9 消えた娘《むすめ》
「お手を煩《わずら》わせて、すみませんね」
と、村上が言った。
「いやいや、とんでもない」
車のハンドルを握《にぎ》っているのは、小池である。
「今年の冬は寒いですな」
村上は、助手席で腕《うで》組《ぐ》みをした。「骨《ほね》身《み》に応《こた》えます」
やせている村上がそう言うと、何となく実感があった。
「この先ですよ」
小池が言った。
車は住《じゆう》宅《たく》街《がい》の道を抜《ぬ》けて行く。——都内でも指《ゆび》折《お》りの高級住宅地だった。
「大きな家ばかりだな」
村上がため息をつく。「まるで別世界へ来た感じですな」
「私《わたし》も、いつもそう思いますよ」
小池は肯《うなず》いて、「世の中には、信じられんような金持がいるものなんですね」
「金というやつは不思議なもんです」
村上が考え深げに言った。「ある所には、どんどん集まる。なかなか平《へい》均《きん》して散らばってはくれません」
「だから犯《はん》罪《ざい》なんてものが起きるわけで——おっと、この角を曲るのかな」
車がカーブして、高い塀《へい》に沿《そ》って走る。門の前で車を停《と》めると、
「〈柴《しば》田《た》〉か。——ここですね」
「この塀、全部つながってるのか。いや凄《すご》いもんだ」
村上は感心ばかりしている。
「かなりの名門らしいですよ。入りましょうか。一《いち》応《おう》、電話はしてありますが」
「そうですね。いや、やっぱり小池さんに一《いつ》緒《しよ》に来ていただいて良かった。私一人じゃ、きっとこの門の前で、回れ右をしてしまったでしょう」
小池は、冷やかすように笑《わら》っただけだった。必要とあらば、村上がどんなに粘《ねば》る人間か、よく知っているのだ。
小池は車を降《お》りて、門のわきのインタホンのボタンを押《お》した。少し間があって、
「どなたですか」
と、女の声がした。
「警《けい》視《し》庁《ちよう》の小池と申します。午前中にお電話をさし上げましたが」
「うかがっております」
と、その女《じよ》性《せい》は即《そく》座《ざ》に言って、「車ですね? 門を開《あ》けますので、玄《げん》関《かん》まで車を入れて下さい」
「分りました」
小池は車に戻《もど》った。門《もん》扉《ぴ》が、軽くきしみながら開き始める。
「電動ですか。いや、大したもんだ!」
と村上がまた感心した。
柴田徳子は、いわゆる「大《たい》家《け》のお嬢《じよう》さん」が、そのまま中年になった、というタイプだった。
そろそろ四十五、六にはなろうという婦《ふ》人《じん》にしては、可愛《かわい》らしい白のセーターと、赤いスカート。
それが、あまりおかしく見えないのは、たぶん育ちのせいだろう。
「一体何のご用でしょう? 警《けい》察《さつ》の方にお手数をかけるようなこと、うちの者はしていないと存《ぞん》じますが」
おっとりとした口調で、迷《めい》惑《わく》というより、単《たん》純《じゆん》に面白がっているという様子だった。
「いやいや、決してこちらのお宅《たく》について、というわけじゃないのです」
と、小池は言った。「——ここをご存《ぞん》知《じ》ですか」
小池は、ポケットから、一枚《まい》の写真を出して、テーブルに置いた。
村上は、出された紅《こう》茶《ちや》を、しきりに、
「いや、さすがにおいしい!」
と、感心しながら飲んでいる。
「あら、これは……」
柴田徳子は、その写真を取り上げて、「うちの別《べつ》荘《そう》じゃありませんかしら? もっとも、以前は、ということですが」
「そうです。五、六年前に手放された」
「もう五年も前かしら?——そうですね、そうかもしれません」
と、徳子は肯《うなず》いた。
「手放されたときの事《じ》情《じよう》をうかがわせていただけませんでしょうか」
「それは構《かま》いませんが……」
と、徳子は、ちょっといぶかしげに言った。「ただ、なぜ今ごろそんなことをお調べなのか、聞かせていただけませんかしら?」
