13 生と死と
「いいですね」
と、大野が言った。「娘さんを取り戻すチャンスなんだ。しっかりやって下さい」
「ええ……」
車の助手席で肯《うなず》いたのは、今井兼男である。
大野は車を運転して、小学校の校門が見える所までやって来た。
「さあ、もうすぐ三時だ」
大野は、ダッシュボードの時計に目をやって、「ゾロゾロ出て来ますよ。間違えずに教えて下さい」
と、念を押した。
「当り前ですよ」
今井は、大野をじっと見つめて、「自分の娘なんですよ。他の子と間違えたりするはずがないじゃありませんか」
その言い方には、腹立たしさを通り越して、ほとんど怒り、いや、敵意に近いものさえ感じられた。
「いや、その通り。気にしないで下さい。私は神経質なもんでね、つい……」
と、大野はあわてて言った。
今井が、校門の方へ目を向けるのを見て、大野はホッとした。やれやれ。——まともじゃないぞ、こいつは!
まあ、こっちで利用できる内はいいが、用がすんだら、顔も合せたくないね。
事実かどうかはともかく、ある施設に今井の娘がいて、施設の方では渡すことを拒んでいる。大野は、それをうまく利用できないかと思い付いたのである。
「——娘さんはこの小学校へ通ってるんですよ」
と、大野は言った。
「分ってます」
今井は、人を小馬鹿にしたような調子で言った。「父親ですよ。僕は」
「そう。あなたには娘さんを連れて行く権利があるんです」
「もちろんですよ。幸江だって——この前は、眠っているのを、突然起こしてしまったので、ゆっくり話す間もなかった。じっくりと顔を合せれば……。そうですとも、親子なんです。心が通じ合うんですよ」
「そうそう」
と、大野は肯いた。「ともかく、あまり騒がれないように連れて来て下さいよ。誘拐するわけじゃない。あくまで、迎えに来たんですからね」
今井は、校門の方へ目を向けたまま、
「どうして、僕のことを、手伝ってくれるんですか」
と、言った。
質問らしい口調でなく、全くの独り言のようなのが、無気味だった。
「別に、あんたが心配することはありませんよ」
大野は、少し座席の背を倒して、息をついた。「私は商売上の必要からです」
「商売?」
大野は、目を閉じていて、自分の方へ向けられた今井の視線に気付かなかった。そこにある危険な光に……。
「私はあの施設の土地を狙《ねら》ってる。しかし、持主も頑固でね。一向にらち[#「らち」に傍点]があかないんです。——あんたがあそこの子を連れだしてくれたら、あっちの職務上の手落ちってことになりますからね。あそこは子供の面倒も見ない、って評判を広めて、閉鎖へ追い込む。その辺は、こっちの得意技です。そのためのきっかけ[#「きっかけ」に傍点]がほしかったんですよ。そこへあんたが——」
大野は目を開けた。脇腹《わきばら》に、鋭い痛みが走ったからだ。——どうしたんだ?
