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死体は眠らない14
日期:2018-09-14 20:34  点击:287
 14 混 乱
 
 「——どうかしましたか?」
 僕の顔を見るなり、添田刑事がそう言ったので、僕はギョッとした。
 体の土は洗い流したつもりだし、怪《あや》しまれるようなことはしていないつもりなのだが……。さすがはベテラン刑《けい》事《じ》で、僕の気付かなかった所を見《み》抜《ぬ》いていたのかもしれない。
 「あの——何か?」
 と僕は訊き返した。
 「いや、何だか寝不足らしい顔をしてらっしゃるので……。あ、いや、それは当然ですね。奥様の身が心配で、ろくに眠れなかったのでしょう。分り切ったことをお訊きしたりして申し訳ありませんでした」
 「はあ……」
 一人で訊いて、一人で返事をしてくれているのだから、こんな楽なことはない。
 「今日のご予定は?」
 「予定……ですか」
 そう言われても、今日は日曜日である。会社へ行くわけにもいかない。それに、妻が誘拐されていることになっているのに、ピクニックに行くわけにもいかない。
 「家で過すつもりですが」
 仕方なく僕は当り前の返事をした。
 「なるほど!」
 添田刑事はなぜか深刻ぶって肯いている。——僕も変ってるかもしれないが、この刑事も変っている。まあ、いい勝負だろう。
 「添田さん」
 と、えらく威勢のいい声がして、飛び込んで来たのは、若い池山という刑事だった。
 「どうした?」
 「手がかりをつかみました!」
 「何だと?」
 僕もびっくりした。一体この刑事、何をつかんだというのだろう?
 「話してみろ」
 「はい! 実は、今、出かけたついでに、昨日のドライブ・インのウエイトレスの顔を見ようと思いまして——」
 「おい、貴様は、それでも刑事か!」
 添田刑事が顔を真っ赤にして怒《ど》鳴《な》った。
 「い、いえ——今日はその——や《ヽ》っ《ヽ》て《ヽ》は来なかったんです」
 「当り前だ!」
 「で、話をしておりますと、その可愛い娘《こ》が思い出してくれたのです」
 「〈可愛い〉は余計だ!」
 「は——つまりその——金曜日の深夜、怪しい車を見かけたというのです」
 「怪しい車だと? ふん、どうせどこかのおめでたい奴と同じで、中で楽しんどったんだろう」
 ははあ、と僕は思い当った。こりゃ、添田刑事は、池山の若さをや《ヽ》い《ヽ》て《ヽ》いるのだ。だから、こんなにして、いびるのだろう。
 「いえ、チラッと見た限りでは、その——車の中で、女が猿《さる》ぐつわをかまされているようだったと……」
 「何だと!」
 添田刑事は、飛び上らんばかりにして言った。「そ、それは確かか?」
 「いや——その——それほど確かでは——」
 と、池山刑事はしどろもどろになる。
 「見たのか、見ないのか、はっきりしろ!」
 と、添田は迫《せま》った。
 「それは無理だと思いますわ」
 と、思いがけないところから口が入った。祐子である。
 「絶対見たと思うのなら、当然届け出たでしょう。確信がないから、つい黙っていたんじゃないでしょうか。チラッと目に入っただけのものを、警察へ届けるって、なかなかできないものだと思いますわ」
 さすが祐子! 論理的、かつ人間味溢《あふ》れたその解釈には、添田もたじたじで、
 「そ、それはその通りです。いや、実にまことにごもっとも」
 そこで一つ咳払いをして、「では、その女は猿ぐつわをかまされていたらしいというんだな?」
 「そうなんです」
 「で、その車というのは?」
 「はあ、深夜十二時過ぎだったそうです。ドライブ・インの前に車が停《とま》り、運転席の男が降りて来ました。そして入って来ると、コーヒーとハンバーガーを三つずつ注文し、持って行くから、急いでくれ、と言ったそうです」
 「どんな男だった?」
 「いや——その男の注文を受けたのは彼女ではなかったので、顔は見なかったそうです。ただ、白っぽいジャンパーの男だったと言ってましたが」
