういう悪循環に陥ってしまうと、もう焦るだけ逆効果だ。
こんな時は、却って、少し起きてしまった方がいい、というのが、法子の考えだった。
——何となく、落ちつかないのだ。
なぜなのか、よく分らなかった。
もちろん、今日は大変だったのだ。小百合のおじいさんは入院するし、小百合と、あのボーイフレンドを家に招《よ》んで……。
法子は、自分が、小百合のことで心配して眠れないのだ、と自分に信じさせようとした。しかし、それはむだな努力だった。
ごまかしてもだめだ。——確かに、小百合のおじいさんのことも、原因の一《ヽ》つ《ヽ》ではある。他《ほか》にも、マチ子さんの様子が、何だか朝からおかしかったり、絹《きぬ》代《よ》さんが明日は休む、と突然言って帰ったり、ということもあった。今日は——いや、もう正確には、「昨日」なのだろうが——妙な日だった。
「関谷征人、か……」
と、法子は呟いた。
関谷征人。——実際のところ、法子の眠りを妨げている一番大きな理由が、関谷征人のことだというのを、法子は自覚していた。
でも——いけない! あの人は、小百合の恋人なんだ。
小百合が、どんなに関谷征人に夢中になっているか。法子は、タクシーを降りて駆けて行った小百合の姿を見て、充分に分っている。
正直なところ、法子はびっくりしたのだ。小百合が、あんなにも熱中するタイプだとは、思ってもいなかったのだから。
そう。——邪魔しちゃいけない。小百合の恋なのだ。
自分は、小百合の親《ヽ》友《ヽ》なのだから。
でも——と、法子の中では、低い声が囁《ささや》いていた。小百合は好きでも、征人の方は、果してそんなに小百合のことが好きかしら?
もしかしたら、小百合より、私の方を、好きなのかもしれない、と……。
少し、寝汗をかいていた。——夜、寝る時には暖房をゆるくするのだが、今夜の法子はそれも忘れてしまっていた。
シャワーを浴びようか、と思った。
すっかり目が覚めてしまうかもしれないけど、肌がべとつく感覚が、法子は大嫌いなのだ。
バスルームは、この二階にある。祖父の寝室には専用のバスルームが付いていて、法子もたまに入ることがあった。いつも法子が使っている方よりも広いので、何となくゆったりできるからだ。
法子は、ちょっと迷った。——夜中だし、祖父はどうせ寝ている。バスルームを使っても、別に怒ったりしないことは、法子もよく分っていた。
——法子は、着替えとタオルを持って、寝室を出た。
廊下は、もちろん静かなものだ。
祖父の寝室の前まで来て、法子はちょっと戸惑った。ドアが細く開いていたからだ。中も明りが点《つ》いている。
「——おじいさん」
と、法子は言って、ドアを開けた。
祖父のベッドは空っぽだった。——寝ていた跡はあるのだが、姿が見えない。
どこに行ったんだろう?——下で、仕事かな?
海外との連絡などは、深夜になることもよくある。たぶん、今夜もそうなのだろう。
バスルームのドアを開け、明りを点ける。
シャワーだけ。手っ取り早くね。
法子は、タオルと着替えを置いて、パジャマを手早く脱ぎ捨てた。
「——旦《だん》那《な》様」
と、マチ子が言った。
「部屋へ戻る」
松《まつ》永《なが》は、ガウンをはおって、立ち上った。
マチ子は、毛布を引き寄せて、裸身を覆った。——松永は、
「狭いベッド、ってのも、なかなかいいもんだ」
と、笑って言った。「どうだ? ゆうべより、良かったか」
マチ子は、何も言わなかった。松永は続けて、
「明日は日曜日だ。少しのんびり寝てろ」
と、言った。「俺もゆっくり寝る」
松永が、部屋を出て行こうとすると、
「旦那様」
と、マチ子が言った。
「——何だ?」
「神《かみ》山《やま》さん、何かあったんですか」
「知らん。どうしてだ?」
「何か——様子がおかしかったんで」
「気分が悪かったんだろう。もう若くない」
と、松永は肩をすくめた。「お前が気にすることはない」
「でも……明日、お休みとか」
「ああ、そう言ってたな。今までだって、休みは取っていたさ」
「ええ……」
と、マチ子はためらっている。
「何が気になるんだ?」
マチ子は、ちょっと頭を振って、
「何でもありません」
と、言った。「おやすみなさい」
「ああ」
松永は、マチ子の部屋を出た。
——神山絹代は、ここを辞めるかもしれないな、と松永は思った。まあ、無理もない。
自分でも、どうしてあんなことをしたのか、よく分らない。
ともかく、絹代がマチ子のことでうるさいことを言ったので、松永は放《ほう》っておけなかったのだ。それに——もう年齢《とし》はいっているが、夫も子もある女を抱くのも、面白いものだった。
マチ子の場合は、まだ怯《おび》えているばかりで、松永が楽しむところまで行っていない。
神山絹代が辞めたら、後をどうするか。——その点では、松永も頭が痛かった。
あれだけの女はなかなかいない。代りを見付けるといっても、容易ではなかった。
しかし、やってしまったことは、もう取り消せないのだ。
松永は、ゆっくりと階段を上った。
美人でもなく、体つきも決して魅力があるとは言えないが、マチ子を抱くのは、松永の中に活力のようなものを、呼びさました。「若さ」の力は大きい。
松永は欠伸《あくび》をした。——たっぷり眠れそうだ。
少し汗ばんでいた。シャワーでも浴びてから寝るか。
寝室に入った松永は、また欠伸しながら、真直《まつす》ぐバスルームのドアへと歩いて行き、ドアを開けた。
ノブに手をかけた時、中の明りが点いていることに気付いていたが、手は止まらなかった。
シャワーを浴びて、バスタオルで体を拭いている法子が、びっくりして顔を向けた。
——ほんの一、二秒だったろう。松永は、法子の体を見つめていた。
「いやだ! おじいさん!」
と、法子が、叫ぶように言った。「ドア閉めて!」
「や、すまん。——いや、ごめん」
松永は、あわてて、ドアを閉めた。
そして……。松永は自分のベッドの方へと歩いて行き、腰をかけた。
心臓が高鳴っていた。あの時のように、見知らぬ少女を、植込みのかげで待ち受けた時の、あの緊張感である。
これは何だ?——俺は何を考えているんだ?
