2 奇妙な失業者
「遅いじゃないか」
と、吉原が現場へ着くと、検死官の米沢《よねざわ》が言った。
「もうご焼香は終ったよ」
「すみません」
吉原は息を弾ませた。「ちょっと——出がけに客[#「客」に傍点]があって」
「でも、米沢さん、いやに早いですね」
大体、検死官は警官より後に現場へやって来るものだ。
「答は簡単だ」
と、米沢はニヤリと笑って、「俺《おれ》の家はここから十分だからな」
「そうですか。——現場は」
「風呂場《ふろば》だ。大分|派手《はで》に血が飛んでるぞ」
「風呂ですか」
と吉原は顔をしかめた。
「風呂に何か恨みでもあるのか」
「いえ、別に……」
吉原は鑑識の人間が立ち歩いている間を縫って、浴室へと歩いて行った。
浴室というにはあまりに狭苦しい部屋だったが、そこをさらに狭苦しくしているのは、血まみれの死体と、壁や床一面に飛んだ血だった。
「ずいぶんとまた……」
と、吉原は首を振った。「——死因は?」
「頭を割られている。それに、こいつでメッタ打ちにしたんだな」
部屋の畳の上に、折りたたみ式のシャベルが投げ出されていた。血がべっとりとこびりついている。
「なるほど。——このへりは鋭くなってますからね」
「相当憎らしいと思っている奴《やつ》がやったんだろう。死亡推定時刻は十二時から一時半ぐらいの間ってとこかな」
「じゃ、割とすぐ見付かったんですね」
吉原は、およそ豊かさとは縁のない室内を見回した。
最初に現場へ駆けつけた、この近くの駐在所の巡査に話を聞く。
「すると、この隣の部屋の人が通報を?」
「そうです。一一〇番して、それから私の所へも駆けつけて来ました。このすぐ近くですので」
「なるほど。じゃ、事件を発見したのは?」
「ここを訪ねて来た女性です。今、隣の人の所に、好意で置いていただいてますが」
「そうか」
吉原は、玄関から出た。一階なので、玄関を出れば、すぐに外だ。二階建の、古ぼけたアパートだった。
「——失礼します」
と、吉原は、隣の部屋の、開けたままになっているドアの奥へと、声をかけた。
「——いや、この女の人が大声で『人殺し!』と叫ぶのを聞いてね、びっくりしましたよ」
その部屋の住人は、宮田《みやた》という四十代半ばと見える、やせた男だった。部屋の中だというのに、ベレー帽などをかぶっている。
「そうでしょうね。で、すぐに一一〇番を」
「ええ。それが市民の義務ですからね。違いますか?」
「いや、その通りです」
と、吉原は急いで言った。「ええと……そちらが、発見者の……」
「はい」
若い、その女は、青ざめた顔で、肯《うなず》いた。
「お名前を——」
「あの……。言わなくちゃいけません?」
と、困ったようにもじもじしている。
「ええ。当然、詳しい調書も取らせていただきますし。いや、あなたの名前などを、新聞などに伏せておくことはできますから、その点はご心配なく」
「お願いします。——こんなことに係り合ったと知ったら、父がきっとカンカンになって怒ります」
女は、ちょっと息をついて、「私、小川育江《おがわいくえ》といいます」
見たところ、二十二、三歳か。地味だが、高級そうなスーツを着ている。化粧っ気はあまりないが、なかなか整った顔立ちである。
「被害者の——ええと——」
吉原は手帳を開けて、「三宅吉司さんとお知り合いで?」
「そうです。——でも、そう長いお付合いじゃありません。この三か月ほど」
「今日、ここへ来たのは?」
「電話で呼ばれたんです。十一時ぐらいだったかしら、電話がかかって来て」
「どう言ったんです?」
「急いで来てくれ、って。何だか、ずいぶんあわてているようでした。今考えると、怯《おび》えていたのかもしれません」
「なるほど。このアパートには、前にも来たことがありますか」
「いえ、全然」
「すると——」
「場所を説明してくれたので、自分で車を運転して来たんです」
「なるほど」
「でも、道に迷ってしまって……。やっと着いたら、もう一時を大分過ぎてしまっていました」
「正確な時間は分りませんか?——いや、結構です。それから?」
「ええ」
小川育江は、少し考えてから、続けた。
「車を停《と》めて、どの部屋なのか捜そうと思いました。でも——この隣のドアが開いていて、明りが洩《も》れていたので、もしかしたら、と思って……」
「で、中へ入った?」
「玄関の表札を見て、〈三宅〉とあったので、ここだな、と思って……。中へ入りました。声はかけたんですけど返事がなくて」
小川育江は、少し呼吸を整えて、
「で、上ってみると、浴室のドアが……。中を見たら、あの人が血だらけで——女の人がシャベルを持って、それを見おろしていました」
「それで悲鳴を上げたんですね」
「パッと振り向いたんです。その女が。何だか——見たこともないくらい、怖《こわ》い目つきでした」