 「そんなのはゴマンとおる」
 「で、彼女はテーブルの客が帰って行ったあとを片付けていて、ふと窓の外へ目をやりました。ちょうど停めてある車が見えて、後ろの座席が目に入ったのです。男が一人、そして女が一人。——その女がどうも口のところに布をかまされていたように見えたということでして——」
 「はっきりは分らなかったんだな?」
 「男の方が、彼女の視線に気付いたらしいのです。女の頭を押えつけたので、女の方は見えなくなりました。——彼女の方も気にはなったようですが、ちょうどそこへ、長《ちよう》距《きよ》離《り》トラックの運転手が三、四人入って来たので、そっちの注文を聞かなくてはならなかったというので……」
 「ふむ……。そいつは残念だったな」
 「その後、気になって、もう一度表へ目をやると、もう車はいなくなっていたということです」
 「そいつは怪しい。大いに怪しい」
 添田は、急に動物園のクマになったように、やたら部屋の中を歩き回り出した。
 「——どんな車だったか憶《おぼ》えていないのか?」
 「夜ですからね。 乗用車 ——たぶん中型車だったということしか——」
 「そういうときはちゃんとナンバーを記《き》憶《おく》しておくのだ。時間がなくなると、TVの刑事物ではたいていそういうことになる」
 添田という刑事も、かなりめちゃくちゃな男だ。
 「でも、刑事さん」
 と、祐子が言った。「コーヒーとハンバーガーを買いに来た男の相手をした店員さんがいるんじゃありませんか?」
 「そうだ!——おい、池山、その店員をすぐに引っ張って来い!」
 やれやれ、これじゃ祐子が少し警察から給料をもらわなきゃ合わないよ。
 「はあ。それも訊いてみたんですが、夕方からでないと出勤して来ないと——」
 「誘拐事件だぞ! 一刻を争うんだ! 自宅へ行って連れて来い! いやがったら手錠をかけてもいい!」
 新聞に知れたら大問題になるだろう、と僕は思った。——それにしても、ご苦労な話である。
 美奈子は僕が殺したのだから、誰にも誘拐されるはずがない。猿ぐつわをかまされるはずもないのである。
 ネッカチーフか何かが、そんな風に見えたのだろうが、警察も大分予算をむだ使いしそうで、ちょっと申し訳ないという気がした。
 祐子が台所へお茶をいれに行った。僕は後から入って行くと、
 「連中、見当外れの方向へ進みそうじゃないか」
 と言った。
 「しっ! 低い声で」
 祐子はそう言って、居間の方をうかがい、「——ちょうどこっちにとっては好都合よ。奥さんが誘拐されたという裏付けになるじゃないの。私たちを疑う人はまずいなくなるわ」
 「全くだ。——でも、調べれば、それがただの見間違いだったと分るんじゃないかな」
 「そんな心配ないわよ」
 と、祐子が微笑んだ。「そんな曖《あい》昧《まい》な話、手配したって分るわけない。だから却っていいのよ」
 「どうして?」
 「考えてごらんなさいよ。見付からない限り、その車に乗っていた男たちを犯人と思って追い続けるわ。その間に私たちはあれこれと手を打てるじゃないの」
 「なるほどね」
 いや、実際に、祐子の頭の回転の早さには、僕はとてもついて行けない。それだけ頼りがいのある存在なのだ。
 「あの——失礼します」
 と声がして、ギクリとしながら振り向くと、てっきり出かけたと思っていた、池山刑事が立っている。
 「何でしょうか?」
 さすが、祐子は落ち着き払っていた。
 「いや——さっきのお礼を申し上げたくて。彼女のことを弁護して下さって、ありがとうございます」
 「いいえ、そんなこといいんですのに」
 「いや、あなたは本当に頭のいい方ですね。よくできた、優しい人です。それに美しい。本当にすばらしい人です!」
 しゃべりながら、段々池山の目の色が変って来た。恋《こい》の色——というのが何色か知らないが濃《こ》い(恋)というぐらいだから薄い色ではあるまい——なんて下らないことを言っている場合ではない!
