26 侵《しん》入《にゆう》者《しや》
伊波と小池は、喘《あえ》ぎ喘ぎ、別《べつ》荘《そう》へ辿《たど》りついた。
「いや、雪の中を歩くのは大変だな!」
小池が、玄《げん》関《かん》のドアを開けながら言った。
「開けっ放しか。物《ぶつ》騒《そう》だな。——律子。どこだ?」
伊波は続いて入って来ると、
「変ですね」
と眉《まゆ》を寄《よ》せた。「——おい! どこにいるんだ?」
返事はなかった。小池と伊波は顔を見合せた。
「どうもおかしい。捜《さが》してみましょう」
と、小池は言った。
二人は左右へ別れて、手早く部屋を覗《のぞ》いて回った。続いて二階へ。
「——何だか冷たいな空気が」
と、伊波が言った。「窓《まど》でも開いているようだ」
だが、どの部屋にも、二人の姿《すがた》はない。
「——こんな雪の中へ出て行くなんて、考えられない!」
小池は息を弾《はず》ませて言った。
伊波は、少女の寝《ね》ていた部屋へ入って、中を見回した。
どこへ行ったんだろう? 出て行くはずがないが……。
ふと、目が窓《まど》の下へ行った。歩み寄《よ》って、かがみ込《こ》む。
「どうかしましたか」
と、小池がやって来た。
「湿《しめ》ってるんです、カーペットが」
「ほう」
「雪が降《ふ》り込《こ》んでいたんじゃないかな。きっとここが開いていたんだ」
「どうして?」
「分りません」
伊波は首を振《ふ》った。「——困《こま》りましたね。どうしますか?」
「こうなったら、律子を——律子と、あの女の子を捜《さが》すのが先決です。例の雪男は後回しだ」
そう言って、小池はハッとした。「まさか、あの男がここに……」
「そんな——」
伊波は目を見《み》張《は》った。「しかし、もしそうだとして、その雪男の目的は何です?」
小池は、黙《だま》って首を振《ふ》った。
あの少女が、柴田徳子の娘——確《たし》か侑《ゆう》子《こ》といった——であることは間《ま》違《ちが》いない、と思っていた。
小池には、伊波がそれを知っていて黙《だま》っているのか、それとも知らずにいるのか、判《はん》断《だん》できなかった。
「電話は通じないかな」
小池は呟《つぶや》いて、少女の部屋を出た。
二人が居《い》間《ま》へ降《お》りて行く。——電話は不通のままだった。
「参ったな!」
小池は呟《つぶや》いた。
表面は、いかにも職《しよく》業《ぎよう》的《てき》な冷静さを装《よそお》っているが、内心、かなり焦《あせ》っていた。
律子が、大男の手で絞《し》め殺《ころ》されて、雪の中に横たわっている光景が目に浮《う》かんだ。
「捜《さが》しに出ますか」
と、伊波は言った。
「いや。——無理でしょう、この雪では」
小池は、少し考えて、「私《わたし》がこの近くを調べて来ます。あなたはここにいて下さい」
と言った。
「一人じゃ危《あぶ》ないですよ」
「私は刑《けい》事《じ》ですからね」
小池はこわばった微《び》笑《しよう》を浮かべた。
「しかし、私の方がこの近くは慣《な》れていますよ」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。この建物が見える範《はん》囲《い》から出ないようにします。もし、誰《だれ》かに連《つ》れ去《さ》られたりしたのなら、何か痕《こん》跡《せき》があるでしょう」
「しかし……」
「戻《もど》って来たとき、またここに誰もいなかったら、心配しますよ。すぐ戻りますから」
「分りました」
と、伊波はため息をついた。「では、ともかく、あまり長く外にいない方がいい。体力も消《しよう》耗《もう》しますからね」
「分りました」
小池が出て行くと、一《いつ》瞬《しゆん》、冷気が居《い》間《ま》の方にまで、吹《ふ》きつけて来た。
伊波は、ソファに腰《こし》をおろした。
あの子と律子。——二人して、ここを出て行く理由があるだろうか?
といって、もし例の雪男がやって来たのなら、もう少し、荒《あ》らされているとか、何かしているはずではないか。
分らない。——柴田徳子という女も、なぜここへ向ったのか?
