7 病 院
「——痛む?」
と、少女は——いや、一応マリ[#「マリ」に傍点]という名で呼んでおこう——言った。
「うん……。仕方ないよ。転んですりむいたのとはわけが違う」
吉原は、ちょっと顔をしかめた。「それにしても揺れる、このバスは」
日曜日で、サラリーマンが乗らない、とはいっても、いくら何でもガラ空きすぎるんじゃない、とマリは思った。
「これで会社、潰《つぶ》れないのかしら?」
と、マリが言うと、
「何のことだい?」
と、吉原が訊《き》いた。
「いえ——バスの会社。こんなに空いてても走らせるなんて、偉いわ。運転する人も、きっとつまらないでしょうね」
「そんなの同じさ。ただ仕事としてやってるんだ」
「そうかしら? でも、やっぱりどこか違うと思うわ」
バスの中は、コートをはおって、血で汚《よご》れた上衣《うわぎ》を隠した吉原とマリの二人だけ。
三宅良子は、犬のポチと一緒に、吉原のマンションの地下で待っていることになったのだった。——ポチ、という名には、当の犬は大いに不服そうだったが、良子が勝手にそう決め込んで、
「だめよ、ポチ」
とか、
「ほら、ポチはおとなしくしてなさい」
とかやるものだから、そのうち諦《あきら》めたらしかった。
——バスに乗って行くしか、一恵の言った場所には行けない、というので、犬を連れて来ると目立つから、こうして二人が来ることになったのである。
「——今日は暖かいな」
と、吉原が、よく陽《ひ》の照った外へ目をやって言った。
「そうね。でも、風は冷たいかもよ。——ガラス越しに見てるだけじゃ、分らないことってあるのね」
マリは、何だか考え込んでいる。
「どういう意味だい?」
「それをよく勉強して来い、って言われて来たの。天国から見てると、人はみんな小さな生きもので、ウロチョロしてるだけ。私、よく友だちと笑って眺めたもんだわ」
「へえ」
「でも、下界へ下りて、同じ高さでものを眺めてみると、世の中が全然違って見えるのね。——ガラスの向うが、どれくらい寒いか、ここにいちゃ分らないのと同じだわ」
「なるほど」
「あの運転手さんだって——」
と、マリは前の方へ目をやって、「そりゃ、こんなに空いてると、走らせるのは楽かもしれないし、喜んでるのかもしれないけど、でも、心のどこかにきっと、寂《さび》しい気持があると思うわ」
「寂しい?」
「ええ。だって、いつもなら大勢の人を、仕事場へと運んでるわけでしょ。少しでも早く着けばホッとする人もいる。一本早い電車に乗って、好きな女の人に出会える人だっているかも……。そんなことのお手伝いをしてるのが、楽しいと思う気持、きっと少しは持っているはずだわ」
「なるほどね」
吉原も、もうこの娘を、「少しイカレてる」と思ってはいなかった。もちろん、まともじゃないのかもしれないが、でもからかったりしようとは思わない。
大体何がまとも[#「まとも」に傍点]なのか、なんてことは、誰にも決められないだろう。
この子が本当に天使じゃないとしても、本人がそうだと信じているのなら、この子は天使なんだ。それでいいじゃないか……。
何の義理もない吉原のことを、こんなにしてまで助けてくれる。——羽はなくても、この子は「天使」だ、と吉原は思った……。
「あ、次の停留所だよ、確か」
と、吉原は言った。「この前来た時は夜だったから、大分様子が違うけど」
「じゃ、停《と》めてもらわなきゃ」
マリは、ボタンを押そうとして、ためらった。
「どうしたんだい?」
「ううん。——待ってて」
席を立つと、マリは運転席の方へと歩いて行った。そして、
「次、降りますから、お願いします」
と、声をかけたのだ。
運転手は、ちょっとびっくりしたように振り返ったが、すぐに肯《うなず》いて、
「分った。少しカーブするよ。座ってた方がいい」
と、言った。
マリは戻《もど》って来て座ると、
「何だか、嬉《うれ》しそうだったと思わない?」
と、吉原に訊《き》いた。
「ああ、思ったよ。いや、本当に嬉しそうだった」
と、吉原は言った……。
「——寒い所ね」
