30 そして寝《しん》室《しつ》にて……
「妙な話だね」
僕は首をかしげた。
「そうね。——油断ならないわ」
「そうだ」
と肯いてから、「どうして?」
と訊く。
「相手は馬鹿じゃないわ。だから、あえて、こっちの手の中へやって来るっていうのは、何《ヽ》か《ヽ》目的があるのよ」
祐子は言った。
ここは再び僕の寝室。——といって、妙な誤解は無用である。
いくら僕でも、真昼間から、祐子とベッドへ入るようなはしたない真似《まね》は——たまにしかしない。
ともかく、今は彼女と現状の分《ぶん》析《せき》に取りかかっていたのである。
「しかし、たとえば向うが、人質をかかえているから平気だと思って来るんだとしたら……」
「そんなことありえないわ。だって、もし逮《たい》捕《ほ》されなくても、顔を見られるし、それに、尾《び》行《こう》される危険だってあるわけでしょう?」
「それはそうだね」
「そんな危険を、好んで冒《おか》すのは、まともじゃないわ。——何か考えがあるのよ」
「吉野の奴にでも訊いてみるか」
と、僕はベッドにゴロリと横になった。
突然、祐子は僕の上にかぶさって来ると、キスしてくれた。
あわてて抱きしめようとしたときには、もう祐子は立ち上っている。
「一体どうしたの?」
僕は起き上って訊いた。
「あなたの一言で分ったのよ」
「へえ」
僕はさっぱり分らない。
「吉野さんよ! あの人が、金を盗むつもりなんだわ。でも、みんなは、外から来る者しか、用心していない」
「なるほど」
と僕は指を鳴らした。
「ね? だから、向うも、そんな風に、わざと、こっちを挑《ちよう》発《はつ》するようなことを言っているのよ」
「吉野の奴、ふざけたことをやるな、全く!」
と言って、「——あれ? ところでお金の入ったバッグは?」
「私が、ちゃんと金庫へしまったわ」
「そうか。良かった! もう盗《ぬす》まれたかと思ったよ」
「大丈夫よ」
祐子は笑って、僕にキスした。「ここは一つ、この機会を利用しましょうよ」
「利用? どういう風に?」
「これまでは、いつも向うに出しぬかれて来たわ。でも今度は、こっちがあっちの手を読んでるのよ」
「ふむ」
よく分らないが、ともかく分ったような顔で肯く。
「だから、金庫を見張るの。——吉野さんが、やって来たところを押《おさ》えるのよ」
「そして——どうする?」
「それは話し合いね。こっちもあっちの弱味を握《にぎ》ってるけど、こっちもあんまり強い立場じゃないわ」
「それはそうだ」
「だから、吉野さんが、一体何を狙《ねら》っているのか。そして、仲間は一体誰なのか。白状させるのよ。——その結果では、お互い、少しずつ損をしても仕方ないわ」
「なるほど」
彼女の話は、何となく良く分った(?)。
ともかく、差し当りの問題は、どうやって金庫を見張るかということだった。
金庫は、この寝室の棚《たな》の中にある。
「吉野の奴、いつ頃《ごろ》、ここへ来るつもりかな」
「さあ。ともかく、みんなの注意を、何かにそらすと思うわ。その間に、ここへやって来るつもりよ」
「ふーん。注意をそらす、か……」
「どうやるつもりか、それは分らないけどね——」
と、祐子は言った。
「君にも分らないことがあると分ると、安心するよ」
「あら、それは皮肉?」
と、祐子が、可愛い目で僕をにらんだ。
「悪いことを言ったかな」
「言ったわ」
「じゃ、謝るよ」
「お詫《わ》びにキスして」
こういうお詫びなら、いくらでもしたい、と思った……。
「犯人は、どういう風にやって来るか、分りません」
添田は、少し異常なほど張り切っている様子だ。
「じゃ、どうするんです?」
と僕は一応訊いてやった。
ともかく、誰かがそう訊かないと、怒り出しそうな様子なのだ。
「ともかく、総《すべ》ての人間を疑え、ですよ」
と、添田はニヤリと笑った。「任せて下さい」
この男に任せると、ろくなことにはならない。それはよく分っているのだが、これでも一応刑事だから、好きなようにさせておく他はないのである。
「じゃ、非常線でも張って——」
と僕が言いかけると、添田は急にむつかしい顔になって、
「それは極秘事《じ》項《こう》です!」
と言った。
大した極秘じゃないことぐらい分り切っているのだが。——それよりも、僕と祐子の作戦の方が、よほど極秘を要する。
「さて、それでは——」
と添田は、部下の刑事たちを集めると、僕の方へ、
「民間人は出て下さい」
と手を振った。
これには頭へ来た。自分をよほどのVIPだと思っているらしい。
大体、ここは僕の家だぞ!
