3 地下室の住人
青《あお》山《やま》の高級フランス料理店で夕食を取って、僕と早川祐子が帰宅したのは、もう夜中の一時になっていた。
「ああ、夢《ゆめ》みたいだわ」
祐子は、僕が居間の明りを点《つ》けると、バレリーナのようにクルリと回って見せ、そのままソファに、身を投げ出すように座った。スカートがフワリと舞《ま》い上って、祐子の白く光っているような太《ふと》腿《もも》がも《ヽ》ろ《ヽ》に目に入り、僕は一瞬、ゴクリと唾《つば》を飲んだ。
「こんなに素敵な夜って、初めてだわ」
祐子は多少アルコールが入っているせいもあってか、やや舌っ足らずな甘《あま》え声になって、それがまた色っぽいのだった。
「僕も酔《よ》ったよ」
と僕は言って、祐子と並《なら》んでソファに身を沈《しず》めた。
「あら、あなたはコーラばっかり飲んでたじゃないの」
「いいんだ。君を見てるだけで酔っ払うからね」
「上手なのね。——いつもそう言ってるんでしょ、奥さんに」
僕は突《とつ》如《じよ》現実に引き戻された。
そうだった。美奈子の死体を、寝室のベッドの下へ押し込んだままなのだ。あれを何とかしなくてはならない。
最近はゴミ一つ捨てるのも大変で、粗《そ》大《だい》ゴミなんかでも、持ってってもらうのにお金を払《はら》うのだそうだから、死体ともなれば、やはり始末に苦労するのは当然かもしれない。
しかし、多少料金は高くてもいいから、いい引き取り手はないだろうか? 人造人間を作りたがってるフランケンシュタインみたいな科学者でもいれば、喜んでタダでさし上げるのだが、当節ではやや時代遅《おく》れの感があるし……。
「何を考えてるの?」
と祐子が言った。
「いや、別に」
僕は祐子を抱いて優しくキスした。女房の死体が二階にあるからといって、女性に優しくしなくていいという理《り》屈《くつ》はない。
「——本当に奥さん、帰って来ないの?」
「大丈夫。心配するなよ」
「じゃ、今夜は……」
そう言いかけて、祐子は頬《ほお》を染めてうつむいた。この初々しさがたまらないのだ。
ま、もっとも、頬はもともとアルコールで染まっていたし、美奈子だって、結婚したての頃は初々しかったんだが……。
「あわてることはないよ。時間はたっぷりある」
僕は立ち上って、書《しよ》棚《だな》の本の間に納めてあるレコードプレイヤーのスイッチを入れに行った。
さてレコードは何にしようか? 美奈子はロックとか何とか、僕の耳にはおよそ騒《そう》音《おん》としか聞こえないものが好きで、年中かけていたが、今やそれらのレコードは、全部主を失ったわけだ。
僕はバロック音楽などかけて、低い音で流した。——音楽とはこういうものなんだ。
「あなたのコーヒーが飲みたいわ」
と祐子がまた嬉しいことを言ってくれる。
「すぐに淹《い》れてあげるよ」
と早速仕度にかかった。
だが、困ったことに、豆《まめ》が切れているのだ。
「参ったな。じゃ、ちょっと待っててくれ」
「どうするの? ブラジルまで取りに行くの?」
「地下のブラジルへね」
と僕はウインクして見せた。「地下室に買い置きがあるんだ。今持って来るからね」
一旦玄関前のホールへ出て、地下室への階段を降りて行く。
地下室は、最初、僕は書庫にするつもりだったのだ。かなり蔵書もあり、夫婦揃《そろ》って古典を読み、知的会話など交わそう——と思っていた。
ところが、美奈子はここを見るなり、
「食料品の置き場にいいわね」
と、有無を言わさず、食料貯蔵庫にしてしまったのである。
僕はドアを開けると、明りを点けた。
シェークスピアが並ぶはずだった書棚には、缶《かん》詰《づめ》やパック食品の類がズラリと並んで、ちょっとしたスーパーマーケットみたいな光景だった。
「コーヒー豆、コーヒー豆、と……」
あったあった。——ウーム、ここはやはり恋人に飲ませるのだから、ブルーマウンテンにするべきだろう。
まだ新しいから、そうしけてはいないはずだ。僕は重いガラスの容器を手にして、ドアの方へ歩き出した。
足が何かを蹴《け》飛《と》ばして、カラカラと音がした。といって、笑ったのではない。空《あき》缶《かん》が一つ、転がったのである。
空缶?——どうしてこんな所に空缶が転がってるんだ?
