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失われた少女06
日期:2018-09-10 11:20  点击:267
 6 第一夜
 
 
 白い原《げん》稿《こう》用《よう》紙《し》のます目が、伊《い》波《ば》を見返していた。
 創《そう》作《さく》意《い》欲《よく》の熟《じゆく》しているときは、その白さが、目に快《こころよ》いのだが、何も書くことが浮《う》かばないときには、敵《てき》意《い》を持ってにらみ返して来るような気がする。
 今夜の場合は、そのどちらでもなかった。
 一《いつ》向《こう》に、原稿の方へ注意を集中できないのである。——気が散っているのだ。
 一つには、あの取《しゆ》材《ざい》のせいだった。思い返しても腹《はら》立《だ》たしい。
 どんな記事になるか、想《そう》像《ぞう》はついたが、もちろん見る気にもなれない。送って来たとしても、もちろん捨ててしまうだろう。
 大体、伊波は、写真を撮《と》られたり、TVに出たりするのを好《この》むタイプではなかった。
 面《おも》白《しろ》いもので、割《わり》合《あい》と暗い、深《しん》刻《こく》な作品を書く作家の方が「目立ちたがり」で、マスコミでもてはやされるスター作家には、却《かえ》って派《は》手《で》なことを嫌《きら》うタイプが多い。
 伊波などは、その点、作風も地味で、マスコミ嫌いという、珍《めずら》しい例外に属《ぞく》していた。
 もちろん、今のマスコミ嫌いには、妻《つま》の死に関する一《いつ》件《けん》が大きく影《えい》響《きよう》している。しかし、もともと伊波は、あまり派手に扱《あつか》われるのを好まなかった。
 「やれやれ……」
 と、伊波は呟《つぶや》いた。
 今夜はどうもだめだ。
 立ち上って、伸《の》びをする。——そうだ、知らん顔をしていても、やはり気になっていることは否《ひ》定《てい》できない。
 あの少女のことである。
 時計は、十二時を少し過《す》ぎていた。
 伊波は仕事部屋を出ると、使っていなかった、来客用の寝《しん》室《しつ》のドアに手をかけて、ためらった。
 ここに、あの少女を寝《ね》かせているのだ。
 別に、入ってはいけないということもあるまい。——ここは自分の家なのだ。
 しかし、ためらわれた。何といっても、こっちは男で、向うは女である。
 女とはいえ——十五、六の子《こ》供《ども》だが、あのクッキーを拾って食べているときに見た体は、女らしい丸みを見せていた。
 当然だろう。昔の十五、六とは違《ちが》う。今は十二歳《さい》ぐらいで、豊かな胸《むね》のふくらみを見せる少女もいる。
 そうなると、やはり、入るべきではないかもしれない。
 伊波は、ドアのノブから、手をはなした。
 「何か用?」
 いきなり、後ろで声がして、伊波はびっくりした。少女が、階《かい》段《だん》を上って来たところだった。
 「何だ、下にいたのか」
 伊波は、息をついて、「いや——ちゃんと眠《ねむ》ってるかな、と思ってね」
 と言った。
 ちょっと言《い》い訳《わけ》がましかったかな、と思った。
 「夕方寝《ね》ちゃったでしょ、目が冴《さ》えちゃって——」
 少女はパジャマ姿《すがた》で、立っていた。
 伊波のパジャマなので、ダブダブである。何となくユーモラスであった。
 「そうか」
 伊波は笑《わら》って、「じゃ、下でコーヒーでも付き合わないか?」
 と言った。
 「うん、いいよ」
 少女は、楽しげに言った。「私《わたし》がコーヒー淹《い》れてあげようか」
 「じゃあ、頼《たの》もう」
 階段を降《お》りながら、伊波は、思った。
 自分の名前も、家も、一《いつ》切《さい》憶《おぼ》えていないのに、コーヒーの淹れ方は、憶えているらしい……。