僕は仕方なく、台所へ行った。
「あら、どうしたの?」
祐子が、相変らず、優雅に立ち働いている。
「いや、君に会いたくなってね」
と僕は言った。「久しぶりじゃないか」
「さっき上でキスしたばっかりよ」
「もう十五分もたってる」
と、彼女の腰《こし》に手を回すと、
「だめよ、今は」
と、身をよじる。
その動きが、また色っぽくて可愛いのである。
「ね、ともかく、そろそろ金庫の方に気を付けないと」
「ああ、分ってるよ。じゃ、僕は上に行ってるからね」
「そうね。じゃ、私も後から行くわ」
「早く来てくれよ」
と、台所を出ようとする。
「待って。——おやつにケーキを作ったの。食べていく?」
「そうかい? じゃ、一つ……」
「遠《えん》慮《りよ》しないで。そこに紅茶もあるわ」
「それじゃ、もらうよ」
「私、刑事さんたちへ出して来るわ」
「あんな奴らに食わせることないよ」
「落ち着いて。大人になるのよ」
大人になる、か。——そうだ。いや、全くだ。本当に事実だ。
何を言ってるのか、自分でも分らなくなって来た。
しかし、僕には多少頼《たよ》りないところがある。それは否定できない。
この事件をきっかけに、大きく人間的成長をとげたが、それでも、まだ不充分なところはある。
そうだ。——祐子を妻にしようとするからには、それにふさわしい男でなくてはならない。
僕はケーキをじっと見つめ、紅茶のカップをじっと見つめた。——そして食べた。
だが、急いで食べ、かつ飲んだ。あっという間に、おやつは終った。
そうだ。早く金庫の所へ行っていなくては。——もし、みんなが祐子のケーキに気を取られている間に吉野が金庫へ手を出していたら。
こうしちゃいられない!
僕は、あわてて台所を飛び出したのである。——チラッと途《と》中《ちゆう》で居間を覗《のぞ》くと、祐子のケーキを、添田たちが奪い合っている、醜《みにく》い光景が目に入った。
何が民間人は外へ、だ。美女は別、というつもりなのか。
僕は二階の寝室へ上った。
どこへ隠れていようか?——しかし、その問題には、それほど長く悩《なや》まずに済んだ。
ともかく、戸《と》棚《だな》が沢山あるのだ。その一つを適当に開けて、中へ入る。
誰か入って来れば音で分るだろう。
ケーキのせいか、少々眠《ねむ》くなって来る。しかし、今、ここで眠るわけにはいかない。頑張らなくては!
僕は、頭を振って、必死で眠《ねむ》気《け》と闘っていた。
そこへ——誰かが入って来たのだ!
少し眠気もさめて、僕は耳を澄《す》ました。
「——まだ来てないかな」
吉野の声だ!
僕はゾクゾクして来た。見ろ! みごとにひっかかったぞ。
「じゃ、僕もどこかへ隠れよう」
どうやら、吉野は一人ではないらしい。
そうでないと、やたら大きな独り言ということになってしまう。
「その棚あたりかな。——でも大丈夫かなあ、本当に?」
吉野の奴、誰と話をしているんだろう?
「じゃ、そこにいるよ。でも——」
と吉野は、ためらっているようで、「何だか落ち着かないよ。一応、戸棚全部、調べた方がいいんじゃないか?」
僕はギョッとした。しかし、もう一人の方が首を振ったらしい。
「そうかなあ。でももし、どこかにいたら……」
もう一人が笑《ヽ》っ《ヽ》た《ヽ》。
「笑った」ということは、声を出した、ということだ。
そして当然、その声は僕の耳に入って来た。だが——僕の耳がその声を受け付けてから、その声が脳《のう》へ達するまで、しばし時間がかかった。
まるで役所並みののろさだが、それも仕方ない。
その声は、紛《まぎ》れもなく、祐子のものだったからだ。
「大丈夫よ」
祐子の声が言った。「あの人はまだ台所でケーキを食べてるわ。ともかく、意《い》地《じ》汚《きたな》い人なんだから」
「金持なのに」
「そんなものよ」
と祐子は言った。「あの人といると疲れちゃう。——さ、入って。私、もう少しあの人を下へ引きとめておくから」
「じゃ、合図してくれるんだね」
「もちろんよ」
祐子は、そう言って、「私が信用できないの?」
——この後、「祐子の声の女」と、吉野はキスをしたらしかった。
「——さ、早く入って。いよいよ大《おお》詰《づ》めですからね」
「ああ。うまくやるよ」
「私たちの未来がかかってるのよ」
祐子は、チュッとまたキスをして、戸棚へ吉野を押し込んだらしい。出て行く物音がした。
そして、寝室は静かになった……。
あれは祐子だったのか? 本当に?
そして、「あの人」と言っていたのは——僕のことか?
僕は戸棚の中で、眠いのも忘れて、ボンヤリと突っ立っていた……。