7 ベッドの下で眠《ねむ》れ
僕《ぼく》は、誘拐というのはつくづく大変な犯罪だと思う。
何しろ死人を誘拐するだけだってこの苦労だ。生きている人間を誘拐するなんて、どんなにか大変だろう。
ともかく、殺してしまった女《によう》房《ぼう》を誘拐する、という計画は、一応順調に進んでいる。もっとも、これで身代金を払ったら、その金はまた僕が受け取ることになるのだ。これは脱《だつ》税《ぜい》になるのかしら?
ま、そんなことはどうでもいい。
「——今の犯人の声に聞き憶《おぼ》えはありませんか?」
と、添田刑事が言った。
「さあ……」
僕は首をひねる。もちろんあれは吉野の奴の作り声……だと思うのだが、それにしてもあんなに違《ちが》う声が出るものだろうか?
もしかすると、吉野の奴には、隠れた、腹話術師の才能があるのかもしれない。今度確かめてみよう、と僕は思った。
「思い当りませんね」
と、僕は添田刑事に言った。
「そうですか。——それで、どうなさるつもりです?」
「どう、って……」
僕は返事に窮《きゆう》した。どうすりゃいいかを考えるのが警察の仕事じゃないのか。こっちに訊《き》かれたって困る。何のために高い税金を納めているんだ!
段々腹が立って来て、僕は添田刑事をにらみつけた。向うも、わけが分らずににらまれて、びっくりしただろう。
「つまり、その……身代金のことです。払いますか?」
「ああ、そのことですか。そりゃ仕方ありませんよ。たかが五千万ぐらいのことで、愛する妻を見殺しにはできません」
〈愛する〉は余計だったかな。
「五千万? 一億という要求だったんではありませんか?」
しまった! 吉野と打ち合せているのが五千万円だったので、ついそっちが口から出てしまったのである。全く、吉野の奴、勝手に値上げしやがって!
「そ、そうです。もちろん一億です。つい、その——二回払いぐらいにするかな、なんて考えてたもので」
「身代金の分割払いというのは、あまり聞きませんね」
と添田は言った。「しかし、いずれにしても、大した金額ですな。私はその十分の一でも払えませんよ。いくら女房が人質になっていても」
「すると見殺しにするとおっしゃるんですか? それはちょっとひどいじゃありませんか!」
僕はまた腹が立って来た。「奥さんと巧《うま》く行ってないんですか?」
「いや、とんでもない。実にいい女房ですよ。顔こそ十人並だが、家《か》計《けい》簿《ぼ》のつけ方が天下一品です。それに、冷《れい》凍《とう》食品を電子レンジで温めることにかけては、天才的なのです」
あんまり理想的な主婦とも思えなかったが、それにしても、この刑事も変っている。誘拐事件の捜《そう》査《さ》に来て、女房のことをのろけてるなんて。
「次の電話は夕方でしたな」
突然、事件の話に戻《もど》る。
「そう言っていましたね」
「その間に、調べておきたいことがあるのですが」
「トイレならその奥です」
「いや……事件のことです」
「はあ、そうですか」
どうも、妻を誘拐された夫と、刑事の対話としては、緊《きん》迫《ぱく》感《かん》に欠けているが、ま、現実はTVドラマのようには行かないものだ。
「この事件には変った特《とく》徴《ちよう》があります」
「というと?」
「つまり、誘拐というのは、普《ふ》通《つう》、外出中を襲われるものです。人気のない道とか、山の中とか」
「美奈子は山が嫌《きら》いでした。虫に刺《さ》されるとすぐにはれ上るんです。皮《ひ》膚《ふ》が弱いんです」
面《つら》の皮は厚かったが。
「ま、それはどうでもよろしいのです。私が申し上げたいのは、自《ヽ》宅《ヽ》か《ヽ》ら《ヽ》誘拐されるというのは、非常に珍しい。私も聞いたことがありません」
なるほど。——この刑事、馬《ば》鹿《か》みたいに見えるが、どうして、なかなか鋭《するど》いところもあるようだ。
「しかも、一人でおられたというのならともかく、ご主人が一《いつ》緒《しよ》に寝《ね》ておられて、誘拐されたというのは……」
「いや、一緒に寝てたわけじゃありません。寝《しん》室《しつ》は別にしていたんです」
「ほう」
添田刑事は興味をひかれた様子で、「すると何かその——夫婦仲が巧く行っていなかったとか?」
と、ちょっと疑わしげな目付きで僕を見る。
「いや、決してそんなことはありません!」
