23 宴
「さあ、一息でね!」
と、法子が言った。「小百合はともかく、おじいさんは無理かもね」
「馬《ば》鹿《か》にするな!」
と、松永がむきになって、「見てろ!」
「待って待って! カメラ!」
「ほら……。一、二、三!」
二つのバースデーケーキの上のロウソクが、一気にゆらめいて、消えた。ワッと上る歓声、拍手。
一《いつ》旦《たん》暗くなった広間が、明るくなると、二十人近い、小百合と法子のクラスメイトや、そのボーイフレンドから、ガールフレンドたちがまぶしげに目を細くした。
「おじいさんも凄《すご》い! まだ元気ね」
と、法子は松永の肩をポンと叩《たた》いた。
「当り前だ。お前が花嫁姿を見せてくれるまでは、頑張らんとな」
と、松永は笑った。「——さあ、みんな好きなように食べるなり飲むなりしてくれ。私は適当に失敬するからな」
音楽がかかる。——松永にはとても理解できない、テンポの早い、頭の痛くなりそうな音楽である。
音楽に負けじと大声でしゃべるのが、若い世代の好みなのかもしれない。松永は苦笑しながら、ワインを飲んでいた。
——法子は、ことさらにはしゃいでいた。
もちろん、自分がこの場を楽しくさせなくては、という気持もあったのだが、それだけではなかった。無理にでも、みんなと騒いでいないと、つい征人の方へ目が行ってしまうからだった。
今夜だけは——今夜だけは我慢しなくては。小百合のために。そう自分に言い聞かせても、法子の胸は痛んだ。
「——酔ってるのか?」
と、当の征人がやって来て、言った。
「まさか。シャンパンよ」
と、法子は笑った。
「飲み過ぎるなよ、いくらシャンパンでも」
「私は大丈夫。——小百合をお願い」
小百合は、一人でポツンとソファに腰をおろし、皿に取り分けた料理を食べていた。
クラスの子たちも、「法子に招《よ》ばれて」来ているのだ。小百合のことは、どうしても敬遠してしまうのである。
「だけどなあ……」
と、征人は言った。
「お願い。話し相手になってあげてよ」
「うん」
と、征人は肯いた。
小百合は——幸せだった。
悲しいくらい、幸せだった。何はともあれ、征人が、手の届く所にいてくれるのだから。
それ以上は望まなかった。クラスの子たちが、自分を避けていることも、分っていた。
でも——小百合は慣れていたのだ。いつも、隅の方でおとなしくしている役回りなのだから。
「もっと食べる?」
と、声をかけてくれたのは、マチ子だった。
「あ——いえ、今はもう」
「若い人はもっと食べなきゃ」
「後でいただきます」
「今日は、旦那様だけじゃなくて、あなたも主役なのよ。もっと堂々としていなきゃ」
小百合は、ちょっと戸惑った。もちろん、マチ子の言葉は嬉しかったが、マチ子にそんなことを言われるとは、思ってもいなかったのだ。
マチ子は大人しく、無口で、ただ言われた仕事を黙々とやるタイプの人だ、と小百合は思っていた。それが、まるでず《ヽ》っ《ヽ》と《ヽ》年《ヽ》上《ヽ》の《ヽ》女性のような話し方をしている。
小百合は、マチ子がまるで別人のように見えることに、急に気付いたのだった。
「——これ、食べない?」
と、皿が差し出された。
料理の取り合せはいささか妙だったが、
「ありがとう」
と、小百合はすぐに受け取った。
持って来てくれたのは、征人だったのだ。
「あらあら」
と、マチ子が笑って言った。「やっぱり運び手次第みたいね」
「あの——別に、私——」
と、小百合が言いかけると、
「いいのよ。沢山取って来てもらって、食べなさいね」
と、マチ子は楽しげに言って、小百合のそばを離れて行った。