 しかし、今、そんなことをつついてみても仕方あるまい。
 居《い》間《ま》にいると、やがて、コーヒーの匂《にお》いが漂《ただよ》って来た。
 「お待たせ」
 と、少女が、両手に、コーヒーカップを持ってやって来る。「ミルクと砂《さ》糖《とう》は?」
 「僕《ぼく》はいらない」
 「私も。——ますます目が冴えちゃうかしら?」
 「いいじゃないか。別に、早起きする必要もないんだろう?」
 「うん」
 と言って、少し間を置き、「たぶん、ね」
 と付け加える。
 「——旨《うま》いね」
 一口飲んで、伊波は言った。お世《せ》辞《じ》でなく、いい味だった。
 「ありがとう」
 少女は嬉《うれ》しそうに言った。
 「どうだい? 何か思い出した?」
 少女は肩《かた》をすくめて、
 「何も。——私は女だってことは、はっきり分ったわ」
 どこまで真《ま》面《じ》目《め》で、どこまでふざけているのか、分らない。
 明日になれば、警《けい》察《さつ》へ連れて行こう、と伊波は思った。どうせ、家《いえ》出《で》娘《むすめ》か何かに違《ちが》いない。
 帰りたくないので、自分のことが分らないふりをしているだけだ。
 ただ、家出娘にしても、かなりいい家の娘だろう。見た所もそうだし、物《もの》腰《ごし》が、どことなくおっとりしているのも、そんな印象を与《あた》える。
 ともかく、警察に行けば、当然、捜《そう》索《さく》願《ねがい》が出ているはずである。
 「ねえ、おじさん」
 と、少女は言った。
 「何だね?」
 「おじさん、作家なの?」
 伊波は、ちょっと面食らったが、
 「ああ、そこの本を見たんだね?」
 と笑《わら》った。
 彼《かれ》の旧《きゆう》作《さく》で、カヴァーに写真が出ているのである。
 「大《だい》分《ぶ》若《わか》い写真だろう」
 「そうね。でも、今でもそう老《ふ》けていないよ」
 「そいつはどうも」
 「いいなあ、作家って。好《す》きなことして暮《くら》せるんでしょ」
 「そう単《たん》純《じゆん》じゃないよ」
 と、伊波は苦《く》笑《しよう》した。
 「どうしてこんな所に住んでいるの?」
 「さあ。——何となく、こういう静かな所が好《す》きなんだよ」
 「やっぱり、こういう場所の方が、よく書けるの?」
 「いや、そんなことはない」
 と、伊波は首を振《ふ》った。「場所じゃないよ、問題は」
 「それじゃ、なあに?」
 「精《せい》神《しん》状《じよう》態《たい》だな。色々あって気持が乱《みだ》れていると、どんなに静かな所でも書けない。逆《ぎやく》に、書きたいことが溢《あふ》れ出て来るときには、やかましい喫《きつ》茶《さ》店《てん》の中だろうが、列車の中だろうが、書けるよ」
 「ふーん。そんなもんなの」
 と、少女はコックリ肯《うなず》いた。
 「君も何か書くの?」
 「分んないな。ただ——そういうことが好きだろうとは思うのよね」
 「なぜ?」
 「なぜだか知らないけど……」
 と、少女は言った。
 いい加《か》減《げん》に、下手《へた》な芝《しば》居《い》はやめたらどうだ?——伊波は、そう言ってやりたかった。
 しかし、今はいいだろう。どうせ、この一《ひと》晩《ばん》のことだ。
 「ねえ——」
 と少女が言った。「今日来た人たち、何なの?」
 「うん? ああ、あれか。別に大したことじゃない」
 「でも、凄《すご》く怒《おこ》ってたじゃないの」
 「向うがちょっと失《しつ》敬《けい》なことを言ったからだよ」
 少女は、少し間を置いて、言った。
 「私《わたし》、聞いてたの、上で」
 「そうか」
 「奥《おく》さん、死んじゃったの?」
 「ああ」
 「気《き》の毒《どく》ね」
 この少女は、どういうつもりなのだ?
 本当に、無《む》邪《じや》気《き》なだけなのか。それとも、とんでもない、ワルなのだろうか?
