21 刑事の涙
法子は一人ではなかった。
「おじいさん」
と、席から立ち上って手を振る。
「突然やって来るなんて珍しいじゃないか」
と、松永はいやに陽気な声で言った。
「ごめんなさいね。忙しいんでしょ」
と、法子は言った。「あ、こんにちは」
大内の方へ挨《あい》拶《さつ》したのである。
「お仕事だったの?」
「そりゃ、ここは会社だからな」
と、松永は言って、腰をおろした。「おい、コーヒーをくれ」
「私が頼んで来ます」
ウェイトレスが近くにいないので、大内がすぐに、カウンターの方へと歩いて行った。
「全く、よく動く男だ」
と、松永は笑って言った。
「ね、おじいさん……。関谷君よ」
関谷征《まさ》人《と》が一緒だったのである。
「ああ、憶《おぼ》えてるとも」
松永は肯いて見せた。「あの小百合《さゆり》って子のボーイフレンドだろう?」
「うん……」
法子は、曖昧に言って「ちょっと、おじいさんにお願いがあって……」
「頼んで来ました」
大内が戻って来て、「あちらの席におります」
「ここにいて構わんぞ」
松永が言っても、大内はさっさと離れた席に行ってしまった。
「——あの子はどうしたんだ?」
と、松永は訊いた。「てっきり一緒に来たのかと思った。弁護士のことでな」
「ああ……。もう頼んでくれたの?」
「さっき電話をしたところだ。私の頼みなら、断らんさ」
法子は、小百合の祖父の弁護士のことなど、すっかり忘れていたのだ。それを承知で、松永は意地悪を言ってみたのだった。
「きっと小百合、喜ぶわ」
と、法子は言って、「——ね、おじいさん」
「君は、二十九日のパーティに、出てくれるんだろう?」
松永は法子の言葉が聞こえなかったふりをして、征人の方に向って言った。
「はい。あの……」
と、征人は少しおどおどしながら、「喜んで……」
「良かった。やっぱり、女の子は好きな男の子がそばにいると、元気が出るもんだ。あの小百合って子には、それが一番ききめのある〈療法〉だろう。なあ、法子」
「ええ。——そうね」
と、法子は肯いた。
つい、目を伏せてしまっている。コーヒーが来て、少しの間、三人とも黙ってしまった。
「——出がらしだ」
と、松永は一口飲んで、顔をしかめた。「それで、何だね。私に話っていうのは?」
「ね、おじいさん……。関谷君、来年大学なの。大学へ入ったら、ぜひどこかでアルバイトしたい、って。どこか、いいアルバイトを探してあげて」
「アルバイト? 大学へ通いながら、いつ働くんだね?」
「もちろん、休みの間です」
と、征人は言った。「ずいぶん先のことなんですけど、今から捜しておかないと、いい仕事は見付からない、って先輩から言われてて」
「なるほど」
と、松永は肯いた。「世の中も変ったもんだな。アルバイトにも就職運動か」
「おじいさん、色々な人、知ってるし、どこかあるわよね」
松永は、ちょっと肩をすくめた。
「そりゃ、その気になれば、一つでも二つでも見付けられるさ」
「お願い! すぐにっていうわけじゃないんだけど」
法子は、征人のために何かしたくてしかたがないのだ。何かしてあげて、感謝されたいのだ。
そのためなら、あまり感心したことでないと自分で思っていることでも、やってしまうのである……。
「分ったよ」
と、松永は言った「心がけておこう」
「ありがとう!」
法子は頬を上気させ、幸せそうだった。
「よろしくお願いします」
と、征人が頭を下げる。「じゃ、僕は帰るよ」
「あら、どうして?」
「だけど——」
「そうね。おじいさんの邪魔しちゃった。ごめんね」
「構わん」
と、首を振って、「いつでも邪魔しにおいで」
「じゃ、私も帰る。小百合、お家へ寄って、必要なものを取って来てるはずだわ」
「それじゃ……」
二人して、喫茶店を出て行く。出がけに、大内の方へ、法子は、
「失礼します」
と、声をかけて行った……。
大内はドキッとした。まさか法子が自分に声をかけて来るとは思わなかったのだ。返事をしない内に、法子は征人と二人で姿を消してしまっていた。
大内は、立ち上って、松永のいるテーブルへと移った。
「若い人は楽しそうですな」
大内の言葉も耳に入らない様子で、松永は何かじっと考え込んでいたが、やがてふっと我に返ると、
「ああ、悪かったな、来てもらって、放っておいてしまった」
「とんでもない。しかし、どうして私をこの席へ?」
松永は、自分のコーヒーをまた一口飲んで、顔をしかめた。まずかったことを、忘れていたらしい。
「いや……。お前の意見が聞きたかったのさ」
「私の?」
「あの二人だ。話は聞こえたろう?」
「はい」
「どう思う?」
「どう、といいますと……」
「恋人同士だと思うか」
大内は面食らった。しかし、どう見ても、松永は大真面目だ。
「まあ……。そうでしょうね、おそらく」
「俺もそう思う」
松永はため息をついた。「あんな子供が! 男か……。どうして子供はいつまでも子供でいないのかな」
「それは仕方ありません」
「ああ。しかし……俺は、堪えられん。大体法子には早すぎる。そう思うだろう」
反対しても仕方ない。気を変えるつもりはないのだ。
「そうですね」
と、大内は言った。
