16 死体発見
「——さあ、憶えたな」
と、添田が犬の頭を撫《な》でる。「いいか、こいつを見付けてくれよ」
そう言い聞かせて、警官へ、
「早速この近辺から始めろ!」
と命じる。
万事休す。五分としないうちに、犬はあの死体を埋めた場所をかぎ出すだろう。
ともかく、この新事態を、祐子へ知らせなくては!
僕は居間へと戻りかけた。
「おい、何をする!」
と声がして、振り向くと、添田が床にひっくり返り、犬がその上にドカッとのっかって、ワンワン吠え始めたのだ。
「どけ! こら! 俺《おれ》の上にどうして——こいつ!」
警官がやっと犬を引き離す。添田はあわてて起き上って、
「何だ、この犬は!」
と怒鳴った。
「申し訳ありません。ハンカチを見ると興奮するクセがありまして」
「俺のハンカチじゃないぞ」
「はあ。誰のでもカーッとなっちまうようなんです」
「ひどい警察犬だな」
「いつも落第してばかりで。——でも今日はあいにく、こいつしか空いてなかったんですよ」
「ともかく外へ連れてけ!」
「大丈夫です。捜し始めりゃ早いですから」
犬が出て行くと、添田はネクタイを直して、
「——ま、犬にも色々個性というものがあります」
と言った。
台所へ行くと、僕は祐子に、犬のことを話した。
「警察犬ね。——そこまで考えなかったわ、私も」
「どうしよう?」
「仕方ないわよ。落ち着いてらっしゃい」
と祐子は平然としている。
「でも——」
「証拠は残してないわ。大丈夫、あなたが疑われる理由はないんだもの」
祐子の言葉で、僕の心は軽くなった。
「じゃ、知らん顔してりゃいいんだね」
「適当に、不自然でない程度に、びっくりして見せるのよ」
「よし! それぐらいなら僕だって——」
と言いかけたとき吉野がパッとドアを開けて、
「社長! 大変です」
「どうした?」
もう見付かってしまったのか。
「警察犬が——」
「何か見付けたのか?」
「玄関先に小便をしました!」
僕としては、実に寂《さび》しい気分になったのだった……。
そこへ、しかし、本物のニュースが飛び込んで来た。池山刑事だ。
「池沢さん……。織田さんの死体が見付かりました」
「まあ、お気の毒に!」
すかさず祐子が言った。これで、僕も多少は心の余《よ》裕《ゆう》ができた。
「どこで見付かったのですか?」
と僕は訊いた。
「それが、このすぐ裏手の林の中だったんです」
「それはまた……。しかし、さすがに、警察犬ですね」
「いや、見付けたのは、人間の方でして、あの犬はまるで別の方向へ向って、走って行ってしまったんです」
「——どういう意味です?」
「そっちにネズミか何かがいたらしいんで、それを追っかけて行ったんです」
僕は不思議に、その犬のことを怒ったり、馬鹿にしたりする気にはなれなかった。
そいつはきっと警察犬の中でも落ちこぼれの一人——いや一匹《ぴき》なのだろう。やはり、何をやってもあまりうまく行ったためしのない僕としては、限りない親近感を覚えるのだ(ちょっとオーバーだったかな)。
「人間が見付けたって、どういうことですの?」
と、祐子が訊いた。
「ええ、それが、犬を追っかけてるうちに、誰かが、『変なものが突き出てるぞ!』と叫びまして、駆け寄ってみると、何と人間の手だったんです」
「まさか!」
と僕は叫《さけ》んで、あわてて口をつぐんだ。
この自制心を見よ! 以前の僕ならきっと、
「そんな馬鹿な! 僕はちゃんと深く埋めといたんだぞ」
と叫んでいたに違いないのだ。
やはり殺人は人を成長させるという、すばらしい例がここにも見られたわけである。これを論文に書いて、一つ博士《はかせ》号《ごう》でも取ってやろうかしら。
——それはともかく、「まさか!」という叫びは、特に池山刑事の注意を引きはしなかったようだ。
ただびっくりしただけだと思ったらしい。
「ところが事実なんです」
と、池山は言った。「掘り返してみると、やはり織田さんの遺体でした」
「どうして亡くなったんですの?」
と、祐子が言った。
「刺し殺されたんです。——憎むべき犯行です!」
「本当にお気の毒でした」
と僕は言った。
あたかも、シリアスドラマの一場面の如《ごと》き光景が展開したわけだが、池山が、そこでハッと我に返って、
「そうだ! 急いで署へ連絡しなくては。——では、失礼します」
と、出て行く。
「——大変なことになりましたね」
と、吉野が言って、「じゃ、私は下へ行っております」
一礼して出て行く。
僕と祐子は、しばし、黙《だま》っていた。——あんまりロマンチックな沈《ちん》黙《もく》ではなかった。
「——祐子」
と言いかけた僕を、
「しっ!」
と制して、祐子はドアの方へ歩いて行き、さっと開けた。「——大丈夫だわ。聞かれてない」
「僕はちゃんと埋めたんだ! 本当だよ!」
「分ってるわ」
と、祐子は肯く。
「でも——どうなっちゃってるんだ?」
「誰かが掘り返したのよ」
と祐子は言った。
「でも……誰が?」
「分らないけど。——だって、あなたは、織田の死体と浮浪者の死体を一緒に埋めたんでしょ?」
「そうだよ。だって、二つも穴掘る元気、なかったもんな」
「だったら、警察が二《ヽ》つ《ヽ》死体を見付けてるはずよ」
「そうか。——つまり、誰かが掘り出して、織田の死体だけを——」
「目につくように残しておいたのよ」
「ふざけた奴《やつ》だ、全く!」
と僕は言ったが、何がふざけていたのか、実際は良く分っていないのである。
「ともかく、あの人を殺したのは私だわ」
と祐子はため息をついた。「私さえ捕まれば、それで済むことなんだわ」
「何を言ってるんだ!」
僕はひ《ヽ》し《ヽ》と祐子を抱《だ》きしめた。——ウム、決ってるぞ!