「それで、叫びながら表に出た、と」
「そうです。そしたら、こちらの方が飛び出して来て下さったんです」
「それから、どうしました」
と、吉原は、宮田の方へ訊《き》いた。
「人殺しだっていうから、びっくりしましてね。でも、あの奥さんが、シャベルを手にして、自分も血だらけになって、玄関の所へ、フラッと出て来たんです。で、こりゃ本当のことだっていうんで……」
「三宅——照子という人でしたね」
「そうでしたかね。『奥さん』としか呼んだことがないので」
「何か言いましたか、その時に」
「ええ」
と、宮田が肯《うなず》く。「『良子が起きるじゃありませんか。静かにして下さい』って」
「良子というのは?」
「子供です。七つだったかな」
「なるほど。で、あなたは——」
「まだシャベルを持ってますからね。ついでに、ってんでやられたんじゃかなわない。この人をこの部屋へ引張り込んで、鍵《かぎ》をかけ、すぐ一一〇番したんです」
それはごく自然な行動だ。吉原は肯いた。
「それで、パトカーが来るのを待っていたんですが、あの奥さんがドアを叩《たた》きましてね。『私じゃありません!』って叫ぶんですよ。『私が主人を殺したんじゃありません』って」
「それで?」
「そう言われたってね。ああそうでしたか、って出て行けやしません。黙って、様子をうかがってました。そのうち、あの奥さん、自分の部屋へ急いで戻《もど》ったようでしたね」
と、宮田は言った。「少ししてタタタッと駆けてく足音が聞こえたんです。——で、こっちはこわごわ外へ出てみました。隣のドアは開けっ放しで、部屋には誰もいませんでした。どうやら、あの奥さんが娘を連れて逃げたようでした。で、こっちもパトカーがこれ以上遅れたら、見付けられなくなるだろうと思ったんで、駐在所へと駆けて行ったというわけです」
「なるほど」
吉原は、すっかり感心してしまっていた。隣の部屋で殺人が起こるという、あまり日常的と言いかねる事態に出くわして、ここまで落ちついた行動が取れる人間は、そうざらにいない。
「いや、大変に適切な処置でしたね。大《たい》したもんです」
と、吉原は肯《うなず》きながら言った。
「いや、当然のことですよ」
と、宮田は事もなげに、「教師としては、常に冷静であることを要求されますからね」
「先生ですか。学校の」
「いや、塾の教師です」
と、宮田は言った。「小学生たちを東大へ送り込むべく、完璧《かんぺき》なマニュアルに従って教えているのです。その教師があわてふためいていては、お話になりません」
小学生を東大へ……。小学生が直接東大へ入れるのだろうか、と吉原は首をかしげた。
もちろん、吉原に、現代の受験戦争の厳しさなど、分っていないのである。
「——本当に助かりましたわ」
と、小川育江は、宮田の方へ、「この方が出て来て下さらなかったら、今ごろは……」
「いやいや。そうおっしゃられては、こっちが困ります」
宮田も、今やすっかり教師然としている。
「ええと、ところで——」
吉原は小川育江の方を向いて、「小川育江さん、でしたね。三宅吉司さんとは、どういうお知り合いでした?」
「あの——」
と、言いかけて、小川育江はためらった。
すると、宮田が、
「そんなこと、説明する必要があるんですか?」
と、言い出した。
「はあ?」
「いや、口出しするようで失礼だが、あなたのお仕事は、殺人犯を捕えることでしょう」
「ええ、そりゃもちろん」
「でしたら、犯人ははっきりしている。しかも、ちゃんと駐在所で、警官が子供ともども保護して見張っている。それで充分じゃないですか。このお嬢さんのプライベートな部分まで質問する必要はないと思いますがね」
吉原は、至って理屈に弱い男である。大体当人の頭が理論的にできていないせいであろう。宮田に、理路整然と言われると、何とも反論のしようがない。
「まあ……そうは言っても……」
と、ブツブツ言っていると、急に玄関のドアが開いた。
小川育江が、アッと声を上げて、飛び上りそうになる。
玄関の方へ背を向けていた吉原は、振り向いて、ギョッとした。
大柄《おおがら》な、初老の男が、玄関をふさぐように立っていたのである。——大きい男だった。
大きい、というのは、ただ太っているとか背が高いということではない。その貫禄《かんろく》で、周囲を圧倒してしまう迫力を感じさせた。
「失礼だが——」
と、その男が口を開いた。いかにも、外見に似合い過ぎるほどの、よく通る声だ。
「警察の人かね」
「は、はあ……。警視庁捜査一課の吉原と申します」
つい、頭を下げてしまう。
「私は小川|尚哉《なおや》という者だ。総監《そうかん》の児玉《こだま》君とも親しいので、訊《き》いてもらえばすぐ分るだろう」