「そうだとも! あいつは子供だ!——それをあんなろくでもない男が、うまく騙《だま》してるんだ。見ればすぐに分る。俺はいやというほど人間を見て来た。人間の出《ヽ》来《ヽ》の良し悪しぐらい、一目で分る」
松永は、まくし立てるように言って、「あんな奴と法子を近付けておくわけにはいかん。そうだろう?」
「はあ。しかし——こういうことは、慎重に対処しませんと。反対は、却って火に油を注ぐことにもなります」
「そうか。いいことを言うな、お前は」
「恐れ入ります」
「ともかく、俺はあの子の親じゃない。しかし、親代りだ。あの子には責任がある。あの子を守ってやるんだ。当然のことだ。そうだろう?——あの子は、いつも汚れのないままでいるべきなんだ。それでこそ法子なんだ……」
大内は、ふと寒気を覚えた。松永の言葉は、いつしか独白に近いものになっていた。
「——しかし、松永さん。どうやって、二人を別れさせるんです?」
「二十九日が、いい機会になる」
「機会、といいますと……」
「できるだけ大勢人を集める。もちろんお前も来るんだ」
「もちろん、うかがいます」
「何か起っても不思議じゃない。そういう夜にはな」
松永の言い方は、どこか子供じみたもの——いたずらで、大人をびっくりさせるのを楽しみにしている子供のような、響きがあった……。
大内は、コーヒー代を払おうとして、松永に止められ、ごちそうになっておくことにして、一人でビルを出た。
何かに追われているような気分だ。
この町を出ようか。——不意に、そう思った。
いや、出るわけにはいかない。あの少女がいるのに、どうして出て行けようか。
しかし——大内は怖かったのだ。
怖い、などとは、全く皮肉な話だが、事実、そうなのだから、仕方がない。
何を恐れているんだ、俺は?
大内は、外へ出て、寒い風に当ると、少し落ちついた。確かに、今は取り乱し、怯えてさえいたのだ……。
ビルの方を振り返る。松永の言葉が、思い出された。
法子は汚れのないままでいなきゃならないんだ……。
何てことだ!——大内は自《ヽ》分《ヽ》と《ヽ》同《ヽ》じ《ヽ》言葉を聞いたのだった。あれは、俺の言葉だ。
松永に、一体何が起ったのだろう?
大内は歩き出した。別に用事があるわけではなかった。
ただ、自分を取り戻す必要があったのである。
二十九日のパーティで、松永は何《ヽ》を《ヽ》するつもりなのか。見当もつかない。
何が起ってもおかしくない、か……。
いやな気分だった。もし手近にコーヒーカップでもあったら、思い切り地面に叩きつけて、壊してやりたかった……。
小百合は、部屋の中を見回した。
一日、いなかっただけでも、家の中は冷え切って、まるで何年も人が住んでいない空家のように、荒れ果てて見えた。
またここへ帰って来られるだろうか? おじいさんと二人で、ここで暮せる日が来るだろうか……。
紙の手下げ袋は、結構重くなった。大して持つものはないだろうと思っていたのだが、そうでもなかった。
これでまた、何かあれば戻って来ればいい……。
表は、もう暗くなりかけていた。玄関を出て、小百合はギクリとした。
目の前に誰かが立っていたのだ。
「——君は、この家の人?」
声は、意外に若かった。
「ええ」
「君原というのか」
「君原ですけど……。あなたは?」
その若い男は警察手帳を見せた。小百合の顔がさっと朱に染った。
「私を逮捕するの?」
と、食ってかかるように言うと、
「いや、そうじゃない。君のおじいさんかな、君原耕治は」
「ええ、そうよ」
「そうか。——君は?」
「君原小百合」
「小百合君か。僕は佐《さ》川《がわ》というんだ。君のおじいさんを逮捕したのとは違う署に属している」
「そうですか」
小百合は少しホッとした。
「留守だったね。今、どこにいるの?」
「友だちの家です」
「そうか。——ちょっと話したいんだが」
佐川という若い刑事は、いやに沈んで見えた。
「いいですけど……。寒いですよ」
「じゃあ、何かその辺で食べようか。甘いものは好き?」
「大体は」
「僕も甘いものに目がない。行こう」
と、佐川は小百合を促した。
——二人は、おしるこのおいしい店に入って、三杯、食べた。小百合が一杯、佐川が二杯。
「今日は昼抜きでね」
と、佐川が言った。「林田さんって、僕の先輩がいる」
「林田さん?」
「うん。林田さんはね、君のおじいさんがこの事件の犯人じゃないと思ってたんだ」
小百合は、思わず座り直した。
「どうしてその人は——」
「まあ、逮捕した水口って刑事の方が無茶なんだ。ろくに証拠もない。自白すりゃいい、ってやり方だ。林田さんは、そういうやり方が大嫌いでね」
小百合は肯いた。
「——林田さんは、ある男に目をつけていたんだ。もちろん、そっちも証拠があったわけじゃないから、あくまで慎重に、身辺調査をしていたんだが」
「何か分ったんですか」
と、思わず小百合は身をのり出した。
「殺されたんだ。今日の午後ね」
佐川の言葉に、小百合はポカンとして、
「殺された……?」
「そう。刃物で一突き。——誰も犯人を見ていない。林田さんは一人だった。誰がやったのか、分らないんだ」
「じゃ——亡くなったんですか」
「そうさ。呆《あつ》気《け》なくね。まだ信じられないよ」
佐川が突然、大粒の涙をこぼした。
小百合はその思いがけない光景に、心を打たれて、身じろぎもせず、座っていた。