征人は、小百合の隣に座って、
「旨いな、この料理」
と、自分の皿をすっかり空にしてしまう。「きっと高いんだろうな」
「そうね」
小百合も、少し料理を口に入れた。
「もっと、みんなの所へ行ったら?」
と、征人が言うと、小百合は目をそらして、
「迷惑するわ、みんな」
「友だちだろ」
「でも、無理ないわよ。こうして、一緒の部屋にいてくれるだけでも、ありがたいと思わなくちゃ」
「そんなことないよ。みんな——」
「私も疲れてるから。あんまり色んな子と話すと、気をつかって、もっと疲れるわ」
「そうか」
征人も、あまりしつこく言わない方がいいと思い直したようだ。「大変だろうけど……元気出せよな」
ちょっと、聞いていて気恥ずかしくなるくらい、「気のきかない」セリフだったが、それでも小百合は嬉しかった……。
「やあ」
と、やって来たのは、松永だった。「お互い、おめでとうってわけだね」
「あの——」
小百合は立ち上って、「わざわざ私まで招んでいただいて……」
「座って、座って」
松永は小百合の肩に手をかけて、座らせると、「本当なら、君のおじいさんにも、来てもらいたかったがね」
「ええ……」
「君のおじいさんが無罪放免になったら、盛大にお祝いをやろうじゃないか」
松永は、前から少し飲んでいたせいか、いくらか酔っている様子だった。
「ああ、そうだ」
松永は行きかけて、思い出したように振り返ると、征人の方へ、「関谷君——だったかな?」
「はい」
と、征人が答えた。
「例のアルバイトの件だが、いい所が見付かりそうだよ。任せておきなさい」
「ありがとうございます」
「いや、何しろ法子の頼みじゃ、いやとも言えんからね」
と、松永は笑って見せた。「その内、連絡が行くと思う。しっかりやってくれよ」
「はい、それはもう……」
「今の若いのは、ちょっと辛い仕事だと、すぐに出て来なくなる。君はまあ、そんなこともないだろうが」
「はあ」
「じゃ、ゆっくりしていってくれ」
と、松永は手にしていたウィスキーのグラスを、ちょっと揺って見せて、「これを飲んだら、そろそろ退散するよ」
ニヤリと笑って、いささか場違いな、若い人たちの中を歩いて行く。
小百合は、征人が自分から目をそらしているのに、気付いていた。
「——アルバイト、捜してもらったの」
と、小百合は言った。「良かったわね」
「うん……」
征人は曖昧な調子で、「彼女が、頼んであげるって言ったもんだからね」
小百合は、友だちとおしゃべりしながら笑っている法子へ、じっと燃えるような目を向けていた。——おじいさんに頼んであげるわ。私のおじいさん、偉いんだから。
そうよ。小百合のおじいさんみたいに、女の子を殺したりしないんだから……。
「ちょっと、飲みものがほしい」
と、小百合が言うと、征人は却ってホッとした様子だった。
「持って来るよ。コーラでいい?」
何でもいい。何でも。——毒入りのコーラだって構わないのよ。
小百合は、皿をわきへ置いて、立つと、広い窓の方へと歩いて行った。もちろん、外は夜で、暗かったが、庭にも照明があるので、いくらかは様子が分った。
窓ガラスに顔を近付けると、吐く息でガラスが白くくもる。——法子は、もうしっかりと征人を、捕まえてしまっている。クモが糸でからめとってしまうように。
私には、何もできない。彼のために、何もしてあげられない……。烈しい勢いで、やりきれない思いがこみ上げて来て、小百合は急いで部屋を出た。
二階へ駆け上ろうかとも思ったが、そうせずに、廊下を奥の方へ、少し薄暗がりになった辺りまで行って、足を止めたのは、待っていたからだろうか?