 この男、祐子に一目惚《ぼ》れしてしまったのに違いない!
 「どうも恐れ入ります」
 祐子は、ちょっと照れくさそうに、「でも、それは買いかぶりというものですわ」
 「いや、そんなことはありません! あなたは婦人警官になられるべきです!」
 と、池山は言った。
 僕は、危うくひっくり返りそうになった。
 「——笑っちゃ気の毒よ」
 と、祐子は、池山が行ってしまってから、自分も笑いをかみ殺して、「でも愉《ゆ》快《かい》な人ね、あの人」
 「君に惚れてるんだ」
 「そうかもね。——何かに利用できるかもしれないわ」
 と、さすがに冷静に考えている。「でも、どう?」
 「何が?」
 「私、本当に婦人警官になったら似合うかしら?」
 僕は目を丸くして、祐子を見つめた。
 
 「——ええ、その人なら、憶えてます」
 と、その女の子は言った。
 別に手錠をかけなくても、ここへやって来た、例のドライブ・インのウエイトレスである。池山刑事の彼女の方でなく、その「怪しげな車」の男にコーヒーとハンバーガーを売った当人だ。
 「そうか。どんな男か言ってくれるかね?」
 添田刑事は、いとも優しい口調で言った。池山刑事に対するのとまるで違う。
 その女の子は、ちょいと首をかしげていた。——添田刑事の顔に、不安気な影が走った。
 忘れちゃいました。そう言い出すのではないか、という予感があったのだろう。僕も実はそう思った。
 しかし、その娘、全然違うことを言い出したのである。
 「あのお……紙と鉛《えん》筆《ぴつ》を下さい」
 「紙と鉛筆?」
 添田が呆気に取られて訊き返す。
 「ええ。できるだけ太い鉛筆。できれば2Bくらいのがいいんですけど」
 「何するんだね?」
 「あの男の顔を絵で描《か》きたいんです」
 「君は絵をやってるの?」
 「本業は美術学校の生徒ですもの」
 これは正に奇《き》跡《せき》というべきだったろう。
 添田刑事は、
 「早く! 紙と2Bの鉛筆を持って来い!」
 と怒鳴った。
 しかし、普通の家に2Bの鉛筆なんてあるものか。——仕方なく、池山刑事が、急いで近くの文具店まで買いに行くことになった。若いと、こき使われる。
 池山が戻って来るまでの十五分間、添田のソワソワしていることと来たら、どう見ても、ふさがっているトイレの前を行きつ戻りつしている、としか思えなかった。
 そして、一分おきに、
 「大丈夫か? まだ憶えてるか?」
 と、その女の子に訊くのだった。
 「ええ、ちゃんと」
 その女の子の方が、よっぽど落ち着いていた。
 池山が息せき切って飛び込んで来た。スケッチブックと2Bの鉛筆を一ダースも買い込んで来たのである。
 「一ダースも買うばかがあるか!」
 と、添田が怒鳴った。「一本で充分だ。十一本分はお前のポケットマネーで払え!」
 みみっちい警官である。
 その女の子は、スケッチブックを開くと、2Bの鉛筆を走らせ始めた。サッ、サッと見ていても気持いい手際で、描き進めること五、六分。
 「——こんなとこかな」
 と、小首をかしげて、その絵を眺め、「はい、どうぞ」
 と、差し出した。
 みんなが一斉に覗き込む。——みごとなものだった。年齢は三十五、六、ちょっと特《とく》徴《ちよう》のある、鼻のやけに大きな男が描かれている。
 「ほう! うまいもんですね!」
 と、方々から感嘆の声が上った。
 僕も拍手してやろうかと思ったのだが、誰もそこまでしそうもないので、やめておくことにした。
 なぜか、一人だけ、全然違う表情をしている男がいた。添田だ。
 添田はその絵を一目見るなり、目を見開いて、口をポカンと開け——要するに間の抜けた顔になってしまったのである。
 「添田さん、この絵を写真に撮《と》らせましょうか?」
 と、一人の刑事が言ったが、添田は全然聞いていない。
