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失われた少女16
日期:2018-09-10 11:26  点击:328
 16 破《は》 壊《かい》
 
 
 「すまんね、こんな夜中まで」
 と、村上が言った。
 「いや、どうせ早く帰ったって、することがないですから」
 喫《きつ》茶《さ》店《てん》の主人は、笑《わら》って言った。
 喫茶店の中は、捜《そう》査《さ》で凍《こご》え切《き》った警《けい》官《かん》たちで一《いつ》杯《ぱい》だった。
 一息つきに、次々に入ってくる警官たちへコーヒーを出している内、二時になってしまったのである。
 村上も、ついさっきやって来たところだった。コーヒーの熱いカップを両手で包んで、
 「やっと感覚が戻《もど》って来たよ」
 と笑った。
 「大変ですね」
 と主人は、使ったカップを手早く洗いながら言った。
 「何しろ凄《すご》い奴《やつ》らしいから、早く見付けたいんだよ」
 「大男ですって? 怖《こわ》いですね。強《ごう》盗《とう》ですか?」
 「分らん。——どうしてこんな所へ逃《に》げて来たのかな」
 村上は首を振《ふ》った。
 ドアが開いて、酒井が入って来た。
 「やあ、ご苦労だった」
 「森の中は、何もありません」
 「分った。おい、こっちへ来いよ。顔が真《ま》っ青《さお》だぞ」
 「もともと色白でして」
 と酒井は言った。
 「いいから、座《すわ》れ。——すまんが、コーヒーをやってくれるかね」
 「ええ、すぐに」
 主人が、ドリップで落したコーヒーをカップに注ぐ。
 「やあ、どうも! 生き返ります」
 酒井はカップを持ち上げると、ぐいと飲んで、熱さに目を白黒させた。
 「——この雪だし、もう二時を回った。捜《そう》査《さ》は一《いつ》旦《たん》打ち切ろう」
 と、村上は言った。「おい、誰《だれ》か連《れん》絡《らく》して来てくれ」
 「はい」
 「明日は朝七時に集合だ」
 全員が一《いつ》斉《せい》に息をつく。これで少し休めるという、安《あん》堵《ど》の息か、それとも明日のことを思ってのため息か、どっちともつかなかった。
 「いや、悪かったな」
 と、村上は店の主人へ言った。「さあ、みんな引き上げよう。いつまでも店が閉《し》められない」
 「毎度どうも」
 と主人は笑《え》顔《がお》で言った。
 「何《なん》杯《ばい》飲んだかね」
 「よく数えてなかったんで……」
 と、主人が頭をかく。
 「適《てき》当《とう》に請《せい》求《きゆう》してくれ」
 「多目にいただきますよ」
 「時間外料金もね」
 と誰かが言ったので、みんなが笑《わら》った。
 「さあ、腰《こし》を上げよう」
 と、村上が言って、立ち上った。
 ゾロゾロと、店から外へ出る。
 「寒いなあ!」
 と、声が上る。
 村上と酒井は、同じパトカーに乗《の》り込《こ》んだ。
 酒井がハンドルを握《にぎ》る。
 「本部へ戻《もど》られますか?」
 「うん。そうしよう」
 パトカーが、雪を分けながら、走り出す。——一台、また一台、と、店の前を埋《う》めていた車が消えて行った。
 「——よく飲んだもんだ」
 店の主人は、カウンターの中で独《ひと》り言《ごと》を言った。
 予備のコーヒーカップも総《そう》動《どう》員《いん》したのだが、それでも、最後の何人かの分は、洗って使わなくてはならなかった。
 「もう二時過《す》ぎか」
 全部今から洗っていたら朝になってしまう。しかし、明日に回すというのも、無理だ。
 洗うなら今の方が楽だ。——主人は肩《かた》をすくめた。
 「明日は三時ごろからにしよう」
 と呟《つぶや》くと、のんびり、カップをお湯につけ始める。
 警《けい》察《さつ》の人には愛《あい》想《そ》良《よ》くしておいた方がいい。何かのとき、力になってくれるだろう。
 「そうか」
 何だか、化《ばけ》物《もの》みたいな男が逃《に》げてるとか言ったな。
 鍵《かぎ》をかけておこうか。——主人はエプロンで手を拭《ぬぐ》って、カウンターの外へ出て来た。
 そのとき、急にドアが開いた。
 その男は、出入口を、すっかり塞《ふさ》いでしまいそうな大きさだった。
 いや、もちろん、人間ではあるし、実《じつ》際《さい》のところ、めったに見ないというほどの大男でもない。しかし、黒いオーバーで、無言で立っているその姿《すがた》は、威《い》圧《あつ》感《かん》さえ与《あた》えた。
