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天使に似た人08
日期:2018-09-20 20:41  点击:396
 7 雨もりのする場所
 
 
 水谷邦子は、椅子《いす》にかけたまま、眠っている。
 ポッ、ポッ、ポッ。——時代ものの鳩時計《はとどけい》が鳴いて、ハッと目を覚ます。
「三時だ……」
 頭を振って、邦子は大きな欠伸《あくび》をした。
 子供たちは、静かに眠っている。——枕《まくら》をけとばしたり、布団から転がり出たり、パジャマをまくり上げて、おへそ[#「おへそ」に傍点]をだしたままで。
 邦子は立ち上ると、部屋を出ようとして、一瞬めまいがして、よろけた。
 大丈夫。——大丈夫よ。何でもないわ。良くあることだから……。
 このところ、貧血気味になることが多くて、気になっていた。しかし、健康診断など受けに行く時間は、とてもない。
「気持の問題だわ」
 と、邦子は呟《つぶや》いた。「参ってるだけ。——子供たちには関係ない。そうでしょ、邦子?」
 さあ、しっかりして!
 子供たちが寝ている所を見て回るのだ。保母が交替で「夜の当番」をしている。
 邦子は、いつでもどこでも、時間のある時にパッと寝られる、というのが特技だった。しかし、このところ、それができないので、どうしても寝不足になっている。
 自分でも理由は分っているのだ。
 薄暗い廊下。——古い、今どき見られない木造の建物。冬は隙間《すきま》風が寒いので、おねしょをする子が多い。
 邦子は、足音をたてないように歩いて行った。
 ——あの人[#「あの人」に傍点]は、もう戻って来ないだろう。
 胸が、しめつけられるように痛む。
 短大のころから付合っていた恋人——沼田悟士《ぬまたさとし》とは、四年越しの付合いで、どっちからも言い出したわけではないが、お互い、将来は結婚するものだと思っていた。
 その彼が——短大時代に邦子のルームメイトだった女の子と二人で、旅行に行っていたのを、邦子は知ったのである。
 彼を責めるわけにはいかない。ここの人手が、日常的に不足しているので、邦子は休みが取れない。
 デートの約束をしても、誰《だれ》か一人が病気にでもなると、出て来ざるを得ない。——この一年近く、邦子は彼と、二回、昼食をとっただけである。
 それで、「恋人」でいてくれと頼むのは、無理な注文だ。——そうなんだ。
「仕事をやめて、僕と結婚しろよ」
 彼がそう言ってくれたら……。でも、やめただろうか?
 邦子にも分らない。子供たちは可愛《かわい》い。しかし、邦子は、「親ではない」のだ。そこを踏み越えてはいけない。
 君はのめり込み過ぎてるよ。そう言われて、むきになって反発もした。
 ——そんなことのくり返しが、結局、彼を遠ざけてしまったのか。
 でも——どうすることができただろう?
 彼の心をつなぎ止める鎖があれば、いくらお金を出しても、買っただろうに……。
「あらあら」
 いつも、寝相の悪い子で、たいてい布団から外へ出てしまっているのだが、今日は何と廊下まで転がり出してしまっている!
 よいしょ。——かかえ上げて、布団へ戻してやる。目をこすり、ウーン、と声を出すが、眠っていて、憶《おぼ》えてはいないのである。
 他の子だって、ちゃんと布団をかけて寝てる子は一人もいない。
 オシッコの近い子は、一度起こしてトイレに連れて行く。
 四十人からの子、全部を見終って戻ると、もう布団をけとばしている子がいる……。
「——幸江ちゃん」
 邦子は、布団が空になっているのを見て、小さな声で呼んだ。「幸江ちゃん。どこ?」
 昼間も姿をくらましてしまった子である。でも、夜はもうぐっすり眠るようになっていたのだが……。
 幸江は八歳で、小学校にも通っているから、そう心配はないと思うが……。一人でトイレに行ったのかしら?
