22 灰色の日
私、ホッとしてる。
——法《のり》子《こ》はそう呟《つぶや》いた。ホッとしてるんだ。
何てことだろう!
小百合《さゆり》。——小百合。ごめんね。
小百合は今日、学校を休んでいた。捕まっている祖父のために、弁護士と会わなきゃいけなかったのだ。
法子は一人で帰ることになった。一人で良かった、とホッとしながら。
何てひどい友だちなんだろう。しかも、あんな目に遭って、今、小百合は他《ほか》のどんな時にも増して、助けを——支えを、必要としているはずだ。それなのに……。
私は、小百合が一緒でなくて、ホッとしているんだ。——ごまかしてみたところで仕方ない。事実は事実だから。
喫茶店の二階へ、法子は駆け上った。
来てるかしら? わざとゆっくり店の中を見回して、いても気付かないふ《ヽ》り《ヽ》をしようか。
だが、そんな思いを、法子自身が裏切ってしまう。手を振る関《せき》谷《や》征《まさ》人《と》の所へ、真直《まつす》ぐに駆け寄ってしまうのである……。
「寒いね、今日は」
と、征人が言った。
「そう?」
法子は、征人に言われるまで気付かなかった。そういえば、まだやっと三時なのに、夜が間近なのかと思えるくらい薄暗い。
「雪でも降りそうだな」
と、征人は言った。
「降ってもいいわ。あなたにくっついて、あったまる」
「湯タンポかよ」
と、征人は笑った。
「今日、来られるんでしょ?」
「うん。——行くけど」
征人は、少し気が重いようだ。
「おじいさんのこと、気にしてるの?」
と、法子は訊《き》いた。「あ、ココアください」
オーダーして、やっぱり寒いんだわ、今日は、と気付いた。体の方は凍えている。ただ、それを感じている余裕が、心になくなっているのである……。
「そうじゃない。——そりゃ、娘のボーイフレンドってのは好かれないよ」
「私、おじいさんの娘じゃないわ」
「孫だけど、同じことだよ。僕のこと、にらんでたろ、この間」
と、征人は言った。
「そう?」
「そうさ」
征人は、コーヒーをゆっくりと飲んでいた。「あの子の恋人だろ、って言ったじゃないか。何度もしつこくさ。——わざと、だよ。分ってるんだ、僕たちのことを」
法子には、思いがけない話だった。
「まさか……。考えすぎじゃないの?」
「いや、本当だよ。別に、だからどうってわけじゃないけどね」
と、征人は微《ほほ》笑《え》んだ。
法子は、祖父がそんな風に思っているなどと、考えたこともなかった。
「気になってるのは、やっぱりあの子のことさ」
と、征人は言った。
「小百合のことね」
分り切ったことを言って、「私も……気にはしてるわ」
「今は辛《つら》い時だろうしな。その点は君のおじいさんの言う通りだ」
「だけど——」
「小百合のおじいさんのことが落ちつくまでは、慎重でなくちゃ。なあ、そうだろ」
法子は肯《うなず》いた。重苦しい気分で、しかし、同意しないわけにはいかない。
「今夜はどっちにしても、おじいさんと小百合のお誕生日なんだから」
と、法子は言った。「小百合を楽しませてあげなくちゃ」
「六時半ごろには行けると思うよ」
「待ってる」
待っているのは、小百合も同じだろう。しかし、法子は、征人の言葉に肯きながら、たとえ今夜のパーティの間だけでも、征人を小百合に譲り渡す気にはなれなかった。
征人は私のもの。——小百合には悪いけれど、私のものよ……。
——二月二十九日。
午後の三時を、少し回っていた。
朝の内から、準備は始まっていた。
絹《きぬ》代《よ》もマチ子も、足を止めている暇がないほど、忙しく駆け回り、アルバイトの子や、パートで来た主婦たちに指示をして回らなくてはならなかった。
夕方近くになって、やっとマチ子と絹代は台所で簡単な食事を取った。
二人はほとんど口をきかない。——何しろ、バイトやパートの女性がひっきりなしに出入りしている。下手な話はできなかった。
「——絹代さん」
と、マチ子が、食事を先に終えて、言った。「ケーキを受け取って来ます」
「ああ、そうね。誰《だれ》かに行かせたら?」
「心配ですから。もし落としでもしたら、おしまいですし」
食べるのが手早いことでは、マチ子の方が上である。もちろん、若さというものだ。
「それはそうね。じゃ、行って来てくれる?」
「力はありますから、一人で大丈夫です」
と、マチ子は笑って言った。
絹代も笑ったが、目は笑っていない。マチ子の方は、いかにも屈託がなかったが。
——マチ子が出かけると、絹代は、パーティのテーブルの並べ方を指示しておいて、二階へ上った。
松《まつ》永《なが》の寝室へ入ると、ドアを閉め、ベッドのわきの電話を取る。——松永の会社の番号は、もちろん暗記していた。