 こいつだな、と思った。
 「いいかね」
 と、男は言った。
 「ええ、どうぞ。——今、閉《し》めようかと思ったところで」
 意外にスラスラと言葉が出て来た。
 「すぐに出るよ」
 男は入って、ドアを閉めた。身体を軽く震《ふる》わせると、雪がバラバラと落ちる。
 「何にします?」
 「コーヒーだ」
 「はい」
 止めたばかりのガス栓《せん》をもう一度ひねる。
 「——ひどい雪ですね」
 「ああ」
 男はカウンターに肘《ひじ》をついて、ぼんやりと座《すわ》っていた。
 カップを一組、洗って拭《ふ》くと、男の前に置く。——手は震えなかった。
 あまり怖《こわ》いと感じないのは、おそらく、実感がまだないからだろう。
 男は何も言わずに、じっと空《から》のカップを見ていた。
 店の主人は、カップ洗いを続けた。すぐにコーヒーが温まる。
 カップへ注ぐと、男は、熱いコーヒーを、ミルクも砂《さ》糖《とう》も入れず、一気に飲みほしてしまった。
 「もう一杯《ぱい》くれ」
 と、男は言った。
 こいつは大変な男だ、と主人は思った。初めて、恐《きよう》怖《ふ》が足下から、這《は》い上ってくるのを覚えた。
 
 「ああ、うっかりしてた」
 と、酒井は言った。
 「どうした?」
 村上は、パトカーの中で、ウトウトしていたが、酒井の声で目を開いた。
 「いえ、あの喫《きつ》茶《さ》店《てん》の主人ですよ」
 「どうかしたのか?」
 「一人だから、帰りも危《あぶ》ないでしょう。一《いつ》緒《しよ》に乗せて来てやれば良かったと思ったんです」
 「なるほど。俺《おれ》も気が付かなかったな」
 村上は外を見た。「どれくらい走って来た?」
 「十五分ぐらいです」
 「——戻《もど》るか。もう一人ぐらい乗せて来れる」
 「すみません、さっき、出るときに気が付いていれば……」
 「いいさ。じゃ、他の車へそう伝えて、Uターンしよう」
 ——酒井と村上、それにもう一人、巡《じゆん》査《さ》の乗ったパトカーは、雪道をUターンして、喫《きつ》茶《さ》店《てん》に向って戻った。
 そうか。——寒さのせいで、村上も、ついぼんやりしていた。
 あの店の明りは、この雪の中を逃《に》げている男にとって、格《かつ》好《こう》の目標になるかもしれない。もちろん、トラックのあった場所から、あそこまで行くのは容《よう》易《い》ではないが……。
 しかし、あんな凄《すご》い殺し方をする男なら、それくらいの体力はあるかもしれない。
 酒井の運転は、危《あぶ》なげがなかった。
 十五分、といったが、十分ほどで、喫茶店の灯《ひ》が見えて来る。
 店の前で、パトカーは停《とま》った。
 「まだいるようだな」
 と、村上は店の方を見て、言った。
 「呼《よ》んで来ます」
 と酒井がドアを開けて、言った。
 「少しぐらい待ってても構《かま》わんぞ」
 村上は、吹《ふ》き込《こ》む冷たい風に、身を縮《ちぢ》めて、言った。「早くドアを閉《し》めてくれ」
 「はい」
 酒井はちょっと笑《わら》って、ドアを閉めた。
 雪は、やや小《こ》降《ぶ》りになっている。酒井は、喫茶店のドアへ向って、走った。
 軽くドアを叩《たた》いて、
 「失礼——」
 と、入って行った。
 そして、足を止める。——カウンターに、男が座《すわ》っている。
 黒いオーバー、毛糸の帽《ぼう》子《し》。大きな男だ。
 店の主人が、ギクリとした様子で、酒井を見る。
 こいつだ!——酒井は、一《いつ》瞬《しゆん》迷《まよ》った。
 どうすべきか。戻《もど》って、後の二人を連れてくればいい。しかし、そうなると店の主人が一人で残ることになる。
 「どうかしたんですか?」
 と、主人が訊《き》いた。
 「いや……ちょっと、コーヒーが欲《ほ》しくて」
 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。俺《おれ》一人だってやれる。
 酒井は、ゆっくりとカウンターに近づいた。男からは、二メートル距《きよ》離《り》を置いている。
 「いいですよ」
 主人は、洗ったカップを、酒井の前に置いた。男は、チラッと酒井の方を見たきり、関心のない様子だった。
 酒井は、さり気なく、手を腰《こし》へやった。拳《けん》銃《じゆう》を、いつでも抜《ぬ》けるように、だ。
 心《しん》臓《ぞう》が鼓《こ》動《どう》を早めた。——間《ま》違《ちが》いない。
 こんな時間に、こんな所にいる。殺《さつ》人《じん》犯《はん》だ! 目の前に!
