6 恋人の義務とは
「誰ですって?」
と、林一恵は訊《き》き返した。
「あの——私は、マリアというんですけど」
「マリア様?」
一恵は、受話器をよっぽど置いてしまおうかと思った。
「ええ。でも、何だか気がひけるんです。少しえらい名前すぎて。だからただマリ[#「マリ」に傍点]にしようかと——」
「あのね」
と、一恵は遮《さえぎ》って、「何か売りつけようっていうの?」
「そ、そうじゃありません。あの、頼まれて電話してるんです。吉原さんに」
「——誰に?」
「吉原さんです。あの——ご存知ありません?」
「吉原って……。知ってるけど、でも——」
一恵は、あわてて周りを見回した。「どうしたの? どこに……」
「けがしてるんです。で、困ってて。服も血がついてるし。——助けていただきたいんですけど」
一恵は、少し黙ってしまった。——あまりに突然の話だ。
「——もしもし?」
と、向うが言った。
「聞いてるわ。あのね——私だって、新聞ぐらい見るのよ」
「ええ。でも、吉原さんがあんなことしないってこと、ご存知でしょ?」
一恵も、そう言われると詰ってしまった。
確かに、あのお風呂《ふろ》の一件では頭に来ていたのだが、吉原とは短い付合いではない。人殺しなどする男でないことは、分っている。
「そりゃね……。でも、私に何ができるの?」
「吉原さん、自分の力で、本当の犯人を捕まえると言ってるんです。手伝ってあげて下さい。恋人でしょ?」
「ええ……。まあ、そんなもんね。でも——」
「私、あなたをびっくりさせた女の子です」
一恵は目を丸くして、
「じゃ、お風呂《ふろ》に入ってた——」
「でも、誓います! 決して、吉原さんと何かあったわけじゃないんです。ただ、たまたま、あそこへ落っこちただけなんです」
「何だかよく分らないけど……」
一恵は、ため息をついて、「ともかくね、私だって困るわ。一緒に捕まっちゃったらどうするの?」
「それが恋人でしょ」
一恵には、その一言が応《こた》えた。——それが恋人。
「信じてないんですか、吉原さんのこと」
「そりゃ信じてるけど……」
「だったら、助けてあげて下さい。愛してるんでしょ?」
普通、人からこうもまともに、訊《き》かれることはないものだ。
一恵は、ためらっていたが、
「——いいわ」
と、肯《うなず》いて、「どうすればいいの?」
と、訊いた。
「良かった! きっと助けてくれると思ってました」
その言い方は、本当に嬉《うれ》しそうだった。一恵は、つい笑顔になっていた……。
「——それじゃ、ともかく何か着る物を用意して行けばいいのね。他には?」
「吉原さん、けがしてるんです」
「あ、そうだったわね」
頼《たよ》りない恋人である。「じゃ、オキシフルでも?」
「あの——割とひどいけがなんです。包帯とか色々、必要だと思いますけど」
「そんなに?」
一恵もさすがに青くなった。まだ未亡人になりたくない!——あ、結婚してなかったんだっけ。
「病院に行かなくても大丈夫なのかしら?」
「本人は平気だと言ってますけど……。でも具合によっては」
「そうね。分ったわ。ともかく、私が行って見てみるから」
一恵だって、人のけがのことなんか、分りゃしないのだが。「で、どこで会いましょうか?」
「それもご相談しようと思ったんです。どこか、身を隠す所、思い当りませんか?」
「そう言われてもねえ……。私も不動産屋じゃないから」
「今は、倉庫にいるんです」
「倉庫? じゃ、寒いでしょう」
「ええ。あんまり居心地は良くありません」
「待って!」
一恵は、少し考えて、「もしかしたら、何とかなるかもしれないわ。だめでもともと、当ってみるわ」
「お願いします! やっぱり恋してると、女の人って強いんですね」
照れるようなことを、よく大真面目《おおまじめ》に言う子だわ、と一恵はおかしくなってしまった。
「吉原さんが、彼女はもとから強いんだ、って言ってましたけど」
「まあ、あの人、そんなことを?」
一恵は笑って、「けがした所を思い切りつねってやろう」
「きっと喜びますよ」
「じゃ、これから出て、必要な物を買うわ。その倉庫って、どこなの?」
「あ、いえ——ここはだめです。警察の人が沢山《たくさん》いるから。ええと……何とか運び出しますから。どこか人目につかない所で待ち合せたいんですけど」
「人目につかない所、ねえ」
簡単に言われても、すぐには——。「そうだわ」
「どこか、ありました?」
「吉原さんに訊《き》いて。あの[#「あの」に傍点]場所で待ってるからって」
「あの場所じゃ分りませんよ」