 「——もう寝《ね》た方がいいんじゃないかね」
 と言ったとき、電話が鳴り出して、伊波は仰《ぎよう》天《てん》した。
 こんな時間に、誰《だれ》だろう? 伊波は受《じゆ》話《わ》器《き》を上げた。
 「はい、伊波です」
 「こんなに遅《おそ》く申《もう》し訳《わけ》ありません」
 聞き憶《おぼ》えのない声だ。
 「どちら様ですか?」
 「警《けい》察《さつ》の者です」
 「警察?」
 伊波は、その言葉で、少女がちょっと身を固くするのを見ていた。
 「実は、近くでちょっとした事件がありまして。——ああ、私、県警の村上と申しますが」
 「はあ」
 「今、この一帯の、別《べつ》荘《そう》にお住いの方を一軒《けん》ずつお訪《たず》ねしているんです。早い方がいいと思うので、これからそっちへうかがっても構《かま》いませんか?」
 「今からですか」
 と、伊波は言った。「そんなに急を要することなんですか?」
 「そう思うので、お電話したわけです」
 村上という男の話し方はていねいだったが、そう簡《かん》単《たん》には後へ退《ひ》かない、という印象を与《あた》えた。
 「いいでしょう」
 伊波は、少し間を置いてから言った。「どれくらいでおいでになりますか」
 「今、何とかいう喫《きつ》茶《さ》店《てん》におります」
 ——伊波がいつも寄《よ》る、あの山小屋風の喫茶店だ。
 「ああ、それなら、そこの主人が道を良く知っていますから」
 「そのようですな。先生のことも、うかがいましたよ」
 刑《けい》事《じ》から「先生」などと呼《よ》ばれると、妙《みよう》な気がする。ともかく、あの件《けん》以来、伊波は警《けい》察《さつ》というものをあまり信用していないのである。
 「では、たぶん二十分もすれば来られるでしょう」
 「これからうかがいますので、よろしく」
 と、村上は言って、「そうお手間は取らせませんよ」
 と、付け加えた。
 そうお手間は取らせません、か。
 受《じゆ》話《わ》器《き》を置いて、伊波は、思い出していた。あのときも、そう言われて、出向いて行ったら、三《みつ》日《か》三《み》晩《ばん》、睡《すい》眠《みん》も取らずに訊《じん》問《もん》されたのだった……。
 「私、警察って嫌《きら》い」
 と、少女が言った。
 伊波は、少女の、ややこわばった顔を見ていた。
 「どうして嫌いなんだね?」
 少女は肩《かた》をすくめた。
 「分らないけど、嫌いなの」
 何があったのだろう?——その村上という男の言う「事《じ》件《けん》」と、この少女と、何か関係があるのだろうか?
 「私のこと、黙《だま》っててね」
 と、少女は言った。
 「しかし、君だって、ちゃんと自分のことが分って家へ帰れた方がいいんじゃないのか?」
 「そんなの、まだ先でいい」
 少女は勝手なことを言い出した。「ここ、居《い》心《ごこ》地《ち》いいんだもの」
 そして、真《しん》剣《けん》な目で、伊波を見つめる。
 「言わないで」
 と、くり返した。
 伊波は、少女の視《し》線《せん》を受け止めていた。
 「——分ったよ」
 「ありがとう」
 少女の表《ひよう》情《じよう》が、やっと緩《ゆる》んだ。
 「しかし、刑《けい》事《じ》は、僕《ぼく》が一人《ひとり》暮《ぐら》しだと聞いて来るはずだ。君はここへ顔を出さない方がいいよ」
 「分ってるわ。二階でおとなしくしてる」
 少女は立ち上って、ダブダブのパジャマでヒョイと飛びはねて見せると、「じゃ、おやすみなさい!」
 と声をかけて、走って行った。
 
 「『明日の間《かん》隙《げき》』は、読ませていただきましたよ」
 村上の言葉に、伊波はちょっと苦《く》笑《しよう》した。
 「それはどうも」
 「今でもよく憶《おぼ》えています」
 きっとあの喫《きつ》茶《さ》店《てん》で聞いて来たのだろう。——村上という刑《けい》事《じ》、およそ本を読むという感じではない。
 「一つお訊《き》きしたいと思っていました」
 と、村上は言い出した。
 「何でしょう?」
 「あの主人公の津《つ》島《しま》という男ですが、あれは一度短《たん》編《ぺん》に登場したことのあるキャラクターと同じですね」
 これには伊波がびっくりした。
 確《たし》かに、村上の言う通りである。しかし、そのことを他人に話したこともないし、気付いた評《ひよう》論《ろん》家《か》もいなかったのだ。
 どうやら、村上は本当に彼《かれ》の本を読んでいるらしかった。
 「よくお分りですね」
 「いやあ、やはりそうですか。どうも気になりましてね」
 と、村上は嬉《うれ》しそうに言った。