でも——きっと来やしないだろう。来るはずがない。私の後なんか、追いかけて来るはずが……。
「どうかしたの?」
振り向くと、征人がジュースのコップを手に、やって来るところだった。「コーラが、ちょっと切れちゃってて……」
「ありがとう」
と、小百合は受け取って言った。
「どうしてこんな所に」
小百合は、ジュースを飲もうとはせず、じっと征人を見つめた。
「征人さん……」
「うん……」
「法子のこと、好きなんでしょ」
「好きって……。会ったばかりじゃないか。それに——」
「私にキスできる?」
自分の言葉ではないようだった。誰か、見たこともない女の子が言ったのだ。だって、私にそんなこと、言えるわけがないもの……。
「ねえ——」
「できないでしょ。法子が好きだから」
困らせてはいけない。困らせ、追い詰めたら、征人はもっと遠くへ行ってしまう。——分っているのに。
「まだ君、子供じゃないか」
と、征人は言った。「そうだろ?」
「そうね。——変なこと言って、ごめんなさい。コーラで酔ったのかな」
征人はホッとしたように、微笑んで、
「じゃ、戻ってるよ、僕は」
と、行ってしまった。
私から逃げられてホッとしてるんだ。——参ったよ、あの子には。法子に、きっとそう話すのだろう。だって、キスしてくれなんて言うんだぜ……。
その征人の声、それを聞いた法子や、クラスの友だちの笑い声が耳に届いて来るような気がして、小百合はよろけた。
コップが落ちて、ジュースが廊下のカーペットにぶちまけられるのも気付かず、両手でしっかり耳をふさぐと、目をつぶった。
法子……。どうして私からあの人を盗ったの! 返して! 返してよ!
すると、誰かの手が、小百合の肩に置かれた。
神山絹代は苛《いら》立《だ》っていた。
マチ子が、落ちつき払っている分だけ、絹代の苛立ちは増した。
しかも——これは絹代も認めないわけにはいかなかった——マチ子は、何人ものパートの主婦や、バイトの女の子たちを使って、立派にパーティの用意をすませてしまった。
あたかも、絹代に、
「もう、あなたは必要ありません」
と、言ってのけたようなものだ。
実際のパーティそのものは、絹代とマチ子が二人で運営している。法子の友だちがやって来る前に、松永の仕事関係の客が何人か集まって、別室で簡単な会があったのだが、そっちもマチ子が一人で動き回り、巧みに絹代に手出しをさせなかった。
そして今もまた……。
絹代は苛立っていた。——帰って来た松永に、マチ子のことをはっきりさせてもらおうとしたのだが、
「パーティの日だ。そんな話はしたくない」
と、いやな顔をされてしまった。
一体マチ子は、松永の何《ヽ》を《ヽ》握っているというのだろう?
絹代は広間の隅に立って、マチ子が、若い子たちに料理をすすめたり、取り分けたりするところを見ていた。
——そう。何《ヽ》か《ヽ》あったのだ。
人間は、ああも短い時間で、大きく変れるものではない。恐ろしいほどの変り方には、よほどの理由があるはずだ……。
ふと、絹代は思い付いた。——マチ子は当分、ああして忙しく動き回っているだろう。絹代の姿が見えなくなったところで、どうということもあるまい……。
絹代は、静かに広間を出た。
廊下を奥へ。足早に進んで、マチ子の部屋の前まで来た。チラッと振り返ってから、そのドアを開け、中へ滑り込んだ。
それほど広い部屋ではない。せいぜい六畳間ぐらいの広さ。ベッドがあり、つくりつけの戸棚。
別に目当てがあるわけではなかった。何が見付かるか、見当もつかない。
ただ、マチ子の変りようを理解する手がかりが、ほしかったのだ。
しかし、ものを片付けることにかけては、誰にも負けない絹代だが、「にわか空巣」としては、何とも不器用だった。
戸棚を開けてざっと見回し、引出しも一つずつ開けるが、それだけ。——これで何も見付かるはずがない。
絹代は、息をついて、てのひらの汗を拭った。どうしても、後ろめたい思いがあるので、緊張してしまうのである。
しっかりして! もっと手早くやれないの?