僕は、あわてて言った。「実は——美奈子は非常にデリケートな性質でして。僕がその——ちょっと歯ぎしりなどするものですから、そのせいで眠れないと言いまして。それで寝室を別にしたというわけです」
「なるほど。それで分りました」
添田は肯《うなず》いて、「では、その奥さんの寝室を拝見したいのですが」
「どうぞ、ご案内します」
僕は立ち上った。
もちろん、こう来ることは予期していた。むしろ、いつ言い出すかと待ち構えていたぐらいである。
二階へ上ると、僕は寝室のドアを開けた。
「ここが美奈子の寝室です」
「なるほど。——そのときのままですか?」
「ええ。手は触れていません」
「荒《あ》らされた形《けい》跡《せき》はありませんね」
と、添田は部《へ》屋《や》の中を見回した。
「きっとピストルか何かを突きつけられたんでしょう」
「そうかもしれませんね。犯人はどこから入ったのでしょう?」
「さあ、それは……。たぶんどこかの窓とか——」
「調べてみる必要がありますね」
そう言ってから、添田刑事は、ふと気付いたように、「ところで、ご主人の寝室はどこです?」
と訊いた。
「この向いの部屋です。ご覧になりますか? 構いませんよ」
僕としては、むしろ見てもらいたかったのである。それを予期して、吉野と二人で、使っていなかったベッドをせっせと運び、即《そく》席《せき》に寝室を一つこしらえたのだから。
やはり、人間、苦心の作は、人に見てほしいと思うものなのだ。
「ぜひ拝見したいですね」
と添田刑事は言った。
「どうぞ」
僕は廊《ろう》下《か》へ出て、向いのドアを開けようとした。
「待って下さい」
と、添田刑事が言った。「——今、十二時半です」
「はあ」
「昼食の時間だ。すみませんが、ソバか何かを取ってくれませんか。その部屋は昼食の後で見せていただきます」
と、さっさと階段の方へ行ってしまう。
僕は呆気に取られてそれを見送っていた。日本の警察はこんなことでいいのか!
一応、一億円の身代金を払おうというのに、もりソバでは格好がつかないので、うな重を注文した。刑事たちは大喜びで、
「一《いつ》杯《ぱい》やりたいね」
などと言って、添田ににらまれていた。
玄関のチャイムが鳴った。出て行くと、吉野が立っている。
「おい、どうした?」
と僕は訊いた。
吉野は、髪はメチャメチャ、ネクタイは曲り、上着の裾《すそ》には泥《どろ》がこびりついて、何ともひどい様子だったのだ。
「申し訳ありません、社長!」
と、吉野は頭を下げた。「打ち合せ通りに電話をかけようとしたんですが——」
「おい、こんな所で——」
と僕はあわてて玄関から出て、ドアを閉めた。「中の刑事に聞こえるじゃないか!」
「す、すみません」
吉野は、すっかり混乱している様子だった。
「どうしたんだ、一体?」
「はあ、車が道端へ突《つ》っ込んでしまいまして」
「車が?」
「そうなんです。いや、無《む》謀《ぼう》運転ではありません。目の前にいきなり自転車が飛び出して来たんです。それで急ハンドルを切ったら、土手へ突っ込んでしまいまして……」
「けがしなかったのか?」
「幸い、無事でした。自転車の方は、涼しい顔で行ってしまいまして……。全く、図々しいガキだ!」
「そうか、大変だったな」
と僕はねぎらった。「しかし、計画は順調に進んでいる。心配しなくても大丈夫だぞ。あの誘拐犯は名演だった」
吉野はポカンとしていたが、
「あの誘拐犯? というと……」
「お前の電話さ。真に迫《せま》って、すばらしかったよ」
「私はかけませんが」
「そうか。まあいい。ともかく中へ入って……今、何と言った?」
「電話できなかったんです。その事故のおかげで」
「そんな馬鹿な! しかし脅迫電話はかかって来たんだぞ!」
「私ではありません」
「じゃ、あれは誰なんだ?」
僕と吉野は、しばし呆然と顔を見合わせて突っ立っていた……。
わけが分らない、というのは、何事によらずいやなものだ。
僕も、学生時代、いつも数学の時間に、そういう気分を味わったものである。
「——勝手にお茶をいただいていますが」
居間へ戻ると、添田刑事が、楽しげに言った。まるで何かのお祝いの会でもやってる感じだ。
「どうぞ、どうぞ」
と、言って、僕は一人で二階へ上った。
事態は思いもかけない方へ進展している。これは一体、どう考えればいいのだろう?
