1 もう一つの浴槽《よくそう》で
やっとここまで辿《たど》り着いたのだ。
思えば、長い道のりだった、と吉原丈助《よしはらじようすけ》はある感慨《かんがい》を抱いた。丸二年。——あたかも、赤道直下の砂漠《さばく》を、水筒一つで横断しようというのにも似た、辛《つら》い道だった。
しかし、今! やっと、ここまでやって来たのだ!
エベレストの山頂をきわめたアルピニストもかくや、と思えるほどの感動に、吉原の心は打ち震えるのだった。
「これがあなたの『マンション』なの?」
と、彼女[#「彼女」に傍点]が言った。「普通のアパートじゃない」
吉原は、必死で笑顔を作った。
「そ、そうだね。でも一応マンションなんだ。ただ古いから——ということは、歴史があるんだ。由緒《ゆいしよ》正しいマンションなんだ」
俺《おれ》は何を言ってるんだ?
「でも、まあ、チャラチャラしてなくていいわね」
「そ、そうだろう? やっぱり君には、こういう落ちついた雰囲気《ふんいき》が良く似合うよ」
「私、でも可愛《かわい》い部屋の方が好きよ」
と、彼女はマンションのロビーへ入りながら言った。
「そりゃいいね。うん。僕も少し部屋の中を明るくしたいとは思ってたんだ」
「うんと可愛くしちゃうわね。私だったら」
彼女は、いたずらっぽく、「もし[#「もし」に傍点]ここに住むとしたらね」
と、付け加えた。
吉原の心臓は、飛び出さんばかりに高鳴った。
「あ、あの——エレベーターがそこに」
「へえ、一応、生意気《なまいき》にエレベーターなんかあるのね」
と、彼女も多少は[#「多少は」に傍点]感心した様子だった。「あら、中の蛍光灯が——」
古くなった蛍光灯が、チカチカと瞬いている。吉原は、内心舌打ちした。
畜生! あの管理人のじいさんめ、三日も前から、取り替えろ、って言ってるのに。
いつも、
「明日までにやっとくよ」
と言って、放っておくんだ。
「一応管理人はいるんだけどね。なかなかやってくれないんだよ」
と、吉原は、エレベーターの扉が閉まると、〈3〉のボタンを押した。
「管理人なんて、そんなもんよ」
と、彼女が肯《うなず》いて、「私の友だちの所なんて、アパートの廊下、電球が全部切れて、真暗なのよ」
ゴトゴト音をたてながら、エレベーターが上って行く。何しろ旧式だから、のろいのである。
「歩いた方が早いみたい」
と、彼女が言った。
「そうだね。運動にもなるから、僕も普通はたいてい階段を使うんだ」
「でも、管理費は取られるんだから、使わなきゃ損よ」
「そうだとも。だから、僕もいつもエレベーターを使ってるんだ」
何を言っているのか、自分でもよく分っていないのである。
——もちろん、吉原丈助が、毎日この自分のマンションに帰って来る度に、サハラ砂漠《さばく》を横断して来るわけではない。古いだけあって、交通の便のいい場所に、このマンションは建てられていた。
四階建で、建った時はかなりモダンだったに違いない。今は彼女の言う通り、「普通のアパート」と、大差ない状態になってしまっていた。
吉原が、「やっとここまで辿《たど》り着いた」という感慨《かんがい》に耽《ふけ》っているのは、言うまでもなく、ここ二年来付合って来た(というより、一方的に想《おも》いこがれて来た)彼女[#「彼女」に傍点]、林一恵《はやしかずえ》をやっと自分のマンションに連れて来ることに成功したからだ。
いや、もちろん連れて来たからといって……彼女が彼の部屋に上ったからといって、どうこういうわけじゃないが……。必ずそう[#「そう」に傍点]なるってもんでもないが——しかし——。
吉原に妙な下心があったというわけではないが、まあ、なかったわけでも、ない。
男として——ごく普通に恋する男として、当り前の程度には、吉原も期待していたのだ、とだけ言っておこう。
やれやれ、のんびりしたエレベーターも、やっと三階まで辿り着いた。
幸い、廊下の明りは、どこも切れていなかった。
「静かね」
と、林一恵が言った。
「そうなんだ。みんな物静かな人が多くてね」
「でも、私、どっちかというと、にぎやかな方が好き」
「だから——少しにぎやかな人が入った方がいいな、と前から思ってたんだよ。ハハハ……」
