12 招《しよう》 待《たい》
「——会って来ましたわ」
と、律子は言った。
Mホテルのコーヒーラウンジ。
木の感《かん》触《しよく》が、ちょっと山小屋風で、あの喫《きつ》茶《さ》店《てん》に似《に》ている、と律子は思った。
「そうですか」
村上が言った。「びっくりしていましたか?」
「さあ。——そうでもなかったみたいでしたわ」
「分ってたのかな」
と、小池が言うと、村上は首を振《ふ》った。
「いや、そうではないでしょう」
「というと?」
「来るのを知っていれば、そう言うはずですし、もし、後ろめたいことがあって、会いたくなかったとしたら、会って、びっくりしたふりをするでしょう」
「なるほど。つまり、伊波は、知らなかった、と?」
「それが自然な反《はん》応《のう》ですよ」
村上の観察は鋭《するど》い。
「——で、何と言ってた?」
小池が訊《き》いた。
「何も。ただ、会いに行っていいかと訊いたら、だめだと言ってたけど」
「やはり何か隠《かく》してるな」
「でも、ここへ来たら、と言ったら、その気になったみたい」
「ふむ。——村上さん、どう思います?」
村上は腕《うで》組《ぐ》みをした。
「おそらく、女がいる。しかし、なぜかその女は、出て来ない……」
「どうでしょう、この一帯で、女《じよ》性《せい》の行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》などは出ていないんですか?」
と小池が言った。
「それは真っ先に調べています。——捜《そう》索《さく》願《ねがい》は出ているのに、見付からないのが何《なん》件《けん》かあるんです。しかし、どれも、伊波が買ったような下着などと縁《えん》のない人間ばかりなんですよ」
「なるほど」
「つまり、その女は、自分の意《い》志《し》で来て、自分の都合で隠れているというわけです」
「なぜでしょう? 人でも殺したのかな」
「簡《かん》単《たん》におっしゃいますのね」
と、律子はちょっと夫《おつと》をにらんだ。
「どうでしょうか。ともかく一度、彼《かれ》をここへ招《しよう》待《たい》しては」
と、村上は言った。「小池さんが、異《い》存《ぞん》なければ、ですが」
「構《かま》いませんよ。ただ——」
小池は、ちょっと考えていた。「二日したら東京へ戻《もど》らなくてはなりません」
「じゃ、明日の晩《ばん》にでも。——奥《おく》さん、いかがですか?」
「結《けつ》構《こう》ですわ」
と、律子は肯《うなず》いた。
「しかし、断《ことわ》られたら?」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。きっと来るわ」
と、律子は夫に向って言った。
「どうして分る?」
「そういう人なの。——必ず来るわよ」
「それならいい。じゃ、電話してみてくれ」
「夜するわ。もしかしたら、その彼女が出るかもしれない」
「それはないと思いますがね」
と、村上は言った。「相手はかなり用心深いですよ」
「その血《けつ》痕《こん》と何か関連が出て来るといいですね」
「全くです」
村上はため息をついた。「これしか頼《たの》みの糸はありませんのでね」
村上は何でも大げさなのである。
「村上さん」
と、小池が言った。「あなたも同席した方がいいでしょう?」
「いや、私《わたし》は遠《えん》慮《りよ》します」
「どうしてです?」
「一つは、すでに私は伊波と会っているからです。私に気付けば、用心するでしょう」
「なるほど。では、マイクでも仕《し》掛《か》けておきますか?」
「後でお二人にうかがえば充《じゆう》分《ぶん》です」
と、村上は言って、「私は別の仕事がありまして」
意味ありげに小池を見る。
「——そうか」
小池は肯《うなず》いた。「分りました。伊波が私たちと食事をしている間に、彼の別《べつ》荘《そう》を調べるんですね?」
「まあ」
と、律子は目を丸くした。「でも——入ってもいいんですの?」
「いけないんですよ、むろん。ですからこれは違《い》法《ほう》には違《ちが》いないんです。それだけの理由はあると思いますがね」
律子は黙《だま》った。
小池と村上の話は、専《せん》門《もん》的《てき》になって、律子にはよく分らなくなった。
「私、失礼して部屋に上るわ」
と、律子は立ち上った。
「ああ、構《かま》わんよ。少し昼《ひる》寝《ね》でもしたらどうだ」
「それは私のセリフよ」
と、律子は夫《おつと》にちょっと笑《え》顔《がお》を見せて、歩いて行った。
「——すっかり奥《おく》さんにまで迷《めい》惑《わく》をかけてしまいましたね」
と村上が言った。
「いや、とんでもない。多少でもお役に立てば嬉《うれ》しいですよ」
村上は、律子の歩いて行った方を振《ふ》り返って、
「いや、全くすばらしい奥様だ」
と呟《つぶや》いた。
律子は部屋に戻《もど》ると、ドアの鍵《かぎ》をかけ、TVを点《つ》けた。
いつも家ではめったにTVを見ることはないのだが、こういうホテルなどでは、つい点けてしまう。
別に何を見るというのでもないのだが……。
少し時間は早かったが、律子はカーテンを引いた。
どうせ、あの二人はまだしばらくしゃべっているのだろう。
律子は、風《ふ》呂《ろ》にはいることにした。
浴《よく》槽《そう》にお湯を入れて、服を脱《ぬ》ぐ。ごく簡《かん》単《たん》にと思うのだが、一《いつ》旦《たん》、浴槽に浸《つか》ると、もう動く気がしなくなる。
ゆっくりと手足を伸《の》ばして、息をつく。
——あの人は、変っていない。
律子は、かつての伊波を思い出そうとしていた。
しかし、一《いつ》向《こう》に思い出せないのだ。——どんな顔、どんな声だったのか。
今より、もっと若《わか》々《わか》しかったのだ。そのはずだ。
しかし、今の伊波も、充《じゆう》分《ぶん》に若々しかった。——それは、あの「幻《まぼろし》の恋《こい》人《びと》」がいるせいだろうか?
