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天使に似た人13
日期:2018-09-20 20:45  点击:276
 12 真夜中の対話
 
 
 ポッ、ポッ、ポッ。
 鳩時計《はとどけい》が三時を告げても、水谷邦子は椅子《いす》にかけ、机に肘《ひじ》をついて頭を手で支え、眠ったままだった。
 本当なら、「夜の見回り」の当番で、三時には目を覚まして、子供たちの様子を見て歩かなくてはならない。いつもなら、この鳩時計で充分に目が覚めるのだが、今夜は起きる気配もなかった。
 ギギ……。床が鳴って、人影が邦子の背後に近付くと、そのままわきを回って、邦子の寝顔に見入る。そして手が邦子の肩に、ためらいながら、伸びた……。
 肩をつかんで揺さぶる、手の感触《かんしよく》で、邦子はハッと目を覚ました。
「ああ……。眠ってた?」
「もう三時ですよ」
 邦子は顔を上げて、初めて自分が起こされたことに気付いた。立っていたのは——。
「あなた……。まだ起きてたの?」
「眠れなくて、ちょっと散歩してたんです」
 と、〈さとし〉は言った。「帰って来て、ちょっと覗《のぞ》いたら……」
「そう。——ごめんなさい。つい、ボーッとしてたのね」
 邦子は頭をふってから、「——大変! 子供たちを見回る時間だわ」
「一緒に行きましょう。どうせ、僕もすぐには眠れません」
「そう? じゃ、お願いするわ。抱き上げたりすると、腰が痛くなることがあるの」
「大丈夫ですか。あんまり無理をすると——」
「仕方ないのよ。職業病ね。保母さんたちは、たいてい腰を痛めるわ」
 二人は、床のギイギイ鳴る廊下を歩いて行った。
「あらあら。——よく、これでみんな風邪引かないこと」
 と、部屋を覗いて邦子が笑う。
 実際、まともに布団に体全体がおさまっている子は、ほとんどいない。上半身がそっくり布団から飛び出したりしているのが、ざらである。
 それを、二人はていねいに戻して、布団をかけてやる。
 ——邦子は、そっと、〈さとし〉の方へ目をやった。
〈さとし〉?——いや、そうではない。宮尾だ[#「宮尾だ」に傍点]。宮尾常市。宮尾勇治。そのどちらかだ。
 邦子も、福祉課の工藤から話を聞いて、あれこれ、新聞や週刊誌を読んでいた。対照的な、あまりにも対照的な兄弟。
 それでいて、瓜《うり》二つの兄と弟。
 もちろん、この目の前にいる男が、そのどっちなのか、邦子には知るすべもない。
 邦子としては、弟の勇治の方だと信じたいし、現に子供の扱い、布団を直してやる手つきなどは、いかにも手なれている。たぶん、これが弟の方なのだろう。
 そして、生き返ったショックからか、当人が言うように、記憶を失ってしまっているのだろう。
 だが——百パーセント、そうだと断言はできない。最悪の場合には、これが宮尾常市という殺人犯で、しかも記憶を失ったふりをして身を隠している、という可能性だってあるのだ。
 そんな馬鹿《ばか》な! こんないい人が。——そんなこと、あるわけがない!
「——今夜は、幸江ちゃん、おとなしく寝てるな」
 と、〈さとし〉が言った。
「そうね。怖かったんでしょうね、よっぽど」
 と、邦子は肯《うなず》いて、そうひどく乱れてもいない幸江のかけ布団を直してやった。
 あの男——今井兼男が無理に幸江を連れ出そうとした夜のことをかんがえると、邦子はゾッとする。あれから幸江は毎晩、夜中に起き出して、邦子のそばへやって来ていた。
「——お疲れさま」
 二人は、調理場へやって来た。邦子は、
「コーヒーでもいかが?」
 と、言った。
「いただきましょうか。——どうせすぐにゃ眠れないし」
「眠れなくなるほど、きちんとしたコーヒーじゃないわ」
 と、邦子は笑った。
 ——生き返った人[#「生き返った人」に傍点]。
 今、私が話しているのは、一度死んだ人間なのだ。そう思うと、邦子は不思議な気分だった。
「——さ、どうぞ」
「どうも……。あの今井って男は、どうなったんですか」
 と、コーヒーを一口飲んで、訊《き》く。
「昨日、問い合せたけど、もう釈放された後だったわ」
 邦子は椅子《いす》を引いて、座った。
「釈放? 子供をさらおうとしたのに?」
「実の父親だと主張してね。親子となると、誘拐《ゆうかい》じゃないってことになるわ。それに、あの今井って人、一応、ちゃんとした仕事に就いてはいるのよ」
「それにしたって……。誰《だれ》が見ても、まとも[#「まとも」に傍点]じゃありませんよ!」
 と、〈さとし〉は腹立たしげに言って、「まあ……僕だって、人のことは言えませんがね」
「何を言ってるの。あなたくらい、『まとも』な人はいないわ」
 と、邦子はしっかりと肯いて、言った。
「照れるから、やめて下さい」
 と、〈さとし〉は苦笑した。「しかし——今井って男が父親だって証拠は何もないんじゃありませんか。それなのに……」
 邦子は、ちょっと目を伏せた。
「もしかすると……」
 と、邦子は呟《つぶや》くように、「本当に[#「本当に」に傍点]、あの子の父親かもしれないの」
「しかし——」
「〈幸江〉って名が、初めに発見された時着ていたシャツに、赤い糸で縫いつけてあった、って……。その通り[#「その通り」に傍点]なのよ」
 邦子は、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
「では……」
「もちろん、決定的な証拠にはならない。でも、可能性はあるわ。ただ——私は、嘘《うそ》をついたの。福祉課の工藤さんに、でたらめを話したわ」
