14 悲しい眠り
「何だ」
と、松《まつ》永《なが》は、ダイニングのテーブルに、もう法《のり》子《こ》がついているのを見て、言った。「早いじゃないか、日曜日にしちゃ」
「目が覚めちゃったの」
と言いながら、法子は欠伸《あくび》をする。「とぎれとぎれに寝てたら、何時間寝たのか、分んなくなっちゃった」
「マチ子は?」
「今、卵をボイルしてくれてる。おじいさんの分はないよ」
「そうか。じゃ、トーストだけで、我慢しよう」
松永は、何となく法子と目が合うのを、避けていた。朝刊を広げる手つきも、ぎこちない。——エヘン、と咳《せき》払《ばら》いをして、
「法子」
「うん?」
「ゆうべは……悪かったな。うっかりしてたんだ」
「ゆうべ、って?」
法子は、本当に分らない様子で、ポカンとしていたが、やがて、「ああ!」
と、大きな声で言って笑った。
「おじいさんも女の子の裸にまだ興味あるんだ」
「年寄りをからかうな」
と、松永は苦笑し、同時に内心ホッとしていた。
法子に何と言われるか。口もきいてもらえなくなるのじゃないか、と、気が気ではなかったのである。
特に、あの時——まだ未成熟な法子の体を目にした時の、おののくような胸のときめきに、松永は愕《がく》然《ぜん》とした。俺《おれ》は何ということを考えたんだ?
あの、わけの分らない熱に取りつかれて、茂みのかげで、歩いて来る少女を待ちうけていた時の自分……。あれは一時の迷い、血の流れの狂いで、あんなことはもうあるまいと思っていたのだが。
それにしても——。松永は、新聞をめくりながら、何も読んではいなかった。それにしても、この突然の衝動は何だろう?
マチ子を、神《かみ》山《やま》絹《きぬ》代《よ》を押し倒し、わがものにせずにいられなかった。突然に押し寄せて来る大波のような、こ《ヽ》の《ヽ》力《ヽ》は《ヽ》?
不思議だ、と松永は思った。この年齢《とし》になって、今、なぜ……。
「おはようございます」
と、声がした。
「あ、絹代さん、おはよう」
と、法子が笑顔で、「今日はお休みじゃなかったの?」
神山絹代は、いつもの笑顔で、ダイニングへ入って来た。
「お二人が飢え死にされてるといけませんから」
と、台所の方へ目をやって、「卵を?」
「今、マチ子さんが、ボイルしてる」
「あの子がやると、芯《しん》まで固くなっちゃうんです」
絹代がそう言って、台所の方へ歩きかけた。法子が、
「あ、それから、おじいさんの分、まだ何も頼んでないの。今、起きて来たんだから」
「そうですか。旦《だん》那《な》様、何かご注文は?」
松永は、ちょっとあわてて、
「うん、まあ——何でもいい。いつもの通りだ」
と、言った。
「かしこまりました」
と、絹代は会釈して、台所へ姿を消す。
マチ子が、
「おはようございます」
と、言っているのが、聞こえて来た。
「変ね」
と、法子が言った。「お休みと言っといて……。それに、いつもの絹代さんと、違うみたい」
「そうか?」
と、松永は言った。
そうか、やはり。——松永も感じていた。
もちろん、法子には、はっきりどこがどうとは分らなかったろう。しかし、松永は敏感に感じていた。
秘密を共有する者同士の、隠れたなれなれしさが、絹代の目つきや、ものごしの中に秘められていたのである。
おそらく、絹代は昨日のことを夫に打ち明けなかったのだ。打ち明ければ、当然ここを辞めるようになるだろう。
絹代が悩んだのは、松永にも分る。ここを辞めて、今ほどの給料をもらえる仕事につくことは難しい。
松永に犯されたショックから、徐々にさめて、絹代は、実利的な道を選び取った。あんなことがあり、かつ、松永がマチ子に手をつけていることも知っているのだ。