と、マリは顔をしかめた。「こんな所で待ち合せなんて」
無理もない、海岸なのだ。潮風が吹きつけて来て、思わず首をすぼめてしまうほど寒かった。
「大丈夫かい? このコートをはおったら?」
「大丈夫よ。若いんだから」
と言ってから、マリは笑って、「天使としてはまだ若い方なの」
「そうか。人間としても若いよ。それに、可愛《かわい》い」
「——また」
マリは目をそらした。「ここじゃ、まともに風が来るわ。どこか、風をよける所、ないかしら?」
「そうだなあ。——ああ、彼女と入った喫茶店がある」
「大丈夫かしら、入っても?」
「大丈夫だろう。こんな時期なら、客なんかいないと思うよ。店が開いてるかどうかも怪しいほどだ」
「じゃ、行ってみる?」
「うん。店はあそこだ。この場所が見えるからね、中から」
二人は、ゆっくりと冷たい風の中を歩いて行った。
店は開いていた。——暇そうなのは、想像した通りだ。
しかし、暖房が入っていて暖かいだけでも楽だった。
窓際の席にかけて、吉原は店のカウンターに背を向けて座った。
「いらっしゃい」
退屈し切っている感じのウェイトレスが水を持って来る。「今日初めてのお客さんだわ!」
「僕はミルクティー」
「私も」
と、マリは言った。
「ごゆっくり」
と、ウェイトレスはカウンターの方へ戻って行った。
暖かい所から眺めると、あの海岸の寒さが嘘《うそ》のようだ。
「——いつごろだったの?」
と、マリが訊《き》いた。
「何が?」
「彼女と——ここへ来たの」
「ああ。夏さ。ドライブに来てね。ともかくこの道が、車で埋ってた。夕方になって帰ろうにも、全然動かないんだ。諦《あきら》めて二人でレストランに入って、ゆっくり食事をした。それから少し道が空《す》いたんで、走って来て……」
吉原は、ふっと笑った。
「何かおかしいの?」
「ああ、いや……。僕がね、トイレに寄りたいと言い出して、ここで停《とま》ったのさ」
「あんまりロマンチックじゃないわね」
と、マリは言った。
「他に口実を思い付かなかったんだよ」
「じゃ、嘘だったの?」
「うん。ともかく、この店に入りたかった」
「どうして? ここを知ってたの?」
「そうじゃない。週刊誌に書いてあったのさ、この店から見る海の夜景がきれいだってね」
マリは笑って、
「呆《あき》れた」
と言った。「そんなものの通りにやるの?」
「彼女のそばにいられるなら、どんな嫌《きら》いな奴《やつ》のことでも喜んでしゃべっていられるさ。そんなもんだよ」
ふーん、という顔で、マリは肯《うなず》く。
「で、その週刊誌の通りに、店を出てから、『少し海岸を歩かないか』と言ったんだ」
「じゃ、彼女の方もついて行ったのね」
「うん。——そのすぐ前に、海岸へ下りる階段がある。そこから波の音の聞こえる浜辺へね」
「で、目的達成ってわけね」
「いや。すぐにまた上って来た」
「どうして?」
「その週刊誌を読んだ奴が大勢いたらしくてね、海岸中、アベックだらけだったのさ」
マリは吹き出してしまった。
「——いや、あの時は、ばつ[#「ばつ」に傍点]が悪かったよ」
と、吉原も笑って、「今夜はもうだめだな、と思って、車へ戻《もど》った。で、走り始めたら、彼女がすぐに停めてくれ、と言うんだ」
「それが……」
「あの場所さ」
と、吉原は目をやった。
「じゃ……」
「彼女も、その週刊誌を読んでたんだ。——でも僕に恥をかかせたくないから、その時は黙っててくれた。そして——」
「キスしたわけか」
マリは、「今度はあまり照れずに言えた」
と、笑った。
「——どうなんだい、天使にもボーイフレンドがいるの?」
「ううん」
と、マリは首を振った。「恋なんて、もうないのよ、あっちでは。だって、恋をしたら、憎んだりすることもあるでしょ」
「なるほどね」
「でも——嫌《きら》いじゃないわ。上から、恋人たちが肩組んで歩くの見たりするのは」
と、マリは言った。「でも——いい人ね、一恵さんって」
「そりゃ、僕の恋人だからね」
——呑気《のんき》な話をしてるな、俺《おれ》は。
吉原は、ふと思った。こんなことしてていいのか?