「痛いな……。何か……濡《ぬ》れてる……」
手で探ると、ヌルッと手にまとわりつく感触。手を目の前に持って来て、大野は面食《めんくら》った。手が真赤だ。
「これは……血かな?」
大野の顔から血の気がひいた。今井がこっちへ体を向けて、手にナイフを握っているのが目に入ったからだ。
「あんた……。何を……」
大野は、夢を見ているのかと思った。
「人でなしめ」
と、今井は言った。「哀れな子供たちを追い出そうっていうのか? そのために幸江を利用しようって? そんなことはさせない」
「今井さん……。あんたは——」
大野の言葉は続かなかった。ナイフがもう一度、大野の下腹に呑《の》み込まれた。——激痛で、大野はすすり泣いた。
「やめてくれ……。どうして……」
溢《あふ》れ出た血が、車の床にたまっていく。
今井は車を出た。
「頼む……。救急車を……」
大野が、ぐったりと頭を落としたのを、今井は見ようともしなかった。
「ひどい奴《やつ》だ!」
今井は、怒りに声を震わせて、呟《つぶや》いた。「こんな奴がいるから、不幸な子供がなくならないんだ」
今井は、バタンと車のドアを閉じた。中では、すでに大野の命の灯が、消えようとしていた。
校門の方へ目をやっていた今井は、女が一人、道をやって来るのを見て、顔をしかめた。
あの女[#「あの女」に傍点]だ。幸江を連れて行こうとした時、邪魔をした女だ。
今井は、少しためらった。あの女がいては、幸江を連れ出すことは無理かもしれない。
いや——連れ出す必要はない[#「連れ出す必要はない」に傍点]のだ。
今井は、騒ぎを起したくなかった。幸江と二人で、静かに迎えたかったのだ。——その時[#「その時」に傍点]を。
「目が覚めたか」
——その声に、少し前から半ばまどろんでいるような状態だった伸子は、やっと我に返った。
肌《はだ》に触《ふ》れるシーツの感触《かんしよく》。
ほの暗い部屋の中に、勇治がワイシャツを着ているのが見えた。
「もう……」
「今、シャワーを浴びたところだよ」
と、勇治はソファにかけ、靴下をはきながら、「君も浴びたら?」
「ええ」
もう少し、ゆっくり休んでいたい、と思った。「何時、今?」
「三時過ぎた」
「もう?——いやだわ、ずいぶん眠っちゃったのね」
伸子は起き上った。胸を毛布で隠して、髪を手で直す。
——伸子が宮尾勇治に抱かれるのは、二度目だった。
正確に言えば「浮気」なのだろう。伸子には夫がいる。しかし、伸子は、ほとんど何の抵抗もなく勇治に抱かれた。あまりにも自然の成り行きで、自分でもこれが現実かしらといぶかったほどだ。
どっちかといえば、伸子の方が、勇治を必要としたのかもしれなかった。——子供を失い、仕返しを、と願って、張りつめた気持を、どこかでほぐしてやらねばならなかったのだろう。
勇治は、「死んだ人」なのだ。しかし、何の恐怖心もなかった。勇治はやさしく、そしてすてきだった……。
「じゃ、シャワーを浴びて来るわ」
伸子は、ベッドを出ると、バスルームへと入った。
ビジネスホテルに近いホテルなので、バスルームも広くはない。シャワーだけなら充分だが。
熱いシャワーを浴びると、目が覚めて、生き返ったような気分になる。「生き返った」ような?
どうして、あの宮尾常市のような男が生き返って、私の俊男は生き返らなかったんだろう? 神様も、結構うっかりするのかもしれないわ。
常市を捜す毎日が続いている。——勇治も伸子も、希望を捨ててはいなかった。必ず、見付けてやる。
それは願いとか望みとかでなく、もう決ったことのような気がした。——あの、マリという不思議な子のためにも、代って見付けてやらなくては。そして地獄へ送るのだ。
そこで、常市は永久に苦しむことになるだろう……。
シャワーは手早くすませ、バスタオルで体を拭《ふ》いた。狭いバスルームなので、湯気がこもって、鏡が真白になっている。
これじゃ、何も見えないわ。——使ったタオルで、鏡を拭くと、少しゆがんではいるが、自分の体が見える。
あの人の——そう、勇治の体には、弾丸《たま》のあとがある。兄に撃たれたあとが。
愛し合う時は見えていないが、ふと傷が目に入ると、そむけたくなる。俊男のことを思い出すからだ。あの小さな体の傷あとを……。
伸子は、ドライヤーで髪を乾かした。
自分の体が鏡の中に……。ふと[#「ふと」に傍点]——何かおかしい、と思った。
何だろう? 何か気になっているのに、それが分らないのだ。何のことかしら?
体? 体のことで?