吉原は一人で汗をかいていた。およそ汗をかくような陽気じゃないのだが。
「——ここだ」
吉原は、鍵《かぎ》を開け、ドアを引いて、「さあどうぞ」
と、林一恵を中に入れた。
三階の三〇二号が、吉原の部屋である。もちろん、吉原は一人でここに住んでいた。
2LDKというから、独り住いには充分な広さだ。いつもは、独身男の一人住いにふさわしく、雑然と散らかっているのだが、今夜はさすがに二日がかりで大掃除した成果で、大分部屋の中はすっきりしている。
で近所の人が、
「引越されるそうで、長いことどうも」
と、早とちりで挨拶《あいさつ》に来たものだ。
つまりは、それぐらい普段、ろくに掃除しないというわけである。
「——なかなかいいわね」
林一恵の判決[#「判決」に傍点]に、吉原は胸をなでおろした。
「今、紅茶でもいれるからね」
そそくさと、台所へ行く。「——ちょうどね、いい紅茶をもらったんだ。ロイヤルコペンハーゲンのね。君、紅茶が好きだから……」
「あら、本当? 嬉《うれ》しい」
いいぞ。——順調だ。
吉原が、大枚はたいて買って来た紅茶をいれて運んで行くと、林一恵は、ソファでうとうとしていた。
その寝顔——少し唇が開いて、頬《ほお》がつややかに光ったところの可愛《かわい》いこと!
吉原は、ただうっとりとして眺めていた。
だが、一方では、せっかく作った紅茶がどんどん冷めてしまう。——ためらいつつ、吉原は、一恵の方にそっと顔を寄せて行って、「ねえ……紅茶が……冷めるよ」
と囁《ささや》いた。
「うん……」
聞こえているのかいないのか、生返事をして、一恵が、フーッと息を吐いた。
頭が少し傾いて——ちょうどいい角度になる。つまり……キスするのに、である。
吉原は、自分でも驚くような大胆さで(というほど大したことじゃないのだが)、一恵に素早くキスした。
一恵が目を開いて、
「あら……」
と、吉原を見つめる。「何か[#「何か」に傍点]した?」
「いや……その……別に」
「そう? 何だか、感じたみたいだけど、気のせいかな」
「そ、そうかもしれないよ」
「じゃあ……」
一恵はニッコリ笑って、「ちゃんとキスしてよ」
許可が下りた! 吉原は堂々と改めて一恵にキスしたのだった。
「——大変だったでしょ」
「何が?」
「これだけ片付けて、お掃除するの」
「まあね」
と、吉原は笑って言った。
「私がやってあげるわよ、今度から」
吉原の心臓は、極限状態に近いテンポで、打ち始めた。
「ほ、本当かい?」
「ええ……。私って結構家庭的な女なのよ」
「そうだね。いや、そうだろうね」
一恵は体を起こして、伸びをすると、
「眠くなっちゃった……」
と言った。「ここ、余分なお布団って、あるの?」
「お、お布団?」
吉原はもはや天にも昇る心地。「そりゃ——その、ベッドがあるよ」
「二つ?」
「一つ。でも——僕はここで寝るから、いいんだ」
一恵が微笑《ほほえ》んで、
「悪いわ、そんなの」
「いや、ちっとも構わないよ、そんなこと」
「じゃあ……あなたのベッドで、一緒に寝ればいいわね」
吉原はもう立っていられなくなって、床にヘナヘナと座り込んでしまった。
「——私、お風呂《ふろ》に入りたい」
と、一恵が言うと、吉原は飛び上った。
「す、すぐにお湯を入れるよ!」
「熱めにね。私、あんまりぬるいお風呂だと、入った気がしないの」
「分った」
吉原は浴室へ駆け込んで、ワッとお湯の栓《せん》をひねった。
「やった……。やったぞ! ついにやったんだ!」
と、ブツブツ呟《つぶや》いている。
二十八歳という年齢の割には、何とも純情な男なのである。林一恵は二つ下の二十六だが、吉原よりはよっぽどこういうことに慣れているようだった。
しかし、構やしない! ともかく吉原はこの二年間というもの、ひたすら一恵に惚《ほ》れ続けて来ていたのである。
「早く入らないかな……」
と、浴槽《よくそう》を覗《のぞ》くと——底の栓を、はめていないのだった……。
ま、しかし二十分もすると浴槽はちょうど一杯《いつぱい》になり、一恵のご機嫌《きげん》も良くなる一方だった。
「私、じゃお先に——」
「うん。どうぞどうぞ」
吉原は、ピョンと飛び上るように立つと、「こっちだよ。——このドア」
案内しなきゃ分らないほど広くはないのだが。
