4 死体が二つ
ドアを開けると、制服の警官が二、三人立っていて、一人がパッと敬礼した。こっちもつい敬礼を返しそうになって、あわてて頭をかくふりをした。
「あの……何でしょうか?」
と僕は言った。
「実はこの近くで護送中の凶悪犯が脱走しまして」
「それは大変ですね」
「今、非常線を張っているのですが、まだ発見されていませんので、こうして一軒《けん》一軒回っているわけです」
「ご苦労様です」
と僕は丁《てい》寧《ねい》に言った。「一体何をやった男なんです?」
「殺人です。二人も殺していましてね。しかも逃げるとき、警官を殺して、その拳銃を奪ったのです!」
警官は効果を強調するかのように言葉を切った。「——何か妙な人影を見たとか、物音がしたというようなことはありませんか?」
「今のところは何も」
「ご家族は?」
「僕と家内だけです」
「お二人ですか? 広いお宅ですな」
「親が死んでしまったもので」
どうしてこんな説明までしなきゃいけないんだろう?
「この辺は土地も高いでしょう……」
と警官はため息をついて、急にハッと背筋を伸ばして、「では、充《じゆう》分《ぶん》にお気を付けて」
「どうも」
「戸《と》締《じま》りを忘れないようにして下さい」
「分りました」
「ああ、一応念のために……」
と警官はポケットから写真を出すと、「これがその男です。もし見かけるようなことがあればすぐ一一〇番して下さい」
とこっちへ差し出す。
僕はその写真をじっくり眺《なが》めてから返して、
「気を付けますよ」
と肯《うなず》いた。
「では」
警官は敬礼して、立ち去って行った。
僕はドアを閉め、鍵をかけて、チェーンをしておいた。
居間へ戻ると、
「もう帰ったよ」
と声をかける。
ソファの裏から、男と祐子がゆっくり顔を出した。
「妙な真似はしなかったろうな?」
「彼女がいるのに、そんなことしないよ」
「よし、じゃ、電気カミソリだ」
僕は二階へ上って、寝室へ入った。バスルームからブラウンの電気カミソリと、ローションを手に出て来る。
ふと気になって、ベッドの下を覗いた。美奈子はまだそこにいた。いなきゃ、それこそ大変だ。
寝室を出て、階段を降りながら、さて、これからどうしたものかと考えていた。あの男、これで金をやれば、おとなしく出て行くだろうか?
僕を当惑させているのは、この状況ばかりではなかった。
あの警官の見せてくれた凶悪犯の写真は、今、居間にいる男とまるで別の男だったのだ……。
「キャーッ!」
居間から、祐子の悲鳴が聞こえた。
僕は急いで居間へと駆け込んだ。——そして立ちすくんだ。
祐子が、サイドボードに寄りかかって、息を弾ませている。服が肩から胸もとへ、引き裂かれていた。乳《ち》房《ぶさ》が露《あらわ》になっているのにも気付かないようだ。
だが、僕が立ちすくんだのは、その乳房のせいではなく、祐子の目の前に、あの男がうつ伏《ぶ》せに倒《たお》れていたからだった。
「祐子……」
僕が声をかけると、祐子は一気に走って来て、僕に抱きついた。ブラウンのカミソリとローションのびんは空中へはね上げられる運命にあった。
ドイツ製は頑《がん》丈《じよう》だから大丈夫だろう、などと僕は考えていた。
「怖《こわ》かったわ!」
祐子は震えながら言った。
「どうしたんだ?」
訊かなくたって、見りゃ分りそうなもんだが、一応、訊いてみることにする。
「私に襲《おそ》いかかって来たのよ……。服を破いて……。私、夢中で逃げて……あの置物をつかんで、殴りつけたの」
男の傍《かたわら》に転がっているのは、アンデルセンの人魚の像をかたどったブロンズの置物だった。必死だったとはいえ、よく彼女に振り回せたものだ。
僕は恐る恐る、男へ近付いて行った。まず拳銃を足で遠ざけておいて、かがみ込み、手にそっと触《ふ》れてみた。
反応なし。——手首を持ってみる。反応なし。脈をみる。
「——どう?」