殺人容疑で追われてるっていうのに……。しかし、吉原はいやに平静な気分だった。
「そろそろ、一恵さん、来るかもしれないわ」
「うん、しかし、そうピッタリには来られないさ」
ウェイトレスが、紅茶を運んで来た。
「——お待たせしました」
テーブルのわきに立った。何か、こぼれていたのかもしれない。それとも、磨いて、滑りやすかったのか。
「キャッ!」
と、声を上げると、片足がズルッと滑って、手から盆がテーブルの上に落ちた。
「アッ!」
と、叫んだのは、吉原だった。
熱い紅茶が、もろに左腕にかかった。コートをはおっているとはいえ、はねた紅茶が、布で縛《しば》っただけの傷口に——。
やっとこらえていた痛みが、頭まで突き抜けるようで、思わず呻《うめ》いて、よろけた。
椅子《いす》が倒れ、吉原は床に転がった。
「どうしよう!」
ウェイトレスが、青くなった。「死んじゃった!」
「死にゃしないわよ」
と、マリは急いで言った。「——しっかりして! けがしてるの。傷が……」
「どうしよう? 救急車を呼ぶ?」
「いや……」
吉原は、マリに支えられて起き上ると、「どこかこの辺に、病院は?」
と、訊《き》いた。
「そこの坂、上った所に、外科のお医者さんが……」
「私、連れて行くわ」
マリは、吉原を支えて立たせると、「お願いがあるんだけど」
「何かしら?」
「ここから見える所に、女の人が来ることになってるの。もし人を捜してるみたいだったら、行って話してあげて」
「病院を教えてあげればいいのね? 分ったわ」
と、ウェイトレスは言った。「本当にごめんなさい。——私、一人でなかったら、ついて行くんだけど」
「いいの。それより、女の人のこと、お願いね!」
マリは、吉原の右の方の腕を自分の肩へ回し、店から外へ出た。
「——歩ける?」
「何とか……。畜生、また出血して来たみたいだ」
ズキズキと、頭に響く痛みで、顔をしかめる。
「ツイてないわ! これでも天使かしら。疫病神《やくびようがみ》みたい」
「君のせいじゃないよ」
と、吉原は言った。
「その坂ね。——ちょっと急よ。頑張《がんば》って!」
「ああ……」
ほんの二、三十メートルの坂だが、一歩ずつ、足取りははかどらない。
寒い風に吹きさらされているが、それでも坂の上までやっと上り切った時には、二人とも汗をかいていた。少なくとも体は暖まったわけである。
病院は、昼休みの時間だった。却《かえ》って他に患者がいないので幸いだったのである。
医者はもう六十の半ばは完全に越えているという老人で——いや、七十を過ぎているのかもしれない。
マリが、
「けがをしたので、すぐ診ていただけませんか」
と言うと、すぐに出て来てくれた。
「ひどいね、これは」
と、顔をしかめ、「じゃ、中へ」
と促《うなが》す。
吉原はマリの方へ、
「君はここにいて」
と、言って、肯《うなず》いて見せた。
ドアが閉まる前に、その年取った医者が、
「女の子にでもかみつかれたのかね?」
と訊《き》いているのが、マリの耳に入って来た。
マリは少しホッとした。医者というのも、患者に接する態度がまず第一の薬である。——これは天使として、必ず教えられることだった。
常に希望を持って、のぞむこと! どんな状況にあっても。
しかし——困ったもんだわ、とマリは思った。
