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死体は眠らない09
日期:2018-09-14 20:31  点击:340
 9 死体を動かす
 
 早川祐子改め、水野智枝の言葉は、僕を驚《おどろ》かせた。
 それはそうだろう。いくら何でも、可愛《かわい》い、僕の愛《いと》しの祐子が——いや智枝が、どうも急に名前が変っても、ついていけない——まさか。
 「あの人にも死んでもらうしかないわ」
 などというセリフを口にしようとは、予想もしていなかったのだ。
 僕が目を丸くしたのも当然のことだろう。前の章からずっと丸くしていたので、なかなか元に戻らなくなった……。
 「ねえ祐子——あ、いや、智枝か」
 「だめよ! 智枝なんて呼んだら、他の人が変に思うじゃないの」
 「あ、そうか」
 「もう私は生れ変ったから、智枝じゃないの。早川祐子よ」
 「なるほど」
 彼女の言う通りだ。で、ここからまた彼女の名は早川祐子に逆戻りすることになる。
 「でも——ねえ、相手は刑事なんだよ。どうやって死んでもらうんだい?」
 「それをこれから考えるのよ」
 と智枝——いや祐子は言った。ああ、ややこしい!
 僕とて、ここまでの間に、妻の美奈子を殺し、あの浮《ふ》浪《ろう》者《しや》の死体を片付け、狂言誘《ゆう》拐《かい》を計画し、と色々、経験を重ねて来た。何だか、もう、一冊くらいの自伝を出せそうな気さえする。
 しかし、その豊《ヽ》富《ヽ》な《ヽ》経験をひもといても、
 「刑事に死んでもらう方法」
 というのは出ていないのである。
 もちろん、すぐにいくつかの方法は思いつく。あの織田という刑事のところへ行って、
 「お忙《いそが》しいところすみませんが、ちょっと死んでいただけませんでしょうか」
 と頼むのも一つの手である。
 もっとも、これで向うが死んだら、こっちがびっくりしてしまうが。
 「——ともかくはっきりしていることがあるわ」
 と、祐子は言った。
 「昼飯を食べてないってことかい?」
 「違うわ。この家の中で、今、あの人を殺すことはできないってことよ」
 「なるほど」
 「刑事があんなにウヨウヨいるんだものね。ここで事件は起こせない。——そうなると、織田刑事に対しては、二つの段階での対応が必要になるわ」
 祐子は、いつの間にか、会議でもしているような口調になった。
 「一つは?」
 「第一は、差し当り、向うの言うなりになると見せかけて、口をつぐんでいてもらうことよ」
 「第二は?」
 「刑事たちが引き上げて、大丈夫となってから、何らかの方法で、織田を殺すことよ」
 祐子は、まるでホットケーキの焼き方でも説明するようにさり気なく、言った。
 次は器に盛《も》ります、と彼女がどうして言い出さないんだろう、と不思議な気がした。
 「ねえ、私のこと、悪い女だとか、怖《こわ》い女だと思わないでね」
 祐子は僕の胸に身を投げ出して来た。「私だって、こんなことしたくないのよ! 怖くてたまらないの、こんなに震《ふる》えてるでしょう?」
 確かに、僕の腕《うで》の中で、祐子のか細い、愛しい体はわなわなと震えている。
 「もう、私のことがいやになった?」
 「とんでもない!」
 僕は力を込《こ》めて彼女にキスした。
 「私たちが幸福になろうとするのを邪《じや》魔《ま》するものは、何としてでも取り除かなきゃ! そのためには心を鬼《おに》にして、あの刑事を殺すしかないのよ」
 「あの刑事を殺すのなら、何も鬼にしなくたっていい。ネズミくらいで充《じゆう》分《ぶん》だよ」
 と僕は言った。
 祐子は笑ってキスを返して来た。
 「頼もしい人ね。大好きよ」
 こう言われて、人の一人ぐらい殺せない奴《やつ》がいたら、お目にかかりたいものだ!