まず、ここを辞めさせられることはあるまい。多少、遠慮なくふるまっても、構わないはずだ。
絹代は、そう判断して、今日も出勤して来たのに違いない。——絹代の目の輝きを、松永は、そう読み取っていた。
マチ子が、ダイニングへやって来た。
「お嬢様」
「うん」
「君《きみ》原《はら》さんが、おいでです」
「小百合《さゆり》が?」
法子は立ち上った。「玄関に?」
「ええ」
「じゃ、出るから、いいわ」
法子は、マチ子に言われるまで、小百合のこと、そして入院している小百合の祖父のことを忘れていたのに気付いて、ハッとした。
昨日、あれだけ大変な騒ぎだったというのに。今朝になって、ケロッと忘れてしまうなんて! ひどい友だちだ。
「——小百合」
ドアを開けて、「おはよう。おじいさんは——小百合! どうしたの!」
法子は声を上げた。
小百合が、ひどい顔色で、幽霊みたいに、突っ立っていたのだ。そして、法子の顔に、やっと焦点が合った、と思うと、その場に崩れるように倒れてしまった。
「——うん、そうだ。君原耕《こう》治《じ》。——何とか忙しいだろうが、捜してくれ」
松永は、電話を切った。
「——おじいさん」
居間へ、法子が入って来る。
「どうだ、様子は?」
「うん、落ちついたみたい。今、眠ってる」
「そうか。——心配だな」
と、松永は言った。
「信じられないわ。黙って病院を出てっちゃうなんて」
「いや、頭を打ったんだろう? そのせいかもしれん」
「小百合……」
と、言いかけて、法子はためらった。
「どうした?」
「おじいさんが——ぼけて、分らなくなったんじゃないか、って。そのショックも大きかったみたい」
「なるほど。確かに、辛《つら》いものな」
「二人きりだし、あの家は。もし、おじいさんが、そんなことになったら、誰《だれ》が面倒みるんだろ」
と、法子は不安げに言った。
「入院させるしかないさ」
「小百合の所は、年金と家賃で暮してるのよ。とても、そんな余裕、ないわ」
松永は肯《うなず》いて、
「その時は、力になってあげよう。そうだろう?」
「おじいさん……。本当に助けてあげてくれる?」
と、法子は訴えるような目で訊《き》く。
とても、その頼みを拒むわけにはいかなかった!
「もちろんだ」
と、力強く肯く。
「大好き!」
法子は、いきなり松永に抱きついた。
「おい……。よせよ」
と、松永はあわてて言った。「引っくり返るじゃないか!」
「毎日、私のお風《ふ》呂《ろ》覗《のぞ》いてもいいよ」
「馬《ば》鹿《か》!」
と松永は言って、笑った。
「——お嬢様」
絹代が、立っていた。「お電話です。関《せき》谷《や》様という方から」
征《まさ》人《と》だ。——法子の胸はときめいた。
「出るわ。私の部屋に回して」
そう言って、法子は、居間を飛び出すと、風のように階段を駆け上って行った。
絹代は、電話を二階へ回して、受話器を置くと、振り向いた。
——廊下で、松永と二人きりだった。
急に、空気が重みを増したようだ。
「マチ子さんは、お買物です」
と、絹代は言った。
「そうか……」
松永は、両手を後ろに組んで、「あいつも気付いてる」
「女なら、分って当然です」
絹代の口調は、捉《とら》えどころがなかった。
「何か話はないのか」
「旦那様からおありかと思いますが」
「謝ろうか」
「結構です」
と絹代は首を振った。「私はここを辞めません」
「助かるよ」
「マチ子さんを、辞めさせて下さい」
松永は、絹代を見つめた。
「——どうしてだ」
「お手伝いは何人いても構いませんが、『妻』は一人でないと」