でも——何もおかしくはないわ、私は[#「私は」に傍点]。
じゃ、勇治さんが? でも、あの人だって、二つの銃弾のあとがあるのを除けば、どうってことはない。
二度、当ったのだ。胸と脇腹《わきばら》に。あの常市もそうだった。双子とはいえ、そんなことまで同じなんて……。
「妙なものね」
と、伸子は呟《つぶや》いたが……。
同じ[#「同じ」に傍点]?——同じだったか?
あの時のことを、伸子は思い出した。
勇治は伸子と俊男を逃そうとして、玄関の方へ押しやり、そして自分は弾丸が二人に当らないように、自分の体で——。
そして二発撃たれて、勇治は、玄関の所で転んだ伸子の上に突っ伏して[#「突っ伏して」に傍点]来た。
突っ伏して……ということは、撃たれた時、勇治は銃に背を向けて[#「背を向けて」に傍点]いたことになる
勇治は後ろから[#「後ろから」に傍点]撃たれたのだ。しかし常市は? 警官を撃って重傷を負わせながら、自分も撃たれた。ということは、前から[#「前から」に傍点]撃たれたことになる。
同じところに当ったといっても、一人は前から、一人は後ろからだったのだ。
伸子の手から、ドライヤーが落ちた。
勇治の——いや、たった今、ベッドで愛し合った男の体には、前に[#「前に」に傍点]二つの傷あとがある。
「神様——」
と、伸子は呟《つぶや》くように言った。「そんなことが!」
あれは——あれは、宮尾常市[#「宮尾常市」に傍点]なのだ。
チャイムが校庭に鳴り渡る。
邦子は、ちょうど校門の所までやって来たところだった。——ぴったりだわ、計算は。
歩いて十分。実際は八分ほどで来た。
校門にもたれて立っていると、ワーッと子供たちが飛び出して来る。
それは、見たところ、まるで新たに「生れて来る」かのようだ。
——もう大丈夫だろうか?
でも、邦子は心配である。同僚から、
「禿《は》げるわよ」
なんてからかわれても、不測の事態を招くよりいいと思う。
今井がどこかから忍び込んだことは明らかだったので、翌日、早速邦子は〈さとし〉に頼んで、あちこち、戸締りを厳重にしてもらった。
といっても、お金のかかるセキュリティシステムをとりつけるわけにもいかず(また、あんな建物につけても仕方ない)、原始的ながら、誰《だれ》かが入って来ると、空缶が落ちて大きな音がする、とか、窓を開けると、バケツの水が頭からかかるとか——あれこれ工夫をしたのだった。
そして——あれから毎日、朝と午後、邦子は幸江の登下校について歩いているのである。
あの今井という男が、釈放されてから子供たちの何人かが、それらしい男のうろついているのも見ていた。諦《あきら》めてはいないだろう。邦子には分っていた。
ああいう男は、たやすく諦めたりはしないものだ。邦子も、あそこで色々経験して、よく分っていた。
子供たちが、ランドセルをしょって、目の前を駆け抜けていく。
幸江は、たいてい、最後ぐらいに出て来る。
担任の先生のそばから、なかなか離れようとしないらしいのである。幸江の気持はよく分る。
一人で残っていれば、先生は「自分だけのもの」なのだ。——それも必要なことなのかもしれない。あの子にとっては。
「邦子姉ちゃん」
と、声がして、幸江が駆けて来る。
邦子は手を振って見せた。
「面白《おもしろ》かった、学校?」
「うん! ね。今日、みんなの前で作文読んだの」
手をつないで、歩きながら、幸江は言った。
「偉いじゃない。何を書いたの?」
「邦子姉ちゃんのこと」