と、祐子が訊く。
「死んでるよ」
と僕は言った。
「ほんと」
祐子はポカンとしている。実感がないのだろう。当然のことだ。
まあこの男もアンデルセンに殺されりゃ、きっと幸せだろう。
「どうしよう……」
祐子はヘナヘナと床に座り込んでしまった。「でも仕方ないわよね。——殺人犯なんでしょ」
「それがね、違うんだよ」
と僕は言った。
「違うって……どういうこと?」
僕は、さっきの警官の見せてくれた写真のことを説明していった。
「じゃ——これ、誰なの?」
「さあね」
僕は拳銃を拾い上げると、床に向けて引金を引いてみた。カチッと音がして、先からポッと炎が出る。
「ライターだ」
祐子は目をパチクリさせている。
「こいつはきっとただの浮《ふ》浪《ろう》者《しや》だと思うね」
と僕は言った。「非常線に引っかかって、あれこれ訊かれたんだろう。それで、思い付いたんじゃないかな。どこかに押し入って、その凶悪犯のふりをしてれば、好きなことができる……」
「そんな……」
「ともかく、こいつは例の凶悪犯じゃないんだよ」
「だって、構わないじゃないの。この男が悪いんだから。違う?」
「そりゃそうだよ」
「じゃ警察へ届けましょうよ」
「ちょっと待てよ」
「どうして?」
僕は彼女の肩《かた》を抱いて、ソファへ座らせた。
「いいか、ここで君がTVや新聞に出たら、どうなると思うんだ?」
「あ——そうか」
祐子は口に手を当てて、「忘れてたわ。ここはあなたの家なのね」
「だから問題なんだよ」
と僕は言った。
もちろん解決方法はある。祐子は気付いていないようだが。——つまり、僕がこの男を殺したことにすればいいのである。
そして祐子はここにいなかったということにして、ホテルかどこかへ泊《とま》らせる。
それは問題の一番少ない解決策に違いなかった。——ただし、二階に美奈子の死体がなければの話である。
まずいことになってしまった。
これを警察に届けたとする。当然、人を殺したのだから、あれこれうるさく質問されよう。
当然、正当防衛というところだが、日本の裁判所はなかなか正当防衛を認めてくれないのだ。
何しろ目の前で娘に乱暴しようとした男を殴って殺してしまった父親が、過《か》剰《じよう》防衛で罪に問われるくらいなのだから、これじゃ法の正義が泣くってもんだよ。
僕が美奈子を殺したのだって、精神的暴力に対する正当防衛だ。——まあ、こう言っても通じるはずはないが。
何の話だっけ? あ、そうか。つまり、こんな事件が公になってマスコミがやって来れば、美奈子がいないということが、あのやかましいお節《せつ》介《かい》の住谷秀子などに分ってしまうわけだ。
これは何としても避《さ》けなければならない。たとえ、警察へ届けるとしても、美奈子の死体を何とか始末してからのことだ。といって、それまで死体をここへ放り出しておく気にもなれないし……。
「ねえ、どうしよう」
祐子は情ない顔で言った。
「ともかくゆっくり考えよう。今はだめだ」
「そんな呑《のん》気《き》なこと言って——」
「だって仕方ないだろ。慎《しん》重《ちよう》にしなきゃ。下手をすりゃ、僕らは二度と会えなくなるんだよ」
これが効いた! 祐子は僕に抱きついて来ると、
「そんなのいやよ!」
と熱っぽく囁《ささや》いた。
「よし、分った。——落ち着いて。ともかく、今夜は二人とも疲れ切ってる。こういうときはいい考えも浮ばないよ」
「そうね」
「今夜は寝よう。そして明日、すっきりしたところで対策を考えるんだ」
祐子も納得したらしく肯いたが、
「でも、ここに死体があると思うと眠れやしないわ」
「そうか。よし。ともかくまずどこかへ隠しとこう。どこがいいかな。——地下へ運ぶか?」
「そうね」
後でまた運び出すのが大変かな、と思ったが、なに、そのときはそのときだ。どうにかなるさ。