 ちょっと一《いつ》風《ぷう》変った刑《けい》事《じ》のようだ。
 傍《そば》に控《ひか》えた若《わか》い巡《じゆん》査《さ》は、二人の話を、外国語でも聞くように、ポカンとして書きとめることもできずにいた。
 伊波も、その巡査の顔は見たことがあった。名前までは憶《おぼ》えていないが。
 「——ところで、あまりご執《しつ》筆《ぴつ》の邪《じや》魔《ま》をしてもいけませんな」
 と、村上が言った。
 「執筆といっても、別にそう締《しめ》切《きり》に追われているわけでもありませんのでね」
 「さっき申し上げたように、空《あき》家《や》になっていた別《べつ》荘《そう》で、血《けつ》痕《こん》が見付かりまして」
 「大変ですね」
 「ところが、その血を流したはずの人間が見当らない、と来ているのです。もし、何か事《じ》情《じよう》があって、身を隠《かく》しているとしたら、この辺の、別荘の一つへ潜《もぐ》り込《こ》む可《か》能《のう》性《せい》も強い、というわけで」
 「なるほど」
 と、伊波は肯《うなず》いた。
 「今、この一帯で、実《じつ》際《さい》に人が住んでいるのは、そう何《なん》軒《げん》もないのです。そこで、こうして訪《たず》ねて回っているんですよ」
 「他に何も手がかりはないんですか?」
 「ありません」
 と、村上は首を振《ふ》った。「奇《き》妙《みよう》なことですが……」
 「何です?」
 「血《けつ》痕《こん》は、かなり多い。つまり、小さな傷《きず》とは思われないんです。しかし、この近くの病院に、それらしい人間は来ていません」
 「なるほど。すると……」
 「どうも、あの血痕というやつも、一《ひと》筋《すじ》縄《なわ》ではいかないようなのです。つまり、何か裏《うら》がある。——こっちの目を、何かからそらす意《い》図《と》で、誰《だれ》かが仕《し》掛《か》けたのではないかという気もするのです」
 そばで聞いていた酒井巡《じゆん》査《さ》が、面食らっている。そんな話は初《はつ》耳《みみ》なのである。
 「しかし、一《いち》応《おう》は、ごく当り前に、用心していただいた方がいい。パトロールも強化しますが、もし、ちょっとしたことでも、気が付いたら、ご連《れん》絡《らく》下さい」
 「分りました」
 「——誰か、あまり見かけたことのない人間には気付かれませんでしたか?」
 伊波は軽く首を振った。
 「いえ、一《いつ》向《こう》に」
 「そうですか。——いや、どうもお邪《じや》魔《ま》しました」
 「いや、構《かま》いませんよ」
 伊波は立ち上った。
 「——やはり執《しつ》筆《ぴつ》は夜ですか」
 玄《げん》関《かん》の方へ歩きながら、村上が訊《き》く。
 「夜の方が何となく筆が進むんです。TVもラジオも、放送が終ってしまうと、仕事しか、することがなくなるせいでしょうね」
 「なるほど」
 村上はちょっと笑《わら》って、「いや、先生にお目にかかれて、幸いでした」
 と頭を下げた。
 変った刑《けい》事《じ》だ、と伊波は思っていた。
 あの事《じ》件《けん》のとき、会った刑事たちとはまるで違《ちが》う。
 ——パトカーが走り去《さ》って行くのを見送りながら、ふと伊波は、妙《みよう》だな、と思った。
 村上は、伊波の小説を、あれほど詳《くわ》しく知っているのだ。当然、あの事件も、知らぬはずがない。
 それなのに、そのことは全く話に出なかった……。
 あえて出さなかったのだ。
 それが単に村上の気づかいによるものなのかどうか、伊波には、疑《ぎ》問《もん》に思えた。
 ——パトカーの中では、酒井が、
 「あまり得《う》るところはありませんでしたね」
 と言っていた。
 村上は、少し間を空《あ》けて、
 「伊《い》波《ば》伸《しん》二《じ》を見《み》張《は》ってくれ」
 と言った。
 「どうしてです?」
 酒井がびっくりして訊《き》き返す。「何か怪《あや》しいことでも?」
 「伊波の妻《つま》が殺されたことは知っているかね」
 「ええ、聞いたことがあります」
 「そのとき、彼《かれ》は犯《はん》人《にん》扱《あつか》いされて、警《けい》察《さつ》でも相当厳《きび》しくやられたはずだ。当然、警察に対して、いい感《かん》情《じよう》は抱《いだ》いていない」
 「そうでしたか」
 と、酒井は肯《うなず》いて、「でも、そんな風にも見えませんでしたよ」
 「そうだ」
 と、村上は言った。「至《いた》って愛想が良かった。——何か我《われ》々《われ》に隠《かく》したいことがあったのかもしれない」

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