「本当? 美人だって、ちゃんと書いた?」
「書こうと思ったけど……」
と、幸江はためらった。
「けど?」
「ただ、『すてき』じゃ、だめ?」
邦子は笑い出した。
「いいわよ、もちろん! ありがとう。幸江ちゃん」
何て正直なんだろう、子供は。邦子は、嬉《うれ》しかった。
「——ねえ」
「何?」
「この間の変なおじさんは?」
「ああ、もういないと思うわ、大丈夫よ」
「ふーん」
「でも、もしかして、ってことがあるから、こうやって一緒に学校から帰ってるでしょ」
「うん」
幸江は肯《うなず》いた。「あの人、幸江のお父さんじゃないよね」
邦子は、前方に目をやりながら言った。
「違うわね。そう思い込んでいるだけ。幸江ちゃんのお父さんなら、きっと、ずっとハンサムだよ」
「そうだね」
と、幸江が大真面目《おおまじめ》に肯いたので、邦子は笑った。
「どこかにいるのかなあ、幸江のお父さんって……」
邦子は、握る手に少し力をこめた。
そうね、幸江ちゃん。あなたのお父さんはこの世の中のどこかにいる。でも、会わない方がいいのよ。お父さんの方であなたを捨てたのだから……。
「——あ、おじちゃんだ」
と、幸江が言った。
幸江は、〈さとし〉のことを、そう呼んでいるのである。
いや、〈さとし〉ではない、彼が少なくとも「宮尾」という姓であることは確かなのである。
「お帰り」
柵《さく》の壊れかかった所を直していた〈宮尾〉は、幸江に笑いかけた。
「ご苦労様。疲れない?」
と、邦子は足を止めた。
「先に入ってる!」
と、幸江が駆け出す。
「ちゃんと手を洗うのよ!」
と、邦子は声をかけた。
柵から玄関まで、ほんの七、八メートルである。連れて行くまでのこともなかった。しかし——。
突然、玄関前に、あの男が飛び出して来たのだ。
どこかに隠れていたのか、幸江の帰りをじっと待っていたのに違いない。とっさのことで、邦子も動けなかった。
今井が、幸江を抱きかかえた。
「やめて!」
と、邦子は叫んだ。
「何てことを!」
宮尾[#「宮尾」に傍点]が駆け寄ろうとする。
「こっちへ来るな!」
今井が上ずった声で叫んだ。「この子を道連れにして死んでやる!」
今井の右手に、鋭く尖《とが》ったナイフが握られ、その刃先が、幸江の胸を狙《ねら》っていた。
「やめて! そんなこと——」
「近寄るな! 誰《だれ》も来るな!」
今井はわめき散らした。
邦子は、足が震えた。
「ともかく他の子を」
と、宮尾[#「宮尾」に傍点]は言った。「外へ出さなくては」
「そう、そうだわ……」
今井は、しっかりと左手で幸江を抱きかかえて、建物の中へと入って行ってしまった。
邦子は駆け出した。何とかして——何としても、あの子を助けなきゃ!
子供たちが、保母にせかされて、飛び出して来る。
ちょうど、自転車に乗った警官が通りかかって、目を丸くしていた……。
伸子は、めまいから、やっと立ち直った。
いつしか、服を身につけていた。バスルームの中は湿気が多いので、部屋へ戻ってから着ようと思っていたのに。
「馬鹿《ばか》……」
と、鏡の中の自分に向って、呟《つぶや》く。「何て馬鹿なの、お前は」
子供を殺した悪魔に抱かれて、それでも分らなかったのか。——何てことだろう!
もう——もう、迷う必要はない。あの男を地獄へ送ってやる。
ナイフはバッグの中だ。ともかくバスルームを出て、何くわぬ顔でバッグを取り、彼の背後に近付いて……。一突きで殺すものか。
あの子の何倍も苦しめてやる!
