10 二人だけの舞《ぶ》踏《とう》会《かい》
「お体の具合でも悪かったんですか」
と、コーヒーを出しながら、店の主人が訊《き》いた。
「ん?——何か言ったかね?」
伊波は顔を上げた。
「いや、このところ、あまりおみえにならんもんですから、ちょっと気にしてたんですよ」
——山小屋風の喫《きつ》茶《さ》店《てん》である。
伊波は、窓《まど》際《ぎわ》の席について、外の雪を眺《なが》めていた。
風がないので、降《ふ》り方は穏《おだ》やかだった。
「ああ、そうか」
伊波はちょっと笑《わら》った。「心配かけて申《もう》し訳《わけ》ない。——いや、別に具合が悪いとか、そんなことじゃないんだ」
「それならいいんですが」
と、店の主人は、カウンターの中へ戻《もど》りながら、
「スーパーのかみさんも言ってたんですよ。先生が、あまりみえないようだけど、って」
なるほど、と伊波は思った。
このところ、あの少女の物を買ったりする必要もあるので、遠くのスーパーへ出ることが多くなっていた。
全く、こういう所では、何も隠《かく》しごとはできない。
「仕事の方が、ちょっと忙《いそが》しくてね。つい出なくなってたんだ」
と、伊波は言った。
仕事が? 馬《ば》鹿《か》らしい! 我《われ》ながら、何と下手《へた》な言《い》い訳《わけ》だろう、と思った。
「じゃ、結《けつ》構《こう》な話ですね」
店の主人は、まともに受け取ったらしい。「でも、ちゃんと食べるものは食べないと、体に悪いですよ」
「食べてるさ、心配するな」
伊波は、ゆっくりとコーヒーをすすった。そういえば、ここでコーヒーを飲む回数も減《へ》った。
どういうわけか、あの、何もできない少女が、コーヒーの淹《い》れ方だけは上手なのである。おかげで、ここへ来る必要がなくなったのだ。
「もし、何かいる物があったら、届《とど》けますよ。電話して下されば」
と、店の主人が言った。
伊波は、ちょっと苛《いら》立《だ》って、放っといてくれ、と言いたくなったが、長い付き合いのこの主人と、気まずい仲《なか》にはなりたくなかったので、
「そのときは頼《たの》むよ。ありがとう」
と、微《ほほ》笑《え》んだ。「——よく降《ふ》るねえ」
話を変えようとして、伊波は窓《まど》の外を眺《なが》めた。
実《じつ》際《さい》のところは、この辺にしては、そう大した雪でもなかったのだが……。
「今日はお買物ですか?」
と、店の主人が、カップを洗いながら言った。
「いや、ちょっと郵《ゆう》便《びん》局《きよく》へ行くんだ。用があってね」
「なるほど、原《げん》稿《こう》を送るんですか」
「いや、それならいいんだがね。大したことじゃない」
伊波はコーヒーを飲み干《ほ》した。
いつもなら、暇《ひま》を潰《つぶ》してくれるので、自分から飛びついて行く、店の主人の雑《ざつ》談《だん》が、今日は煩《わずらわ》しい。早く、出てしまいたかった。
「どうも」
「——ちょっと細かいのを切らしちまった。つりはあるかね?」
「じゃ、この次でいいですよ」
「そうかい? 済《す》まんね。じゃ、そっちで憶《おぼ》えていてくれ」
伊波はマフラーを首に巻《ま》きつけて、言った。
「そうします。利《り》子《し》をつけてね」
二人は笑《わら》った。
伊波は喫《きつ》茶《さ》店《てん》を出て、膝《ひざ》まで潜《もぐ》る、深い雪の中を、郵便局に向って歩き出していた。
車で行ってもいいが、それほどの道のりではない。
しかし、雪の中を歩くのは、思ったよりも苦労だった。
車にすれば良かったかな、と思って顔を上げると、郵便局の前だ。
中へ入ると、暖《だん》房《ぼう》が入って、汗《あせ》ばむくらいだった。
「はい」
と、女子の職《しよく》員《いん》が出て来る。
「これを頼《たの》む。——書《かき》留《とめ》で」
「少し日にちがかかりますよ」
と、伝票を書きながら言った。
「ああ、構《かま》わない。——いくらだね?」
と伊波は訊《き》いて、料金を払《はら》った。
「じゃ、よろしく」
と、出て行こうとすると、