 邦子はトイレを覗《のぞ》いてみた。誰《だれ》もいない。
 変だわ……。
 邦子はまた不安になって来た。もしかして外へでもフラフラと……。夢遊病みたいなことをする子もないではないのだ。
 邦子は、ふと明りが洩《も》れているのに気が付いた。調理場の方だ。
 あそこに?——でも何の用で、あんな所へ行くのだろう?
 邦子は、足音をたてないように気を付けながら、そっと半分開いた戸のかげから、中を覗いてみた。
「——おいしい?」
 幸江が床に座り込んで、そう言っている。「牛乳、もっと飲む?」
 誰と話しているんだろう? ちょうど調理台のかげに隠れて見えない。
「ありがとう。——生き返ったよ」
 男の声がして、邦子はギョッとした。
 一体誰が……。そして、邦子は昼間、幸江を見付けた時、「誰だかが物置の中にいた」と言っていたことを、思い出したのだ。
 では、あれは本当だったのか。
 たぶん——浮浪者か何かが、入りこんでいたのだ。そしてお腹を空かしているからというので、幸江が——。
 どうしよう。邦子は、迷っていた。
 幸江が男の目の前にいる。万一、幸江を人質にでも取られたら大変だ。最悪の場合を考えておかなくては。
 しかし、いざという時、邦子一人で、男と闘えるだろうか?
 誰かを呼ぶといっても——ここからは離れている。
「もういいの?」
 と、幸江は言っていた。
「うん。もう充分だ」
「じゃ、牛乳、冷蔵庫へ入れとくね」
 と、幸江が立ち上る。
「叱《しか》られないかい」
「黙ってれば、分んないもん」
「そうか」
「——ね、今夜、どこで寝るの?」
「そうだね……。まあ、おじさんは、ちゃんとどこかで寝られるから——」
 つい、緊張して力が入ってしまったのか、邦子が触《ふ》れていた戸が、ガタッと音をたてた。
 中で男が飛び上った。
「誰《だれ》だ!——隠れてるんだな! 誰だ!」
 上ずった声が聞こえて、邦子は、幸江が危い、と思った。戸を開けて中へ入る。
「なあんだ」
 と、幸江がホッとしたように笑って、「邦子ねえちゃんだ」
「幸江ちゃん。こっちへ来て」
「ね、本当だったでしょ。いたんだよ、本当に」
「そうね」
 邦子は、何とか笑顔を作った。——早く、幸江を男から離さなければ!
「もう寝なきゃいけないのよ、幸江ちゃん」
「うん……。この人もね、寝る所がないんだって」
「そう。じゃ、私がゆっくりお話を聞くわ。だから、あなたは、お布団に入って寝るの。——分った?」
 幸江は、未練のある様子だったが、男の方へ、
「じゃ、おやすみなさい」
 と、声をかけ、出て行った。
 邦子は、ともかく息をついた。汗がこめかみから流れ落ちる。
「どうも……」
 男は、薄汚れた白衣のようなものを着ていた。ひげがのび、顔も青白い。
「どうしてここへ?」
 と、邦子は言った。
「いや……。何だか歩いていて、目が回りそうになって、ちょうどこの前だったもんですから」
 力のない声だが、嘘《うそ》をついているようには聞こえなかった。
「誰《だれ》なんですか、あなた」
 男は、その問いに、困ったように目を伏せた。
「それが——よく分らないんです」
「分らないって……」
「長いこと眠っていたようで——。気が付くと、夜、外を歩いてたんです。どこから来たんだか……いや、自分が誰なのかも思い出せなくて……」
「何ですって?」
「本当なんですよ。そんな馬鹿《ばか》な話、と思われるでしょうが……。本当のことなんです」
 男は、ゆっくり息を吐いて、「今朝方、寒くてたまらなかったもんですから、ついここの中へ忍び込んで……。誰かに会いそうになって、物置へ隠れたんです。——びっくりさせて、すみません。ともかくお腹が空いて……。ここで食べるものをあさってたら、あの子が来てくれて……」
 男は、軽く息をついた。
「ここは、子供たちの施設なんですね」
