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失われた少女13
日期:2018-09-10 11:24  点击:335
 13 やって来た男
 
 
 いい加《か》減《げん》にしてくれよ。
 そう言ったところで、相手が聞いてくれるはずもなかった。
 相手が手の中に握《にぎ》りしめれば消えてしまう、「雪」なのだから、当り前だった。
 鉄《てつ》造《ぞう》は、この山道をトラックで往《ゆ》き来《き》して、もう三年になる。
 雪の道を走るのにも慣《な》れていたが、それにしても今夜はひどい。視《し》界《かい》が、ろくにきかないのだ。
 ほとんど、カンでハンドルを握っていた。
 「畜《ちく》生《しよう》め!」
 いくら無《む》鉄《てつ》砲《ぽう》な鉄造でも、この雪の中、スピードは落とさざるを得《え》ない。ということは、向うへ着くのが遅《おく》れるということでもある。
 雪の山道をトラックで走るのが、どんなに大変なことか、ぬくぬくと社長室でふんぞり返っている身には分らねえんだ。
 しかも、遅れたといっちゃ文《もん》句《く》を言いやがる。——面《おも》白《しろ》くもねえ! 早く帰りついて、一《いつ》杯《ぱい》やろう。それだけを、鉄造は考えていた。
 もう夜の九時だ。こんな時間には、通る車もない。
 思い切ってアクセルを踏《ふ》む。この辺は、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。
 ——それが目に入ったとき、鉄造には、信じられなかった。
 雪が目の前を舞《ま》っているので、何かが見えたような気がしたのかもしれない。
 いや——あれは人間だ!
 ブレーキを軽く踏《ふ》んでいた。スピードが落ちる。
 男が一人、雪の中を歩いていたのである。
 黒いオーバーを着ていたが、それも、白く雪がはりついて、まだら模《も》様《よう》になってしまっている。
 車がエンコしちまったのかな?
 それにしては、男が、こっちへ歩いて来るのではなく、トラックと同じ方向へ歩いているのが、おかしい。
 途《と》中《ちゆう》、そんな立《た》ち往《おう》生《じよう》した車には、気付かなかったが……。
 もし、ずっとこの雪の中を歩いて来たのだったら、よく倒《たお》れなかったものだ。
 鉄造も、さすがに、素《す》通《どお》りするのがためらわれた。
 車のライトに気付いたのか、その男は振《ふ》り返った。毛糸の帽《ぼう》子《し》をスッポリかぶっている。
 トラックは、その男の傍《そば》で停《とま》った。
 窓《まど》を開《あ》けると、雪が吹《ふ》き込《こ》んで来る。凍《こお》りつくような風だ。
 「どうした?」
 と、鉄造は声をかけた。
 男はじっと鉄造の方を見上げていたが、何も言わない。
 「乗って行くか? このままじゃ、雪の中に埋《う》まっちまうぜ」
 と、鉄造は言った。
 男がコックリ肯《うなず》いた。
 「じゃ、乗れ」
 ドアを開けてやって、「早くしろ。雪が入って来る」
 男は助手席に乗り込んで来て、ドアを閉《し》めた。——鉄造は、ちょっと面食らった。
 大きな男だった。
 いや、鉄造だって、普《ふ》通《つう》に見れば大《おお》柄《がら》な方である。力もあったし、それに、昔《むかし》から喧《けん》嘩《か》にも強かった。
 「鉄」と、仲《なか》間《ま》から呼《よ》ばれていた。運転手仲間でも、一《いち》目《もく》置かれている存《そん》在《ざい》だ。
 その鉄造から見ても、その男は大きかった。上《うわ》背《ぜい》もあり、がっしりして、幅《はば》もある。
 鉄造より、全体に、一回りも二回りも大きかった。
 「町まで行ったら、降《お》ろしてやるよ」
 と鉄造は言って、トラックを走らせ始めた。
 男は、何も言わずに、じっと前方を見つめている。
 若《わか》いのか、それとも中年といっていい年《ねん》齢《れい》なのか、判《はん》断《だん》のつかない顔だった。さすがに、雪の中を歩いていたせいか、顔は青白いが、別に震《ふる》えているわけでもない。