吉原は、総監なんて、会ったこともない。
「そこにいるのは、うちの娘だ。今夜、突然出かけたので、おかしいと思って、秘書に尾行させた。すると、とんでもないことに巻き込まれたようだったので、私が出向いて来たというわけだ」
「ご苦労様で……」
「この子が、何かやったというのかな?」
「いえ——その——事件の第一発見者でして」
「なるほど。しかし、娘は明日、大切な見合いを控えていてね。あまりここで夜ふかしさせるわけにはいかん。もし、そちらで用があるのなら、後日、出頭させよう。それで構わんね?」
質問ではなかった。吉原が返事もしないうちに、小川尚哉は、娘の方へ、
「行くぞ。帰るんだ」
と、言った。
小川育江は、青ざめていた。——父親に見付かることを恐れていたのだろうか? 吉原にはそう感じられる。
立ち上って、言われるままに玄関へと下りるのも、喜んで、というよりも、父親の、見えない糸に操られているように見えた。
「では、失礼する」
と、娘を先に外へ出すと、小川尚哉は、そう言って出て行こうとした。
そして、ふと思い直したように振り返って、
「君は——吉原君といったかな」
「はい」
「そうか」
と、軽く肯《うなず》き、「憶《おぼ》えておこう」
そう言って、小川尚哉は出て行ってしまった。
吉原は、頭を振った。何だか、催眠術にでもかけられていたような気がする。
「大物ですな、ありゃ」
と、宮田が、感服の態で言った。
「そうらしいですね」
「きっと東大出身だな」
と、いかにも塾の教師らしい意見を述べて腕組みをした。
「あの——まあ、犯人が、三宅吉司の奥さんに違いないとして……」
吉原は、気を取り直して、手帳をめくり直した。「動機に心当りはありますか」
「そりゃ、いつ起こってもおかしくない事件でしたよ」
「というと?」
「ひどい旦那《だんな》でしたからね。いつも奥さんを殴ったり怒鳴《どな》ったり。——よく我慢したもんですよ、これまで」
「なるほど」
吉原は、あんまりあっさりと言われて、少々拍子抜けの感じだった。「いつも暴力を振っていた、と」
「失業中でね。働きにも行かずに、一日中酒をくらって。——良子って子も、今年から小学校ですが、行かせてなかったみたいだな。学校の先生らしいのが訪ねて来てましたよ」
「失業中。——すると、奥さんが働いてたんですか」
「ま、内職みたいなことはしてたようですがね」
「すると、生活費はどこから?」
「さあ」
と、宮田は肩をすくめて、「奥さんにお訊《き》きになりゃいかがです?」
「ああ、そうですね」
吉原は、さっきの小川尚哉の出現で、すっかり調子が狂っているのだった。
宮田に礼を言って、外へ出る。
もう、被害者の死体が運び出されるところだった。
「また連絡するよ」
と、検死官の米沢が、そう声をかけて、帰って行く。
「お疲れさん」
吉原は、現場をもう一度見ておこうと、部屋の中へ入って行った。
——人のいなくなったその部屋は、いかにも寒々として、およそぜいたくとは縁のない生活に違いないと思わせた。
しかし……。
何となく、吉原には気になった。——何か、しっくり来ないものがある。何か[#「何か」に傍点]と訊《き》かれると答えられないのだが、失業した亭主と、殴られてばかりいる妻という家として、何だか妙に思えるところがあるのだ。
一体何だろう?
吉原は、苛々《いらいら》しながら、考えていた。
苛々しているのはもともとだ。何しろ、今夜は、吉原の生涯《しようがい》、最低の一夜、と名づけてもいいぐらいのひどい夜だったのだから……。
「——失礼します」
と、玄関の方で声がした。
振り向くと、駐在所の巡査である。
「や、どうも」
と、吉原は気を取り直して、「ご苦労さん。後はこっちが引き受けますよ」
「そうですか。良かった!」
と、その巡査は、いやに大仰にホッと息をついた。「いや、どうしちゃったのかと思って、青くなっていたんです。では、何とぞよろしく」
「はあ」
と、吉原は言ったが、「——青くなっていたって、なぜ?」
「いや、あの親子の姿がいつの間にか見えなくなっていたんで、こりゃもしかして逃げられたのかと、びっくりしましてね。でも、そちらで連れて行かれたのなら——」
「ちょっと待ってくれよ」
と、吉原は、遮《さえぎ》って、「じゃ——例のここの女房と子供が——いないって?」
「ええ。そちらで連れて行かれたのでは?」
「とんでもない! これからそっちへ行って、話を聞こうと思っていたんだ」
「こりゃ困ったな!」
「困った、って……」
困ったどころの騒ぎじゃない!
第一の容疑者——しかも、状況から見て、ほとんど犯人に間違いないという女が、姿を消してしまった!
「捜すんだ! 急いで! この辺一帯に、非常線を張れ!」
と、怒鳴《どな》って、吉原は外へ飛び出したのだった。