美奈子の誘拐計画を知っているのは、僕と祐子の他《ほか》は、吉野しかいない。しかし、あの電話をかけて来たのは、明らかに祐子でも吉野でもないのだ。
「こんなことってあるか!」
と、僕はやけになって呟いた。
一人になって、ゆっくり考えてみたかった。いや、本当なら、祐子に考えてほしかったのだが、今は祐子はいない。
せめて、考える真似《まね》だけでもして、気休めにしよう、と、わびしいことを考えていたのである。
二階へ上って、ちょっとためらってから、さっき入りかけてやめた、「僕の寝室」のドアを開けた。
まあ、やっつけ仕事にしては上出来だろう。一応、寝室といっておかしくない調度は揃《そろ》っている。
僕は、椅《い》子《す》の一つに腰《こし》をかけた。——ここに祐子がいてくれたら。
僕にとって、祐子が欠くことのできない存在であることを、こんなに痛切に感じたことはなかった。
「——祐子」
と、僕は口に出して呟いた。
「何かご用?」
「うん、ちょっと相談が——」
僕は振《ふ》り向いて、仰《ぎよう》天《てん》した。ドアから、祐子が顔を覗《のぞ》かせているのだ。
「祐子! どうしたの?」
「しっ! そんな大声出して」
とたしなめると、祐子は中へ入ってドアを閉めた。
「下に刑事がいるんだよ」
「分ってるわ。ちゃんと挨《あい》拶《さつ》して来たもの」
「挨拶?」
「私はあなたの秘書よ。奥さんのお父様の葬儀においでにならないので、様子を見に来たって、ちっともおかしくないでしょ」
「そりゃそうだな」
「どうしたの?」
祐子は僕の方へ寄って来て、「キスしてくれないの?」
と囁《ささや》いた。
もちろん、相談すべきことはあったが、キスするぐらい五分も十分もかかるわけじゃない。僕は祐子をかき抱《いだ》いた。
「——ねえ」
祐子の声が変った。「何だか変よ」
「そうなんだ。計画が予定とまるで違う方へ進んでる」
「話して」
僕が状《じよう》況《きよう》を説明すると、祐子も、戸惑った様子だった。
「変ね。そんなことを誰が……」
「さっぱり分らない。お手上げだよ」
「しっかりして! ともかく、奥さんと、あの浮浪者の死体は地下室へ隠《かく》したんだから、問題ないわよ。見付かりっこないわ」
祐子の言葉は、どんなドリンク剤《ざい》よりも僕を元気づけてくれる。
「ねえ、ちょっと思ったんだけど……」
「何だい?」
「吉野さんって人、信用できる?」
「吉野? そりゃ、ちょっと頼《たよ》りない奴だけど、変なことを企むようなことはしないよ」
「そうかしら」
祐子は考えながら、「あなただって、吉野さんのことを何でも知っているわけじゃないんでしょ?」
「そりゃそうだけど……」
「人間を外見通りだと思ってると間違いよ。表面、間の抜けたように装《よそお》っていても、本当は抜け目のない人かもしれないわ」
「吉野が?」
まさか、とは思ったが、しかし、そのまさかがときには現実になることもある。
「ともかく、私たちの他に、計画について、少しでも知っているのは吉野さんだけなんだもの。——要注意よ」
「なるほど。じゃ、どうしようか?」
「さし当りは、何も気付かないような顔で、今まで通り振《ふ》る舞《ま》っていた方がいいわ。私が気を付けてるから」
「頼《たの》むよ。君が頼りだ」
我ながら情ないとは思うのだが、しかし、祐子なしでは何もできない。
「私、下で誘拐の話を聞いて、びっくりして見せたの。ここでも、刑事たちにお茶出したりする用があるから、私はここにいることにするわ」
「そりゃ助かるよ!」
と僕は祐子を抱きしめようとした。
「だめよ」
と、祐子は笑って逃《のが》れた。「こんな所へ刑事さんが入って来たらどうするの?」
「失礼しました、って出て行くさ」
祐子は軽く笑って、僕の手からスルリと逃《に》げると、吉野と運んで来たベッドに座り込んだ。
「よくやったわね、この部屋」
「だろう! 大仕事だったんだ」
「このベッド、新しいの?」
「いや、昔、僕が使ってたやつなんだ。今は物置に——」
「ねえ」
祐子は、鋭い声で遮《さえぎ》った。「あの鏡……」
「え」
「鏡に、このベッドが映ってるの」
「そりゃ鏡だから映らないと困る」
「何かあるわ、ベッドの下に」
「ベッドの下? おい、よせよ。美奈子の死体はもう片付けたよ」
「覗いてみて」
祐子の声は、真剣そのものだ。僕は仕方なく床に膝《ひざ》をついて、ベッドの下を覗き込んでみた。
あんまり会っても嬉《うれ》しくない顔がそこにあった。——あの浮浪者である。