13 深夜の重労働
「馬《ば》鹿《か》にしてる!」
と僕《ぼく》は言った。
「怒っても仕方ないじゃないの」
と、早川祐子は至って論理的に言った。
確かにそうだ。相手がいないのに怒るのはエネルギーの浪《ろう》費《ひ》というものである。
もっとも、そう考えたからって怒りがおさまるものではない。そう簡単なものなら、人間、怒ったりしないだろう。
——ん? 何の話だっけ? どうも僕はときどき脱《だつ》線《せん》してしまう癖《くせ》が抜け切らない。
「一体どこに行っちゃったのかしら」
と、さしもの祐子も、困《こん》惑《わく》の体《てい》である。
困って、ちょっと顔にし《ヽ》わ《ヽ》寄せて考え込んでいる祐子というのが、また可愛いのである。食べちゃいたいくらいだ!
いや、今はそれどころじゃない。地下室で僕と祐子は呆《あつ》気《け》に取られて立っていた。
だって、ここへしまい込んでおいた妻の美奈子の死体がどこかへ行ってしまったのだから、無理もない。
「おかしいわ」
と祐子は言って首を振《ふ》った。
その首の振り方がまた可愛くて——いや、もうやめておこう。
「ともかく死体が勝手にどこかへ行くわけはないわ」
「ということは、誰かが運び出したってわけだね」
と、僕は推理を働かせた。
「一体誰かしら? 警察の人間でないことは確かだし、といって、他にここにいる人といったら……」
「——吉野だ!」
僕のカンは、実に冴《さ》えていた。
「そうだわ」
と、祐子は肯《うなず》いた。「あの人はここへ来て奥さんの死体を見付けたのよ。これを警察に見られたら、吉野さんにとってもまずいわ。身代金も取れなくなるんですもの」
「なるほど。それで——」
「死体をどこかへ隠したのよ!」
「あいつめ……」
僕は本当に腹を立てた。怒ると怖いんだ。本当だぞ! 女《によう》房《ぼう》を殺したくらいなんだからな!
「よし、吉野の奴をぶっ飛ばしてやろう」
僕は拳《こぶし》を固めて、エイッと振り回した。行きすぎて、スチールの棚《たな》にガツン、と衝《しよう》突《とつ》——いや、痛いのなんの……。
悲鳴を上げてピョンピョン飛びはねた。あまり見っともいいものではなかったが、本当に痛いときに、そんなことを言っちゃいられない。
「大丈夫?——静かに! 誰かが聞きつけたら——」
祐子の言う通りだ。僕は英《えい》雄《ゆう》的《てき》努力で、苦痛に堪えた。涙がポロポロこぼれて来る。
こんなとき、美奈子なら、ギャハハ、と嘲《あざ》笑《わら》ったろうが、祐子はそんなことはしない。
「大丈夫?」
と心配そうに僕の手を取ってくれたのである。
やはり祐子は美奈子とは人間が違《ちが》うのだ。同じ細《さい》胞《ぼう》でできていて、どうしてこうも違うのか、これはTVの科学番組あたりで、取り上げてほしいくらいである。
「吉野さんを殴ったって何にもならないわよ」
と祐子は言った。「こちらから、奥さんを殺したと言うのと同じよ。ますます向うの方が強い立場になるわ」
「そ、そうか……」
「ここはぐっとこらえるのよ。何事もなかったような顔をして」
「そ、そうだね」
「ともかく差し当りは、二階の二つの死体を埋めに行かなきゃ。——何か掘る物はあって?」
「探してみるよ」
と僕は言った。
何しろ僕は電球の球一つ取り換《か》えるにも電気屋を呼ぶくらい、工事(というほどのものじゃないが)とは縁《えん》のない人間である。果してトンカチやノコギリの類が我が家にあるものかどうか、まるで知らない。
しかし、もし家にその手の物があるとしたら、この地下室しかないということぐらいは分る。
「——見当らないなあ」
と、僕は額の汗《あせ》を拭《ぬぐ》って、「その奥かな?——ええと——何だ、この棒っきれ、邪魔だな」
棚の裏側へ頭を突っ込んで、中をかき回しながら、手に当った棒をつかんで、ヒョイと後ろへ放り投げた。
「ええと……。違う! やっぱりないよ、ここには」
と手の埃《ほこり》を払いながら起き上って振り向くと、祐子が、シャベルを手に立っていたのである。
「君——どこで、それを」
と僕は目を丸くして訊《き》いた。
「今、あなたが放り投げたのよ」
と、祐子は言った。
穴を掘る。——この作業がいかに大変なものか、分るだろうか?
