15 叫 び
「殺人だって?」
と、松永は言った。
「ええ」
大内は肯いて、コーヒーカップを受け皿に戻した。
「いや、いつもおいしいですね、神山さんにいれていただくコーヒーは」
「恐れ入ります」
と、神山絹代は微《ほほ》笑《え》んだ。「大内さんも、いつもお上手で」
「私は正直なだけです」
と、大内は言った。
「誰が殺されたんだ?」
と、松永が訊いた。
「ホテルのフロントで聞きました。女子高生だそうです」
「まあ、怖い」
と、絹代が眉《まゆ》をひそめる。「そういうお話をうかがうと、お嬢様のことが心配になって——」
「犯人は捕まったのかね」
と、松永は訊いた。
「よく分りません。ともかく、ゆうべは夜中にパトカーの音がうるさくて、何度も目を覚ましました」
「すると外で、やられたのか」
「どこだかの公園だったとか」
公園。——その言葉に、松永がちょっと眉を寄せるのを、大内は見ていた。
「やっぱり変質者か何かの……」
と、絹代がこわごわ訊く。
「おそらく。——そのホテルに、遅く妙な奴《やつ》が泊りに来てないか、と刑事が訊きに来たそうでしてね」
と、大内は言った。「その刑事が、フロントの男と顔見知りで、色々教えてくれたそうです」
「つまり……暴行殺人、ってことか」
「女子高生の方も、大人相手に遊んでこづかい稼ぎをしていたようです。たまたま悪い相手にぶつかったんじゃないですかね」
「なるほど」
と、松永は、ため息をついた。
「何でも——裸にされて、ひどく切り裂かれていたとか」
「ああ、いやだわ」
絹代は、台所の方へと、入って行ってしまった。
「聞くのも辛いな」
と、松永は首を振った。
「ただ……。夜中、ずっと非常線を張っていたらしいんですが、フロントの男の話だと、明け方近くには急に静かになったとか」
「というと?」
「いや、もちろん、そいつの当て推量ですが、容疑者が挙がったんだろう、というんです」
「なるほど。——本当に犯人だといいな」
「全くですね」
と、大内は肯いた。「今日は——あのお嬢さんはお出かけですか」
「孫の法子か? いや、いるはずだ」
「そうですか。お帰りが遅い時は、ご用心を。取り返しのつかないことになってからでは、手遅れですから」
「ありがとう。全くだよ」
と、松永は肯いた。
居間のドアが開いて、顔を覗かせたのは、小百合だった。
「やあ、目が覚めたか」
と、松永は声をかけた。
「ご迷惑かけて……」
と、小百合は、少しかすれた声で言った。
「いや、一向に構わん。法子はたぶん自分の部屋だと思う」
「私、病院へ戻ります」
と、小百合は言ってから、大内に気付いた。
「あ……。ゆうべはありがとう」
「いや——。どうしたんだ?」
と、大内は訊いて、松永が説明すると、
「そりゃいけない。頭を打って、外へ出てしまったとなると……。この寒さだ。どこかで意識でも失ったら、凍死する危険がある」
と、大内は言った。
「ここにいたまえ」
松永は立って行って、小百合をソファにかけさせた。「警察にも連絡してある。何か分れば、ここへ連絡が入ることになっているからね」
「でも——」
「気持は分るが、そんな顔色じゃ、君の方が倒れてしまうぞ」
と、松永は言った。「何か熱い飲物でも作らせよう」
松永が居間から出て行く。
小百合は、深く息をついて、窓の方へと目をやった。
大内は、自分のコーヒーカップを取り上げて、一口飲むと、口を開きかけた。
「——おじいさん」
居間のドアをパッと開けて、法子が入って来た。「あ、こんにちは」
大内に気付いて会釈してから、
「小百合! 起きたの。——どう、気分は?」
「うん……。何とかね」
と、小百合は弱々しい笑みを浮かべた。
「きっと何でもないわよ。元気出して」
と、法子は小百合の手を取って、軽く握りしめた。
「そうだ。今ね——あの人から電話があったわよ」
「え?」
「関谷さん。ほら昨日の——」
「電話が? ここに?」
青白かった小百合の頬に朱がさした。
「うん。小百合のとこへかけて、出なかったからって。心配してたわよ」
「そう……。話したのね」
「起そうかと思ったけど、具合、悪そうだったし。ごめんね」
「いいの」
と、小百合は首を振って、「それどころじゃないんだもの」
法子は、少し落ちつかない様子で立ち上ると、
「小百合、私、ちょっと用事で出て来る。すぐ戻るから。待っててね」
と、早口で言った。
「うん。いいよ、もちろん」
「じゃ。——二、三十分で戻るから。おじいさんにそう言っといて」
法子が急いで飛び出して行く。
大内と、小百合。——また二人きりになった……。
「病院に電話してみたら?」
と、大内が言うと、小百合はハッとしたように、
「ええ。——そうですね」
と、言ったが、動こうとはしなかった。
「どうかしたの?」
「いいえ」
小百合は首を振った。
「ゆうべ話したこと、憶《おぼ》えてるかな」
と、大内は言った。
「ゆうべ……?」
「好きなら、はっきり言った方がいい、ってことさ」
「もう遅いわ」
「遅い?」
「法子は、あの人に会いに行ったんだもの」
大内は、小百合を見つめて、
「どうしてそう思うんだい?」
