10 偽 証
「ゆすりか。うん、それは大いに可能性があるね」
と、吉原は肯《うなず》いた。「さすがは天使だな。刑事の僕が、とっくに気付いてなきゃいけなかったんだ」
「いいえ……」
マリは少々照れくさかった。——まさか、犬のポチの考えで、とも言えないから、黙っていたのだが。
「今日は暖いね。——何かいいことのありそうな日だ」
吉原は、マリの目には別人のように活《い》き活きとして見えた。
「けがの具合、どうですか?」
「うん、ありがとう。大したことないよ。もう痛みもほとんどなくなった」
「良かったですね」
「君のおかげさ」
「そんなこと……。一恵さんの看病が良かったんでしょ」
マリは少し赤くなりながら言った……。
階段の方に、軽快な足音がした。
「一恵さんだわ」
と、マリが振り返ると、一恵が、大きな紙袋を両手に下げて上って来る。
「あら、マリさん。昨夜は本当にありがとう」
「いいえ。——買物ですか」
「ええ。主婦第一日にしちゃ、変な場所だけどね」
と、一恵は笑った。
その笑顔は、昨日までの笑顔とはまるで違うように、マリには見えた。
「五階まで上り下りするのは大変だろ」
と、吉原が立ち上って、「少し下に移ろうか」
「大丈夫よ。あんまり下じゃ、お向いのビルから覗《のぞ》かれる心配があるわ。五階ぐらい、どうってことない。——はい、カミソリとシェービングクリーム。それにネクタイも買って来たわ」
「ありがとう。——ずいぶん派手だね」
「あなた、地味すぎるのよ。マリさん、サンドイッチ、一緒に食べない?」
「でも……いいんですか?」
「ええ、もちろん、どうして?」
「何だか、お邪魔みたいな気がして」
「そんなこと! あなたが私たちのキューピッドですもの」
「ぴったりだ」
と、吉原が言って笑った。
マリは、ちょっぴり複雑な気分だった。
そりゃ天使だからね。人が幸せになるのを見るのは、悪い気分じゃない。でも、ハートを射抜くキューピッドっていうのは、人間の想像の産物で、大体マリは弓の練習なんてしたこともないのだ。
でも、まあ文句を言う筋のことでもないかもしれない。取りあえずはおめでとうございますということで……。
サンドイッチったって、その辺で買ったやつだから、決しておいしくはない。それに飲み物は紙コップに入ったコーヒー。
でも、吉原と一恵を見ていると、二人がまるで真新しいマイホームの、きれいなダイニングキッチンで朝食を取っているかのようだった……。
「——あの宮田って奴《やつ》には、全く頭に来るよ!」
と、吉原が、食事を終ったところで、言った。
「何かわけがあるのね。間違えたってことはないんでしょう?」
と、一恵が言った。
「あり得《え》ないよ。顔がはっきり思い出せなくて分らないというのならともかく、ああもでたらめを……」
「きっと誰かにそう言えと言われたのよ」
「うん。——買収されたか、おどされたのかだな」
「どうするの?」
「簡単さ」
と、吉原は言った。「こっちがおどしてやる」
「逆襲《ぎやくしゆう》ね」
と、マリは言った。「私も手伝うわ」
「しかし——危いよ。もう二人も殺されている。三宅だって、あの女房がやったんじゃないとしたら、恐喝《きようかつ》していた相手がやったということになる」
「その可能性の方が高いんじゃない?」
と、一恵は言った。「後で、部屋の中が空っぽにされたことを考えても」
「うん。きっとその誰か[#「誰か」に傍点]は三宅をおどして、脅迫《きようはく》の種になっているものを出させようとしたんだな。しかし三宅はしゃべらなかった。争ったか、逃げようとしたか……。その犯人は三宅を殺してしまった」
「肝心の品物がどこにあるか、分らなくなっちゃったのね」
「だから部屋の中を空っぽにしたんだ」
と、吉原は肯《うなず》いて、「中で捜し回るわけにいかないから、取りあえず、洗いざらい運び出してしまった。それからゆっくり捜そうってわけだ」
「じゃ、三宅照子さんをさらったのは誰なのかしら?」
「その犯人とも考えられるね。そいつは、三宅の部屋の電話に盗聴機《とうちようき》をセットしていたんだ。僕と課長の会話を聞いて、僕のマンションへ行ったわけだからな」
マリは肯いて、
「そこに、本当に[#「本当に」に傍点]照子さんがいたのね」
「犯人は、きっと彼女が何か知っていると思ったんじゃないかな。つまり、脅迫の種にしていた物がどこに隠してあるかを」
「だから、さらって行った。——それなら筋が通るわね」
「しかし、彼女は知らなかった。——だから連中はあの部屋の荷物を全部運び出すことにしたんだ」
吉原は、顔をこわばらせた。「そうか、すると、もう奴《やつ》らは三宅照子が何も知らないんだと思ってる。ということは、もう彼女は邪魔者なんだ」
「じゃ——殺される?」
と、一恵が目を見開いた。
