2 死者の留守番
人を殺した後というのは、どんな気分になるものか、僕もずいぶんあれこれと想像したものだ。
大体が空想癖《へき》の強い性格で、あれこれ考えている内に、現実と空想の見分けがつかなくなることもある。
その点も美奈子とは正反対だ。美奈子は超《ちよう》・現実的な人間だからだ。「超現実的」ならシュールリアリズムだが彼女は「超・現実的」とした通り、まるで夢のない、徹《てつ》底《てい》したリアリストだった。
美奈子を殺したら、どんな気持だろうか。ずいぶん前から、そんなことを考えていて、あれこれと空想をめぐらしていた。一度は本当に殺したような気になって、良心の呵《か》責《しやく》に苦しめられ、涙《なみだ》を流したこともある。
そこへ美奈子が現れて、飛び上りそうになった。美奈子はわけが分らずキョトンとしていたが、全く、下手《へた》をすれば感付かれるところだったのだ。
それからは用心して、あまり空想に溺《おぼ》れることのないようにした。——しかし、もうそんな心配もしなくていい。こうして、目の前に美奈子は死んでいる。
実際に殺してみると、それは至って簡単で、ドラマチックなところなど、まるでなかった。
おのれの犯した罪の恐《おそ》ろしさに、おののくとか、そんなこともまるでないし、悪《あく》魔《ま》的《てき》な高笑いをすることもない。
ただもう散文的で、呆《あつ》気《け》ないほど簡単なことだったのだ。美奈子は、やたら威《い》張《ば》っていて強そうに振《ふる》舞《ま》っているが、体力で争うことになれば、やっぱり男の敵じゃない。
首を絞《し》めて殺したのだが、その絞めている最中に、玄関のチャイムが鳴った、というわけである。僕がどうにも手が離せない状《じよう》況《きよう》だったのは、分ってもらえるだろう。
住谷夫婦がやって来るのは、もちろん計算外の出来事だったが、殺人計画には偶《ぐう》発《はつ》性《せい》がつきものであることぐらい、沢山推理小説を読んでいる僕は予期していた。
まあ、我ながらうまくやった。——誰もほめてくれないから、自分でほめておこう。
さて、いくら時間があるといっても、そうのんびりしちゃいられない。
明日になれば、また誰かがやって来るかもしれないのだし、今夜の内にできることはやっておいた方がいい。
僕はまず美奈子の服を脱《ぬ》がせにかかった。——初めて美奈子の服を脱がせたときは、興奮と感《かん》激《げき》に手が震《ふる》えたものだったが、今は何の感激もない。もっとも、最初だって、美奈子の方は平気で、落ち着いたものであった。別に僕が初めての男というわけではなかったのだ。
しかし——それでも、あの頃の美奈子の体はまだ見とれるほどの魅《み》力《りよく》を具えていた。今はもう太りに太って——脱がすのも大変なくらいだ。えい、畜《ちく》生《しよう》。あっ、破れちまった。
自分でもどうやって脱いでいるのかね。
首を絞めるより、服を脱がす方がよほど手間取って、やっと全部脱がせてしまうと、僕はくたびれて椅《い》子《す》に座り込んでしまった。
大体が運動不足で、力仕事とは縁《えん》遠《どお》い生活なので、すぐに息切れしてしまうのだ。
ま、いいや。時間はある。ゆっくりやろう……。
そのとき、電話の鳴る音が、かすかに聞こえて来た。一階である。
電話は二階でも取れるのだが、切り換《か》えボタンが下にあるので、一階まで行かなくてはならない。
やれやれ。——誰だろう?
僕はわざとゆっくり階段を降りて行った。電話が鳴りやむんじゃないかと、期待しながら、のろのろと居間へ入って行く。しかし、電話の方は、残念でした、と言いたげに鳴り続けている。
仕方なく僕は受話器を上げた。
「池沢です」
と言ったが、向うは黙《だま》っている。「——もしもし? 池沢ですが」
少し間があって、
「もしもし……」
と押し殺したような声。「瞳さん? 私、祐《ゆう》子《こ》です」
僕の心臓が突然プレストの速度で打ち始めた。いつもならアンダンテぐらいのものなのだが。
「やあ、君か……。よく電話してくれたね」
と、TVドラマか何かで出て来そうな、ありきたりの不自然なセリフを口にした。
「あの——奥さん、いらっしゃるんでしょう?」
祐子が、おずおずと言った。美奈子がおずおずと何かを言ったなんてことは一度もない。
「ああ——いや、今夜ね、美奈子いないんだ」
「本当? お出かけなの?」
祐子に嘘《うそ》はつきたくないが、本当のことを言えない場合だってある。
「友だちと旅行に出ててね。日曜の夜まで帰って来ないよ」
「そう。——あなた、一人なの?」
「もちろん。君、どこから電話してるんだい?」
祐子の声が、いやに近くに聞こえることに僕はやっと気付いた。
「ドライブ・インなの。あなたの家のすぐ近くの」
「ええ? じゃ……そこまで来てるの?」
「家を出て来ちゃったの。そっちへ行っていい?」
僕は一《いつ》瞬《しゆん》迷った。二階には美奈子の死体がある。しかし——近くまで、僕を頼《たよ》ってやって来ている祐子を追い帰すわけにはいかない。
「分った。待ってるよ」
と僕は言った。
「ありがとう! すぐ行くわ!」
祐子の声が嬉《うれ》しそうに弾《はず》んだ。
僕だって嬉しい。しかし、問題は美奈子だ。死んでからまで僕の邪《じや》魔《ま》をするのだから、よほど底意地が悪くできているのだろう。
寝室に置いてあるのだから、まあ祐子の目に入る心配はないにしても……。いや、寝室を……使うことになるかもしれない。
そうだ!
