14 二人の女
「心《しん》臓《ぞう》が止るかと思ったよ」
伊波は胸《むね》を撫《な》でおろした。
「いい気味だわ」
少女が、包《ほう》丁《ちよう》を、コートの下へしまいこむ。
「危《あぶ》ないよ、そんなもの持ってちゃ」
「いいの。どうせ死ぬんだって、私《わたし》だけじゃないから」
少女の言い方は、冗《じよう》談《だん》とも本気ともつかなかった。しかし、わざわざ雪の中をここまでやって来たのだ。冗談ではないのだろう。
雪をかぶったのか、着ているコートは、かなり濡《ぬ》れていた。そういえば顔色も青い。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か? 寒いだろう」
「一人で残されている方が、ずっと寒い」
と、少女は言った。
「分ったよ」
「分ってないわ」
と、少女は言い返した。
それから、声を低くして、
「分ってない」
と、くり返した。「あの女の人、誰《だれ》なの?」
伊波は、ちょっと間を置いて、言った。
「見たのか」
「もちろんよ」
伊波は、仕事で、人に会うから、とこの少女に言って、出て来たのである。しかし、そうでないことを、この少女はよく分っていたようだ。
「——昔《むかし》の友だちだ」
「恋《こい》人《びと》、でしょ」
「うん。——まあ、そうだ」
少女は、急によろけて、傍《そば》の壁《かべ》によりかかった。伊波はびっくりした。
「おい! どうした? 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か?」
「放っといてよ!」
と、少女は身をよじった。「あんたなんか——大《だい》嫌《きら》い!」
「なあ、気分が悪いのなら、どこかで休んで行かないと——」
「平気よ! 歩いて帰るわ」
少女は二、三歩進んで、その場に、崩《くず》れるように倒《たお》れた。
「おい! しっかりしろ」
伊波が駆《か》け寄《よ》って抱《かか》え上げたが、少女は、どうやら意《い》識《しき》を失っている様子だった。
「——参ったな」
伊波は、しばし、どうしていいものやら分らず、ただキョロキョロと左右を見回していた。
誰か来てくれないか、と思いつつ、一方では、誰かに見られたらどうしよう、と、矛《む》盾《じゆん》した思いだった……。
パトカーがホテルの正面について、村上が降《お》りて来るのが見えた。
律子も、じっとしてはいられない。テラスを出て、ロビーを歩いて行った。
村上が、ホテルのフロントで、何やら話をしている。
ホテルの側では、責《せき》任《にん》者《しや》らしい男が出て、やけに固苦しい顔をして、村上の話を聞いていた。
——何があったのだろう?
伊波が戻《もど》って来るのではないか、と気にしながら、律子は、フロントの手前で立っていた。
「じゃ、よろしく——」
と、村上が言って振《ふ》り向く。「ああ、奥《おく》さん」
「何かありましたの?」
と、律子は訊《き》いた。
「伊波は?」
「今、手洗いに行っています」
「こちらへ」
村上は、律子を促《うなが》して、ロビーの奥へと入って行った。
「何か分ったんですの?」
「いや、全く申《もう》し訳《わけ》ない話です」
と、村上は頭をかいた。
「え?」
「伊波の所へ行く直前、殺《さつ》人《じん》事《じ》件《けん》がありましてね。犯《はん》人《にん》が逃《とう》亡《ぼう》中《ちゆう》なので、緊《きん》急《きゆう》手《て》配《はい》ということになったのです」
「まあ」
律子は目を見《み》張《は》った。
「トラックの運転手が殺されたんです。犯人はこの付近に潜《ひそ》んでいるらしい」
「こんな雪の中で、ですか」
「そこが奇《き》妙《みよう》です。——いや、実を言うと、私も現《げん》場《ば》をまだ見ていません。これから行かなくてはならんのです」
「じゃ、伊波さんの方は——」
「申し訳ないのですが、後回しにせざるを得《え》ません。何しろ、公式の捜《そう》査《さ》ではないので……」
村上は息をついて、「いや、あなたに、すっかりご迷《めい》惑《わく》をかけてしまって」
「いいえ、そんなことはありません」
律子は、むしろホッとしていた。
「では、伊波が戻《もど》って来るといけない。私はこれで——」
村上は歩きかけて振《ふ》り返り、「もう東京へお帰りですね?」
と訊《き》いた。
律子は、一《いつ》瞬《しゆん》ためらった。
「ええ……たぶん」
と、曖《あい》昧《まい》に答える。
「ご主人へ、くれぐれもよろしくお伝え下さい」
村上は、丁《てい》寧《ねい》に言って、ロビーを抜《ぬ》けて出て行った。
——どうしたのだろう?
