5 死体を誘《ゆう》拐《かい》せよ
参った。
これこそ参ったと言わずして、何を参ったと言えようか。——なんて気取ってるヒマはないのだ。
美奈子の父親が死んだ。そんなことはおよそ殺人の計画に含《ふく》まれていない。そして僕だって、色々と不測の事態が起こるであろうことは予期していた。
しかし、まず恋人の早川祐子が突然やって来て、次は逃亡殺人犯と称する浮浪者が侵《しん》入《にゆう》、死体にして地下へ片付け、一夜明けたら、美奈子の父親が急死と来た……。
これはいくら何でも、あんまりじゃないか! といって、誰に文句を言っていいものやら分らないけれど。
美奈子の父親の具合が悪くて、もう危ないとか、前もって分っていれば、こっちとしても計画を延期するとかできたのに。——ともかく、殺してしまった美奈子は生き返っては来ないのだ。
こうしている間にも、秘書の吉野がこっちへ向っている。あいつが一時間で行くと言えば、本当に一時間で着くのだ。どうしたらいいだろう?
場合が場合だから、風邪で寝てるぐらいではごまかせない。いくら何でも、父親の葬《そう》式《しき》を風邪ぐらいですっぽかすわけにもいかないし、といって、美奈子がいないのを説明する、巧い理由も思い付かない。
「ああ、畜《ちく》生《しよう》!」
僕は居間を歩き回りながら、口に出して言った。
「——どうしたの?」
突然、祐子の声がして、僕は飛び上りそうになった。
「や、やあ、もう起きたのかい?」
僕は急いで笑顔を作った。
「目が覚めて隣《となり》を見たら、ベッドが空なんだもの」
祐子は近付いて来ると——付け加えると、当然祐子はネグリジェ姿で、体の線が透《す》けていた——僕の首に腕《うで》をかけて、「あなたがどこかへ行っちゃったのかと思って、心配しちゃった……」
と粘《ねば》りつくような、ニカワの如き声で言いながら僕にキスした。
「そんなわけがないじゃないか……」
僕もキスを返しながら言った。
「どうしたの、困ったようだったけど」
「困った? 誰が?」
「あなたしかいないじゃない」
「あ、そうか。いや、別に困っちゃいないよ。ただ……どうしていいか分らないだけで」
冗談で言ったわけじゃないんだが、祐子はプッと吹き出してしまった。
「愉快な人ね。大好きよ。——何があったの?」
「うん……。実は僕の秘書の吉野って男から電話でね」
「ああ、いつか凄い張り切りボーイだって話してくれた人ね」
「そう。あいつが一時間もするとここへやって来る」
「こんなに朝早く仕事?」
「そうじゃない。美奈子の親父さんが死んじまったんだ」
「まあ」
祐子は、ちょっと目を見開いた。この顔がまた可愛《かわい》いのだ。美奈子が目を見開いたって目でサンドイッチでも食べるのかとしか思えないが。
「じゃ、奥さんもすぐに帰って来るのね」
「う、うん。まあ……そういうことになるかな」
「うまく行きすぎると思ったわ」
と、祐子は、ちょっと寂しげに言った。「急いで私は出て行かないとね」
「いや、まだ大丈夫だよ」
本当は大丈夫なんかじゃないのだが、僕はあわてて言った。「まだ一時間あるんだ。それに美奈子は出先から当然あっちへ駆けつけてるさ」
「でも一時間しかないわ」
祐子は僕に抱きついて来ると、「もう一回愛してくれる時間はある?」
と囁いた。
たとえ吉野の奴《やつ》が玄関に立っていたとしても、僕は、「ある」と答えたに違いない。
で、早速、僕は祐子と一緒に二階へと駆け上り、そのままベッドへと飛び込んだのだった。
——おかげで、もう一回愛し合った後でも、まだ時間は三十分ほど残っていた。
「もうシャワーを浴びて仕度した方がいいわ」
と、祐子が言った。
「そうだね……。仕方ない」
僕は渋々ベッドから出ると、バスルームへ入って、熱いシャワーを浴びた。昨夜はほとんど一睡もしていなかったが、そう眠くはない。
通夜の席で眠っちまうかもしれない、と思ってから、まだ美奈子のことをどうするか考えていないことに気が付いた。