「先生、ちょっと」
と、局員の一人が声をかけた。
「何だね」
先生と呼《よ》ばれるのも、何となく照れくさくなる。
「手紙があるんです。持って行っていただけますか?」
「ああ、いいよ」
「どうも。今、出します」
女子職員から、
「わあ、さぼってる!」
と、冗《じよう》談《だん》に声が上る。
「——お車ですか?」
と、職員が訊《き》いた。
「うん。ちょっと先に停《と》めてあるんだ」
「じゃ、運びますよ。小《こ》包《づつみ》もあるから」
「小包が?」
誰《だれ》だろう? 一《いつ》向《こう》に心当りはなかった。
「じゃ、行きましょう」
と、局員がかかえて来たのは、大きなみかん箱である。
伊波は、あわてて扉《とびら》を開けてやった。
車へ運ぶのは一苦労だったが、それでも、まだ若《わか》い局員なので、平気な顔で、トランクへ入れると、
「じゃ、これが手紙です。——どうも」
と、五、六通の封《ふう》筒《とう》を手《て》渡《わた》して戻《もど》って行く。
珍《めずら》しく郵《ゆう》便《びん》物《ぶつ》の多い日だな、と伊波は思った。
車に乗って、ゆっくりと走り出す。
ワイパーが、フロントガラスについた雪を払《はら》った。
チェーンを巻《ま》いたタイヤが、シュルシュルと音をたて、回り始めた。
——あの少女が、伊波の所へやって来て、二週間たつ。
いや、半月、といった方が実感があった。
今日出て行くか、明日の朝は——と思っていたのだが、とうとう今日まで、出て行く様子もない。
「どうしたもんかな……」
と、伊波は呟《つぶや》いた。
微《び》妙《みよう》な心理の駆《か》け引《ひ》きだった。
このままずっと居《い》つかれても困《こま》るが、といって、追い出してしまうには、少女は伊波の生活の中へ食い込んで来ている。
他人はどう見るだろう?
中年の独《ひと》り暮《ぐら》しの作家。そして、奇《き》妙《みよう》な少女。
半月も、同じ家の中に寝《ね》起《お》きして、何もなかったといっても、誰《だれ》も信じまい。
伊波自身、もし少女がそんな素《そ》振《ぶ》りでも見せれば、抱《だ》いていたかもしれない。
しかし、彼女はたまに幼《おさな》く見えることがある。まだ十六か十七……。
そうなると、たとえ少女の合意の上でも、抱いたとすれば、伊波は罪《つみ》に問われることになるのではないか。
その方面の知識はあまりなかったが、やはり、危《あぶ》ない、という気はしていた。
その理《り》性《せい》が、伊波にブレーキをかけていたのだ。——ただ、「辛《かろ》うじて」と言った方がいいかもしれない。
これ以上、こんな形の同《どう》居《きよ》生《せい》活《かつ》を続けるのは危《き》険《けん》だった。
しかし、危険があるからこそ、魅《み》力《りよく》的《てき》でもあるのだ。——これはいわばゲームの面《おも》白《しろ》さだった。
あまりに単調だった伊波の暮しの中に、突《とつ》如《じよ》飛び込んで来た少女。
この刺《し》激《げき》が伊波を魅《み》了《りよう》したのも当然だったろう……。
林の中の道は、他の車が通らないので、雪が深い。
伊波は用心して、車を走らせた。——帰りつくのに、余《よ》計《けい》な時間がかかる。
それでも、やっと、別《べつ》荘《そう》の前に辿《たど》りついた。
「——ただいま」
伊波は玄《げん》関《かん》のドアを開けた。
「遅《おそ》かったのね!」
少女が台所から飛んで来た。
ダブダブのセーターと、ジーンズ。
どっちも、伊波が、遠くのスーパーで買って来た物である。
「途《と》中《ちゆう》で遭《そう》難《なん》したかと思ったわ」
「まさか」
と、伊波は笑《わら》った。「ああ、そうだ。小《こ》包《づつみ》が来てた。ちょっとドアを開けといてくれ」
伊波は車のトランクから、みかん箱を出して、運んで来た。そう重たいものではないようだ。
「何なの、それ?」
「分らないな。——ともかく居《い》間《ま》に運んで開けてみるよ」
居間の暖《あたた》かさに、少し体をほぐしてから、伊波は、封《ふう》筒《とう》の方は後回しにして、小包を眺《なが》めた。