「分るわ。私を起すことなんて、思いもしなかったのよ。だって、電話は下にあるのに、法子、自分の部屋にいたわ。——自分の部屋で、あの人の電話を取ったんだ……」
こんな時に、小百合は正確な推理を働かせていた。いや、むしろ直感が先で、後から、「言葉」がそれを裏付けているのだろう。
「私と法子……。比べたら、誰だって、法子を取るわ。分ってるの」
と、小百合は顔を伏せた。
大内は、小百合の胸の痛みを、自分のもののように、感じた。——いつも誰かの影にしかなれないように生れついた人間が、いるものなのだ……。
絹代が、熱いスープを作って運んで来ると、小百合は、おいしそうに、全部飲み干した。
小百合の顔には、諦《あきら》めと、穏やかさが同居していた。——それを分っているのは、大内だけだったかもしれないが……。
刑事がドアを開けると、薄暗い部屋の中、木の椅《い》子《す》にかけた君原が、一人、まぶしい光を浴びて座っていた。
「おじいさん!」
小百合はホッとした。「どうしたの? 大丈夫?」
駆け寄った小百合は、君原の肩に手をかけた。君原がハッと顔を上げ、小百合は、それまで祖父が眠っていたのだと分った。
「小百合か……」
と、君原はまぶしげに目を細くした。
「勝手に病院を出てったりして! 死ぬほど心配したのよ!」
小百合は本当に腹を立てていた。
「君のおじいさんか」
と、声をかけたのは、部屋の中にいた刑事だった。
小百合は、初めて、君原が一人でいたのでないことに気付いた。薄暗い部屋の中には、四人もの男が、立って、壁にもたれたり、椅子にまたがるように座っていたりしたのだ。
何をしているんだろう、この人たちは?
「——そうです」
と、小百合は言った。
「病院に入っていて、抜け出したんだね」
「ええ、でも……」
「何時ごろだね、それは」
「何時って……。気が付いたのは、たぶん——二時か、それくらいです」
「すると、その前から、いなくなっていたってわけだね」
と、その刑事は言った。
「ええ。それがどうかしたんですか?」
「いや。ちょっとね」
その刑事の唇に浮んだ笑みは、小百合をいやな気分にさせた。
それに——どうして、病人のおじいさんを、こんな部屋の固い椅子に座らせたりしているの?
「あの——病院へ連れて帰ります」
と、小百合は、君原の腕を取った。「おじいさん。戻ろうよ、病院に」
「うん……」
君原は立ち上ろうとして、よろけた。腰が痛んだらしい。アッと声を上げて、膝《ひざ》をついてしまった。
「おじいさん!——あの、どこかへ寝かせて下さい!」
と、小百合は刑事に言った。
「心配しなくていい。ゆっくり寝かせてあげるよ。もう話はすんだからね」
と、刑事が言った。
「話って……。何のことですか?」
小百合は、他の男たちを見回した。何か恐ろしいことが……。小百合の体が、萎《な》えるほど、得体の知れない恐怖が、忍び寄って来た。
「君のおじいさんはね」
と、その刑事が、小百合の方へ、身をかがめて、
「ゆうべ、高校生の女の子を殺したんだ」
小百合は、呆《あつ》気《け》に取られた。
「ええ?——おじいさん、元は刑事なんですよ」
「知ってるさ。そして、この町で起きた、小さい女の子の殺人事件にも、興味を持っていた」
と、刑事は肯いて、「頭を打って、夜の町へさまよい出て、あの女の子に出会った。女の子の方から、こづかい稼ぎと思って、声をかけたのかもしれない。しかし、それどころか、公園の中へ連れ込まれ、乱暴された挙句、殺されるはめになった」
「おじいさんが、そんなこと……。間違ってます! 勝手なことを言わないで!」
小百合は、怒りがこみ上げて来た。これは冗談でも何でもないのだ、と分った。
「残念だがね、君のおじいさんは、当分留置場で暮すことになる」
と、刑事は言った。
「何ですって? 病人なのよ!」
「医者には、ちゃんと見せるさ。心配しなくてもいい」
小百合は、膝が震えて、立っているのもやっとだった。
「そんなの、嘘《うそ》です……。おじいさんが、そんなこと、やるわけありません」
「しかし、本人も認めてるんだよ」
刑事が手をのばすと、他の一人が、紙きれを渡した。「ここに、ちゃんと署名してる。——分るだろう?」
小百合は、震え、乱れて、よく読み取れない字を見つめた。確かに——〈君原耕治〉と読めるが……でも……。
「ちゃんと本人が言ったんだ。女の子を殺しました、とね。——君には気の毒だが、引き取ってくれ。後のことは連絡するよ」
刑事は、小百合を部屋から押し出してしまった。
「おじいさん!——おじいさん!」
小百合の声は、君原に届いているはずだった。しかし、君原は振り向きもしない。
小百合の目の前で、ドアは音をたてて閉じた。
どうやって、警察を出たのか、小百合自身、分らなかった。風の冷たさも感じない。
「小百合!」
と、呼びながら、タクシーを降りて駆けて来るのは、法子だった。
小百合は、両手で頭をかかえるようにして、叫び声を上げた。
「小百合! どうしたの?——しっかりして!」
法子が小百合の腕をつかんで揺さぶる。
小百合は、灰色の空に向って、呻《うめ》くように、叫び続けていた。