プロローグ
「あの人を殺すしかないんだわ」
と、三宅照子《みやけてるこ》は言った。
別に、誰に向けて言ったのでもない。ただ自分がそう結論を出したことを、自分自身に告げてやったのである。
人間は、重大なことを、ほんのちょっとした出来事に托《たく》して決めることがある。もちろん、そこに至るまでに長く長く迷って、結局、九十九パーセント、心を決めた後でのことだ。
最後の一パーセント。踏み出すための、ほんの一押しを、何かに頼ることがあるのだ。それは、最後の決定は、自分でなく、「偶然」が——あるいは「運命」でも「神」でもいいが——下したのだということにしておきたいからかもしれない。
特に、「人殺し」などという恐ろしい行動を決意するには、三宅照子はあまりにおとなしく、乱暴なことの嫌《きら》いな性格だった。
でも、もうこれ以上、放ってはおけない。
——目の前に、土手があって、金網が張りめぐらされ、その向うを電車が走っていた。もう終電近くで——いや、たぶん、今通ったのが最後の電車だろう。
三宅照子は、二十分ほど前から、土手の下にうずくまって、十一月の夜の寒さに震えながら、電車が通るのを待っていたのである。
通る電車が「上り」なら、夫を殺すのはよそう。「下り」なら殺そう。——そう思って、電車が通るのを、じっと待っていたのだった。
そして、通った電車の行先表示を見て、それが「下り」だと知ったのだ。
予《あらかじ》め、どっちが来るかを心の底では知っていたのではないか、と疑う者もあるかもしれないが、それは事実ではない。何しろ、三宅照子は方向にかけては子供以下で——三十二歳になった今でも、毎日乗る電車の駅のホームへ上る時、必ず表示を見て確かめる。そして、実際に目的の駅に着くまでは、乗り違えているのではないかとびくびくしているのである。
だから、こうしてアパートから十五分も歩いて来て、私鉄の線路に出くわしたからといって、どっちが都心の方向で、どっちが郊外なのか、照子に分るわけもなかった。
「下り」を、「殺す」方に決めたのも、ただ単純に、夫が死んだらきっと「下の方」——地獄に行くだろうと思ったからだ。子供っぽい決め方だが、少しはそんな「遊び」もなくては照子自身、気が狂ってしまったかもしれない。
ともかく、決心したからには、早くアパートへ戻《もど》らなくては。良子《よしこ》と夫を二人にしてあるのだから。
照子は、立ち上った。長くしゃがみ込んでいたので、足が少ししびれていた。寒さのせいもあるだろう。
夜空が、いつになく澄んで、月が冴《さ》え渡っていた。
ともかく——今日で、苦しみも終るのだ。そう思うと、いやに気持も軽くなった。夫を殺すのは、難しくない。何しろ夜ともなれば、酔い潰《つぶ》れ、子供を怒鳴《どな》るか、妻を殴るかして、後は高いびきで翌日の昼まで起き出さないのだ。
何をされたって、声一つたてないに違いない。良子の目を覚まさせることがないように、静かにやっつけるのだ。
夫さえいなければ……。夫が死にさえすれば、私も良子も救われるんだ。
照子は、足のしびれも消えて来たので、アパートの方へ歩き出した。
逃げるような足取りで来た道を、今度は散歩しているように、軽やかに戻って行く。——本当に、一旦《いつたん》決心してみると、どうしてこんなに長い間、思い悩《なや》んだのかと不思議になるくらいだった。
夜道は寂しかった。いつもの照子なら、気が小さいから、子供のように怖《こわ》がって、足取りも早まるところだが、今は平気だ。何が出たってこっちは「人殺し」をしようとしているんだ!
フフ、と照子は小さく声を立てて笑った。人を殺そう、というのに、笑ってるんだから、私ったら!
結構、度胸がいいのかもしれないわ。
夜空が、道の上に深い谷のようにかかっていた。少し視線を上げて、歩いて行く。
いつも疲れ、惨めで、伏目がちに歩いていたのだが、こうして上を見るだけで、何て世の中は違って見えることだろう。
これからはもう、いつも上を向いて歩いて行くんだ! 夫に気がねすることもない。
照子は、大きく息を吸い込んだ。
すると——夜空を星が一つ、落ちて行った。照子は足を止めた。
流れ星? 見る間に、もう一つ、前よりは小さな星が。
二つも……。ずっと低い所を落ちて行ったようだ。途中で消えないで、どこかに落ちたようにも見えた。
もちろん、近くに見えても、実際は、ずっとずっと遠くなのだ。照子など、行ったこともないほど遠い所……。
ふっと、照子は目が覚めたような気がして、周囲を見回した。——少しも変りはないが、でもどこか違っている。
突然、自分自身を遠くから眺めているような気持になったのだ。
どこか遠く……。人を殺したら、刑務所に入る。どこか遠くの。そして、そこにはもう良子はいない……。
照子は、両手を頬《ほお》に当てた。——手の冷たさが、逆に頬の燃えるような熱さを教えてくれる。
殺すなんて! 何てことを考えたのだろう?