思いもかけないことだが、律子は、伊波に会って、動《どう》揺《よう》していた。
「もう昔《むかし》のことよ。今さら、どうってことないわ」
夫《おつと》に村上の頼《たの》みを聞かされたとき、律子はそう答えた。
しかし、実《じつ》際《さい》はそうはいかなかった。
伊波が律子の心に刻《きざ》んだ印象は、そうたやすくは消えそうになかったのである。
「どんな女の子なのかしら?」
と、律子は呟《つぶや》いた。
可愛《かわい》い子?——たぶん、そうだろう。
以前から、伊波は顔立ちの美しさにひかれるところがあった。
どこの子で、どんな風にして、伊波の所へやって来たのだろう?
もちろん、犯《はん》罪《ざい》を犯《おか》して、という可《か》能《のう》性《せい》もないではない。しかし、その証《しよう》拠《こ》は何もないのだ。
伊波としては、その若い娘《むすめ》の保《ほ》護《ご》者《しや》を自《じ》認《にん》しているのかもしれない。
ひょっとしたら——伊波は、その子に手をつけてはいないかもしれない。
普《ふ》通《つう》なら考えられないが、伊波は、そういう男である。
その伊波を食事に誘《さそ》う。——夫《おつと》と、伊波。
私を、わがものにした二人の男。
伊波は紳《しん》士《し》だからともかく、心配なのは小池の方だった。
むろん、喧《けん》嘩《か》することはないだろうが、内心の不《ふ》機《き》嫌《げん》が顔に出てしまう人なのである。
三人の夕食のときは、できるだけ夫に話しかけるようにしなくては……。
——あの事《じ》件《けん》が、もしなかったら——というのは不《ふ》可《か》能《のう》だが——今でも伊波と続いていただろうか?
「たぶん……イエスだわ」
伊波は、無《む》理《り》をしない男だった。
当時は、プレイボーイ、などと書かれたものだが、本人は、およそそんなものになりたいと思わなかったろう。
プレイボーイというのは、ソツがなく、そして、女《じよ》性《せい》に気をつかう。女性の前では気取って見せる。
しかし、伊波は違《ちが》う。
くたびれているときは、くたびれた顔でやって来る。楽しいときは、もう遠くから、ニコニコ笑《わら》っている。
素《す》直《なお》なのだ。だから、女性のことに、そう気をつかわない。だから、女性の方も、のんびりと付き合えるのである。
気をつかわれすぎるのも、くたびれるものなのだ。
——浴室を出て、着《き》替《が》えていると、ドアを叩《たた》く音がした。
「俺《おれ》だ」
と、小池の声。
「待って」
律子は急いで服を着ると、ドアを開けた。
「ごめんなさい、お風《ふ》呂《ろ》に入ってて……。どうしたの?」
「うん」
と、小池はむずかしい顔で、「急に東京へ戻《もど》らなきゃならん」
と言った。
「じゃ、私も?」
刑《けい》事《じ》の妻《つま》なら、そんなことは慣《な》れっこである。
「いや、お前は村上さんの頼《たの》みを、よく聞いてくれ」
「じゃ、私一人で、伊波と?」
「いいだろう?」
「私はいいけど……」
律子は、胸《むね》が鼓《こ》動《どう》を早めるのに気付いた。
——伊波と二人での食事。
何年ぶりのことかしら?
律子は、そんなことを考えていた。