心が決ると、伸子は平然とした表情を、簡単に作ることができた。
バスルームを出る。宮尾勇治——いや、常市[#「常市」に傍点]は、TVを見ていた。
「ゆっくりだったね」
と、TVを見たまま言った。
「大分汗をかいたんですもの」
平然と話せる自分に、伸子は感心していた。「何を見てるの?」
「うん……。何だか、気の変な男が、どこかの施設で、子供を人質にしてるんだ。ひどいことするよ」
「そう……」
伸子はバッグを開け、チラッと宮尾の方を見た。大丈夫だ。こっちを見てはいない。
ナイフは……。あった!
コンパクトを出して、その手の中に、ナイフを隠し持っていた。
「——もう犯人、捕まったの?」
と、宮尾常市に近付く。
「いや、まだだ。警官が何十人も出てるが、人質がいちゃ、近付けないからな」
「そうね。——助かるといいわね」
伸子は右手にしっかりとナイフを握った。——あんた[#「あんた」に傍点]はもう助からないのよ。
ナイフをゆっくりと振り上げて——。
「見ろ!」
と、宮尾常市はTVを指さした。「兄貴だ!」
TVの画面に、大勢の人間に混って、同じ顔[#「同じ顔」に傍点]が映っていた。カメラが、たまたま捉《とら》えていたのだ。
「行こう!」
と、立ち上る。
伸子は急いでナイフを背中に隠した。
「急ごう。またいなくならない内に」
どうしようもなかった。——伸子は一旦《いつたん》、この男の言う通りにすることにした。
病室のドアが開いて、田崎が入って来る。
「遅くなって。——できるだけ旨《うま》い弁当を持ってけ、と坊っちゃんのお指図でしてね」
と、言って、「友だちもお連れしましたよ」
ポチが入って来る。
「もう当分来ないだろ、看護婦。——おい、何してるんだ?」
ポチはマリがベッドから起き上るのを見て、目を丸くした。ちゃんと服を着ているのだ。
「何してるんです! 動いちゃいけない」
と、田崎が言った。
「TVを見て」
と、マリは言った。「——あの、画面の左の隅に立ってる男」
「え?」
「作業服を着た男。分るでしょう」
TVを見て、田崎が唖然《あぜん》とした。
「確かに……。宮尾に似ている」
「宮尾よ。さっき、もっとはっきり画面に出たの。——行きましょう」
「いけませんよ。また出血したんじゃありませんか?」
「お願い。これは私の役目なんです」
マリがじっと田崎を見つめる。
「——分りました」
田崎はため息をついて、「しかし、車が揺れないように、ゆっくり行きますよ。いいですね。文句を言わないで下さい」
「ありがとう」
マリは微笑《ほほえ》んだ。「ポチ、行くよ」
「分ったよ、この優等生」
と、ポチは言った……。
「近寄るんじゃない!」
甲高い声が、通りを埋めた野次馬の所にまで聞こえて来ている。
警官、パトカー、TV局の中継車、そして単なる野次馬。ともかく、辺りは人と車で埋っていた
——邦子は、刑事に言われて、中の見取り図を書いた。
「こうです」
「ありがとう。今、その今井って奴《やつ》はどこにいますかね」
「たぶん……このプレイルームだと思います。表が見えますし、玄関の方も、窓越しに目に入りますから」
刑事は首をひねって、
「すると、入るのは大変だな。——裏口はありますか」
「ええ、でも、子供に万一のことが——」
「分ってます。しかし、これは金目当てというのとは少し違う。相手の出方を待っていても、どうにもなりませんよ」
刑事の言うことはよく分った。しかし、たとえ今井を逮捕したとしても、幸江に万一のことがあったら、何にもならない。
刑事がパトカーに呼ばれて行くと、邦子は、柵《さく》の近くへ戻った。
宮尾[#「宮尾」に傍点]が、しゃがみ込んで、中の様子をうかがっている。邦子は、TVカメラの画面に、彼が入っているのではないかと、気付いた。