差出人の名は、水《すい》溶《よう》性《せい》のペンで書いたらしく、にじんで見えなくなっている。ともかく開けてみよう。
少女が、ハサミを持って来た。
「どう? 気が利《き》くでしょ?」
「ありがたいけど、こういう紐《ひも》は、何かに使うことがある。ちゃんと手でほどいた方がいい」
「へえ。中年的発想ね」
と、少女が口を尖《とが》らせて言った。
「そうかな」
「私《わたし》、無《ぶ》器《き》用《よう》なのね。全部切っちゃうのよ、そういうの」
伊波は、紐を丁《てい》寧《ねい》に解《と》いて、外《はず》した。——ダンボールのみかん箱はガムテープで封《ふう》をしてある。それを裂《さ》いて、開くと、中から、ビニールの大きな包みがいくつか出て来た。
「何だこりゃ」
「洋服じゃないの? 見せて」
袋《ふくろ》の一つを逆《さか》さにすると、ワンピースやスカートがドサッと落ちた。
女物——それも若《わか》い娘《むすめ》の着る物ばかりなのだ。
「他の袋も見てみよう」と、伊波は言った。
一つの袋は、下着類だった。可愛《かわい》い柄《がら》の入った物もある。
そして、少し重い袋の中は、化《け》粧《しよう》品《ひん》だった。——化粧水、香《こう》水《すい》、香水石ケン、リンスまで入っている。
「どうしたの、これ?」
と、少女は呆《あつ》気《け》に取られている。
「僕《ぼく》だって分らないよ」
「でも、私にちょうどいいみたい。——ちょっと着てみる!」
と言うなり、少女はセーターとジーンズを脱《ぬ》いだ。
伊波に、向うを向けと言うでもなく、自分で背《せ》中《なか》を向けるでもない。あっけらかんとしているのである。
「どれにしようかな……。このワンピース、可愛《かわい》いね」
少女は、フリルのついた、何だかバレエの舞《ぶ》台《たい》ででも着るようなワンピースを、頭からスッポリとかぶった。
「わあ、ぴったりよ! 見て、ねえ!」
少女は、裾《すそ》の広がったワンピース——ドレスに近いようなものだった——でクルリと回って見せた。
「きれいだよ」
と、伊波は言った。
「あら、気のない言い方ね。でも、靴《くつ》がないわね。——ねえ! まだ何か入ってるわよ。靴じゃない?」
——確《たし》かに靴だった!
白い、エナメルの靴。それは、少女の足にぴたりと合った。
こんなことがあるだろうか?
「すてき! こういう格《かつ》好《こう》って、大《だい》好《す》きよ!」
少女は、居《い》間《ま》の中を、まるで白い蝶《ちよう》のように駆《か》け回った。
伊波は、その美しさを目で追いながら、一体誰が、と考えていた。
誰がこれを送って来たのか? そして、誰が少女の靴のサイズまで知っていたのか?
「ねえ、今夜はパーティにしましょうよ。二人きりの」
「パーティ? 何のパーティだい?」
「何でもいいわ! お誕《たん》生《じよう》日《び》は?」
「まだ大分先のことだよ」
「いいじゃない。やりましょうよ。今日やって悪いってことはないわ」
いかにも少女らしい理由に、伊波は苦《く》笑《しよう》した。
ダンス音楽が流れる。
少し明りを落とした、薄《うす》暗《ぐら》い居《い》間《ま》に、二人はいた。
テーブルやソファをわきへ寄《よ》せ、中央を広くしてある。
伊波は、ワインを飲んでいた。——少女がやって来ると、
「踊《おど》りましょうよ。ねえ」
と、伊波の手をつかんだ。
「あまり踊れないんだよ、僕《ぼく》は」
「いいじゃないの。誰《だれ》も見ていないんだから——」
結局、伊波は立ち上って、少女と踊るはめになった。
少女は踊りが上手《うま》かった。少なくとも、ステップを一つ一つ考えながら踊らなくてはならない伊波に比《くら》べれば、ずっとベテランだった。
「うまいね」
「そう?」
少女が低い声で言った。
伊波は、少女の背《せ》に回した手に、その肌《はだ》のぬくもりを感じた。組んだ手に、少女の指のしなやかできゃしゃな感《かん》触《しよく》がある。
頬《ほお》が燃えた。——ワインのせいか?