「分るわよ。あの——初めてキスした所、って言ってくれれば」
言いながら、一恵の方も照れて赤くなった。
「そんな……そんなこと言えないわ! 恥ずかしい」
どうやら、向うはもっと赤くなっているらしい。「何か……他に言い方ってないんですか?」
「そうねえ……。でも、それが一番分りやすいと思うのよ」
「分りました……。ともかく話してみます」
と、情ない声を出す。
「ね、言いにくければ、紙に書いて渡したら?」
「それがいいですね! 一恵さんって頭がいいんですね」
「それほどでもないけど」
と、一恵は咳払《せきばら》いした。「じゃ——そうね、今からだと……二時間もあれば」
「二時間ですね。分りました。何とか吉原さんを連れて行きます」
「ねえ……」
「何ですか? 何か伝えること、あります?」
「いえ、そうじゃなくて。——あなた、どうして、彼のこと、そんなにしてまで助けたいの?」
「それは……。成り行きです」
「でも、もし捕まったら、あなたも罪になるわよ」
「分ってます。でも、人間を幸せにするのが、天使の仕事ですから。じゃ、待ってますね!」
電話は切れた。
一恵は、ちょっとポカンとしていたが、やがて、受話器を戻《もど》して、
「天使の仕事? そう言ったのかしら?」
面白い子だわ。もちろん、彼の部屋のお風呂《ふろ》にどうして入っていたのかは気になるけど……。
まあ、吉原も男ではあるけれど、あんな若い子と二股《ふたまた》かけるなんてことのできるタイプじゃない。大体、そんなにもてないものね。
けがしてる、か。——TVのニュースじゃ、警官に撃たれて、腕をけがしたらしい。
撃たれる、って、痛いんだろうな。
一恵は、電話のある廊下から、居間へと入って行って、
「キャッ!」
と、声を上げた。
「母親を見て、どうして悲鳴を上げてるの?」
一恵の母、林|久江《ひさえ》が、目の前に立っていたのだ。一瞬、一恵は、母が電話を聞いていたのかしら、と思った。
「いいえ……。だって、びっくりしたのよ。いきなり目の前に——」
「いちいち大声出して歩けませんよ」
と、久江は言った。「誰から電話だったの?」
「友だちよ。ほら、春日《かすが》さんって、前、同じ会社にいた人」
結婚して、目下ハネムーン中の同僚の名を出しておいた。
「そう。——一恵、座りなさい」
久江は、それ以上電話のことは言わなかった。どうやら、立ち聞きしていたわけではないようだ。
一恵は、
「何なの? ちょっと出かけるんだけど」
と、言った。
「すぐ終るわ。ともかくかけて」
「はい」
一恵は、肩をすくめて、ソファに座った。
「何かお説教?」
「簡単な用件よ」
と、久江が、取り出したのは、大判の封筒……。
一恵にも見憶《みおぼ》えのあるサイズだった。
「お母さん……。またお見合写真?」
「そうよ。あなた、いくつだと思ってるの? もう二十六よ。私はあなたの年齢《とし》にはもうあなたを生んでいたのよ。それでも遅いくらいだったわ」
「今は、みんな遅くなってるわよ」
「そんなことはありません。——あなた!」
一恵はびっくりした。振り向くと、父親が居間へ入りかけて、ためらっているところだった。
「何してるの?」
と、久江が、まるでいたずらを見付けた小学校の先生のような口調で言った。
「うん……。TVを見ようかと思ったんだが……。何だか大事な話らしいから、後にするよ」
と、行きかける。
そうか、と一恵は初めて、思い当った。今日は日曜日だったんだ。
「あなたも座って」
と、久江が、一恵に言うのと全く同じ調子で言った。
「しかし……」
「娘の話なのよ。父親だって、責任のあることなんですからね」
「うん」
林|邦和《くにかず》は、ソファの端の方に、ちょこんと腰をおろした。
つい、自然と端の方に座ってしまうというのが、林邦和の、この家の中における位置を象徴《しようちよう》していた。
林邦和は養子である。妻の久江の父親が、オーナーだった会社で、邦和は課長のポストにいた。
もう林邦和も五十五歳だから、課長より上にいてもいいのだが、何といっても、林はおとなしい性格で、人と競ったりするタイプではない。
一恵は、どうして母のような気の強い女性が、父を結婚相手に選んだのか、今になってもよく分らない。
高校生のころだったろうか、友だちが家に遊びに来て、父と母を見ると、一目で、
「お父さん、養子でしょ」
と、見抜いて言ったことがある。
その夜、一恵は母の久江に、
「どうしてお父さんと結婚したの?」
と訊《き》いた。
久江は一言、
「誤解よ」
と、だけ答えたのだった。
未《いま》だに、一恵にはあの意味がよく分らずにいる……。