 「じゃ、早速殺して来るよ」
 と僕はドアの方へ歩きかけた。
 「待って! 今はだめよ!」
 祐子があわてて僕の腕を取って引き止める。「——いい? ともかく差し当りは、あの刑事を丸め込むのよ」
 「どうやって?」
 「それは任せて。私が巧くやるわ」
 このセリフを聞くと、僕は母の子《こ》守《もり》唄《うた》を聞いた子供のように、安心するのだ。
 「問題はこの浮浪者の死体ね」
 と、祐子がかがみ込んで、ベッドの下を覗いた。
 「まだいるかい?」
 「死んでるんじゃ、どこへも行くわけないでしょ」
 祐子は立ち上って、「——この部屋は、もう刑事たちが見たの?」
 と訊いた。
 「いや、まだだよ。昼食の後でってことになってる」
 「じゃあ、何とかしなきゃ! 調べられたら、いっぺんに見付かっちゃうじゃないの」
 「あ、そうか」
 僕としたことが(僕だからこそ、かな)うかつだった! そんなことに気付かなかったのだ。
 「じゃ、どうしよう?」
 「困ったわね……もうそろそろ下は食べ終るかもしれないわ。地下室へ運ぶには一階を通るから危ないし……」
 「どこかへ一時しまっといて……。でも、引出しには入らないからなあ」
 「ねえ!」
 と祐子が指を鳴らした。「奥さんの寝室は? 調べた?」
 「うん、さっきね」
 「じゃ、そこがいいわ!」
 と、祐子は言った。「一度調べたところですもの。安全よ」
 「なるほど」
 祐子は天才だ、と僕は感《かん》嘆《たん》した。「じゃ、美奈子のベッドの下に?」
 「それが一番いいでしょうね」
 「よし、運ぼう」
 「早い方がいいわ!」
 二人して引っ張ると、かなり楽である。浮浪者の死体は軽くはないが、もう大分硬《こう》直《ちよく》しているのか、ぐったりしてはいないので、却《かえ》って扱《あつか》いやすい。
 ドアの前まで引っ張って行って、
 「待って」
 と、祐子がドアを細く開け、外を覗く。「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》よ」
 こうして廊下へと、浮浪者の死体を引きずり出す。祐子が、向い合せのドアを開ける。
 「早く早く!」
 祐子がせかせる。こうして、浮浪者の足を一本ずつ持ち、美奈子の寝室へと引きずり込もうとしたとき、
 「——社長、そこですか」
 と声がした。
 吉野が階段を上って来るのが見えた。
 あいつ! 人の邪魔しかしない奴なのだから!
 「早く!」
 と祐子が声を低くして、「中へ入れるのよ! 早く!」
 そうなると、突然、浮浪者の死体が重くなったように感じられる。ズルズルッと音を立てて、浮浪者の死体が、美奈子の寝室の中へ——吉野の頭が見えて来る。
 「このままにして!」
 祐子と僕が廊下へ飛び出してドアを閉めるのと、吉野の奴が顔を出したのと、同時であった。
 「あ、こちらでしたか」
 こちらでしたか、もないもんだ! 僕は吉野をぶん殴《なぐ》ってやりたかった。
 こんな事態に僕らを追い込んだのは、この吉野に違いないのだ。祐子がそう言っているのだから、確かである。
 「落ち着いて」
 祐子が囁いた。——僕はハッとした。そうだ。ここは、平静を装わなくてはいけない。
 「何か用かね、吉野君?」
 いささか気取り過ぎの気はあった。
 「下で、あの刑事が呼んでいますが」
 「分った。行くよ」
 「私、お茶をいれかえてあげなくちゃ」
 と、祐子は、先に立って階段を軽やかに降りて行った。
 「社長、どうなさいました?」
 と吉野が言い出した。
 「どうって?」
 「息を切らしておられますが」
 「う、うん……。今、ちょっと考えごとをしてて疲れたんだ」
 「そうですか」
 僕は吉野と一緒に階段を降りながら、
 「これからどうなるのかな」
 と言った。
 「脅迫電話をかけたのは、誰なんでしょうねえ」
 と、吉野は首をかしげた。
 「夕方に、もう一度かかって来る」
 「今度は何の連絡でしょう?」
 「僕が知ってるわけはないだろう」
 「妙ですねえ」
 と吉野は、しきりに首をひねっている。——この、タヌキめ!
 今に見てろよ、と僕は心の中で呟《つぶや》いた。
 居《い》間《ま》に入って行くと、添田刑事がやって来た。
 「どうもごちそうになりまして」
 「いいえ」
 そんなことを言うために呼んだのか?