僕は棚の奥へと転がって行った缶の方に歩いて行って拾い上げた。シャケの缶詰で、まだ空けて間もない。匂いがプンと来る。
中は空だが、それにしても……。
首をひねりながら振《ふ》り向いた僕は、ギョッと立ちすくんだ。
目の前に、不精ひげの目立つ大男が立ちはだかっていたのである。
人間、何か予期しないことに出くわすと、たいていは、あわてふためくより、妙《みよう》に落ち着いてしまうものである。
「どうも」
と僕は笑みさえ浮かべて挨《あい》拶《さつ》したものだ。
「この家の者か?」
と男は訊《き》いた。
僕は少しホッとした。男は見かけの割に甲《かん》高《だか》くて迫《はく》力《りよく》のない声を出したからだ。
「ええ、ここは僕の家ですけど」
「お前の家か。——ずいぶん若いくせにでかい家だな」
「そうですか? でも父が建ててくれたんです。持主は僕ですが」
「そんなとこだろうぜ」
男は、えらくくたびれた作業服みたいなのを着込んで、ジーパンにズック靴といういでたちだった。おまけに土や泥《どろ》で汚《よご》れている。
どう見ても六本木や青山にはいないタイプだ。
「一緒にいるのは誰だ?」
と男は訊いた。
「あの——あなたは?」
「俺《おれ》は一人だ」
「いえ、そうじゃなくて、どういう方で、ここで何をしてるんですか?」
僕は訊いた。祐子のことを言う前に、どんな男か確かめておきたいと思ったのである。
「うるせえぞ」
男が僕の鼻先へ鉄の棒をグイと突き出した。いや、鉄の棒と見えたのは拳《けん》銃《じゆう》の銃《じゆう》身《しん》で、これで僕は素直に答える決心がついた。
「今は……女の子が一人」
「子供か」
「いや……子供じゃないよ」
「要するに女か」
「そう」
「他には?」
「いない」
「本当か?」
「うん」
僕とて、少しは迷ったのである。しかし、こういう場合、死んだ人間は数に入れなくていいだろうと判断したのだった。
「よし」
男は拳銃の銃口を下げた。僕はホッと胸を撫《な》でおろした。
「あの……どうしてここにいるの?」
と僕は訊いてみた。
「俺は逃《とう》亡《ぼう》中なんだ」
「逃亡? つまり——何かやって追われてるんだね?」
「追われるから逃《に》げてるんじゃねえか」
これは理屈だった。
「よくここに入れたね」
「鍵を開けるのは得意だからな。入って、さて食い物でも捜《さが》そうと思ったら車の音がしたんで、ここへ逃げ込んだわけさ」
男は少し僕から離れると、「この辺はきっと今頃非常線を張ってるところだろう。しばらくは居《い》させてもらうぜ」
僕は当《とう》惑《わく》していた。これはどうやら脱《だつ》走《そう》犯人なのだ。しかし、こっちも二階に死体をかかえている。
死体と凶《きよう》悪《あく》犯《はん》とのサンドイッチでは、あまり食欲をそそらないメニューである。
「何が望みなんだい?」
と僕は訊いた。
「まず食い物だな。それから服、金。それに……車。女もだ」
「女?」
男は短く笑って、
「冗《じよう》談《だん》だよ」
と言った。「そんな暇《ひま》はねえや」
「ともかく、まず食べ物だね。台所から持って来ようか」
「それには及《およ》ばねえ。こっちから行くさ」
「上に行くの?」
「悪いか?」
「いや……でも……」
「女が心配か。大丈夫。色気より食い気だ。留置場の飯の後じゃな」
男は銃口をこっちへ向けて促した。——こうなっては仕方ない。
僕は地下室を出て、先に立って階段を上って行った。
「何をやったのさ?」
と僕は訊いた。
「黙ってな」
男は無愛想に言った。愛想のいい脱走犯というのはあまりいないだろうが。
「遅かったのね」
居間へ入って行くと、祐子がにこやかに顔を上げた。「——その人は?」
「うん……。留守中にここへ来てたらしいんだ」
「お友達?」
まさか。一目見りゃ分りそうなもんだ。
「いい女だな」
と男は言って、ソファへドカッと座り込んだ。
「そのピストル……モデルガンでしょ?」
と、祐子が恐る恐る言う。
「これか? お巡りを殺してかっぱらって来た本物だぞ。試してみるか?」
男は愉《ゆ》快《かい》そうに銃《じゆう》口《こう》を祐子へ向けた。僕はあわてて、
「待った! ねえ、落ち着いて。——祐子、何か食べる物を持って来るんだ」
祐子は、まだ事態を正確に把《は》握《あく》していないようだった。
「私、お腹一杯よ」
「この人が食べるんだよ」
「あ、そう」
と、立ち上ると、「台所ってどこ?」と訊いた……。
新しい事態というのは、初めの内は何かとギクシャクするものである。しかし、十五分もたつと、やっと状況はまともになって来て——まともという意味にもよるが——その男は、祐子の温めた調理済の料理を片っ端《ぱし》から平らげ、僕と祐子は少し離れたソファで身を寄せ合って座っているという、一《いつ》般《ぱん》的《てき》な図式になったのである。
「やれやれ……」
男は大きく息をついた。「やっと生き返ったぜ」
美奈子は生き返らない、と僕は思った。
「用が済んだら出て行ってよ!」
と祐子がギョッとするようなことを言い出した。
「気の強い女だな」
と男は笑った。
満腹で、寛《かん》大《だい》な気分になっているらしい。
「他にも色々欲しいもんがあるのさ」
男は左手でひげののびた顎《あご》を撫でて、
「まずひげを剃《そ》りたいな。電気カミソリはあるか?」
「あるよ」
「よし、持って来い」
「二階だけど……」
「取って来いよ」
僕は立ち上った。祐子も僕にすがりついているので、当然一緒に立ち上った。
「女はそこにいるんだ」
祐子が情ない顔で、僕を見上げた。
「すぐ戻るよ」
僕は祐子の手を叩《たた》いて力づけてやったが、あまり効果はないようだった。
ともかく祐子をソファへ座らせ、居間を出ようとした。——そのとき、玄関のチャイムが鳴ったのである。