 もともと青白い顔なのかもしれない。無《ぶ》精《しよう》ひげで顎《あご》の辺《あた》りが黒っぽい。
 オーバーと、えり巻《ま》きの雪を、払《はら》い落とそうともしない。手《て》袋《ぶくろ》は、毛糸の古ぼけたもので、いくつかの指先は穴《あな》があいて、指が覗《のぞ》いていた。
 不思議なのは、荷物を持っていないことだった。鞄《かばん》一つ、包み一つない。
 これは、まともな奴《やつ》じゃないかもしれねえぞ、と鉄造は思った。
 しかし、別に恐《おそ》れはしない。腕《うで》っ節《ぷし》にも自信があるからだ。いくら大男でも、力が強いとは限《かぎ》らない。
 そうとも、俺《おれ》は筋《すじ》金《がね》入《い》りだぞ。
 「えらい雪だな」
 と、鉄造が言うと、その男は、ちょっと肯《うなず》いた。
 口をきかない気か。——まあいいや。好《す》きにしろ。
 鉄造自身も、おしゃべりな方ではない。大体、よくしゃべる男に、ろくな奴はいないもんだ。   
 鉄造は、ラジオをつけた。黙《だま》っているのも、何だか気づまりなものだからだ。
 おあつらえ向きに、演《えん》歌《か》が流れて来た。トラックの運転には、こいつが一番だ。
 パチンコ屋にマーチが合うようなもんさ。何となく合う、ってことがあるものなんだ。
 少し、雪が小《こ》降《ぶ》りになった。トラックは快《かい》調《ちよう》に飛ばしていた。
 男の目が、素《す》早《ばや》く動いて、道の傍《そば》の標《ひよう》識《しき》を捉《とら》えた。
 「停《と》めてくれ」
 と、男は言った。
表《ひよう》情《じよう》のない、太い声だ。
 「何だって?」
 鉄造は、ラジオの音を小さくした。
 「右へ行くんだ。停めてくれ」
 「おい——」
 鉄造は、ゆっくりとトラックを停めた。「町まで行かないのか?」
 「ここから右へ行くんだ」
 と、男は言った。
 「右って……」
 鉄造は、右を向いた。——道があるわけではない。ただの雑《ぞう》木《き》林《ばやし》だ。
 そして、そこも今は白い雪に包まれている。
 「どこへ行こうってんだい?」
 他人のことに、あまり関心は持たない鉄造だが、つい、そう訊《き》いていた。
 「気にするなよ」
 男は、静かに言った。男の目が、鉄造を見る。——鉄造は、ゾッとした。
 こいつ——まともじゃないぞ!
 その目は冷ややかで、無《ぶ》気《き》味《み》な表《ひよう》情《じよう》を浮《う》かべていた。
 「分ったよ」
 鉄造は、極力、平気を装《よそお》っていたが、笑《わら》って見せても、それは引きつったものにしかならなかった。
 「——ありがとう」
 と、男が言った。
 「気を付けて行きな」
  ドアを開《あ》け、男が、外へ出る。とたんに、雪と冷気が吹《ふ》き込《こ》んで来た。
 ドアがバタン、と音をたてて閉《しま》ると、鉄造はホッとした。俺《おれ》としたことが……。
 いささか腹《はら》立《だ》たしかったが、あれは恐《おそ》ろしい男だ。
 「忘《わす》れちまうに限《かぎ》るぜ」
 と、呟《つぶや》くと、ラジオのボリュームを上げて、トラックをスタートさせようとした。
 右側の窓《まど》を、トントン、と叩《たた》く音がして、見ると、あの男が、道から見上げている。
 鉄造は、窓をおろした。
 「——どうしたんだ?」
 と、声をかける。
 男は、
 「忘れてたことがあるんだ」
 と、下から言った。
 「忘れてた? 何を?」
 男が何か、ボソボソと言った。鉄造は窓から頭を出した。
 「何だ?」
 男の両手が、鉄造の首を、ガシッと捉《とら》えた。
 鉄造が顔を歪《ゆが》めた。口を開いて、声にならない喘《あえ》ぎを洩《も》らす。
 両手で、男の指を引き離《はな》そうとしたが、むだだった。
 鉄造の顔が紅《こう》潮《ちよう》する。——男は、更《さら》に、指に力をこめた。
 鉄造の手が、バタッと窓《まど》枠《わく》に落ちた。