この雪の中だ。よほどのことがなければ、出るはずがない。伊波もあの女を、Mホテルで見るまでは知らなかった。
ただの愛読者などではないはずだ。何かあるのだ。
「分らん……」
と、伊波は呟《つぶや》いた。
律子のことも、あの少女のことも、気になる。
そうか。もしかしたら、柴田徳子がやって来たというのは——。
「あの子はどこです?」
突《とつ》然《ぜん》、声がして、伊波は仰《ぎよう》天《てん》した。
居《い》間《ま》の入口に、柴田徳子が立っていた。
「——どこから入ったんです?」
と、伊波は訊《き》いていた。
どうでもいいようなことが、つい口から出て来る。
「あの子はどこです!」
徳子が進み出て来る。「あなたと一《いつ》緒《しよ》に車で出るのを見たんですよ!」
「あの子……。あの女の子のことですか」
「どこにいます?」
そうか。この女の娘《むすめ》なのか。
「僕《ぼく》も知りませんよ。心配しているんです」
と、伊波は言った。「あなたの娘《むすめ》さんなんですか?」
徳子は、ちょっと息をついて、自分を落ちつかせているようだった。
「——私の娘です。侑《ゆう》子《こ》といいます」
「ゆう子、ですか」
と、伊波はくり返した。
あの少女に名前がつくと、それはそれで妙《みよう》な感じだった。
「行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になっていたんです、もう五年になります」
徳子は、じっと伊波を見つめた。「あの子がなぜ、あなたの所に?」
「僕にも分りません。ただ、ある日突《とつ》然《ぜん》やって来たんです。そして居《い》ついてしまって……。名前を訊《き》いても、忘《わす》れた、と言って——」
「それを信じたんですか?」
「追い出すわけにも行かなくてね」
と、伊波は肩《かた》をすくめた。「ああ、誓《ちか》って言いますが、あの子には指一本触《ふ》れていません。本当ですよ」
「それはともかく——私は娘が戻《もど》れば、それでいいんです」
「何か事《じ》情《じよう》がおありのようですね」
徳子は、ちょっとキッとなって、
「先生には関係のないことでしょう」
と言った。
「確《たし》かに。しかし、差し当りは、発見しなくてはなりません。小池という刑《けい》事《じ》の奥《おく》さんも姿《すがた》が見えないんです。今、ご主人が捜《さが》しに出ていますが——」
伊波はふと眉《まゆ》を寄《よ》せて、「奥さん、どうやってここへおいでになったんです?」
と訊《き》いた。
徳子は、ちょっとためらった。
「車です。ホテルで借りて」
「嘘《うそ》はいけませんよ」
と、首を振《ふ》る。「私と小池さんで、この付近を散々捜したんです。それに、この雪では、もう車でも来られない。それなのに、少しも雪で濡《ぬ》れていませんね」
徳子は、じっと伊波を見《み》据《す》えていた。
それから、徳子はフッと笑《え》顔《がお》になった。伊波はギクリとした。徳子が、まるで別人になったかのような気がしたのである。
「さすがに作家の方はよく分ってらっしゃいますね」
と、徳子は言った。
「どうやってここへ来たんですか?」
もう一度、伊波は訊いた。
「この人に連れて来てもらったんです」
徳子は、居《い》間《ま》から顔を出して、肯《うなず》いて見せた。
伊波は顔から血の引くのを感じた。
まるで居間の出入口をふさぐように、その男が現《あら》われた。腕《うで》にかかえられているのは、律子だ。
「彼女《かのじよ》をどうした!」
と、伊波は恐《きよう》怖《ふ》も忘《わす》れて叫《さけ》んだ。
「誤《ご》解《かい》しないで下さい」
と、徳子は言った。「この女の人は、勝手に雪の中を歩いて来て、この人にぶつかったんです。気を失っているだけですわ」
「ソファに寝《ね》かせてやって下さい」
と、伊波は言った。
徳子が、大男の方へ肯いて見せる。大男は、のっそり入って来た。
何だか居間が狭《せま》くなったような気がした。
ソファに横たえられた律子の方へ、伊波はかがみ込《こ》んだ。青白い顔をしているが、脈《みやく》拍《はく》はきちんと打っている。
寒い所にいて、指先がかじかんでいる。
「この人は、武井といいますの」
と、徳子が言った。「ずっと以前、うちで働いていてくれたのです」
「あなたの所で?」
「そうです。私には忠《ちゆう》実《じつ》な召《めし》使《つかい》でした」
と、徳子は言った。「——さあ、後は、何とかして、侑子を見付けなくては」
大男が、じっと伊波を見つめた。
「——おい、やめてくれ!」
伊波はあわてて言った。「僕は本当に何も知らないんだ!」
「訊《き》いてみてごらん」
と、徳子が言った。
逃《に》げる間もない。大きな手が、まるで鋼《こう》鉄《てつ》のような強さで伊波の肩《かた》をぐっとつかんだと思うと、伊波は五十センチも持ち上げられていた。
「やめてくれ! 離《はな》せ! おい!」
伊波が手足をばたつかせても、まるで効《こう》果《か》はない。
大男が、ヒョイと伊波を放り出した。——したたかに床《ゆか》に打ちつけられて、伊波は呻《うめ》いた。
こいつは化《ばけ》物《もの》だ!