松永は、半ば呆《ぼう》然《ぜん》として、法子がバスルームから出て来るのを、待っていた……。
こりゃ、大事件だな。
歩きながら、君原はほとんど無意識に、パトカーの数を、サイレンから勘定していた。
歩いて来る途中も、二、三台のパトカーが、君原を追い越して行った。
これだけの人数を動員するというのは、非常線を張るということだろう。凶悪な事件なのだ。——一体何が起ったのか?
君原は、そのまま通りを歩いて行ったが……。
「待て」
と、声がした。
君原は、急に、強い光を浴びせられて、目がくらんだ。
「——おい、何だ。まぶしいよ」
と、君原は言った。
「こんな所で、何してるんだ?」
やって来たのは、巡査である。ずいぶん若い。
「何かあったのか」
と、君原は訊いた。
「こっちが質問してるんだ!」
と、巡査は苛立っている様子で、怒鳴った。
「歩いてるだけだよ」
と、君原は言ってやった。「何があったんだね?」
「事件だよ」
「分ってる。どんな事件か、訊いてるんだ」
「お前に関係ない。それとも、あの女の子を殺したのか」
「女の子だって!」
君原は一瞬、目を見開いた。「殺されたのか。いくつの子だ?」
「どうしてそんなことを訊くんだ?」
巡査が、けげんな表情で、君原を見る。
「おい、どうした」
と、他の巡査たちも何人か集まって来る。
「俺は君原耕治。君たちと同じ商売だった人間だ」
「警官?」
「もと、ね。——水口って刑事を知ってるかい?」
「水口さんなら、ここの指揮を取ってるよ」
あの刑事が? それじゃとても捕まるまい、と言いたいのを、君原は何とか抑えた。
「会わせてくれないか」
と、君原は言った。
「誰だ、あんたは?」
「君原。——元の刑事の勘で、事件のことを水口さんに話したんだ。憶《おぼ》えてるよ、向うも」
君原の淀《よど》みない口調に、巡査たちは少し迷って、それから一人が駆けて行った。
「——殺された女の子は?」
「高校生らしい」
と、巡査が、やっと返事をした。
「高校生か……」
同一犯人かどうか、君原も、少し首をかしげた。
「何か用か」
水口が、昼間と全く同じ、横柄な口調で言った。
「憶えてるかね。昼間、話をしに行った君原だ」
「昼間?」
水口は、頭を振って、「何の用で……。ああ!」
思い出して、水口は肯《うなず》いた。
「憶えてますよ。四年に一度がどうとか言ってた人だね」
「そうだ。サイレンが聞こえたんで、来てみた。——殺されたのは、高校生ぐらい?」
「たぶんね。ひどいもんですよ」
と、水口は首を振った。
「まだ青い顔をしてる」
と、君原は、苦笑した。「ひどいのかね。死体は」
「ひどいなんてもんじゃないよ」
と、水口はうんざりしている様子。
「同じ犯人かどうか、まだはっきりはしないね」
と、君原は自分で肯いている。
「こんな所で、何してるんだ?」
と、水口は訊いた。
「何か協力できることはないかと思ったのさ」
——水口は、君原を眺めていた。
元刑事というのは、でたらめでもないらしい。——しかし、今はただの老人でしかない。
それなのに……。
事件は起《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》。現実に。
水口は、ふと思った。この男がわざわざ愚にもつかぬ推《ヽ》理《ヽ》を聞かせに来た、そ《ヽ》の《ヽ》夜《ヽ》に少女が殺されたのだ。そして、現場の近くに、この男はいた。
果して、それは偶然だろうか?
もし、偶然でな《ヽ》い《ヽ》とすると?
水口は、君原の肩に、軽く手をかけた。
「君原さん」
「何だね」
「ちょっとお話が。——もっと詳しくうかがいたいんですがね」
「いいとも。——現場を見せてもらってもいいかね」
「どうぞ」
水口は、先に立って、君原を案内して行く。
君原は、水口が、奇妙な微笑を浮かべていることに、全く気付かなかった。