僕は階段を駆《か》け上った。寝室へ飛び込んで、美奈子の服をまず洋服ダンスの中へ放り込む。そして、死体を折りたたんでくずかごへ——入るわけはない。
さて、どこへ死体を片付けておこうか?
浴室? いや、もし祐子とベッドを使うことになれば、浴室だって当然使うことになるだろう。
さて困った……。他《ほか》の部《へ》屋《や》へ移すしかなさそうだ。まあ幸いこのだだっ広い家に二人で住んでいたから、部屋は余っている。その一つへ放り込んでおけばいい。
それには、まず美奈子の体をベッドからおろして運んで行かなくてはならない。ええと、どうしようかな。
外国映画なんかで見ると逞《たくま》しい男性が、いとも軽々と女性をかかえて運んで行くが、僕がそんな真似をすりゃ、たちまちギックリ腰《ごし》だ。ここは一つ、みっともないが引きずって行くに限る。
僕は美奈子の足をそれぞれ両わきにかかえ込んで、ズルズルと引っ張った。意外に重い!
美奈子の体がベッドから床《ゆか》へドシンと落ちた。
「あ——」
ごめん、と言いかけて、僕は苦笑した。もう死んでしまってるのだ。痛くもかゆくもないはずじゃないか。
さて、早いところ引っ張って行こう。僕は一《いつ》旦《たん》足をおろして、ドアを開けに行った。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。——こんなに早く?
まずい! 僕は一瞬迷ったが、ともかく、玄関へ出てみることにした。いきなり寝室へ来ることはあるまい。
チャイムがまた鳴った。急いで玄関へ降りると、チェーンを外し、
「早かったね」
と言いながら、ドアを開けた。
「あら、何が?」
住谷秀子が立っていた。
「あ——あの——帰ったのかと思ったけど……」
と、僕はしどろもどろになって言った。
「度々すみませんね」
住谷が顔を出して、「秀子がどうしても気になるってもんだから」
「気になる……というと?」
「美奈子さんの具合よ。この前ね、私の知ってる人が風《ふう》疹《しん》にかかったの。その人がその少し前にうちに来ててね、確か美奈子さんも一《いつ》緒《しよ》にいたのよ。だからもしかしてうつったんじゃないかと……」
「いや、そんなことありませんよ。ただの風邪です。ご心配なく」
「そんなこと、あなたに分るわけないじゃないの」
秀子は僕を押しのけるようにして入って来た。「美奈子の様子を見たいの。上るわよ」
「待って下さいよ」
僕はあわてて止めた。「美奈子は眠ってるんです。朝になったら、ちゃんと病院へ連れて行きますから——」
「大丈夫。起さないように静かに覗《のぞ》くだけだから」
起そうたって起きやしないが、それにしても、床のど真中に裸《はだか》の死体を放っぽらかしてある所へ入られたら大変だ。
「でも、ちょっと——その——」
「いいの。心配しないで」
秀子はさっさと靴《くつ》を脱いで上り込む。何とか止めなくては!