と、絹代は言って、すぐに付け加えた。「誤解なさらないで下さい。私はもう夫がいます。別れるつもりもありません。ですが、旦那様と、このまま続いて行ってもいいと思っています」
「そうか……」
「ともかく、どちらかが辞めなくては」
絹代は、インタホンの鳴る音に、歩き出した。そして、ちょっと振り向くと、
「私は辞めません」
と、くり返した……。
松永は、重苦しいものが、胸に満ちて来るのを感じた。——不安が、影のように音もなくふくらむ。
応接間のドアが、半分開いていた。
松永は、ドアをそっと押して、中へ入った。
ソファに、小百合が身を縮めるようにして、眠っている。毛布をかけてやったのは、法子だろう。
夜の間、ずっと祖父を捜して、歩き回り、疲れ果てた少女は、泥に沈むように、深い眠りに落ちていた。
少し身動きする。——毛布が外れて、床に落ちた。
松永は、毛布を拾いあげると、小百合にかけてやろうとした。
応接間の窓から射《さ》し入る、冬の心細い日《ひ》射《ざ》しが、小百合の青白い頬《ほお》を光らせていた。そして、何かの影が、その日射しの中をかすめて飛んだ。
ハッと松永が顔を上げた時、窓には何も動くものは見えなかったが……。
小百合は、怯《おび》えた子供のように、しっかりと両手を胸に組み、両足を引き寄せるようにして、寝ていた。
十六か。この娘も、法子と同じ十六歳だ。
松永は、つややかに光る小百合の頬に、手を触れたい、と思った。赤ん坊のように、柔らかいだろう。
しかし、小百合は、法子に比べるとまだ子供のような体つきだった。たぶん、小百合が、シャワーを浴びているところを見たとしても、何も感じないだろうな、と松永は思った。
毛布をかけてやると、松永は応接間を出て、後ろ手にドアを閉じた。
「旦那様」
絹代が立っていた。「大《おお》内《うち》さんがおみえです」
「——そう、今は眠ってるの」
法子は、自分の机に向っていた。電話は、コードを長くしてあるので、ベッドサイドでも、机でも、話すことができる。
「大変だったな」
と、電話の向うで、関谷征人は言った。
「うん。小百合、可哀《かわい》そう。慰めてあげてね」
と、法子は言った。
「うん……。でも、君の方が、あの子のことは良く知ってるだろ」
「そりゃあ、長い付合いだから」
と、法子は言った。「いつも私が頼ってるのよ」
「そうか。見たとこ、逆みたいだな」
「そう? 小百合って、凄《すご》くしっかりしてるのよ。苦労してるから」
「ああ、それは分るよ」
「私みたいな、世間知らずとは違うの」
と、法子は冗談めかして、言った。
「でも、君は——」
と言いかけて、征人は言葉を切った。
「え?」
「いや……。別に何でもない」
と、征人は言った。「じゃ、彼女に、早くおじいさんが見付かるといいね、って言ってくれ」
「ええ、いいわ」
征人が電話を切ろうとしている。法子は、とっさに、
「小百合の家に、かけたの?」
と、訊いていた。
「え?」
「小百合の家が出ないんで、ここへかけて来たんでしょ?」
少し間があった。そして、再び征人が口をきいた時、声の調子が変っていた。
「そうじゃないんだ。君に電話したんだ」
と、征人は言った。
「私に?」
法子の手が震えた。頬がカッと燃える。
「うん。——君に会って……すてきだな、って思った」
どうして、そんなこと言うのよ、あなたは小百合の恋人じゃないの。
法子は、怒るべきだ、と思った。小百合が具合悪くて寝てる、っていうのに、こんな時に何てことを言うの、と……。
でも——も《ヽ》ち《ヽ》ろ《ヽ》ん《ヽ》、法子はそうは言わなかった。
電話は十五分も続いた。応接間では、小百合がまだ眠り続けていた……。