「ええと……このタオルとバスタオル、ちょうど新品があったんだ」
「ピンクの?」
もちろん今日のために、あわてて買って来たのだ。ちなみに、吉原が使っているタオルには、〈××銀行〉という文字が入っていた……。
「じゃ、入るから」
「うん」
——二人は何となく顔を見合わせて立っていた。一恵が、エヘン、と咳払《せきばら》いして、
「あの——服を脱がないと、お風呂《ふろ》に入れないのよ」
「そりゃそうだね」
「あっちに行っててくれる?」
「そ、そうか! いや、ごめん!」
吉原はあわてて言った。別に、一恵が服を脱ぐのを見ていようと思ったわけじゃないのである。ただ単純にボヤッとしていただけなのだ。
「じゃ、居間にいるから……。何か用があったら、呼んでくれ」
「うん」
銭湯じゃあるまいし、用事があるわけもあるまい。
吉原は、ともすればふらつく足を踏みしめながら、居間に戻《もど》って、ソファにドタッと座り込んだ。
「——夢じゃないか!」
ここまで来れば……。彼女の方だって、分ってるはずだ。お風呂に入って、後で吉原と一つのベッドで寝る、というのだから。
でも——もし、拒まれたらどうしよう?
本当にただ[#「ただ」に傍点]「寝る」だけのつもりだった、と言われたら?
まさか! 子供じゃあるまいし。
それに彼女の「家庭的……」という発言は、「プロポーズしてもいいわよ」と言っているように、吉原には聞こえた。——ま、誰にでもそう聞こえるだろうが、それでもいくらかの疑念を捨て切れないところに、吉原の気の弱さ——というか単純さというか——がよく出ている……。
ともかく! これで九十九パーセント、彼女は今夜、俺《おれ》のものになり、そして俺と結婚してくれることになるだろう。
早くも、吉原の思いはベッドの上に飛んでいて、ソファに座って、目は空中をさまよっている。
そして——ふと気が付くと、林一恵が、居間の入口の所に立っているのだった。
いやに早いな、お風呂に入るのが。それともぼんやりしていて、そう感じただけなのかしら?
しかし、どうも妙だった。一恵は、風呂へ入って来たばかりの割には、髪も濡《ぬ》れていないし、湯上りという雰囲気《ふんいき》ではない。しかも、さっきまでとは打って変って、やけにおっかない表情で、吉原をにらんでいたのである。
「あの……どうかした?」
吉原は、精一杯《せいいつぱい》、笑顔を見せながら訊《き》いた。
お湯はちゃんと入れてあったはずだ。水でもないし、熱湯でもない。底の栓《せん》も、ちゃんとはめておいたから、空っぽだったわけもない……。
「どういうつもりなの!」
と、一恵が頭の天辺から声を出した。
「ど、どういうつもり、って……」
「他の女の子を泊めといて、私と三人[#「三人」に傍点]で楽しもうってわけ? 冗談じゃないわよ! 私、そんな趣味ないのよ!」
バスタオルが投げつけられて、吉原の頭をスポッと包んだ。あわててはたき落とすと、「待ってくれ! 何のことだい、他の女の子って?」
「とぼける気? それともあなたの所、お風呂を他の人に貸す商売でもやってるの?」
「銭湯じゃないぜ。——そんな馬鹿な! 何かの間違いだよ」
「どういう間違いか、自分で見て説明してちょうだい!」
「わ、分ったよ」
吉原は、あわてて浴室へ飛んで行った。
他の女の子?——そんな馬鹿なことが!
吉原は浴室のドアをパッと開けた。
そこには——誰もいなかった。
「ほら、誰もいないじゃないか」
「そんなこと——」
と、覗《のぞ》き込んで、一恵は目をパチクリさせている。「確かにいたのよ! 若い女の子がお湯につかってて……」
「そんなことないよ! 君、きっと何かこう——幻覚でも見たんじゃない?」
「でも……」
「だって、確かにいないじゃないか」
「そうね」
と、一恵も首をかしげている。
「湯気《ゆげ》が立ちこめてるから、影か何かが人のように見えたんだよ、きっと」
「そう? でも……」
「僕の恋人は君しかいないんだから。他の女の子なんて、目じゃないよ」
「分ったわ」
と、一恵は肩をすくめた。「じゃ、入ってる間に、バスタオルをここへ置いといてね」
「分ったよ」
吉原は、居間へ戻《もど》ってホッとした。
お風呂の中に女の子?