何か、マチ子が隠したいものがあるとしたら? どこへしまっておくだろう?
絹代は、床に膝《ひざ》をついた。ベッドのシーツが、床すれすれまで、垂らしてある。いつもは、マットレスの下へ折り込まれているはずだ。
そっとシーツをめくってみる。——何も見えないが……。
いや、何か、布にくるんだものがある。それも、ずっと奥の方へ押し込んであった。
不自然に、無理に押し込んだ感じである。絹代は、思い切って床に腹《はら》這《ば》いになると、ベッドの下へ、手を突っ込んだ。ごわごわした感じの布が触れる。
つかんで、何とか引張り出すと、それはコートだった。
コートをなぜ、こんな所へ押し込んでいたのだろう? 絹代は、しわくちゃになったそのコートを手に、立ち上り、振ってみた。
別に変哲もない、大して高価とも見えないコートで、マチ子が着ていたものに間違いない。
絹代は、コートを裏返してみて、眉《まゆ》を寄せた。内側に、黒く、汚れが広がっている。黒く?
明りにかざして、その汚れを見た絹代は、
「まさか」
と、呟いた。
長年家事をやって来たのだ。汚れは色々見慣れている。これは——たぶん、血《ヽ》の汚れだ。
なぜ、コートの内側にこんな風に血がついたのだろう? マチ子がけがをしている様子はなかったが……。
もう一度コートを振ってみて、絹代は、少し重い感じがするのに気付いた。何か入っている。
ポケットを探って、そ《ヽ》れ《ヽ》を取り出した時、絹代の顔は青ざめていた。台所で使っていた肉切り包丁。その刃は、血で汚れ、乾いていた。
何なの、これは? 思わず絹代は包丁を取り落とした。
誰か呼ばなくちゃ! 誰か——そう、旦那様に話そう。そして警察を……。
ドアの方へ向いた絹代は、いつの間にかそこに立っていたマチ子と、相対することになった。
法子は、いつの間にか、征人の姿が見えなくなっているのに気付いた。
もちろん、広間からちょっと出ることだってあるだろうし……。トイレにでも行っているのかもしれない。
そう思って、クラスの女の子たちとおしゃべりしていたのだが……。
気付いてからでも、十五分も戻って来ない。——どこへ行ったんだろう?
そして、法子は、小百合も見えないことに気付いた。いつからいなくなったんだろう?
「——ね、小百合、見なかった?」
と、訊いてみても、誰も知らない。
もともと小百合と松永のためのパーティなのに、今はもう、ただの「パーティ」になってしまっている。当の主人公は二人ともいないのである。
法子は広間を出た。廊下をマチ子がやって来た。
「マチ子さん。——小百合を見なかった?」
と、法子が訊くと、マチ子は、ちょっとの間ポカンとして、
「いえ……。存じません」
と、首を振った。
「ありがとう」
——マチ子さん、どうしたんだろう? 息を切らしてるみたいで、赤い顔して。
疲れたのかな。パーティの仕度って大変だろうから。
それにしても……。征人と小百合。二人ともいないというのが、法子には気になっていた。
もちろん、そ《ヽ》ん《ヽ》な《ヽ》こ《ヽ》と《ヽ》はない。小百合だって、恋を語るなんて余裕はないはずだ。
でも、法子は、征人にわざわざ言ってやったのだ。相手をしてあげて、と。
二人で一緒にいるのだろうか? でも——どこで?
しばらく、法子は廊下に立ち尽くしていた。そして、階段を上り始めた。
小百合の部屋。——小百合を泊めている部屋。
二人が、二人きりでいるとしたら、そこしかないだろう。
法子は、足が自然に動いて、二階へと上り、小百合のいる部屋へと向っていた。
行ってはいけない。もし、本《ヽ》当《ヽ》に《ヽ》小百合が征人と二人でいるのだったら、そこへ法子が入って行ったらどうなるか。
しかし——止《や》められなかった。
胸苦しさに、息が荒くなるほどだった。まさか、小百合が征人に抱かれてるなんてことが……。
そんな馬鹿なことがあるわけはない。
小百合……。私《ヽ》の《ヽ》彼《ヽ》を、盗らないで!