 「添田さん、どうしました?」
 と他の刑事が訊くと、突然、
 「こん畜生!」
 と、添田が大声で叫んだ。
 てっきり発《はつ》狂《きよう》したと思った僕は、反射的に台所の方へ目を向けた。包丁はしまってあったろうか、と考えたのだ。この用心深さが、僕の長所である。
 「いや、失礼」
 と、突然また元の調子に戻ると、添田は言った。「ちょっと思いがけない顔に出くわしたものですから」
 「この男をご存知なんですか?」
 と僕は訊いた。
 「もちろんです。これはかつて、若い女性を誘拐、殺害した容疑で逮《たい》捕《ほ》されたのですが、証拠不充分で無罪になった男です。私もその当時、捜《そう》査《さ》に加わっていました」
 「じゃ、ご存知のはずですね」
 「忘れられるものですか」
 添田はしみじみとした調子で言った。「犯人であることは間違いなかったのに、証拠がなく、悔《くや》し涙を呑《の》んで、釈放したのです」
 「そうでしたか」
 「あれ以来、夢にあの男の顔がチラついて、消えないのです。いつか、尻尾をつかんでやるぞ、と心に誓《ちか》っていたのです! その男が今、ここに……。これこそ天の配剤というべきです!」
 添田は力強く、拳を振り上げて言った。いささか芝居がかってはいたが、感動的な名場面であった。
 「で、何という男なんですか?」
 と僕は訊いた。
 添田刑事は少し間を置いて答えた。
 「忘れました」
 
 「——何だい、あの刑事は?」
 僕は二階の部屋へ入ると、ベッドにゴロリと横になって言った。
 「面白い人ね」
 「どこか抜けてんだな」
 「でも、悪い人じゃないわ」
 それはその通りだろう。
 「しかし、どうも妙《みよう》な成り行きだなあ。たまたま、そんな誘拐犯がこの近くを通ったなんて」
 「偶然ってそんなものよ」
 「そうかな……」
 「いいじゃないの。ますます私たちが疑われる心配はなくなって来たわ」
 「もう安心だな」
 「まだよ。脅迫電話の主のことも、奥さんの死体のこともあるわ」
 「そうか……。全部そいつのせいにできないかな」
 「虫がいいのね」
 と祐子は笑った。
 「楽をして成功するのが一番だろ」
 「それは無理ね」
 祐子が、僕の方へかがみ込んでキスした。僕は彼女を抱きしめようとしたが、祐子はスルリと抜け出して、
 「だめよ。いつ誰が来るか分らないのに」
 とにらんだ。
 その顔がまた可愛いのだ。——ちょっとしつこいかな。
 「それに、吉野さんのこともあるわ」
 と祐子は言った。「彼も、思いがけないことで、計画が狂って困ってるんじゃないかしら。あんな誘拐犯が出て来るなんて、思ってもいないでしょ」
 「そうだね。どう出て来るかな?」
 「予測はできないわね」
 と、祐子は首を振った。「むしろ吉野さんにとっても、警察の目をそらす、絶好のチャンスと思ってるかもしれないわね」
 「生意気だ! 僕らの真似《まね》をしてる!」
 わけも分らず、僕は腹を立てていた。
 「いよいよ、吉野さんと対決する時が来たようね」
 と祐子が言った。
 僕はガバと起き上り、腰の痛さに目を丸くした。
 「そ、それじゃ……OKコラルで決《けつ》闘《とう》でも……」
 「まさか!——これは頭《ず》脳《のう》戦《せん》よ」
 そうなると僕は弱い。肉《にく》弾《だん》戦《せん》もあまり強くないが。
 「まず私が吉野さんに接近するわ。そして、手を組もうとしていると信じさせる……」
 「なるほど」
 「あなた、やかないでね。——少しは吉野さんに気のある様子を見せないと」
 僕の小さな胸が痛んだ。
 「う、うん。我《が》慢《まん》するよ」
 英雄的努力で、そう言ったとき、ドタドタと階段を上って来る足音がした……。

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