「良子ちゃんのママよ。何とかして助けてあげないと」
と、マリが思わず吉原の腕を取って、「あ——ごめんなさい」
と、あわてて手を離した。
「あら、構わないのよ」
と、一恵が言った。「きっとこの人も喜ぶわ」
「よせよ」
と、吉原が照れたように言った。「今はそんな呑気《のんき》なことを言ってる時じゃない。——よし、ともかく手の届く所から始めよう」
「というと?」
「あの、隣の部屋の宮田って男さ。あいつが嘘《うそ》をついているのは確かだ。何としても、本当のことを訊《き》き出してやる」
「でも、用心しないと」
と、一恵が不安そうな表情になった。「だって、もし見付かって捕まったら、今度こそ出られないわよ」
「分ってる。何とかして、宮田をおびき出せないかな」
と、吉原は考え込んだ。
「私に任せて」
と、マリが言った。「あの犬と二人[#「二人」に傍点]で、何とかやってみるわ」
「しかし、そいつは危険だ」
「大丈夫、ここまでやって来たんですもの。最後まで力になりたいわ」
「ありがとう」
と、一恵が、マリの手を握った。
マリは、ちょっと頬《ほお》を染めて、
「その代わり、お願いがあるんですけど」
「何かしら?」
「良子ちゃんのこと、面倒をみていてくれます? あの地下倉庫に一人で置いておくのは心配だから」
「分ったわ。じゃ、行ってここへ連れて来ましょう」
「——そうだ」
吉原が肯《うなず》いて、言った。「単純だが、この手で行こう」
「え?」
マリと一恵は顔を見合わせた……。
宮田昭次は、電話が鳴り出すと、ビクッとして、飛び上りそうになった。
「落ちつけ!——電話がかみついて来るわけじゃないんだからな」
受話器を上げて、身構えながら、「もしもし?」
「あら、太郎ちゃん? 私よ、元気?」
宮田は咳払《せきばら》いして、
「あの、おかけ違いですよ」
と、言った。
「あら、太郎ちゃんじゃないの?」
宮田は、憤然《ふんぜん》として、受話器を置いた。
「何が太郎ちゃんだ、ふざけるな!」
玄関のドアをトントンとノックする音がして、
「どうかしましたか、宮田さん」
と、警官の声がした。
「いや、何でもありません」
と、宮田は大声で答えて、畳の上にゴロリと横になった。
畜生! こんな厄介なことになるなんて!
警察って所も、一体何をやってるんだ。
宮田が文句を言っているのも、まあそのこと自体は、無理からぬところがあった。
宮田は、いわば吉原の話をくつがえす証言をしたわけで、その吉原に逃げられてしまったのだから、宮田の身にも、当然危険が及ぶ可能性がある。
そこで、吉原が捕まるまで、警官が宮田の部屋の前で護衛に立つことになったのだ。しかも、差し当りは外出もしないでくれという。
勤め先も休んで、こうして部屋でごろ寝しているわけだった。
「——早く捕まえてくれよ」
と、ブツブツ言いながら、天井を見ていると、また電話が鳴り出した。
「——はい、宮田」
と、受話器を取って言うと、
「やっぱり、太郎ちゃんでしょう!」
と、凄《すご》い笑い声が飛び出して来て、あわてて受話器を耳から離した。「人をからかって! ワッハハハ!」
「間違いだと言ってるだろう!」
宮田は頭に来て、受話器を叩《たた》きつけるように置いた。「今度かけて来たら、ぶっ飛ばしてやる!」
と、また電話が鳴り出した。
この野郎……。宮田の顔が真赤になる。
電話は、宮田の精神状態にはお構いなく、いつもと同じように鳴り続けた。
宮田は、パッと受話器を取ると、
「いい加減にしろ!」
と、怒鳴《どな》った。
と——しばらく向うは沈黙していた。
これは違う電話だ。宮田は直感的にそう思った。
「もしもし? 誰?」
「よくも……」
と、低く押し殺した声がした。「よくもでたらめを言ったな!」
宮田の顔から血の気がひいた。
「な、何だ! 誰なんだ?」
「分ってるくせに! お前の嘘《うそ》のおかげで追われてる刑事だよ」
と、苦しげな声で、「いいか、絶対に、借りは返してやるからな」
「何だよ、おい……。俺《おれ》は——」
「殺してやる!」
「何だって?」
宮田は精一杯《せいいつぱい》強気になって、「いいか、こっちは、ちゃんと警官が守ってくれるんだぞ!」
「フン、それが何だ。俺はな……傷が悪化してるんだ。どうせ長いことはないんだ。一人じゃ死なないぜ。必ずお前を道連れにしてやる」
「おい、よせよ、俺は——」
「死ぬ気なら、お前一人殺すぐらい、何でもないぞ。いいか、首を洗って待ってろよ!——たとえ警官が何人いようと、突っ込んで行って、絞め殺してやるからな! いいか!」
「待ってくれ!——おい!」
宮田はすっかり青ざめていた。「俺は別に——。もしもし?」
電話は切れていた。宮田は、震える手で、やっと受話器を戻《もど》した。
トントンとドアを叩《たた》く音がして、宮田は飛び上った。もう来たのか?