ドアは閉っていた。耳を澄ましても、何も聞こえて来ない。
どうしよう? 入ってみるか。それとも……。せめてノックしてから?
しかし、法子はドアを開けていた。黙って、いきなり開けたのだった。
——部屋は静かで、明りも消したままだった。
何てことはなかったのだ。法子は、息をついて、自分の思い過しに、笑いたくなった。たぶん、征人は征人で、小百合は小百合で、どこかにいるんだろう。それとも、この家の中で迷子になってるのかな?
法子はドアを閉めようとして……。少し、目も慣れたのだろう。奥のベッドが、少し盛り上っているのに気付いた。
小百合?——気分でも悪いのかしら。
法子は、歩いて行って、そっと覗《のぞ》き込んだ。
小百合が眠り込んでいる。毛布をしっかり顔の半分ほどまでかけて。
くたびれたのか。大体、パーティのような場は得意ではない小百合である。
法子は、毛布が曲っているのを、直してやろうとした。——小百合の肩が、つややかに光った。
小百合……。どうして服を脱いでるの?
法子は、ゆっくりと毛布をめくって行った——。
「あら、法子、どうしたの?」
パーティに戻ると、クラスの女の子が、声をかけて来た。「顔色が良くないみたい」
「少し悪酔いよ」
と、法子は答えた。「ねえ。——関谷君、知らない?」
「関谷? ああ、あの子ね、ちょっと見た目のいい」
「いないの。見かけなかった?」
「さあ……。法子、予《ヽ》約《ヽ》してたの?」
「そんなんじゃない」
と、首を振って歩き出した。
体が震えるようだった。——征人が、小百合を抱いたのだ。他の誰と小百合があんなことを……。
小百合は裸で、ぐっすりと眠り込んでいた。
征人はどこへ行ったんだろう? 法子と会うのが辛くて、帰ったのか。
「——あ、法子」
と、友だちが法子を見付けてやって来た。「これ、さっき預かった」
メモを渡されて、法子はドキッとした。征人だ、と直感した。
走り書きで、〈君の部屋にいる〉とだけあった。
私《ヽ》の《ヽ》部屋に? 待っているから来い、というのだろうか?
小百合にあんなことをしておいて、今度は私に?——信じられなかった。
行ってみるしかない。法子は、再び広間を飛び出した。
二階へと階段を駆け上る。——自分の部屋のドアを、少しためらってから、大きく息を吸い込んで、開ける。
部屋は暗かった。法子は、確かに明りを点《つ》けておいた記憶がある。
「征人さん」
と、法子は言った。「いるの?」
手をのばして、明りを点けようとした時、いきなり、誰かの手が法子を背後から抱きしめた。同時にドアが音をたてて閉じる。
「やめて!——何よ!——何するの!」
法子は、体を持ち上げられ、手足をばたつかせた。
「誰? 征人さんなの? ふざけるのはよして!」
ベッドの上に、投げ出された。起き上ろうとした法子の上に、黒い影がのしかかって来た。大きな、力強い手が法子の口をふさぐ。
法子は、恐怖に凍りついた。征人ではない! しかも、相手はふざけているわけでも、遊んでいるわけでもなかった。
ねじ伏せるその力には、荒々しさが——はっきりした「悪意」があった。
法子は身《み》悶《もだ》えした。服を引き裂かれる音を聞いた。叫ぼうとして、声が出ないのは、口をふさがれたからではない。恐ろしさのあまりだった。
抵抗など、無と同じだった。両手を重ねて頭上高く押えつけられ、足を割られた。
か細い声が喉《のど》から洩《も》れる。もがくことも、顔をそむけることもできなかった。
やめて!——お願い!