僕は男を仰《あお》向《む》けにし両足をわきの下へ一本ずつかかえ込んで引きずって行った。階段を降りて行くのは、あまりいい気分のものではなかった。一段ごとに、男の後頭部がゴツン、ゴツンと音を立てるのだ。
もう痛くないのだとは思っても、やはりいやなものである。
地下室へ運び込んで、階段を上って来ると、祐子が心配そうに待っていた。
「大丈夫だった?」
「心配ないよ。さあ、もう君は忘れるんだ」
僕は祐子の肩を抱いた。
むろん、他にも色々とやることはあった。拳銃型ライターは、物置へ放り込み、男の使った食器は、祐子が全部洗った。
アンデルセンの人魚も水で洗って、きれいに拭《ぬぐ》ったが、祐子は見たくないというので、仕方なく物置行きとなった。
「——もう三時だわ」
祐子は時計を見てびっくりしたように言った。
「ああ、疲れたね。シャワーを浴びて寝よう」
「ええ」
さて、次の問題である。祐子とどこで寝るか? 寝室のベッドの下には美奈子の死体がある。
といって、他にベッドのある部屋はないのだ。
「あら、行かないの?」
祐子は、居間を出ようとして、僕がついて来ないのを見て言った。
「いや……どこで寝ようかと思ってね」
「寝室じゃだめなの?」
「そうじゃないけど……」
祐子は、ちょっと寂しそうな顔になって、
「奥さんに気兼ねだっていうのなら……」
「いや、違うよ!」
僕は急いで言った。「君がいやかと思ったんだ。僕は、全然構わないよ」
その場の雰《ふん》囲《い》気《き》というものがある。そのせいで僕はこう言わざるを得なかったのである。
まあ、何とかなるさ!
僕らは二階へ上って、寝室へ入った。その後のことについては——風《ふ》呂《ろ》に入った。ベッドに入った。以下省略。
——僕はまだ目が覚めていた。
祐子は、僕のわきで、すっかり満足気な様子で深い寝《ね》息《いき》をたてている。
もう時計は朝の五時を指していた。僕の方がどっちかといえば疲れているはずで、ぐっすり眠って当り前なのだが、なぜか目が冴《さ》えて仕方ないのである。
今寝ているベッドの下に、死体があるんだから、それも当然と思われるかもしれない。しかし、僕は別に、良心の呵責に悩まされているわけではないのだ。
要するに、明日になったら、これをどうしようかという具体的な方法で悩んでいるのである。
一人ならともかく、祐子がいては、何かと不自由だ。しかも死体が二つと来ている。
「困ったもんだ」
と僕は呟《つぶや》いた。
ふと気が付くと——電話が鳴っている。階下《した》だ。
「何だ、今《いま》頃《ごろ》?」
僕はベッドを出ると、ガウンをはおって、寝室を出た。
居間へ入って、鳴り続ける受話器を上げた。
「はい」
「あ、社長ですか!」
いきなり凄《すご》い声が飛び出して来て、僕は耳が痛くなった。
「誰だ?」
「吉《よし》野《の》です!」
吉野か。——僕の私設秘書をやっている男である。
二十五、六の張り切り屋で、確かによく働くし、気もきくのだが、少々ききすぎて、こっちが疲れる。
「何時だと思ってるんだ」
僕が不《ふ》機《き》嫌《げん》な声を出した。
「申し訳ありません。実は緊《きん》急《きゆう》の用がありまして」
「何だ、一体?」
「奥様のお父様が亡くなられたのです」
——僕は、しばしポカンとしていた。
「美奈子の……親父さんが?」
「はい。今朝早くです」
僕は唾を飲み込んだ。
「しかし……こっちへは連《れん》絡《らく》がないぞ」
「私が頼まれたのです。そばにおりましたので」
「そばに?」
「はい、ともかく、奥様にお伝え下さい。通夜は明日で、告別式は——」
僕の耳にはもう何も入らなかった。
「社長。——もしもし?」
「うん。ああ、聞いてる」
「ただいまから、そちらへお迎《むか》えに参ります。一時間ほどで着きます」
「おい待て!」
と僕は言った。——しかし、すでに電話は切れた後だった。
僕は受話器を持ったまま、しばし呆《ぼう》然《ぜん》と立ちつくしていた。