「いや、ごもっともです」
と、小池は言った。「実は最近、この別荘で奇《き》妙《みよう》なことがありまして——」
「私《わたし》がお話ししましょう」
と、村上が、空になったティーカップを置いた。
村上は、別荘の二階の一部屋が、明らかに使われていたらしいことを説明し、そこに血《けつ》痕《こん》が発見されたのだと言った。
実際に使われていたはずがない、とは言わなかった。
徳子は、話を聞いて、目を丸くした。
「まあ、妙《みよう》なお話ですこと!」
「それで、あの別荘を所有している不動産屋に当ってみたところ、以前の持主はこちらだとうかがいまして、何か手がかりになるようなことでもご存《ぞん》知《じ》ないか、とやって来た次《し》第《だい》なんです」
「そうですか」
「ともかく、何の手がかりもないものですから、溺《おぼ》れる者は何とかというわけでして……」
「それは大変ですわね」
と、徳子は肯《うなず》いた。「でも、残念ながら、五年前に、不動産屋さんに買い取っていただいてから、うちはあそこには行ったこともありませんのよ。とても、お力になれそうもありませんわ」
「そうですか……」
村上はオーバーにため息をついて見せた。
「もしよろしければ——」
と、小池が言った。「ここを手放した理由をお聞かせ願えませんでしょうか」
「そうですね……。理由と言っても」
と、徳子は肩《かた》をすくめた。「要するに使わなくなった、というだけのことです」
「そうですか」
「以前は十か所ほど別荘を持っていたのですが、家族もみんな忙《いそが》しくなり、めったに利用しなくなりました。中には二、三年、一度も行かない所もあって、これはいくら何でもむだだというので、三つほど残して、処《しよ》分《ぶん》してしまったんです。あれもその一つですわ」
「それでも三つ残っているんですか」
と、村上が、またため息をついた。
「すると、その後に、この別荘を誰《だれ》かに使わせたとか、そんなこともなかったんですね?」
「それ以後のことは、私の方は一《いつ》切《さい》知りません」
徳子は首を振《ふ》った。「その不動産屋さんが、誰かに貸《か》しているかもしれませんが、そこまでは存《ぞん》じません」
「ごもっともです」
小池は、肯いて、「ただ、あそこで何かがあったのは確《たし》かなようなんです。なぜ、あそこが選ばれたのか、そこが一つ、気になりまして。——ただ偶《ぐう》然《ぜん》だったのか、それとも何かあそこを選ぶ理由があったのか。その辺で、何かつかめれば、と思ったものですから」
「お話はよく分りました」
と、徳子は、別に怒《おこ》った様子もなく、「でも、残念ながら、何も思い当ることはありませんわ」
と言った。
「そうですか。——いや、お忙《いそが》しいところ、お手間を取らせました」
と、小池が立ち上る。
「いいえ。お役に立てなくて残念ですわ」
と、徳子は穏《おだや》かに言った。
「広いお家ですねえ」
玄《げん》関《かん》へと歩きながら、村上が言った。「ご家族は大勢いらっしゃるんですか?」
「いえ、主人と私《わたし》だけです」
徳子の言葉に、村上はまた目をむいた。
「ここに、たった二人で?」
「もちろん、他に使用人もおりますけど」
「はあ。——いや、大したものですな」
村上は、他に言葉を知らないかのようだった。
小池と村上が車で、建物の玄関前を出て、門の方へ向うのを、徳子が見送っていた。
「——どう思います?」
と、小池が訊《き》くと、村上は、
「何か隠《かく》していますね、あの夫《ふ》人《じん》は」
と言った。
「ほう」
「女《じよ》性《せい》は、普《ふ》通《つう》、あの手の話題には、大いに興《きよう》味《み》があるものですよ。たとえ、自分が本当に無《む》関《かん》係《けい》でも、もっとあれこれ訊《き》いて来るのが普通です。しかし、あの女性は、ほとんど興味を示さなかった。——あれは妙《みよう》ですな」
「なるほど」
と、小池は言った。