吉原の傷が、あまりひどくなるようでは、犯人捜しどころではなくなってしまう。入院が必要、とでもなれば、警察に知れずにはいないだろう。
ジリジリしながら、待合室に座っているとバタン、と入口の扉が開いた。
「あの——」
と、大きな紙袋を下げた女性が飛び込んで来た。
「林一恵さんですね」
と、マリが立ち上る。
「あ! あなたね、お風呂《ふろ》の——」
二人は顔を見合わせて、少し間を置いて、
「その節はどうも」
と、お互い頭を下げた。
「今、吉原さん、中で……」
「どうかしら、けがは?」
一恵は、上って、心配そうに診察室の方へ目をやった。
「結構痛むみたいです。でも、一恵さんがみえたから、もう大丈夫ですよ、きっと」
「まあ。——ありがとう」
一恵は、微笑《ほほえ》んで、「これが服とか包帯とか……。買うのに、ちょっと手間取っちゃって。何しろ男の人の下着なんて、買ったことないから」
「あ、そうか」
一恵は、マリを眺めて、
「あなた……大丈夫なの? こんなことしていても」
「ええ。でもお二人のお邪魔はしませんから——」
「そんなこといいのよ。でも、こんなことに巻き込まれてしまって」
「いいんです。これも研修ですから」
「研修?」
一恵は不思議そうに訊《き》き返した。
すると——ドアが開いて、吉原が顔を出したのである。
「君——来てくれたのか」
一恵はパッと立ち上ったが、すぐには言葉が出ないようで、
「あ、あの——元気?」
などと訊いたりしている。
「少し元気じゃないけどね」
と、吉原は首を振って、「でも、大したことはなかったよ」
左腕に、きっちりと真新しい包帯が巻かれている。医者が顔を出して、
「ま、今夜ぐらいは熱が出るかもしれんな」
と、言った。
「すみません、どうも」
一恵は、吉原の右腕を取って、「じゃ、行きましょうか。タクシーを待たせてあるの、この坂の下に」
「助かった。——じゃ、支払いを」
マリは、何となく気が重かった。
吉原が助かったのは嬉《うれ》しいが、一恵が急いで支払いをしたりするのを見ていると、何となく、もう自分のことが必要なくなったみたいで……。
「私、荷物、持つわ」
と、立ち上る。
「いや。君はもういいよ」
と、吉原は言った。「これ以上君を巻き込むと、とんでもないことになる」
「そんなこと言って——」
「いや、分ってるんだ。ただね、もし君まで捕まるようなことになると——」
病院の入口の扉がパッと開いた。
吉原が、同時にマリを長椅子《ながいす》の方へ押しやった。窓口で支払いをしていた一恵が、振り向いて、短く声を上げた。
警官が二人、扉を開けたまま、左右に立った。そして、入って来たのは——。
「課長」
と、吉原は言った。
「捜したぞ」
と、村田は言った。「けがの方はどうだ?」
吉原は、肩をすくめて、
「まあまあです」
と、言った。
「そうか。パトカーが待っている。行こうか?」
「はあ」
吉原は、息をついた。
村田は、一恵の方を向いて、
「お嬢さん、ご苦労さんでした」
と、言った。
一恵の手から財布《さいふ》が落ちた。硬貨が転がる。
「——この娘は?」
と、村田がマリを見て、訊《き》いた。
「その子は関係ありませんよ」
と、吉原が言った。「ここに来た患者でしょう」
「そうか。じゃ、治療は済んだんだな。よし、行こう」
村田に促《うなが》されて、吉原は病院を出て行く。——しばらくは、一恵もマリも、時間が止ってしまったかのように、動かなかった……。