「まさか!」
と笑って、首を振ると、バスタオルを拾い上げて、四つにたたむ。
耳を傾けていると、水のはねる音が聞こえて来る。——大丈夫、入っている。
吉原は、浴室の前まで行って、バスタオルを、彼女の脱いだ服の上にのせておいた。——彼女の脱いだ服! 彼女は裸で風呂《ふろ》に入ってるんだ!(当り前のことだが……)
そう思っただけで、吉原は、まためまいにも似た感覚に襲《おそ》われて、足下がふらついて来た。
すると——。
「キャーッ!」
一恵の悲鳴が聞こえたと思うと、ドアが開いて、裸の一恵が飛び出して来る。
ちょうど目の前にいた吉原は、一恵に押し倒されるような形で、引っくり返ってしまった。——こういう状態になることは、望まないわけじゃなかったが、しかし、どうも事情は少々違っているようだった……。
「ど、どうしたの?」
と、吉原が目を丸くすると、
「どうした、じゃないわよ!」
金切《かなき》り声を上げて、一恵はバスタオルを引ったくると、裸の体に押し当て、「何がお風呂に入ってたと思う?」
「何が?——お湯じゃなかった?」
「馬鹿! 犬よ! 真黒な犬が、ヌーッと出て来たのよ!」
「犬だって? あの——ワンワン吠《ほ》える犬のこと?」
「あなたの所のお風呂ってどうなってんの、一体!」
一恵は、自分の服を引っかかえ、居間へと駆けて行った。
吉原は、悪い夢を見ているようだった。黒い犬だって? 何でそんなもんがうちの風呂に?
吉原は、恐る恐る、浴室の中を覗《のぞ》いてみた。
——そこには何もいなかった。
居間の方へ戻《もど》って行くと、一恵が服を着終えたところで、
「帰るわ」
「ねえ、君——」
「今度はね、馬と鹿《しか》でもお風呂に誘ったら?」
「でかすぎて入らないよ」
「ともかく、私は帰るわ!——もうこれでおしまいよ」
「そ、そんなこと……」
「さよなら!」
一恵は、嵐《あらし》の如《ごと》き勢いで、出て行ってしまった……。
吉原は、何がなんだかわけが分らないままに、居間へ戻って、ソファにへたり込んだ。
「こんなことって……ないぜ」
二年間の苦労が水の泡だ。
ぼんやりと虚脱《きよだつ》状態で座っていると、電話が鳴り出した。
彼女だろうか? きっとそうだ!
「ごめんなさいね。私、ついカッとなっちゃって……。でも外へ出て、夜風に当ったら、後悔したの」
「いいんだよ。僕の方も悪かったんだ」
何が?——よく分らない。ともかく、もし彼女だったら、こう話を運ぼうと思いつつ、急いで受話器を取る。
「もしもし?」
「吉原か」
一恵でないことは、誰が聞いても明らかだった。一恵が突然五十男に変身したのなら別だが。
「課長ですか」
と、吉原は肩を落とした。
「何だかがっかりしたようだな」
「いえ別に……」
「非番の日に悪いが、ちょっと事件なんだ。行ってくれんか」
「はあ」
吉原は、ちょっとため息をついた。「構いません。どうせ暇ですから」
「殺しだ」
「殺人ですか」
吉原は、やっと少し刑事としての意識が戻《もど》って、メモ用紙を手もとに持って来て、手早くメモを取った。「——分りました。急行します」
「頼むぞ。犯人は被害者の女房らしい。今、子供と二人、駐在所で保護している。本人は否定しているようだが」
「よく調べてみます。——では」
電話を切ると、吉原は、もう一度深々とため息をついて、「いつまでくよくよしてたって始まらないや」
と、立ち上った。
今日は非番で、一恵とのデートも、いつもの背広にネクタイというスタイルではなかった。
ともかく、まず着替えだ。
吉原は寝室へ入って、明りを点《つ》けた。
「——あ、どうも」
十七、八歳に見える女の子が、吉原のパジャマを着て、ペコンと頭を下げた。「お邪魔してます」
少女の傍《そば》には、真黒な、大きい犬がうずくまっていた。