いや、経験のない人には、まず無理であろう。——僕は、よく死ななかった。と自分を賞《ほ》めてやりたくなった。
仕《ヽ》事《ヽ》が終って、戻《もど》ったのは、もう夜が白々と明けてくる頃だった。
二階から死体を降すのは、祐子も手伝ってくれたけど、二人ともこの家を出てしまうのはまずい、というわけで、死体を裏の林へ運んでからは、祐子は家の中へ戻っていたのである。
「——大丈夫?」
家へ入るなり、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった僕を、祐子はあわてて支えた。
「やったぞ!——ついにやった!」
と僕は言った。
もう意識モーローとして、正に幻《げん》覚《かく》でも見かねない状《じよう》態《たい》だった。
「さ、ともかく二階へ。——後は私がやるから、お風《ふ》呂《ろ》へ入って」
「もう寝るよ」
「だめよ! 泥《どろ》だらけじゃないの。洗っておかなきゃ」
「ああ……そうか」
不便なものである。
「シャベルは?」
「ん?——ああ、途《と》中《ちゆう》で落っことしたらしいな」
「見付かったら大変! 私が取って来るわ」
僕は祐子に肩を支えられて、階段を一段ずつ上って行った。何百段もあるような気がした。エベレスト山を階段で上るような——というとオーバーかもしれないが、実際、そんな気分だったのである。
それでも何とか寝室へ辿《たど》りつくと、祐子が服を脱《ぬ》がせてくれる。このときばかりは色気ぬき。浴室で、熱いシャワーを浴びて、やっと生き返った思いだった。
「じゃ、私、シャベルを取って来るわ」
「うん頼むよ」
「それで……ちゃんと埋めて来た?」
「任せとけよ! たっぷり掘って埋めて来たから」
「よかった! 本当にあなたって頼りになるわ」
祐子がキスしてくれると、僕の疲れも——このときはひどすぎたので、二、三パーセントだったが——薄《うす》らいで行った。
祐子が出て行くと、僕は体を洗って、這《は》うようにして部《へ》屋《や》へ戻り、体を拭うのももどかしく、ベッドへと潜《もぐ》り込《こ》んだ。
いかに眠《ねむ》るのが早かったか、は、毛布をかけるかかけないかの内に、何も分らなくなってしまったのでも分るだろう……。
——揺《ゆ》さぶられて目を覚ますと、祐子が覗《のぞ》き込んでいる。
「やあ……。何かあったの?」
「もう起きないと怪しまれるわ」
「もう? 寝たばっかりだよ」
「何言ってるの」
と、祐子は微笑んだ。「もうすぐ昼の十二時よ」
「そんな時間?」
僕は仰《ぎよう》天《てん》して飛び起きた。——とたんに祐子が、
「まあ!」
と言って目を見張り、クスクス笑い出した。
僕はキョトンとしていたが、やがて分った。——昨夜、風呂を出て、そのままベッドへ潜り込んだので、服を着るのを忘れていた。素っ裸だったのだ。
「いやらしい夢でも見てたんでしょ」
と祐子は言って、ちょっとウインクして見せると、「早く下へ来てね」
と、言って出て行った。
僕は、洗面所へ行こうとして、顔をしかめた。体中が痛い!——やはり僕のような知的エリートに肉体労働は無理があるのだ。
何とかシャワーを浴び、顔を洗って目を覚ますと、ヒゲを当り、きちんとしたスタイルになって、階下へ降りて行った。
階段を降りるのが、また一苦労。一段毎に膝《ひざ》がガクガク震え、腰に痛みが走る。顔に出さないようにするのが大変だった。
やはり人殺しは楽じゃない、と僕は痛感した。