そうかもしれない。きっとそうだ、と伊波は自分に言い聞かせた。
「どこで覚えた?」
と、伊波は訊《き》いた。
「何を?」
「踊《おど》りさ」
「知らないわ」
と、少女は肩《かた》をすくめた。「体が憶《おぼ》えてるのよ。私《わたし》じゃない」
そうかもしれない。——しかし、今、少女は少女でないようだった。
伊波の腕《うで》の中で「女」の香《かお》りを発散させている。
「君は不思議な子だな」
と伊波は囁《ささや》くように言った。
「そう?」
「どこから来て、何のためにここにいるのか……。君は知らないというが、ともかく、ここにいるということは、君がどこかから来たということだ」
「ややこしいのね」
少女は、ちょっと笑《わら》った。
笑うと、十二、三歳《さい》にも見える無《む》邪《じや》気《き》さ。そして、時には、ハッとするほど大人《おとな》びたなまめかしさを、その挙動に感じさせる。
——そうだ。
この少女のことを知っている人間が、少なくとも一人はいる。
あの小包を送って来た「誰か」である。
「ねえ、先生」
「よせよ、先生ってのは」
「そう言われると、ますます言いたくなるわ」
と少女は微《ほほ》笑《え》んだ。「——私がいると迷《めい》惑《わく》?」
「さあね」
「はっきりしないのね」
「いい点も悪い点もあるからさ。人間と人間の関係なんて、みんなそうだ。誰かと付き合えば、プラスもマイナスもある。どっちを取るかが問題なんだ」
「先生の哲《てつ》学《がく》ね」
「そんなもんじゃない。——処《しよ》世《せい》術《じゆつ》さ」
「寂《さみ》しそうね、先生は、いつも」
「そうだな。仕方ないよ。自分で、こういう生活を選んだんだから」
「何もかも捨てて?」
「できる限《かぎ》りね」
「でも、何を捨てられた?」
伊波はハッとした。そうかもしれない。俺《おれ》は、何を捨てたのか?
相変らず原《げん》稿《こう》を書き、出《しゆつ》版《ぱん》社《しや》に電話をし、そして「先生」と呼《よ》ばれて、ひそかにいい気持でいるのだ。——俺は何を捨てたのだろう?
結局、何一つ、捨てられはしなかったのかもしれない。
少女がステップの足を止めた。
伊波が気付いたときは、少女の唇《くちびる》が、伊波の唇をふさいでいた。——カッと血が燃え立った。
伊波は少女の体を抱《だ》きしめようとした。少女がスルリと抜《ぬ》け出して、フフ、と笑《わら》った。
「おい——」
「今まで置いてくれたお礼よ」
と、少女は言った。「ああ、お腹《なか》空《す》いたわ!」
伊波は、いいように少女に遊ばれているような気がして、ちょっとムッとした。
「まだ雪、降《ふ》ってるの?」
少女は、窓《まど》の方へ歩いて行くと、カーテンをサッと開けた。
とたんに、
「キャッ!」
と悲《ひ》鳴《めい》を上げる。
「どうした?」
伊波が駆《か》け寄《よ》る。
「誰《だれ》かいたわ! ここを覗《のぞ》いてた!」
少女は、本当に青くなっている。嘘《うそ》ではないようだった。
「落ちつくんだ! 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ」
伊波は、少女の肩《かた》を抱《だ》いてやった。「——顔を見たか?」
「さあ……。よく分らなかったわ。薄《うす》暗《ぐら》いし。——でも、本当にここにいたのよ!」
「分った。調べてみよう」
「いや! 行かないで!」
少女は、伊波にしがみついた。凄《すご》い力だ。
「どうしてだい?」
「危《あぶ》ないじゃないの。武《ぶ》器《き》も何もないのよ」
それは確《たし》かにそうだ。しかし、放っておいていいだろうか?
「明日の朝になったら、見に行けばいいじゃないの。きっと何か跡《あと》が残ってるわ」
少女の言葉は、あまり腕《わん》力《りよく》に自信のない伊波にも都《つ》合《ごう》が良かった。
「分った。そうしよう」
少女は、ホッとしたように息をついた。
「じゃ、私《わたし》、もうお風《ふ》呂《ろ》に入って寝《ね》ることにする」
「ああ、そうした方がいい。僕《ぼく》は全部戸《と》締《じま》りを確《たし》かめておく」
「うん。——ありがとう」
少女は、伊波の頬《ほお》に軽くキスした。
少女が二階へ上って行ってから、伊波の顔は火のように熱くなった……。