 男は、念を押《お》すかのように、もう一度力をこめて、鉄造の首を絞《し》めると、静かに手を離《はな》した。
 鉄造の頭が、窓から外へ、ガクッと垂《た》れた。
 男は、息一つ乱《みだ》してはいなかった。どうということもない——まるで、びんのふたでも外《はず》したように、ちょっと肩《かた》をすくめただけで、そのまま、トラックを後に、歩き出した。
 鉄造に言ったように、右へ林の中へと、足を踏《ふ》み入れる。
 雪が、深い所は膝《ひざ》までも来る。それでも、男は、いやな顔もせず、相変らず無《む》表《ひよう》情《じよう》のままに、歩いて行った。
 トラックの開いた窓から、演《えん》歌《か》が雪の中へ広がって行った。外へ垂れた鉄造の頭を、白く雪が覆《おお》い始めていた……。
 
 「雪が多いね、今年は」
 と、伊波は言った。
 「そうなの? 毎年こんな風かと思ってたわ、私《わたし》」
 律子は言った。
 「いや、もちろん、毎年降《ふ》るけどね、今年は特《とく》に多い」
 律子は、ワインのグラスを置いた。
 「雪が好き?」
 「そうだなあ……」
 伊波は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んだ。「何もかも隠《かく》してくれるだろう、雪は。あの白さがいいね……」
 律子の泊《とま》っているMホテルのレストランである。
 古いホテルなので、中の造《つく》りも、どこか昔《むかし》の貴《き》族《ぞく》の屋《や》敷《しき》、という趣《おもむき》がある。
 「静かで、いい所だね」
 と、伊波は言った。
 「時には来てみたら?」
 「いや、毎日こんな所で食事してたら、いくら金があっても足らない」
 「そうじゃなくて、東京へ出て来たら、ってこと」
 「ああ、そうか」
 伊波はちょっと笑《わら》った。
 「あなた、こんな所に引っ込《こ》んじゃうのは、まだ早いんじゃない?」
 と、律子は言った。
 コースの食事も終り、二人は、一息ついているところだった。
 「カフェテラスへ移りましょう」
 律子は、ナプキンを置いて、立ち上った。
 「君はいいの?」
 「何が?」
 「もう九時半だよ。寝《ね》る時間じゃないのか」
 律子はからかうように、
 「いつから、小学生に戻《もど》ったの?」
 と言った。「それとも、早く帰らないとまずい?」
 「いや、そんなことはない」
 伊波はロビーを歩きながら言った。「女《によう》房《ぼう》がいるわけでもないしね」
 カフェテラスは、若《わか》い客たちで、半分近くの席が埋《うま》っていた。
 窓《まど》から、雪の降《ふ》りしきる戸外が眺《なが》められるのだ。
 「ずいぶん積ったわね」
 と、律子は言った。
 「車、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》?」
 「ああ。チェーンを巻《ま》いてるし、雪の中を走るのは慣《な》れてるよ」
 「じゃあ、ゆっくりしましょう。ここのケーキ、おいしいのよ」
 と、律子はメニューを広げた。
 「そのせいかな」
 「あら、何が?」
 「少し太ったようだからさ」
 「あら失礼ね」
 と、律子は笑《え》顔《がお》でにらんだ。
 ——今、この間に、村上が、伊波の家を捜《そう》査《さ》しているはずだ。
 律子の中には、どこか、すっきりと割《わ》り切れないものがあった。
 村上はいい人間だ。それはよく分っていた。
 しかし、もし伊波が、かつて妻《つま》殺《ごろ》しの容《よう》疑《ぎ》者《しや》だったという事実がなかったら、果《は》たして、違《い》法《ほう》な家《か》宅《たく》捜《そう》索《さく》までするだろうか?
 伊波が妻を殺さなかったことは、律子が良く知っている。
 伊波は、むしろ被《ひ》害《がい》者《しや》である。それなのに、今なお、何かがあれば、疑《うたが》われる。
 それが刑《けい》事《じ》というものの体質なのだろうか?