 「実は、犯人の電話を待つ間、全員がここにいても仕方ありませんから、二人ほど残して、他の者は、一《いつ》旦《たん》引き上げようと思うのですが」
 「帰るんですか?」
 僕はいささか心外だった。「可哀《かわい》そうな美奈子が、今、どこでどんな仕打を受けているかもしれないっていうのに——」
 「いや、もちろん捜査は進めます」
 と添田はあわてて言った。「しかし、ここでじっとしていても仕方ありませんからね」
 「分りました」
 「夕方、早目にこちらへ戻ります。犯人からの次の電話には間に合うでしょう」
 と添田は腕時計を見て言った。「もちろん万一早く犯人からの電話があっても、二人残っていれば、ちゃんと対処できますよ」
 「じゃ、どなたが——」
 「池《いけ》山《やま》というのと、それから、織田の二人を置いて行きます」
 織田だって? あの、祐子を恐《きよう》喝《かつ》しようとしている、悪い刑事ではないか。
 「二人ともベテランです。安心して任せておいて下さい」
 と、添田が言う。
 冗《じよう》談《だん》じゃないよ、全く! 僕は、刑事たちにお茶を出している祐子の方へ目を向けた。祐子は、至って落ち着いた様子で、お茶を注《つ》いで回っている。
 全く大した度胸である。
 「あの——社長」
 と吉野が言った。
 「何だ!」
 「私はどういたしましょう?」
 好きにしろ、と言いたかったが、待てよ、と思い返す。こいつが僕を裏切っているのなら、目の届く所に置いていた方が安心である。
 「ここにいてくれると、何かと心強いな」
 「では、そういたします」
 内心はどう思っているのか、吉野は素直にそう言った。
 「——ああ、忘れるところでした」
 と、添田が言った。「ご主人の寝室を、ちょっと拝見していいですか?」
 「ええ、どうぞ」
 と僕は言って、先に立って階段を上った。
 「——何もありませんけどね」
 死体は片付けましたし、とつい言いたくなる。——僕は天《あまの》邪《じや》鬼《く》なのかな。
 「部屋がこんなにあるとは、凄《すご》いですなあ」
 と添田が言った。「私の所など、ここに比べたら、マッチ箱ですよ」
 添田が、美奈子の寝室のドアを開けようとしたので、僕はあわてた。浮浪者の死体をドアのすぐ前に置いたままだ!
 「あの——こっちですよ、僕の寝室は」
 「あ、こりゃ失礼」
 開きかけたドアを、添田はまた閉じた。「ひどい方向音《おん》痴《ち》でしてね。よくこれで刑事をやってられると思いますよ」
 全くだよ! こっちの心臓にも悪い。
 僕は、自分の寝室のドアを開けてやった。
 
 添田たちが一旦引き上げて行くのを見送って、僕は、居間へ戻って来た。
 池山というのは、まだ若い刑事で、例の、織田がソファに寝そべって雑誌などを眺《なが》めている間も、電話の録音装《そう》置《ち》を点検したりしている。
 同じ刑事で、こうも違うものか、と僕は思った。
 こうしていても仕方ない。僕は、二階へ上った。あの浮浪者の死体を、美奈子のベッドの下へ押し込んでおかなくてはならない。
 美奈子の部屋のドアを開けると、祐子が立っていた。
 「——あ《ヽ》れ《ヽ》は?」
 「私一人で何とか動かしておいたわ」
 祐子は軽く息を弾《はず》ませている。
 「大変だったろう!」
 「何とかなるものよ、その気になれば」
 祐子はベッドに腰をかけた。
 「これからどうする?」
 「そうね……。まず向うの出方を見ないと。犯人が夕方の電話で何と言って来るのか……」
 「金は月曜でなきゃおろせないんだ」
 「向うもそれは分ってるのよね。でも、なぜ電話して来るのかしら? 逆探知される危険だってあるのに」
 「そうだなあ。——しかし、かけてよこすからには、何か理由があるんだよ、きっと」
 「それは待つしかないわね」
 と、祐子は言った。「それより、織田との話をつけなくちゃ……」
 何かを決心したときの祐子の顔は厳しい。僕の腕の中で甘《あま》えて来る祐子とは別人のようだ。しかし、この祐子もまた、魅《み》力《りよく》的《てき》ではあった。
 「池沢さん!」
 と、声がした。僕と似た名の池山刑事である。
 「——何ですか?」
 とドアを開ける。
 「電話です! 鳴っています。出てみて下さい!」
 「でもまだ時間は——」
 「ともかく早く!」
 僕はせかされながら、階段を降りて行った。

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