殺す必要なんかない。ただ、出て行けばいいのだ。良子と二人で、新しい生活を始めればいい。
三宅は、きっと追いかけて来て、連れ戻《もど》そうとするだろうが、照子の意志さえ固ければ、大丈夫。
裁判に訴えても、離婚してやる!
人を殺して刑務所に入り、良子と引き裂《さ》かれることを考えれば、どんなに楽だろうか。
出て行く。——そんな簡単なことを、どうして考えなかったんだろう?
照子は、一人で夜道に立っていた。
以前なら、一人ぽっちだ、と感じただろう。しかし、今は違った。一人になれた。一人で歩けるようになったのだ。解放されたのだ!
これで良子が一緒なら——怖《こわ》いものなんかあるものか。
照子は、力強い足取りで、再び歩き出した。あの流れ星に感謝しながら。
——アパートに着いた時、照子は、玄関のドアが開いているのに気付いた。
私ったら、夢中で、ドアを閉めるのも忘れたのかしら? 何てぼんやりなんだろう。
玄関へ入ると、中は真暗だった。
手探りで、明りのスイッチを押す。
「あなた。——あなた」
夫の、いつものいびきが聞こえて来ない。
照子は、まず奥の部屋へ行って、良子が眠っているのを確かめた。布団が半分めくれていたので、直してやる。
夫はどこへ行ったんだろう?
捜し回るほど広いアパートではない。部屋は、奥の座敷と、台所を兼ねた食堂だけ。小さなお風呂《ふろ》がついているのが、唯一《ゆいいつ》の取り柄《え》のようなアパートだった。
「お風呂場かしら」
明りが点《つ》いてもいないようだが……。
照子はトイレを覗《のぞ》いてから、お風呂場のドアを開けた。同時に明りのスイッチを押している。
——三宅|吉司《よしじ》は、確かにそこにいた。
しかし、眠っているわけでも、酔い潰《つぶ》れているわけでもなかったのだ。
狭い風呂場の中には、至る所、血が飛び散っていた。三宅の体は、空《から》の浴槽《よくそう》の中へ頭を垂れて、まるでプールへ飛び込むように、浴槽へダイビングしようとしているかに見えた。
「あなた……」
目の前の光景が、信じられなかった。夫はパジャマ姿のままだったが、上半身は血に染って、ブルーの地の色は、もうどこにも見えないくらいだった。
いつの間にか、照子は、夫の死体へと近付いていた。浴槽へ垂れた夫の頭を覗き込むように見る。
と、下のタイルに流れていた血で、足が滑った。アッと思った時には、血だまりの中で引っくり返ってしまっていたのだ。
両手といわず、顔といわず、べとつく血を肌《はだ》に感じて、照子は初めて恐怖《きようふ》を覚えた。
どうして——一体誰がこんなことを?
手が何かに触れた。ふと目をやる。
シャベルだ。折りたたみ式の、鉄製のシャベル……。それも今、血に覆《おお》われていた。
これか……。これで誰かが殴ったのだ。
照子は、呆然《ぼうぜん》として、それをつかんで座っていた。
「警察……。一一〇番だわ」
と呟《つぶや》く。
立ち上ろうとした時、
「キャッ!」
と、背後で叫《さけ》び声がして、びっくりして振り向く。
見たことのない女が立っていた。
目を大きく見開いて、三宅の死体と、照子を見ている。
「あなた……どなた?」
と、照子が訊《き》くのも耳に入らない様子だった。
その女は、急に、大声を上げた。
「人殺し!」
そして、玄関から飛び出して行くと、「人殺し! 誰か来て! 人殺しよ!」
と、甲高い声で叫び続けた。
照子は、シャベルを手にしたまま、風呂場《ふろば》を出た。
そんな大声出さなくたって。——良子が起きるじゃないの。
照子は、その見たことのない、勝手に人の部屋へ入りこんで来て、わめき立てている女に、すっかり腹を立てていたのだ。
近所が起き出したらしい。明りが点《つ》いたり、ブツブツ呟《つぶや》く声が、聞こえて来る。
「困ったもんだわ、本当に……」
と、照子は呟いた。
しかし、どれほど本当に[#「本当に」に傍点]自分が困ったことになるか、この時、照子には全く分っていなかったのだ……。