 夫《おつと》とは関係ないことだったが、それでも、律子は、伊波に対して、後ろめたい思いを抱《いだ》かずにはいられなかったのである。
 「——ここでの生活はどんな風なの?」
 と、律子は訊《き》いた。
 「どんな風って——平《へい》凡《ぼん》なもんさ」
 と、伊波は肩《かた》をすくめた。
 「仕事で、不便はないの?」
 「ないこともない。しかし、どうせ、大した売れっ子でもないんだし」
 ——コーヒーが来た。
 伊波は、あの喫《きつ》茶《さ》店《てん》以外のコーヒーを、久しぶりで飲んだ。いや、もちろん、あの少女が淹《い》れてくれるコーヒーを別にして、の話だが。
 「掃《そう》除《じ》、洗《せん》濯《たく》——みんな一人で?」
 「うん。といっても一人暮《ぐら》しだし、電《でん》気《き》製《せい》品《ひん》は全部揃《そろ》ってるし、別に不便はないよ」
 伊波は、あの少女が来てから、通いの家《か》政《せい》婦《ふ》も断《ことわ》っていた。
 「気楽かもしれないわね」
 と、律子は、表の雪景色へ目をやった。
 「君は?」
 「——私?」
 「君の主婦業ってのが、どうもピンと来ないんだ」
 律子はフフ、と笑《わら》って、
 「私もよ」
 と言った。「そりゃあ——一《いち》応《おう》、お料理も、掃《そう》除《じ》も洗《せん》濯《たく》もするけど……。でも、時々、ふらっと町へ出るの。何だか、息苦しくなるのね、家の中だけにいると」
 そう言って、律子は、それが自分の本《ほん》音《ね》だということに気付いた。
 小池との生活は、平《へい》凡《ぼん》だが幸福だ。——同時に、幸福だが、平凡だった。
 都会の、いつもせき立てられるようなテンポの生活が、時には懐《なつか》しくなる。
 「ご主人の仕事が仕事だから、時間も不《ふ》規《き》則《そく》なんだろう」
 「そうね。——暇《ひま》なときなんて、めったにないし、捜《そう》査《さ》本《ほん》部《ぶ》ができれば、一週間ぐらいは帰らないわ」
 「寂《さみ》しいね」
 「年中だもの。もう慣《な》れたわ」
 そうかしら? 寂しくはないか? 一人でベッドに入って、眠《ねむ》れずに何時間も天《てん》井《じよう》を見つめ続けることがないだろうか?
 「子《こ》供《ども》はつくらないの?」
 と、伊波が訊《き》いた。
 「そんな——」
 律子は、急に頬《ほお》を染《そ》めた。「もう、若《わか》くないわ」
 「そんなことを言う年齢《とし》でもないだろう」
 「そうね。でも——」
 律子は肩《かた》をすくめて、「作る暇《ひま》もないの」
 と言って笑《わら》った。
 「ご主人は、欲《ほ》しいとか、言わないのかい?」
 「さあ……。どうかしら。訊《き》いてみたこともないわ」
 いや、きっと欲しがっているのだろう、と律子は思った。ただ、律子にそう言うのを、ためらっているだけだ……。
 年齢が違《ちが》うこと、そして、自分との、特《とく》殊《しゆ》な結びつきの事《じ》情《じよう》。いつも夫《おつと》が自分に遠《えん》慮《りよ》しているところを、律子は感じていた。
 「しかし、子供はいた方がいいよ」
 と、伊波は言った。
 「どうして?」
 「僕《ぼく》と女《によう》房《ぼう》のようなことにならずに済《す》む」
 「そんなこと、分らないじゃない。子供だって、一つの心配の種になるのよ」
 「それはそうだな」
 と、伊波は笑《わら》った。
 「——あなたこそ」
 と、律子が言った。
 「僕?」
 「隠《いん》居《きよ》するには早いわよ。若《わか》い奥《おく》さんでももらって、子供でも育てればいいのに」
 「悪くないね」
 と、伊波が言うと、律子は、
 「本気じゃない!」
 と、にらんだ。
 「え?」
 「あなた、いつも、ごまかすときは、『悪くないね』と言ってたわ」
 「そうだったかな」
 伊波は立ち上った。「ちょっと手を洗って来るよ」
 「足も洗ったら?」
 伊波は笑った。
 ——昔《むかし》の通りだ、と伊波は歩きながら、思った。
 昔、律子と、よくあんな風にしゃべったものだ。
 「洗面所は?」
 と、ホテルのボーイに訊《き》く。
 教えられた方向へ、廊《ろう》下《か》を歩いて行く。角を曲ると、手洗いがあって——ヒョイ、と目の前に、何か光るものが出て来た。
 ギョッとするのに、少し時間がかかった。それは、小さな肉切り包《ぼう》丁《ちよう》だった。
 
 律子は、じっと雪を見ていた。
 伊波と、まるで以前の恋《こい》人《びと》同《どう》士《し》だったころのように話をし、冗《じよう》談《だん》を言った。
 やっと、調子が出て来た、というところか。
 古びていたエンジンが、動き出したのだ。
 思いもよらないことだった。——いや、それを期待していたのかもしれない。
 律子は、自分が怖《こわ》かった。まるで、昔《むかし》へ昔へと、時間を逆《ぎやく》に押《お》し流されているようで……。
 赤い光が目に入って、ハッとした。
 パトカーだ。——もしかして。
 律子は思わず腰《こし》を浮《う》かした。

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