「ええ。——親と暮せない子たちのためのです。あなたが本当のことを言ってるかどうか、私には分りません。でも、幸江ちゃんに危害を加えたわけでもないし、警察へは届けません。今夜の内に、出て行って下さい」
 男は肯《うなず》いた。
「分ってます。そのつもりでした」
 男は、少しためらってから、「大分、食べちまってすみません」
 と、頭をかいた。
「大分って——」
 冷蔵庫を開けて、邦子は、ちょっと目を丸くした。「——空っぽ!」
「申し訳ない」
 と、男は頭をかいている。「あの——必ずその内、返しに来ます」
 邦子は、男の生真面目《きまじめ》そうな言い方に、ふっと微笑《ほほえ》んだ。
「大丈夫です。何とか話をうまくつけますわ。これぐらいで潰《つぶ》れやしません、うちだって。もちろんご覧の通りの貧乏施設ですけどね」
「ご親切は忘れませんよ」
 と、男はまた頭を下げた。「——どこから出ればいいですかね」
「その奥に勝手口が。外へ出れば、低い柵《さく》だけで、鍵《かぎ》もかかってませんから」
 邦子は先に立って歩いて行き、勝手口の明りを点《つ》けた。
「じゃ、これで……」
「あの——靴は?」
「ないんです」
「じゃ、何をはいて来たんですか」
「裸足《はだし》だったんです」
「まあ。——見せて」
 足の裏は真黒で、二、三か所、切り傷もできている。「いけないわ、傷口から菌が入ったら——。手当てしましょう」
「でも——」
「破傷風にでもなったら、大変! さ、ここに座って。足を出して」
 邦子は、バケツに水をくんで来ると、男の足を洗ってやり、救急箱を持って来て、傷の消毒をした。
「もう……どうぞ、放っといて下さい」
「あと少しですから。——さ、これでテープを貼《は》って」
 邦子は息をついて、「ご心配なく。四十人の子供の面倒みてるんです。こんなこと、楽なもんですわ」
 と、言った。
 そして、ちょっと手を頬《ほお》に当てて考え込む。
「古いサンダルでも……。どこかにあると思いますから」
「しかし——」
「また裸足《はだし》で出て行くんですか? すぐ元の通りですよ」
 邦子が、そう言った時、頭上で、バラバラと、小石でもまくような音がした。
「あら、雨だわ」
 と、邦子は言って、「いけない! ね、上って」
「は?」
「こっちへ来て下さい」
 邦子は、男を勝手口から、奥の方へ引き戻した。
「どうしたんです?」
「今に分ります」
 と、邦子は言った。
 ザーッという雨音が辺りを包む。
「凄《すご》い降りだ」
「そうじゃないんです。普通の雨でも、そんな音がするんですよ。屋根がトタンで」
 そして……ポタン、パタン、という音と共に、天井のあちこちから、雨が洩《も》り始めたのだ。
「洩ってますよ」
「ええ」
「何か……バケツとか洗面器とかで……」
「間に合いませんの」
 ——確かにその通りだった。
 雨が強くなると、十か所以上から、雨が盛大に降り始めた[#「降り始めた」に傍点]のである。
「こりゃ凄い」
 と、男は目を丸くした。
「ここの名物[#「名物」に傍点]なんです。〈白糸の滝〉といって」
「なるほど」
 雨はさらに強くなって、やむ気配はなかった。家の中の[#「中の」に傍点]雨も、床にパチパチとはねて、外と変らなくなってしまっている。
「これじゃ——」
 と、男が言った。
「え?」
「モグラがびっくりするかもしれませんね」
 邦子は呆気《あつけ》にとられて男を眺めていたが、やがて吹き出してしまった。
「——や、すみません。朝が早いんでしょう。もう行きますから」
「傘の余分はないんです」
 と、邦子は言った。「いつも足りないくらいで」
「いいですよ。何か——ビニール袋でも貸してもらえれば」
「まさか、この雨の中へ追い出すわけにはいきませんよ」
 邦子は、息をついて「今夜はどこかで寝て下さい。明日、雨が上ったら、出て行って下されば結構です」
「しかし……」