「——一恵の結婚相手のことよ」
と、久江は言った。「いいお話だわ。これで進めようと思うの」
「お母さん! 待ってよ。私のことじゃないの」
「言う通りにすれば、間違いないのよ」
と、久江は写真を見せた。「どう? 見た目も悪くないわ」
一目見て、一恵は嫌悪《けんお》感を覚えた。——どう見ても、どこかの成金のぐうたら息子。
ボサッとした顔には、およそ「鋭さ」のかけらもない。
「あなた、どう思う?」
と、久江が夫の方へほこ先[#「ほこ先」に傍点]を向けた。
「うん……。まず、そりゃ一恵が決めることじゃないのか。一恵が結婚するんだからな」
と、林はメガネを直して、言った。
「そんな甘いことで、どうするの!」
久江の甲高い声は、居間のシャンデリアをブルブル震わせるほどだった。
「し、しかし……」
「本人に任せておいたら、どう? 人殺しの逃亡犯よ。一恵なんかに、男を見る目はないわ」
「お母さん——」
「何? あの男でしょ? 愛人を殺した男。ちゃんと分ってるの。これであなたにもよく分ったはずよ」
「何が?」
「自分で男を選ぶのは無理だってこと」
「ちょっと、そんな——」
「よく考えなさい。もしかしたら、殺されたのは、あなたかもしれなかったのよ」
と、久江はかぶせるように言って、「殺されて、トランクにでも詰められて、それでも幸せだ、って言うつもり?」
いけない、カッとなっちゃ。——一恵は自分に言い聞かせた。
今は、早くこの場を切り上げて、吉原に必要な物を買って来なくてはいけないのだ。——母と言い合っていたら、何時になるか分らない。
「そりゃあ……あの人のことは見る目がなかった、と思ってるわ」
と、一恵はふくれながら、「でも、会いもしないうちに、結婚しろ、って言われるんじゃいやよ」
「誰もそんなこと、言ってやしないでしょ」
と、久江は苦笑した。「来週、一度、この方とお会いしなさい。——父親は会社を四つも持ってる実業家、母親は元華族の家柄《いえがら》よ」
元華族!——何十年前の言葉かしら、と一恵は思った。今でもそんな言葉が通じると思っているんだから、お母さんは!
「分ったわ」
と、一恵は肩をすくめて、「問題は当人だものね。ともかく、会ってみればいいんでしょ」
「そう。じゃ、いいのね? そう先方へご報告しておくから」
「ええ」
一恵は、それほどいやでもないような顔をして、「この手の人って好みなの」
とまで言ってのけた!
「じゃ、来週はあけておいてよ。分ったわね?」
久江は立って、さっさと居間を出て行く。
「——ああ、参った」
と一恵が呟《つぶや》くと、
「母さんは相変らずだな」
「え、ええ。——そうね」
一恵はあわてて言った。つい、父がいるのを忘れてしまうのである。それほど存在感が薄いということでもあろうか。
存在感と髪の毛が、何か関係があるのかどうか、一恵の知っている限り、父の頭は相当昔から薄かった……。
「しかし、びっくりしたなあ、あの事件には」
と、林が言った。「一度、町でバッタリ出くわしたことがあっただろう」
「え?——ああ、吉原さんのこと? そうだったわね。まだ私が勤めてたころ」
一恵は今は「家事手伝い」の身だが、一応はOL生活を二年ほど経験している。
久江は、就職などさせずに、即結婚へと持って行きたかったらしいが、ちょうどそのころには、
「いい出物がなかった」
——とは久江自身の説明である。
しかし、OL生活の中で、一恵は吉原と知り合い、恋に落ちた。いや、正確に言うと、吉原に惚《ほ》れられたのである。
一恵は、男性から本気で惚れられるという快さを、初めて味わったのだった……。
「しかし、意外だな」
と、林が言った。
「え?」
「いや、あの男さ。私に会った時はペコペコ頭を下げて、照れまくっていたじゃないか。少し頼りない感じはしたが、人は良さそうに思ったよ」
林の言葉に、一恵は微笑《ほほえ》んだ。ホッとしたのだ。
「あの人じゃないわよ。いえ、きっと違うと思うわ」
と、一恵は言った。
「しかし、新聞じゃ——」
「間違えることだってあるわ。そうじゃない?」
「うん……。そりゃそうだな」
「あの人、人殺しなんかできないわよ」
一恵は立ち上って、「出かけて来るわ」
「遅くなるのか?」
「さあ。——もう私、二十六よ。子供じゃないんだから、心配しないで」
「ああ。——お前を信じとるよ」
林が、優しく微笑んで肯《うなず》いた。
一恵は、居間を出ると二階へ上り、急いで出かける仕度をした。
買物はカードがあるから大丈夫だ。ともかく、急がないと。
一恵は、五分で仕度を終えると、家を飛び出して行った。