「何かありましたか?」
警官の声だ。宮田は、ホッとしたが、
「いや、何でもありません」
と、返事をした。
宮田は、部屋の中を、二、三分の間、クルクルと歩き回った。そして、ピタリと足を止めると、
「命あってだ! よし!」
と、呟《つぶや》くと、電話の方へ駆け寄った。
「——もしもし、——宮田というんだが。——あんたか。もういやだよ。金をくれ。ここから逃げ出さないと!——吉原って刑事だよ! 逃げてるんだ。俺を殺す、って今、電話をかけて来た。——いや、そうじゃない、話が違うのは、そっちだぜ。あいつは今、いつでもここへ来られるんだ。——警官は一人だけだ! あんなもの頼りにならないよ。——いいか、これで手を切ろう。金を払ってくれ! そうしないと、本当のことをしゃべっちまうぜ。分ったかい?」
向うは、少しの間、黙っていた。——やがて、返事があった。
「——分りゃいいんだよ」
と、宮田は、ホッと息をついて、「じゃ、どこへ行けばいい?——何だって? ちょっと、待ってくれ」
宮田は、急いでメモを取った。
「——何だか妙な所だな。——ああ、そうか。——ああ、憶《おぼ》えてるよ。じゃ、そう言えば分るんだな」
宮田は、念を押すように、「いいか、妙な気を起こさないでくれよ。俺《おれ》だって充分に用心してるからな」
と、言って電話を切った。
宮田はフーッと息をついて、額の汗を拭《ふ》いた。
さて、と……。今度は、あの警官だ。
守ってくれるのはありがたいが、こっそり出かけるには、不便である。
「よし……。そう手間はかからねえだろう」
宮田は、勤めている塾へ電話を入れた。
「——ああ、宮田だけどね。今、田中先生は授業中?——電話してくれと伝えてくれないか。——いや、きりがついた時でいい」
あと三分で、休み時間になる。電話を切って、宮田は急いで出かける仕度をした。
ここへは、何日かは帰れないかもしれない。
必要な物を、小さな鞄《かばん》へ詰め込む。
あの電話の様子じゃ、吉原は大分傷の具合が悪いようだ。そう何日ももつまい。
どこかで死ぬか、それとも捕まるか。それまで、安いビジネスホテルにでも泊ろう。
「面倒なことになった」
と、宮田は首を振った。
その時、電話が鳴り出した。宮田は急いで受話器を取ると、
「やあ、すまん、こっちの勘違《かんちが》いで。——何でもなかったんだよ。じゃ、失礼」
パッと電話を切っておいて、もう一度受話器を持つと、「そうですか! いや、良かった!」
と、大声で言った。
「じゃ、早速伝えます!——どうも、どうも!」
受話器を置いて、玄関へと駆けて行ってドアを開ける。
「どうしました?」
警官が、びっくりしたように立っている。
「えらく大きな声で——」
「いや、今、村田さんから知らせて来たんです。吉原が逮捕されたそうですよ」
「そうですか! そりゃ良かった」
「これで安心して眠れます。いや、ご苦労さんでした」
「いや、とんでもない。では、本官はこれで失礼します!」
と、パッと敬礼する。
「どうも。お世話になりました」
宮田は、警官が立ち去るのを見送って、姿が見えなくなると、急いで鞄《かばん》を手にアパートを出て、用心しながら、反対の方向へと歩き出した。
「——うまく引っかかった」
と、吉原は、電話ボックスのかげから覗《のぞ》いて見ながら、言った。
「どこへ行くのかしら?」
と、マリは言った。
「さあね。——ともかく、後を尾《つ》けてみるんだ。きっと何かつかめる」
「ワクワクするわ」
と、マリが言った。
吉原は苦笑して、
「君は変ってるな。それとも天使ってのは、みんなそうなのかい?」
「私は、小さいころから、おてんばなの。だから、いつも叱《しか》られてたわ」
「分るね。——さ、行こう」
吉原にとって、尾行はお手のものである。何しろプロなのだから。
マリと、そしてポチがその後について行く。——これで何もかもがはっきりすればいいんだけど、とマリは思った。
そう簡単にゃいかないぜ、きっと、とポチは思っていた……。