「——どうです?」
と、邦子の方へ訊《き》いて来る。
邦子は、すぐにわきに身をかがめると、
「ここにいると、TVに映るわ」
と、言った。「宮尾さん[#「宮尾さん」に傍点]」
相手が邦子を見る。その目が微妙に変っていた。
「あなたは、生き返った兄弟の一人なのね」
と、邦子は低い声で言った。
「そうです」
と、肯《うなず》いて、「しかし、ここへ来た時は、本当に分らなかったんですよ。信じて下さい。次の日、買物に行って、新聞を見て知ったんです。それからは少しずつ思い出しました」
「あなたは——どっちなの?」
「僕は弟の勇治です。信じてもらえないかもしれませんが」
「私は、あなたを信じるわ」
邦子は即座に言った。
「しかし、僕がどっちだとしても、勇治と名のりますよ」
「それでも信じるわ。——さ、TVに映らない所へ退《さが》った方がいいわ」
宮尾勇治[#「宮尾勇治」に傍点]は、柵《さく》に沿って、少し移動した。
「分っていたんです。映ってるのは」
「じゃ、どうして——」
「兄はたぶん、今、僕を必死に捜しているでしょう。もしTVで僕を見たら、きっとここへ来る。そう思ったんです」
「お兄さんがここへ?」
「僕を殺しに来ます。もう一度[#「もう一度」に傍点]」
「なぜ?」
「僕になりすますには、一人が死ななくてはね。——そうすれば、兄は安全です」
「そんな……」
「ともかく、今は幸江ちゃんですよ。僕のことはどうでもいい」
邦子は、建物の方へ目をやった。
「——何とか手はないのかしら」
「危険ですね。建物が古いから、こっそり入るのは不可能です。どうしても音がする」
「ええ……。追い詰められたら、あの今井って人——」
「きっと幸江ちゃんを殺すでしょう」
邦子は身震いした。
「私が代りに……」
「無理ですよ」
と、勇治は首を振った。「あの男にとっては幸江ちゃんでなきゃ、意味がないんですから」
「あんなに気をつけてたのに……」
邦子は、両手で顔を覆った。
「あなたのせいじゃない。自分を責めちゃいけません」
勇治が、邦子の肩に手をかけると、邦子は涙を拭《ぬぐ》って肯《うなず》いて見せた。
その時、二人の間に、何かが割って入った。
「あら、犬が……」
真黒な犬が、二人の前に出て、ジロッと二人の顔を見た。
「どこの犬かしら」
「いや……。どうやら普通の犬じゃないようですね」
「え?」
「我々に来いと言ってるようだ。——行ってみましょう」
勇治が立ち上る。黒い犬がタッタッと歩いて行くのを、二人は追って行った。
人垣を分けて進んで行くのは楽ではなかったが、ともかく、みんなが子供を人質にして、たてこもっている男の方に注目しているので、誰《だれ》も「生き返った死人」には気付かない様子だった。
「——どこへ行くのかしら」
黒い犬は、まだこの辺りに残っている雑木林の中へ入って行く。邦子たちがそれについて、入って行くと——。
「お待ちしてました」
一人の少女が、木のかげから現われ、言った。
「宮尾さんですね」
と、マリは言った。「宮尾常市さんですか、それとも——」
「僕は勇治だ。君は?」
「私、あなたを連れ戻しに来たんです。あなたがいるべき場所に」
マリはじっと相手を見つめた。見返す目には、真実の光があるように、マリには思えた。
「君は、あそこ[#「あそこ」に傍点]の使いか」
と、勇治は訊《き》いた。
「そうです。手違いからこんなことになって、私、あなたを捜していたんです」
「分ってる。——いざ、生き返ってみると、死ぬのが怖くなってね。最初に出会った女性の首をしめてしまったんだが……」
「彼女は大丈夫です。大したことはなくて」