そのとき、電話が鳴るのが聞こえた。
「ほら、電話よ。出たら?」
と、秀子は言って、「二階ね」
と階段の方へ歩いて行く。
絶望的状況だった。僕は、無意識の内に居間へ入って電話に出ていた。
「池沢です」
「住谷ですが」
と、太い男の声がした。「そちらに息子《むすこ》夫婦がお邪魔しとりませんかな」
「は……はあ、ちょっとお待ちを」
僕は大声で、「住谷さん! お宅からですよ」
と怒《ど》鳴《な》った。
「え、親父《おやじ》から?——おい、秀子、親父からかかってるらしいぞ」
「まあ、何かしら?」
秀子が上りかけていた階段を降りて来る。住谷が上って来て、電話に出た。
「やあ、何だい?——え?——分ったすぐ帰るよ」
住谷はあわてて電話を切った。「おい、一《かず》也《や》が熱を出したそうだ」
「ええ? さっき出て来るときは何でもなかったのに」
「親父一人じゃどうにもならん。急いで帰ろう」
「そうね。——じゃ、美奈子によろしく。また来るからって」
「はあ」
住谷夫婦が出て行くと、僕はソファに座り込んでしまった。間《かん》一《いつ》髪《ぱつ》。天の助けである。
天もたまには人殺しを助けてくれるらしい。
しばらくはソファから動けなかった。こういうストレスは心臓に悪いに違いない。
また玄関のチャイムが鳴った。今度はインタホンで確かめた。
「——タクシーがないから、歩いて来ちゃった」
と、祐子が入って来る。
早《はや》川《かわ》祐子は、僕が社長をしている四つの会社の一つで、秘書をしている子である。
「さあ、上って」
僕は微《ほほ》笑《え》みながら言った。
「いいの? ごめんなさいね、突《とつ》然《ぜん》やって来て」
「構やしないよ。ちょうど美奈子もいないしね。——コーヒー飲むかい?」
「ええ。いただくわ」
ソファに落ち着いて、祐子が肯《うなず》く。美奈子は、専《もつぱ》らアルコールで、僕の入れたコーヒーなんか絶対に飲まなかったものだ。
——早川祐子は、二十四歳の、小柄で、ちょっと丸顔の女の子である。
ともかく男なら、彼女に笑いかけられて悪い気持がするわけがなく、僕も例外ではなかった。特に、妻にうんざりしている男で、社長で、二人きりになる時間が沢山ある——となれば、そうならない方がどうかしている。
かくして僕と祐子も、なるようになったのである。
「家を出たって?」
とコーヒーカップを手《て》渡《わた》しながら言った。
「ええ。——あなたのことは言ってないわ。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》」
「何か言われたの?」
「恋《こい》人《びと》がいるって、告げ口した人がいるの。いやね、本当に」
「で、ご両親が……」
「お母さんは別に怒《おこ》らないんだけど、お父さん、やかまし屋でしょう。散々怒鳴られちゃって……。相手の名を言えって殴《なぐ》ろうとしたの」
「ひどいな、そりゃ」
「だから頭に来て出て来ちゃったのよ。——でも、行く所もないし、悪いと思ったんだけど、ここへ……」
「いや、構やしないよ。ちょうど一人で寂《さび》しいと思ってたんだ」
僕は優しく祐子を抱《だ》き寄せようとしたが、何しろコーヒーを持っているので、巧《うま》くいかない。二人で一緒に笑い出してしまった。
こんなに心愉《たの》しく笑えるのは、本当にまれなことなのだ。
「お腹《なか》は? 空《す》いてない?」
「あ——そうね。言われてみるとペコペコだったわ」
「よし、どこかへ食べに行こう。いいかい?」
「二人で? 嬉しいわ」
「待ってて。仕度して来る」
僕は二階へ上った。足取りも軽く、口《くち》笛《ぶえ》などがつい出て来てしまう。
寝室へ入って、ピタリと足を止める。——美奈子の死体が床の上に横たわっている。
忘れるところだった。こいつを何とかしなきゃならない。
今はゆっくり始末していられない。仕方ない。
僕は美奈子の死体の足をまたかかえ上げて、床を引きずって行った。だが洋服ダンスへ入れるのは大変だということが分った。持ち上げなくてはならないのだ。
ではどこへ隠《かく》そう? キョロキョロ見回していると、ドアをノックする音がした。
「入っていい?」
祐子の声だ。あわてて、
「待って! ちょっと入らないでくれ!」
と僕は言った。
やむを得ない。僕は、また死体を引きずって、ベッドの方へ戻ると、ベッドの下へと美奈子を押し込んだ。
これも楽ではなかったが、必死になると力が出るというのは本当で、何とかベッドの下へ押し込むのに成功した。
急いで服を着《き》替《が》え、ドアを開ける。
「待たせてごめんよ」
「中、見ていい?」
祐子は寝室の中を見回した。「——素敵ね。こんな部屋に寝てみたいわ」
「いいとも」
「本当?」
祐子が目を輝《かがや》かせた。
「もちろんさ。さあ、出かけようよ」
「ええ」
僕は寝室の明りを消してドアを閉めた。
「どこに行く?」
「六《ろつ》本《ぽん》木《ぎ》の辺りに、いろいろ店があるよ。何が食べたい?」
「そうね。——任せるわ、あなたに」
美奈子はいつも夫の好みなど無視して、自分の好きな店へ行ったものだ。
僕は、祐子を抱いて軽くキスしてやった。
「——奥さん、急に帰って来ることない?」
と祐子が言った。
「大丈夫。帰っちゃ来ないよ」
僕は断言した。
玄関を出ると、ドアを閉める前に、僕はそっと囁《ささや》いた。
「留守を頼《たの》むよ……」
僕はドアを閉め、しっかりと鍵《かぎ》をかけた。
遠足の前の日の子供のように浮《う》き浮きした気持だった。
もちろん、厄《やつ》介《かい》な仕事が残っているが、急ぐことはない。時間はたっぷりあるのだ……。