 「どうぞ」
 主人が、酒井のカップにコーヒーを注ぐ。
 「ありがとう」
 「俺にもくれ」
 と男が言った。
 「はい、三杯《ばい》目《め》ですね」
 主人が、カップへコーヒーを注ぐ。
 男は、そのカップを持ち上げると、酒井の方を見た。酒井と目が合う。
 「おい、お前——」
 酒井の手が拳銃にかかった。
 男が、カップのコーヒーを、酒井の顔に浴びせた。
 酒井が声を上げて、顔を手で覆《おお》った。
 男は、酒井の胸《むな》ぐらをつかむと体を持ち上げた。
 「やめろ!」
 と、店の主人が叫《さけ》んだ。
 男が、酒井の体を、両手で高々と頭の上に持ち上げる。店の主人はカウンターの下へ、身を伏《ふ》せた。
 酒井の体は宙《ちゆう》を飛んで、カウンターの奥《おく》の棚《たな》へ叩《たた》きつけられた。
 
 「すみません」
 と、もう一人の巡《じゆん》査《さ》が言った。
 「何だ?」
 村上は顔を上げた。
 「ちょっと、あそこのトイレを借りて来ていいですか」
 「いいとも。冷えたんだろう」
 村上は肯《うなず》いた。
 欠伸《あくび》が出る。——もう二時半か。
 少し眠《ねむ》って、六時には起きなくてはならない。
 せめて、雪がやんでくれたらな……。
 巡《じゆん》査《さ》が、店に入って行くのが見えた。——酒井の奴《やつ》、何をしているのかな。
 そのとき、何か激《はげ》しく物の壊《こわ》れる音がした。
 村上はハッとした。——あれは何だ?
 そして、銃《じゆう》声《せい》がした。——銃声だ!
 村上はパトカーから飛び出した。
 駆《か》けつけるといっても、雪を踏《ふ》んでのことだ。苛《いら》々《いら》するような思いで、やっと店まで辿《たど》りつく。
 拳《けん》銃《じゆう》を抜《ぬ》いて、ドアに手をかけたとたん、ドアが開いて、村上は、凄《すご》い力ではね飛ばされていた。
 雪の中へ投げ出され、転《ころ》がった。
 胸《むね》に、鈍《にぶ》い痛《いた》みがあった。——肋《ろつ》骨《こつ》でも折《お》れたのだろうか?
 やっとの思いで頭を上げる。
 大きな男が、雪の中へと消えて行くところだった。
 手を伸《の》ばし、探《さぐ》ったが、拳銃は見当らない。
 追いかけるのは無《む》理《り》だった。立ち上るのもやっとだ。
 店の中へ入って行って、村上は愕《がく》然《ぜん》とした。
 後から入って行った巡査は、壁《かべ》にもたれて、気を失っているらしかった。
 拳銃が落ちている。
 酒井と店の主人の姿《すがた》が見えない。
 「酒井! どこだ!」
 カウンターから、店の主人が顔を出した。
 「ここです……」
 「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》か?」
 「私《わたし》は——」
 と主人は肯《うなず》いた。額《ひたい》から血が出ていたが、大した傷《きず》ではなさそうだ。
 「ここにもう一人……」
 と、主人は言った。
 村上は胸《むね》の痛《いた》みも忘《わす》れて、カウンターの内側へ入って行った。
 酒井が倒《たお》れていた。カップの破《は》片《へん》が散《さん》乱《らん》している。
 「あの化《ばけ》物《もの》が……この人を投げつけたんです」
 主人の声が震《ふる》えていた。
 村上は、かがみ込《こ》んで、酒井の手首の脈を取った。
 ——まさか!
 「どうです?」
 と、店の主人が訊《き》く。
 村上は、ゆっくりと立ち上った。顔が青白く、唇《くちびる》が細かく震《ふる》えていた。
 「死んでいる」
 と、村上は言った。「首の骨《ほね》が折《お》れている」
 店の主人は息を呑《の》んだ。
 「電話を借りるよ」
 村上は、静かに言った。受《じゆ》話《わ》器《き》を取って、ダイヤルを回す表《ひよう》情《じよう》は、もう、いつもの村上のものだった。

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