「侑子はどこです?」
と、徳子が訊く。
「知りませんよ!——本当だ!」
「信じられませんね。あの子がどこへ行くというんです?」
「僕が知るもんか!」
伊波は起き上った。
「この人に殺させるのは簡《かん》単《たん》ですよ」
と、徳子は言った。「私にはあの子が必要なんです!」
そのとき、居《い》間《ま》の入口で声がした。
「分ってるわ」
——誰もが、振《ふ》り向《む》いて、凍《こお》りついたように動かなかった。
少女が——侑子が、立っていたのだ。
もうだめだ。
小池は、激《はげ》しく喘《あえ》いだ。——諦《あきら》めよう。
何か、予期しなかった出来事で、律子がホテルへでも戻《もど》ったのか。そうならいいのだが。
大分、別《べつ》荘《そう》から遠くへ来てしまった。
辛《かろ》うじて、木々の間に灯《ひ》が見える。これ以上遠くへ行くと、戻れなくなりそうだ。
仕方ない、戻るか。
小池は、歩いて来た足《あし》跡《あと》を辿《たど》って、戻って行った。少しは楽なのである。
体が凍《こお》り始めたんじゃないかと思うほど、寒い。——雪は、小《こ》降《ぶ》りになっていた。
正直な話、律子がいなくなって、こんなに我《われ》を忘《わす》れるとは、思ってもいなかった。俺《おれ》にとって、あいつはかけがえのない女なんだ、と思った。
最悪の事《じ》態《たい》のことは考えまい、とした。あいつが死ぬわけはない!
そうだとも。——子《こ》供《ども》を作って、育てて、総《すべ》てはこれからだ。こんなときに、死なれてたまるか!
やっと別荘の前まで来て、小池はハッとした。——足跡。
もちろん、伊波や、小池自身のものはある。しかし——この大きなのは?
とてつもない、大きな足だ。
小池は、手を激《はげ》しくこすり合せ、拳《けん》銃《じゆう》を抜《ぬ》いた。かじかんで、力が入らない。
小池は、別荘のわきに回った。
居《い》間《ま》の窓《まど》が明るい。カーテンは引いてあるが、端《はし》から、少しは中の様子が分るはずである。
そっと窓に顔を近付けた。
いきなり——そいつが目に入った。
間《ま》違《ちが》いない! あの「雪男」だ。
なぜここにいるのか、それは分らないが、ともかく、問題は今、どうするか、ということだった。
向うは、もう何人も殺している。
しかし、スーパーマンじゃないのだ。油《ゆ》断《だん》しなければ大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だ。
小池は、玄《げん》関《かん》の方へと戻《もど》った。——一気に中へ入るしかない。
そっと入ろうとしても、音と、冷たい風とで気付かれるに違いないからだ。
ゆっくりと、右手の指を曲げては伸《の》ばした。少し、感覚が戻って来る。
よし、行くぞ。
小池は、拳《けん》銃《じゆう》をしっかりと握《にぎ》りしめ、玄《げん》関《かん》のドアを開けた。
一気に居《い》間《ま》へ飛び込《こ》んで、両手で握った拳銃を、大男へ向ける。
「動くな! 撃《う》つぞ!」
伊波が息を呑《の》んだ。
大男は、低く唸《うな》った。——小池の目が、ソファに横たえられた律子へと吸《す》い寄《よ》せられる。
大男の手が、椅子《いす》をつかんでいた。小池に向って、真っ直ぐに椅子が飛ぶ。同時に拳銃が発《はつ》射《しや》されていた。