「——旦《だん》那《な》様ですか」
「何だ。どうかしたか」
松永の口調はややそっけなかった。
「パーティの仕度は順調です。定時でお帰りですね」
「ああ、そのつもりだ」
「大《おお》内《うち》から連絡は?」
「特にございませんが」
「そうか。もし早めに来たら、待たせておいてくれ」
「かしこまりました」
と、絹代は言って、「旦那さま。二月は今日でおしまいでございます」
「うん、それが?」
「マチ子さんのことです」
「ああ……。分ってる」
松永は少し困惑している様子だった。「ゆっくり話す時間がなくてな。——心配するな。ちゃんと話す」
「気になります。あの子、すっかり変ってしまいました」
「そうか。しかし……こっちが借りがある、と言った意味がよく分らんな」
「よく確かめられた方が。ああいう子は、何をやるか分らないところが……」
「ああ、そうしよう。じゃ、頼むよ」
少し唐突に、松永は電話を切ってしまった。
絹代は、不安が拭《ぬぐ》い切れなかったのである。
マチ子の、あの自信たっぷりの様子は、絹代の理解を越えるものだった。——マチ子は、松永が絹代でなく、自分を選ぶと確信している。
何がその自信を持たせたのか、絹代には見当もつかなかった……。
松永が、神《かみ》山《やま》絹代からの電話を、少し唐突に切ってしまったのは、他の外線が入っている、というランプが点滅していたからだ。
「——はい、松永です」
と、切りかえて言うと、「もしもし? どなたですか?」
「旦那様、お仕事中、申し訳ありません」
マチ子だった。松永は、少しドキッとした。
「どこからかけてるんだ?」
と、松永はできるだけ気楽に言った。
「表です。絹代さんには目ざわりのようなものですから」
「なあマチ子——」
「旦那様」
マチ子の声は、どこか車の多い辺りの公衆電話を使っているようで、少し聞き取りにくかった。
「先日うちへ来た刑事、ご存知ですね」
「刑事?」
「はい。腕時計を失くされた時の」
「ああ。——憶《おぼ》えてるよ」
「林《はやし》田《だ》という人です。私、あの人に呼び止められ、嘘《うそ》をついたんだろう、と訊かれました」
松永には意外な話だった。てっきり、もう諦《あきら》めたと思っていたのだ。
「何と答えたんだね」
「嘘じゃない、とだけ」
「そうか……。いや、それでいいんだ」
「でも、あの刑事は諦めていませんでした。何《ヽ》か《ヽ》を探ってます、旦那様の身辺で」
「探られるようなことはしてないよ」
と、松永は冗談めかして言った。
会社の電話である。もちろん聞かれることはないにしても、下手なことは言えない。
「旦那様」
と、マチ子は言った。「あ《ヽ》の《ヽ》晩《ヽ》のことは憶えておいでですね」
「何のことだ?」
「旦那様が初めて私の所へおいでになった夜です。あの夜、お帰りになった時は、見たこともないくらい、ひどいご様子でした」
「ああ……。そうだったな」
「しかもあの時計を落とされて。——腕時計をされていないのに、私、気が付いていました」
「何が言いたいんだ」
「別に。——私は、もちろん何も話しませんけど。でも、絹代さんにクビにされるのは、たまりません。いやです」
「おい、マチ子——」
「私は旦那様のためなら、何でもします。どんなことでも。——絹代さんは、ただ旦那様にたかって、お金をせびるぐらいのことしかしないでしょう」
松永は、別人のようなマチ子の話し方に、圧倒された。
「分った。ともかく、電話じゃどうにもならん。パーティが終ったら、ゆっくり話そう。いいな」
「はい。お仕事中、失礼しました」
マチ子は、いつもの、少し子供じみた声に戻っていた。「これから、旦那様のバースデーケーキをもらって来ます。ご覧になって、びっくりなさらないで下さい」
マチ子は楽しげに言って、電話を切った。
松永は、受話器を戻し、息をついた。
こんなことで、困らされることがあろうとは。た《ヽ》か《ヽ》が《ヽ》使用人のことで!
しかし、思っていた以上に、困った事態になりつつある。マチ子も、絹代も、決して後にはひくまい。
もちろん、どっちと言われれば、絹代にやめられた方が、ずっと困るのだが、マチ子はその気になれば松永を危険な立場に立たせることができる。といって……二人を一緒に置いておくことは、短い期間ならともかく、長くは難しいだろう。
「困ったな……」
と、松永は呟いた。
しかし——マチ子の言い方には、確かに引っかかるところがあった。「何でもします」「どんなことでも」……。
一体、何《ヽ》を《ヽ》するというのだろうか?