祐子と愛し合っている内に、きれいさっぱり忘れてしまったのだ。ついでに死体の方もきれいさっぱり消えていてくれるとありがたいのだが、そううまくはいかないだろう。
ともかく、あの張り切り屋の吉野をどうやってごまかすか。これはかなりの難問であった。
バスタオルで体を拭《ぬぐ》って、バスローブをはおって、バスルームを出ると、祐子がベッドに腰をかけていた。
「君は少しゆっくり眠っていけよ。どうせここは空っぽになるんだから」
いや、空っぽじゃない。美奈子の死体、それに、もっときれいに忘れていたが、あの浮浪者の死体もあるのだ。
すると、祐子は何だか、不思議な目つきをして、
「今、スリッパが見付からなかったの」
と言った。
「そう。でもはいてるじゃないか」
「ベッドの下を覗いたら、あったの」
「良かったね」
と言って、僕は立ちすくんだ。
「——奥さん、ベッドの下で寝る趣《しゆ》味《み》があるの?」
と、祐子は訊いた。
全く、世の中というものは、予期できないことの連続で成っている。
祐子が美奈子の死体を発見したのも、その「予期しないこと」の一つだったが、それで祐子が大してショックを受けてもいないことも、その一つであった。
「あなたが殺したのね」
と、祐子は訊いた。
至って自然な調子で、僕の方が戸《と》惑《まど》ってしまった。
「うん……。実はそうなんだよ」
と僕は頭をかきながら言った。
「分るわ。——あなたの気持、私にはとってもよく分る」
と、祐子は言って、僕に駆け寄ると、キスしてくれた!
さしずめ映画なら、ジャーンとフルオーケストラが鳴る、感動の名場面である。
「僕を怖がらないの?」
「どうして? あなたが奥さんを殺したのは、正当防衛だわ」
僕の言いたかったことを、彼女の方から言ってくれた!
「そう思ってくれたら嬉しいよ」
と僕は言った。「でも……まずいことになった。吉野が来たら、どうにも言い訳できないよ。君は早くここから出て行った方がいい」
「じゃ、あなた、おとなしく自首するつもりなの?」
「いや……でも、仕方ないじゃないか。土、日と二日間はたっぷり時間があるから、死体を何とかできると思ったんだ。まさか美奈子の親父《おやじ》さんが死んじまうなんて、思ってもみなかったからね」
「そんな……。あなたが刑《けい》務《む》所《しよ》へ入るなんて、いやよ!」
「そりゃ僕だって入りたかないよ」
「じゃ何とかするのよ!」
「どうやって?」
「待って、考えるわ」
祐子は僕から離れると、寝室の中をグルグル歩き回った。よく、動物園のクマのように、というが、クマがこの速度で歩き回ったら、目を回すんじゃないかと思うほどのめまぐるしさであった。
しかし、僕はすっかり感服していた。一見弱々しく見える彼女の中に、死体を見つけてもびくともしない強さがあろうとは、想像もつかなかったからだ。
——しかし、いくら彼女が強くたって、警察相手にドンパチやるわけにもいかないのだ。それに、時間はどんどんたって行く。吉野の奴はもう間近まで来ているに違いない……。
「ねえ!」
と祐子はパッと顔を輝かせた。「忘れてたわ。地下にもう一つ死体があるのよ!」
「うん。あの浮浪者だろ。それがどうしたんだい?」
「何とか巧く利用できないかしら? あの男が奥さんを絞め殺した。そしてあなたが男を殴り殺した。——そんなら正当防衛だし、あなたは奥さんを助けようとしたけど、間に合わなかったって、ちょっと泣いて見せりゃいいのよ」
「そう巧く行くかな」
「何か都合の悪い点はある?」
僕はしばらく考え込んだ。
「——まず、殺してからしばらくたってるってことだな。すぐ警察へ知らせなかったのはなぜかって疑われるよ、きっと」
「奥さんを殺したのは何時頃?」
「ゆうべの……十時過ぎかな」
「あの男は真夜中——二時頃だったわね、殺したのは。すぐに調べたら、その辺の食い違いが分るかも……」
「それに吉野から電話があったとき、何も言わなかったのは変だと思われるよ」
「そうね。——じゃ、奥さんがいなきゃいいわけでしょ」