〈さとし〉は、じっと邦子を見て、
「どうしてですか」
 と、訊《き》いた。
 邦子は、ゆっくりと息をついて、天井の方を見上げた。
「——どうして、血のつながりってものが、そんなに大切なのかしらね」
 と、半ば独り言のように、「人が親になるって、どの時点でのこと? セックスして、受胎した時? それとも子供が産れた時?——私はそうは思わない。親は、育ててこそ親よ。育てながら、人は親になって行くんだわ。一瞬で親になるんじゃない。一生かけて、子供と付合いながら、親になるのよ。それを——赤ん坊のころに放り出して、しかも、きちんと施設に頼むこともせずに、置き去りにして、何年もたってから、親です、なんて……。そんな人は親じゃない! 子供を捨てた時点で、親の立場も捨てたのよ。血がつながっているっていうだけで、その責任は帳消しにできないわ」
 厳しい口調になっている自分に気付いて、邦子は、ちょっと〈さとし〉の方を見た。
「ごめんなさい……。演説、ぶつつもりじゃないんだけどね。でも、こんな仕事してると、ただ生物としての親だっていうだけの、『大人になれない親』があんまり多くてね。いやになるの」
 と、首を振って、「それでもね、日本は親と子ってつながりを凄《すご》く重んじるのよ。アル中で無職の父親が、施設にいた子を、自分の子だからと強引に引き取って、一か月としない内に、酔って殴《なぐ》って死なせてしまった……。私の親しい保母さんの受け持ってた子でね。——その父親に渡さなければ、その子は今でもきっと元気で生きてたのに、って泣いていたわ。そんな親でも、親は親……。妙な話よね」
〈さとし〉は黙って肯《うなず》いた。
「親が子を愛し、子は親を敬うべきだ、っていう考えがね……。『べきだ』って言葉は愛情とか尊敬には使えないのよ。愛や尊敬の気持は、強制したり義務づけたりできるものじゃない。人間の自然な感情だわ。私、血がつながってるってだけで、名も知らなかった人間を突然愛せるようになるとは思えない。人は、手をかけ、苦労して付合って、初めて愛したり、尊敬されたりするものよ。あの今井って男が本当に幸江ちゃんの親だとしても、それだけであの男に幸江ちゃんを渡す気にはなれないの」
「当然ですよ」
 と、〈さとし〉は言った。
 それを聞いて、邦子はちょっとドキッとした。〈さとし〉の口調には、それまでとどこか違うものが——いつもの遠慮がちな口調ではなく、はっきりと感情のこもったものがあったのである。
「あなたもそう思う?」
 と、邦子は言った。
「もちろんです。どんな親でも親は親だ、なんてことを言う奴《やつ》は、親だからこそ許せないことがある、ってことを知らないんでしょう」
 早口にそう言って——〈さとし〉は、ちょっと無理な笑顔を浮かべた。「すみません。どうしてむきになったのかな……」
〈さとし〉は立ち上った。
「もうやすみます。邦子さんは?」
 邦子は、じっと見つめていた。何者なのか知れないこの男を。
 しかし、今、〈さとし〉は自分の過去を知っている[#「知っている」に傍点]のだ。邦子には分った。この男は、自分が宮尾常市なのか、それとも勇治なのか、分っている……。
「邦子さん。——どうかしましたか」
 と、その男[#「その男」に傍点]は言った。
 邦子は、訊《き》こうと思った。——「あなたは誰なの?」と。しかし……。
「別に」
 邦子は首を振って、「どうぞお先に。私もすぐに寝るわ」
 と、言った。
「そうですか。おやすみなさい」
 邦子は、出て行きかけた彼[#「彼」に傍点]の背中へ、
「待って」
 と、呼びかけた。
 自分でも、なぜ呼び止めたのか、よく分らなかった。何を言うつもりだったのだろう。
「——何か」
 と、彼[#「彼」に傍点]は戸惑っている。
「ごめんなさい」
 邦子は、ちょっと笑った。「忘れちゃったの。何か言うつもりだったんだけど……。いえ、言うつもりだったのかどうかも、よく分らない」
「じゃ、待ってますよ。思い出すまで」
「いつまでも思い出さないかもしれないわ」
「構いません。いくらでも待ちます」
 いくらでも……。いつまでも待ってくれる。そう、あなたなら[#「あなたなら」に傍点]、きっと……。
 邦子は立ち上ると、彼の方に歩み寄った。
 今、目の前に立っている男は、殺人狂かもしれないのだ。今にも彼女の首に手をかけて、絞めようとしているのかもしれないのだ。
 そう考えても、邦子は怖くなかった。殺したいと思われるほどに、自分が相手にとって「重い」存在だとすれば、それは無視され、忘れられるより、ずっといいことのようにも思える……。
 邦子は、少し伸び上って、「誰とも知れぬ男」にキスしようとした。
「——お姉ちゃん」
 邦子は、ハッとして、顔を向けた。——幸江が欠伸《あくび》しながら、目をこすって立っている。
「どうしたの、幸江ちゃん?」
 と、邦子は駆け寄った。
「喉《のど》がかわいた」
「そう。——じゃ、何がいいかな。飲んだら、すぐ寝るのよ。いい?」
「一緒に来て」
 幸江はしっかりと邦子の腕をつかんでいる。
「おやすみなさい」
 と、彼[#「彼」に傍点]が頭を下げて歩み去る。
 ギイ、ギイ、と廊下をきしませる足音が遠ざかって行く。——邦子は、ふと胸の痛みを覚えた。
 それは、まるで恋する相手に「別れ」を告げた後のようだった……。

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