こんなことが、どうして? 私の部屋の中で——。
突然、明りがついた。
「——離れなさい」
と、男の声がした。「その子から、離れるんだ」
先に、法子には、ドアの所に立っている、拳《けん》銃《じゆう》を持った男が目に入った。
「警察の者だ。——ベッドから下りなさい」
その時になって、初めて法子は自分の上にのしかかっていた男を見た。
——自分の祖《ヽ》父《ヽ》の《ヽ》顔《ヽ》は、別人のように、歪《ゆが》み、汗をうかべて、青ざめていた。
夢なんだわ、これは……。きっと、悪い夢なんだ。
「さあ、松永さん。——そっちへ行って、椅《い》子《す》に座って下さい」
松永は、ゆっくりと動いて、椅子に身を沈めた。
「佐川です。林田さんと一緒にお会いしましたね」
と、その刑事は言った。「この子はあんたの孫でしょう! 何てことを!」
「君らに分るか」
と、松永はかすれた声で言った。「この子は、私のものだ」
「お話はゆっくり聞かせてもらいますよ」
と、佐川は言った。
ドアが開くと、顔を出したのはマチ子だった。
「一一〇番してくれたかね」
と、佐川は言った。
「はい。でも——」
「この男をかばって、嘘をついてたね。君は。しかし、見ただろう。こんな子供にまで手を出す男なんだ」
マチ子が部屋へ入って来た。
「君、下にいて、パトカーが来たら、ここへ案内してくれ」
「パトカーは来ません」
と、マチ子は言った。
「何だって?」
佐川は、松永から目を離すわけにいかなかったのだ。もちろん、まさかマチ子が敵だとは思っていなかったのである。
マチ子が言った。
「あなたの上司を殺したのは、旦那様じゃありません。私です」
同時に、佐川の背に、刃物が突き立っていた。
——法子は叫びをのみ込んだ。松永もまた、腰を浮かした。
佐川が、よろめき、膝をつくと、床に転がった。マチ子が肩で息をついた。
「旦那様には……分っていただけますね」
「マチ子——」
「林田って刑事も、この人も……。絹代さんも、私の幸せを邪魔しようとしたんです。旦那様。あなたがどんな方でも構わないんです、私……」
マチ子は、血に汚れた刃物を、もう一度、しっかりと構えた。
法子は、マチ子にとって、自《ヽ》分《ヽ》も《ヽ》また邪魔者だということに気が付いた。
「おじいさん!」
と、法子は叫んでいた。「止めて!」
マチ子の目は、烈《はげ》しい殺意で、本物の刃が刺すよりも早く、法子を射抜いていた。マチ子は法子に向って、大《おお》股《また》に突き進んだ。
ドアが大きく開いた。
「やめろ!」
と、叫んで誰かが飛び込んで来る。
大内だった。
マチ子が振り向く。構えた刃の切っ先に向って、大内の体はぶつかって行った。大内の両手がマチ子の首を促《とら》えた。
同時に刃は大内の体内に食い込んでいた。マチ子が仰《あお》向《む》けに倒れ、大内がのしかかった。
マチ子の首を絞める大内の指の力は、衰えなかった。マチ子が真赤な顔で、もがいた。
大内の体から溢れ出た血が、マチ子の胸から下のカーペットへと広がって行くと、やがてマチ子がぐったりと力を失い、動かなくなった。
そして、大内は、身動きできずにいる法子の方へ顔を向けると、
「悪い……夢ですよ」
と、呟くように言って、マチ子の上に重なるように伏せ、動かなくなった。
松永が、よろけて、立ち止った。
「何だ……。どうしたんだ、俺《おれ》は……」
松永は、弱々しい、一人の老人になっていた。
——廊下へよろけ出た法子が、人を連れて戻った時、松永は、床にうずくまり、一人すすり泣いていたのだった……。