車が門を出る。——そして通りを走り出そうとして、小池は、あわててブレーキを踏《ふ》んだ。
目の前に、男が立っていたのだ。
「危《あぶ》ないな、全く!」
と、小池は腹《はら》立《だ》たしげに呟《つぶや》いた。
刑《けい》事《じ》が人をはねたのでは、たとえ向うが悪くても、大問題になる。
「小池さん」
と、村上が言った。「何か話があるようですよ」
なるほど、その男は、車のわきへ回って来ると、小池の顔を、覗《のぞ》き込《こ》むように見ている。
見たところ五十歳《さい》ぐらい。いや、もう少し年齢《とし》がいっているかもしれない。
なかなか、いい身なりはしているが、ネクタイのしめ方がなっていなかったり、髪《かみ》の毛が、洗いっ放しのようにめちゃくちゃだったり……。
どことなく、おかしいなと思わせる男だった。
小池は窓《まど》を降《おろ》した。
「——何です? 危《あぶ》ないじゃありませんか」
と言ってやると、男は、
「いや、申《もう》し訳《わけ》ない、本当に」
と、早口に言った。「警《けい》察《さつ》の方ですね?」
小池と村上は、ちょっと顔を見合せた。
「そうですよ。あなたは?」
「私は柴《しば》田《た》です」
「柴田さん……。するとこの家の?」
小池がびっくりして訊《き》く。
およそ、こんな大《だい》邸《てい》宅《たく》に住む人間とは見えない。
だが、その男、小池の問いには答えずに、
「娘《むすめ》が見付かったんですか? 教えて下さい!」
と懇《こん》願《がん》するように言った。
「娘? 何のことです?」
小池が訊き返すと、柴田と名乗った男は、急にガックリと肩《かた》を落とし、
「そうですか……。いや、期待していたわけじゃないんですが」
と首を振《ふ》った。
「柴田さん、その娘さんとおっしゃるのは——」
と小池が訊《き》こうとしたとき、
「あなた!」
と鋭《するど》い声が飛んで来た。
振り向くと、柴田徳子が、どうやら走って来た様子で息を弾《はず》ませている。
「徳子……」
「どうして黙《だま》って出てしまったの?」
「すまん」
柴田は、まるで母親に叱《しか》られた子《こ》供《ども》のように、うなだれている。
「早く部屋へ戻《もど》るのよ! さあ!」
徳子の言葉に、柴田は、力ない足取りで歩き出した。
「部屋へ戻って、よく眠《ねむ》るのよ、分った?」
徳子の厳《きび》しい言葉に、柴田は、ただ黙って肯《うなず》くだけだった。
しかし、小池としても、このまま聞かなかったことにして済《す》ますわけにはいかない。
車から出ると、
「今、ご主人のおっしゃっていた、娘《むすめ》さんというのは何のことです?」
と訊いた。
「何でもありませんわ。主人は、少しおかしくなってますの」
「理由は何だったんです? その『娘さん』のこと、何か関係でも?」
「そんなこと——」
と、徳子はムッとした様子で言いかけたが、思い直した様子で、「いいわ、お話ししましょう」
と息をついた。
かくて、小池と村上は、また邸《てい》内《ない》に逆《ぎやく》戻《もど》りすることになったのである……。
「これが侑《ゆう》子《こ》です」
と、徳子がアルバムのページを広げて言った。
小池と、村上は、そのアルバムを覗《のぞ》き込《こ》んだ。——そこには、十二、三歳《さい》の女の子が微《ほほ》笑《え》んでいる。
大方、ピアノの発表会か何かの記念写真だろう。白いロングドレスに、花《はな》束《たば》をかかえている。
可愛《かわい》い少女だった。
「遅《おそ》く生まれた一人っ子で、主人も私《わたし》も、溺《でき》愛《あい》といってもいいほど可愛がっていました」
と、徳子は言った。「ところが、五年前のことです——」
「思い出しました」
と、村上が言った。「行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になられた——」