突《とつ》発《ぱつ》事《じ》件《けん》で、結局村上の依《い》頼《らい》も、なかったのと同じことになった。
律子は何となく気が楽になっていた。これで、伊波と、後ろめたさを感じないで、話ができる。
パトカーの赤い灯《ひ》が、ホテルから遠ざかって行く。
——律子は、それを見送って、しばらく立っていたが……。
「あら」
伊波はどうしたのだろう? いやに遅《おそ》いけど。
律子も、手洗いに行こうと、廊《ろう》下《か》を歩いて行った。部屋へ戻《もど》るのも面《めん》倒《どう》だ。
角をヒョイと曲って、誰かにぶつかりそうになり、アッと声を上げた。
「君か!」
伊波だった。
「何してるの? 誰、その女の子?」
伊波は、眠《ねむ》っているのか、ぐったりした一人の少女を、背《せ》負《お》って、立っていたのだ。
「いや——実は、ちょっとね——困《こま》ってるんだ」
伊波が口ごもった。
律子には分った。——この子なのだ。
やはり、本当に「女」はいた。でも、「少女」と呼《よ》んだ方が似《に》合《あ》いそうだった。
「どう言えばいいかな……」
伊波は当《とう》惑《わく》していた。
「それはいいわ。ともかく——具合でも悪いの?」
「うん、雪の中を歩いて来たらしい。体が熱っぽいんだ」
「そう」
一《いつ》瞬《しゆん》の間に、決《けつ》断《だん》していた。「私の部屋へ運びましょう」
「いいのかい?」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。ツインルームだから、ベッドが余《あま》ってるの。——運んで行ける?」
「ああ、何とかね」
「じゃ、そっちの階《かい》段《だん》から行きましょう。人目につかなくて済《す》むわ」
と、律子は指さした。
「分った。じゃ、案内してくれ」
伊波は言って、少女の体を、かかえ直した。
——幸い、誰にも見られなかった。
律子が、鍵《かぎ》を開けて、中の明りを点《つ》けると、伊波は、少女をベッドまで運んで、おろした。そして、床《ゆか》に座《すわ》り込《こ》んでしまった。
「ああ、参ったよ!」
ハアハア息を切らしている。
律子は笑《わら》って、
「だめねえ、一人になって、少しはペンより重い物を持ってるかと思ったのに」
とからかった。
「いや——それにしたって、重すぎるよ!」
と、喘《あえ》いでいる。
「ねえ、後は任《まか》せて。その子を寝《ね》かせて、熱でも測《はか》ってみるわ。もし必要なら医者を頼《たの》まないと」
「しかし、君にそんなことまで……」
「いいのよ。あなたの知ってる子なんでしょ?」
「うん、まあ……」
と、伊波は頭をかく。「ちょっと、手短には話せないんだ」
「分ったわ。じゃ、後で、ゆっくり聞くから。——ともかく、服を脱《ぬ》がさないと。濡《ぬ》れてるんじゃ、冷え切ってるわ、きっと」
「じゃ、頼むよ」
と、伊波は部屋を出ようとして、「僕《ぼく》は下にいるから」
と言った。
「待って!」
律子が言った。
「何だい?」
「あなたも泊《とま》ったら?」
「ここへ?」
「そう。——だって、もうずいぶん遅《おそ》いし、この子の様子も、気になるでしょ?」
伊波はちょっと迷《まよ》っていたが、
「それしかないな」
と肯《うなず》いた。「じゃ、フロントで、申《もう》し込《こ》んでくるよ」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。そう混《こ》んでる時期じゃないわ」
「分った。それじゃ、よろしく頼《たの》む。部屋が決ったら、電話するよ」