「あなた……私を見捨てないでね」
祐子がすがりついて来る。——僕の胸は高鳴った。
こんなときに、こんな所で、とは思ったが、人間というのは、感情の動物なのである。
もちろん理性を保つことも重要だが、時には一時の感情のままに身を委《ゆだ》ねることも、人間的というものだ。
でなければ、人間はコンピューターのようなも《ヽ》の《ヽ》になってしまう。
とはいえ、この場で——つまり、下には刑事がおり、ドアには鍵《かぎ》もかけてないという状態で、祐子とベッドへ転がり込むというのは、客観的に見れば、非常に危険なことであった。
しかし、正しい者には天が味方する——かどうか知らないが、ほんの十分ほどの、短い愛情の交換の間、誰一人としてドアを開けたりしなかったのである。
「——愛してるわ」
祐子は、服の乱れを直しながら言って、ニッコリ笑った。
「僕もだよ」
二人の唇が軽く触れ合った。
「——下へ行ってみましょう。刑事さんたちが大《おお》騒《さわ》ぎしてると思うわ」
「そうだね」
祐子は僕を見て、
「——そんな幸せそうな顔してちゃだめ」
「そう?」
「だって、奥さんを誘拐されて、しかも、刑事さんが殺されたのよ。もっと深刻そうな顔をしなきゃ」
「そうか。じゃ……こんな感じ?」
「もっともっとふさぎ込んだように」
「——これぐらい?」
「もっと暗くなれない?」
「カーテンでもつるして行くか」
「まさか。——それでいいんじゃない? じゃ行きましょうよ」
一緒に降りて行くのもまずいというので、僕は少し遅《おく》れて降りて行った。
「——池沢さん」
添田刑事も、さすがに深刻な様子だった。
「添田さんが殺されたそうで、お気の毒でしたねえ」
と僕は言った。
「私は生きております」
と添《ヽ》田《ヽ》が顔を赤くして、言った。
「あ、失礼。織田さんでしたね」
「いや——全く、部下を失うというのは辛いものです」
添田はため息をついて、「特に彼は、いい部下でした」
「はあ……」
人をゆするのがいい部下か!
「まあ、あまり頭の切れるという男ではありませんでしたが……。あまり機《き》敏《びん》でもなく、よく犯人を逃《に》がしました。よく物忘れをして、犯人の逮捕に行って、大根を買って帰って来たこともあります」
「はあ」
「それに方向音《おん》痴《ち》で、自宅へ帰れなくなって交番へ届け出たことが何度かありました」
「それは凄《すご》い」
「犯人を逮捕に向って迷子になり、着いたときは翌日だったということも……」
「で、犯人は?」
「死んでいたので、逃げられはしなかったのです」
「良かったですね」
「射《しや》撃《げき》は下手《へた》で、柔《じゆう》道《どう》も苦手でした。走るとすぐに息を切らし、深酒で暴れることもしばしばで、遅《ち》刻《こく》は多いし、勤務中に酔《よ》っ払っているし……」
添田は一つため息をついて、「——しかし、いい部下でした!」
と言った。
どこがいい部下なのか、僕には、到《とう》底《てい》理解できかねた。
「ともかく、犯人を見付けなくてはいけませんね」
「必ず、この手で手錠をかけてやります!」
と添田刑事は言った。
そして、急に普通の口調に戻って、
「ああ、そうだ。死体を玄関に置かせてもらっています。すみませんが、すぐ引き取りに来ますので」
「はあ、どうぞ」
と僕は言った。
玄関が汚《よご》れる、と思ったが、まあここは我慢しよう。
「犯人の見当はついているんですか?」
「やはり織田を恨《うら》んでいる人間の犯行だと思います」
と添田は、しごくもっともなことを言った。
「すると、妻が誘拐されたことと関係は——」
「それは何とも言えません」
添田は考え込みながら、「まあ、犯人に訊いてみればはっきりすると思いますが」
これで刑事がつとまるなら、楽な商売である。
「添田さん、お電話です」
と、祐子が言った。
「や、どうも」
添田は受話器を取って、「——うん。——なに?——そうか」
とブツブツ言っていたが、突然、
「本当か! どうして早くそれを言わん!」
と大声を上げて飛び上った。
他の者たちもびっくりして、飛び上りそうになった。
「よし! すぐにこっちへ連れて来い!」
と、添田は怒鳴るように言った。
僕は祐子と、そっと顔を見合わせた。
「やりました!」
添田が、電話を切って、得意満面という様子で言った。
「どうしたんです?」
「大倉です。見付けて連行したのです。今、こっちへ連れて来るように言いましたよ。——これで、やっと見通しがついて来ました」
こっちは、ますます見通しがつかなくなって来ていた……。