松永は頭を振った。——今は、マチ子のことなど、どうでもいい。
もっと考えなくてはならないことがある。差し迫って、やらねばならないことが……。
大内は目を覚まして、ベッドに起き上った。
眠るつもりではなかったのに……。
それに、眠っても少しも体は休まらなかった。汗をかいて、むしろ疲れている。
夢に追われたような、そんな気分だった。
トントン。——ドアがノックされた。
誰か来たのか。それで目を覚ましたのだろう。
「——どなた?」
と、大内は声をかけた。
少しの間があって、
「君《きみ》原《はら》小百合です」
少女の声に、大内はホッとした。
「待ってくれ……」
ベッドを出て頭を振る。——まるで徹夜明けのような、妙な気分だ。ゆうべは充分に眠ったはずなのに。
ドアを開けると、小百合が少しおずおずとした様子で立っていた。
「お邪魔してごめんなさい、何回も」
「構わないよ。少しウトウトしていたんだ。入って」
「いいの?」
「ああ。もう起きなきゃいけない時間だ」
大内は、小百合を中へ入れて、「そうだ。誕生日だね、今日は。おめでとう」
と、言った。
「どうも……」
小百合は、大内の顔をまじまじと眺めて、「顔色、あんまり良くないけど」
と、言った。
「悪い夢を見たらしいな。憶えていないけど疲れちゃったよ」
「私……帰った方がいい?」
小百合の言葉は切なかった。
「いや、座っててくれ。ちょっと顔を洗って来る」
大内はバスルームに入って、お湯をためて顔を洗い、ローションをつけて、スッキリさせた。
「——ひどい顔だ」
確かに、鏡の中の自分は、まるで何日も血を飲めずにいる吸血鬼もかくや、という感じである。
パーティ。——そう、今夜のパーティが、大内は怖かったのだ。
仕事、と割り切れば、どんなことも苦にならない。しかし、今夜ばかりは、それですまないのではないか……。
「コーヒーでも頼もうかな。君は?」
と、大内は部屋へ戻って訊いた。
「じゃあ、私も……」
小百合はかすかに笑みを見せた。
フロントへ電話をしてから、大内はベッドの乱れを直して、そこに腰をおろした。
「学校の帰り?」
「今日は休んだの。おじいさんのことで、弁護士さんと会って」
「なるほど」
小百合の口は重い。話したくないのか、それとも話していいか迷っているのだろう。
大内は待っていた。待つことにかけては、ベテランだ。
「おじさん、奥さんは?」
と、小百合は訊いた。
「結婚する暇がなくてね」
と、大内は微笑んだ。「それに、これは、という女の人に会えなかったんだよ」
「そう? どうしてかな」
「そりゃ、人間ってのはそんなものさ。本当に知り合える相手なんて限られてるからね」
「そうね……」
小百合は、無理に笑顔を作って、「もっとおじさんが若かったら、好きになっちゃうのに」
「こりゃありがたいや。テープに録《と》って、会社の女の子に聞かせてやろう」
と、大内は笑った……。
コーヒーが来て、二人はゆっくりと、あまり旨《うま》いとは言いかねるコーヒーを一口ずつ、含むようにして飲んだ。
「——困ってるの」
と、小百合が言った。「あんまり色んなことが一度にあって……。どうしていいのか……」
小百合が突然涙を溢《あふ》れさせた。次々に頬《ほお》を伝い落ちて行く涙を、拭おうともしない。
「おい!——大丈夫かい?」
大内はびっくりして、カップを置くと、小百合のそばへ寄って、肩を抱いた。
小百合は、大内の胸に顔を埋めるようにして、声もなく、泣いた。——悲しくて、というよりは、たまりにたまっていたもの、じっと堪えていた、苛《か》酷《こく》な出来事への、張りつめた思いが、一気に溢れ出ているのだ。
大内は、胸もとに小百合の涙の冷たさを感じながら、泣くに任せておいた。
「——ごめんね」
小百合は、やっと顔を上げた。
「すっきりしたかい?」
「うん!」
小百合はしっかりと肯いた。
「よし。じゃ、涙を拭《ふ》いて、鼻をかんでごらん」
「子供扱いしないで」
と、小百合はむくれて見せた……。
「——何だって?」
大内は、小百合の話を聞いて、思わず言った。「松永さんが……。確かなのかい?」
「私が言ったんじゃない。その佐《さ》川《がわ》っていう刑事さんが言ったのよ」
思いもかけない話だった。
「すると……その林田って刑事は、松永さんを尾行していて、殺されたんだね」
「ええ。もちろん、松永さんがやった、っていう証拠はないんだけど、きっと何か関係があるって。——法子のおじいさんが、そんなことをするなんて、とても信じられない」
大内は、考え込んでいた。
確かに、いつもの松永なら、そんなことは考えられない、と大内も思っただろう。しかし——大内も、知っている。
今の松永はど《ヽ》こ《ヽ》か《ヽ》おかしい。何かが狂っているようなのだ。しかし——まさか刑事を殺すようなことをするだろうか?
「それで、その刑事は他に何を話したんだね?」
と、大内は言った。