「ホテルじゃありませんから、余分な布団とかはないんですけどね。——ああ、それじゃ管理人室がいいわ」
「誰《だれ》か寝てるんじゃないんですか?」
「今は使ってないんです。管理人なんていませんから。——こっちへ来て下さい。あ、そこのスリッパ、はいて。あんまりパタパタ音をたてないで下さいね。子供たちが眠ってます」
「すみません……」
 男は頭をかきながら、ついて行った……。
 
「なるほど」
 と、山倉純一は肯《うなず》いた。
「ですから、もう一人が見付かるまで、この人をここへ置いてあげてほしいんです」
 マリはくり返した。「構わないでしょ?」
 純一は、宮尾勇治を眺めて、それから一緒について来た、三崎伸子を見て、
「二人とも、お化け[#「お化け」に傍点]ってわけ?」
 田崎があわてて、
「いや、違います。この人はちゃんとした——何というか——」
「生きてる人間です」
 と、マリは三崎伸子を見て言った。「宮尾勇治さんの方も、お化けじゃありません。生き返ったんですから、一旦《いつたん》は。ちゃんとした人間なんです」
「はあ……」
 純一は呆気《あつけ》にとられている。
 まあ、この話を聞いて、即座に納得できたら、その人の方がおかしい、ってことになりそうである。
「どうする?」
 純一が田崎を見る。
「坊っちゃんのお好きなように」
 田崎はいつに変らぬ、半分|真面目《まじめ》、半分|面白《おもしろ》がっているような顔をしている。
「そうか……」
 純一はため息をついて、「分った」
「じゃ、いいんですね」
 と、マリが嬉《うれ》しそうに言った。
「ただし——」
「え?」
「マリさんが僕と結婚すること」
「そんな……。ずるい! 人の弱味につけ込んで!」
「どっちが弱味につけ込んでんだ」
 と、ポチが言った。
「あんたは黙ってな」
「何だい?」
 と、純一は言った。
「いえ、こっちの話です。かよわい乙女をおどしたりして、恥ずかしくないんですか!」
 マリがかみつきそうな勢いで食ってかかるのを見ていて、三崎伸子は、ふっと笑った。
 ——息子《むすこ》が殺されて、もう一生笑うなんてことはないだろうと思っていたのだが、笑ったのである……。
「じゃ、部屋を用意して。——あなたも泊って行くんですね」
「よろしければ」
 と、伸子は言った。「息子の敵を討たないと、眠るに眠れません」
「部屋は沢山あります。田崎、すぐに——」
「もう用意させてあります」
 と、田崎は言った。「その代り、坊っちゃん、別の問題があるのです」
「何だい? 今度は悪魔にでも部屋を貸せっていうのか?」
 ポチが、それを聞いて咳込《せきこ》んだ。
「マリさんの、コンビニエンス勤めです。どう考えても、コンビニエンスの仕事と、生き返った死体の捜索の両立は、不可能としか言えません」
「やめりゃいいじゃないか」
 マリが首を振って、
「そうはいきません。心配して下さってありがとう。でも、私は——」
「誰《だれ》か代理がいけばいいんでしょ?」
 と、田崎が言った。
「そりゃあ……そうですけど。でも、知らない人を代りにするわけにはいかないし、急に見付かりませんよ」
「そうか」
 と、純一が笑って、「田崎、君が行けばいいわけだ」
「田崎さんが?」
「坊っちゃん」
 田崎は、恭《うやうや》しく頭を下げて、「お言葉ですが、私がいなくなって、この屋敷が無事に動くでしょうか?」
「いなくなるったって……」
「午前中は少なくとも、眠らなくてはなりません。すると、この屋敷の掃除や手入れに問題が出ます。それでもよろしければ……」
「分ったよ。じゃ、誰が行けば問題ない[#「問題ない」に傍点]んだ?」
「もちろん」
 と、田崎は言った。「いなくなって、一向に困らないのはただ一人、坊っちゃん[#「坊っちゃん」に傍点]です」

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