「いなきゃいい?」
「そう。つまり、ある程度日数がたっちゃえば、死亡推定時刻なんてそうはっきりしなくなるわ。少しの間、奥さんとあの浮浪者の死体を隠しとけばいいのよ」
「どこに?」
「こんなに広い家だもの、どこか場所があるんじゃない?」
と、祐子はちょっとイライラした口調で言った。
「そ、そりゃまあ捜せばね。——でも、家の中を捜《そう》索《さく》されたらおしまいだよ」
「そうねえ……。奥さんがいなくなる、ごく自然な理由……」
と、祐子は眉《まゆ》を寄せて考え込んだ。
僕としては、甚《はなは》だお恥ずかしい限りながら、祐子が何か思い付いてくれるのではないかとあ《ヽ》て《ヽ》にして、ぼけっと突っ立っていたのである。
「ねえ——」
祐子は何か考え付いたようで、ちょっと興奮を抑《おさ》え切れないという様子だった。「こうしたらどうかしら? つまり——」
「吉野です! 社長! 吉野が参りました!」
インタホンがなくても聞こえそうな馬鹿でかい声が、耳を突き刺した。
「分った、今出るから——」
やれやれ。元気なのは結構だが、これじゃ死人だって、ゆっくり死んでいられないと文句を言いかねないよ。
玄関へ行って、ドアを開ける前に、僕はできるだけ疲れ切ったように見せるべく、髪《かみ》をくしゃくしゃにした。
帽《ぼう》子《し》の裏に鏡がついていて、人の家を訪問するときは、それを見ながら髪をかき回し、
「これで作家らしくなった」
と満足していたのは、イプセンだったかしら? ま、いいや、そんなこと。
「社長、お早うございます!」
中肉中背ながら、何かこうエネルギーを放射しているかの如く、活力を感じさせる吉野は、もう黒服にブラック・タイというスタイルである。
僕の方が、まだだらしのないガウン姿なのにも、別に驚《おどろ》く様子もなく、
「お仕度を手伝いましょう」
と言った。
「まあ、上れよ」
と僕は言った。
「失礼いたします」
「——美奈子の親父さんはどうして亡くなったんだ?」
居間へ入りながら、僕は言った。
「はあ、実はモチを喉《のど》につまらせまして」
僕は耳を疑った。
「モチ? あの、焼くとプーッとふくれるモチ?」
「さようでございます」
「しかし……そんなことで死ぬのはもっと年よりじゃないのか」
「それが三つも一度に飲み込まれまして」
娘《むすめ》もユニークだが、父親もユニークだ。
「呆《あき》れたもんだな! お前がそばにいたってのはどういうわけなんだ?」
「はあ。しるこ屋の払いをこっちで持てと電話で呼び出されたので」
全く! 吉野は僕《ヽ》の《ヽ》秘書なのに、美奈子は買物のおともに連れて歩くし、美奈子の父親は食事代をこっちの必要経費で落とすべく、わざわざ吉野を呼ぶのだ。
また、吉野も感心に、腹も立てずに言うことを聞いている。
「しるこ食い競争でもしたのか?」
「三十杯《ぱい》食べるとタダになると言われて、絶対にやりとげてみせると、挑《ちよう》戦《せん》なさったんです」
つまらないことに挑戦する奴だ。
「それで、食べたのか?」
「二十七杯目をのどにつまらせまして……」
こんなこと、みっともなくて人にはとても話せない!
「おい吉野、死因はあくまで心臓発作か何かにしといてくれよ」
「はあ。しかし……」
「何だ?」
「息を引き取られるときに、しるこ屋を訴《うつた》えろと遺言されました」
「おい待て。——しかし、今朝早く死んだってのはどういうことだ?」
「昨夜九時頃から食べ始めまして、店が閉るのも構わず、四時間かけて二十七杯を——」
「四時間? じゃ——夜中の一時まで?」
それで店を訴えろというのか。店から訴えられたって文句は言えない。
全くがめつい親父だ。
「訴えるのはやめろ。こっちが恥をかく」
「それがよろしいと思います」
と、吉野は肯いた。「ところで——奥様は? 仕度をお急ぎになりませんと」
「美奈子はいないよ」
と僕は言った。
「は?」
「美奈子は誘拐されたんだ」
と僕は言った。