伊波が出て行くと、律子は、フッと息をついた。
手早く着《き》替《が》えをして、セーターとスラックスの軽《けい》装《そう》になる。
少女をベッドに真っ直ぐに寝《ね》かせ、額《ひたい》に手を当ててみる。——熱がある。かなり高いようだ。
やっぱり医者を呼《よ》ばないと無《む》理《り》かしら、と律子は思った。
まず、コートから脱《ぬ》がしにかかった。——コトン、と何かが床《ゆか》に落ちる。
律子は目を見《み》張《は》った。小さな包《ほう》丁《ちよう》である。
「こんなもの……」
と呟《つぶや》いて、少女の顔を眺《なが》めた。
可愛《かわい》い少女である。——十七か八。おそらく、そんなところだろう。
恋《こい》人《びと》にしては、ちょっと若《わか》すぎる気もするわね、と思った。
よく、作家の所へ、「恋人志《し》願《がん》」の女の子がやって来ることがある。この少女も、その口かもしれない。
しかし、ちゃんとした大人《おとな》の女《じよ》性《せい》ならともかく、こんな少女を置いておくなんて……。下手《へた》をすれば、犯《はん》罪《ざい》になる。
そういう点、慎《しん》重《ちよう》な伊波としては、奇《き》妙《みよう》なことだ、と思った。
でも、この包《ほう》丁《ちよう》といい、雪の中、こんな所までやって来たことといい、伊波とこの少女は、ただの知り合い、というようなものではないようだ。
——ともかく、そんなことは後回しだわ。
律子は、少女の服を脱《ぬ》がせて行った。
「うん、一泊《ぱく》でいい。——ああ、どうもありがとう」
と、伊波は、キーを受け取って肯《うなず》いた。
「この近くにお住いですね」
と、フロントの男が言った。
「よく知ってるね」
「時々、あの山小屋風の喫《きつ》茶《さ》店《てん》でお見かけします」
「そうか。——いや、ちょっと知人と夕食をとってね、もう遅《おそ》いから、一晩《ばん》泊《とま》って行こうかと思って」
「今夜はお出にならない方がよろしいと思います」
「そう? まあ、かなり積ってはいるけどね」
「いえ、実は、さっき県《けん》警《けい》の方がみえまして——」
「警察?」
「人殺しがあったそうです。トラックの運ちゃんが殺されて、犯人はこの付近を逃《とう》亡《ぼう》中《ちゆう》ということで」
「人殺し! それは……」
伊波は、思わず表へ目を向けた。
この雪の中で?——誰が一体逃《に》げられるというのか。
ふと、伊波は、あの少女が、包《ほう》丁《ちよう》を持っていたことを思い出した。——まさか!
「強《ごう》盗《とう》か何かなのかね」
と、伊波は言ってみた。
「さあ、分りませんが。——ともかく、怪《あや》しい客が来たら知らせろ、と言われておりましてね」
「僕は怪しくない方に入れてもらえたわけだね」
フロントの男は、伊波の言葉に笑《わら》った。
伊波の方も、微《ほほ》笑《え》んではいたが、内心、とても笑える気分ではなかった……。
「カフェテラスはまだ開いてるのかい?」
「はい。あと三十分ほどでしたらどうぞ」
「ありがとう」
——またカフェテラスへ戻《もど》った。今度は、ホテルの泊《とま》り客として、である。
コーヒーを頼《たの》んで、まだ雪の降《ふ》りしきる戸外を眺《なが》める。
殺人か——俺《おれ》には何の関係もないことだ。
伊波は、自分にそう言い聞かせた。
そっと天《てん》井《じよう》の方へ目を向ける。——律子は、あの少女を見て、どう思っただろう?
あまり驚《おどろ》いた様子もないのが、ちょっと伊波には意外だったが……。