「そうです。それも、あの別《べつ》荘《そう》に泊《とま》っているときでした。侑子は、近くで遊ぶと言って、一人で出て行きました。——それきり、帰って来なかったのです」
村上は、じっと考え込《こ》みながら、
「あの事《じ》件《けん》のあったとき、私は他の殺人事件で追われていました。しかし、あの一帯を必死で捜《そう》索《さく》していたことは、よく憶《おぼ》えていますよ」
「あの子は、よく親の言うことを聞いていました」
徳子はため息をついた。「決して、別荘から遠くへ行ったり、知らない人について行ったりはしない子です。それでいて、侑子は行方不明のまま見付からず、死体も発見されませんでした……」
「それで別荘を手放されたんですね。無《む》理《り》もない」
と、村上は肯《うなず》いた。
「私にも、むろん大変なショックでした」
「それはそうでしょう」
「でも主人は——」
と、徳子はちょっと寂《さび》しげに笑《わら》いを浮《う》かべた。「主人には、あの子は正《まさ》に宝《たから》物《もの》だったのです」
「その後、ああいう風に?」
「ええ。もう何年にもなります」
「治《ち》療《りよう》はなさっておいでですか」
「いいえ。——もちろん、そのときには、色々とお医者様に見せていたのですが、結局、時のたつのを待つしかない、ということで……」
「辛《つら》いことですな」
村上が同《どう》情《じよう》するように言った。
「ありがとうございます」
徳子が、軽く頭を下げる。
「ご主人は、お嬢《じよう》さんが生きているとお考えなんですね?」
「そう信じているようです」
「なるほど」
徳子は、ちょっと目を伏《ふ》せて、
「でも——考えてみれば、わけの分らない赤ん坊というのならともかく、十歳《さい》といえば、分《ふん》別《べつ》のある年《ねん》齢《れい》です。どこかに生きていれば、戻《もど》って来ないはずはありません」
村上はゆっくりと肯《うなず》いた……。
村上と小池は、再《ふたた》び柴田家を辞《じ》した。
車が、ごく普《ふ》通《つう》の大通りに出て、信号で停《とま》ると、小池が軽く息をついた。
「何となくホッとしますな」
「同感です」
と、村上が肯く。「あの家は、一《いつ》風《ぷう》変っている」
「どこか分らんが、息苦しいようなところがありますね」
「あの徳子というのは、なかなかの人ですね」
「ええ、活動的な女《じよ》性《せい》なんですよ。そうは見えないでしょう? しかし、実《じつ》際《さい》は、色々な運動に名を連ねているし、それも名《めい》目《もく》だけ、というのではなく、本当に働いているらしいですよ」
「ほう」
「娘《むすめ》を亡《な》くした寂《さみ》しさから逃《のが》れるためなのかもしれませんね」
「娘を亡くした……か」
村上は、信号が青に変るのを見ながら、「普《ふ》通《つう》、世の母親は、目の前で子《こ》供《ども》が死んでも、それをなかなか信じようとはしないものですよ。特《とく》に、行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》で、死体も見付かっていない。——それにしては、あの母親、いやに諦《あきら》めがいいとは思いませんか」
「そうですね、確《たし》かに」
小池はハンドルを握《にぎ》りながら、「何か、あるとお考えですか?」
と訊《き》いた。
「いやいや」
村上は、ちょっと笑《わら》って、「本来の事件とは関係ありますまい。しかし、ちょっとでも腑《ふ》に落ちんことがあると、気になるたちでしてね」
「そこが村上さんらしいところだな」
小池は、車のスピードを少し落しながら、言った。「——どうです? うちへお寄《よ》りになりませんか?」
「それはどうも。でも、先日お邪《じや》魔《ま》したばかりですよ」
「構《かま》やしません。律《りつ》子《こ》も喜ぶでしょうから」
「そうだといいのですが……」
村上は、何だか独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いた。