「良かった……。じゃ、今すぐに?」
と、勇治は言った。
「待って」
と、邦子が勇治の前に立った。「あなたが誰か知らないけど、この人は、あの施設のために働いてくれてるんですよ!」
「すみません。でも、これはもう決ってしまったことなんです。変えることはできません」
と、マリは言った。
「でも……今、子供が人質に……。せめて、あの子が助かるまで」
「そうか。——僕なら[#「僕なら」に傍点]行ける」
と、勇治は言った。「もちろん、うまい手を考える必要はあるけど……。僕は死んでもいいんだ。どうせもう一度死ななきゃいけないんだから」
「そんな……。いけないわ。あなたはあそこの人じゃない。私が死ぬならともかく——」
と、邦子が言いかけると、
「どうやら死にたい奴ばかりらしいな」
と、声がした。
「兄さん!」
と、勇治が言った。
「下手《へた》に動くなよ」
常市の手には拳銃《けんじゆう》があった。「この女を殺すぞ」
銃口は、その場にぐったりと倒れている三崎伸子へ向けられていた。
「俺《おれ》を後ろから刺《さ》そうとしたのさ。——甘く見られたもんだ。気絶させてある。動くとこいつへ弾丸《たま》をうち込むぜ」
「その人は、あの子供の母親じゃないか」
と、勇治が一歩前に出る。
「ああ。俺のことを、ずっとお前だと思ってたのさ。抱かれたんだぜ、俺に。傑作だろ」
常市は笑った。マリは顔を真赤にして、
「人でなし!」
と、にらみつけた。
「おや、もう起きられるのか。弾丸が急所をそれたからな、天使さんよ。お前のことも、殺す前に味わってみたかったぜ」
と、常市はニヤリと笑って「——俺はな、お前らと違って、そう悟り切ってねえのさ。儲《もう》かった命だ。とことん長生きしてやる」
「僕らを殺しても、か」
と、勇治は言った。
「ああ。弾丸《たま》はまだ三発残ってる。お前と、この女と、そこの天使さんだな」
「まだ私がいるわ」
と、邦子は言った。
「ああ。女は好きだ。おとなしくついて来りゃ、楽しい思いをさせてやる。でなきゃ、ナイフの世話になりな」
——マリは、どうしたらいいか、迷っていた。
田崎は車の所で待っている。ここには来ないだろう。自分が命を捨てるつもりでぶつかっても、常市が銃を持っている限り、かなうまい。
その時、スピーカーで、
「おい、聞こえるか!」
と、警官が呼びかけているのが、聞こえて来た。「何がほしいんだ? 言ってみろ! 子供は無事なのか!」
勇治が、息をのんだ。
「いけない! あれで犯人の注意をそらすつもりだ。裏から警官が——」
「危険だわ! 幸江ちゃんにもしものことが……」
呆《あき》れたように、常市が笑った。
「他人の心配してる場合か? 自分の身の心配をしな」
その時、
「兄さん」
と、勇治が何か思い付いたように、前へ進み出た。
「何だ。また先に殺してほしいのか」
「兄さんは僕に借り[#「借り」に傍点]があるはずだ」
「何だと?」
「それを、返してくれ」
常市の顔から、皮肉な笑いが消える。
「何の話だ?」
「忘れたとは言わせないよ。僕らが一緒の施設にいた時だ。兄さんは金庫が開いていたのを見て金をとった。その時、僕のセーターを着ていて、それを見た子が、とったのは僕だと言った。——僕は、ひどく殴《なぐ》られたが、言わなかった。やったのが兄さんだとはね」
「言わなかったのは、お前の勝手だ」
「しかし、あの時、兄さんは僕の前に頭を下げたんだ。いつかきっと、この借りは返すよ、とね」
勇治の言葉は、驚いたことに、常市をたじろがせているようだった。
「兄さん。僕は今まで、それを返してくれと言ったことはない。今[#「今」に傍点]、返してくれ!」
鋭い口調だった。兄と弟の視線は、火花が飛ぶかと思う勢いで、ぶつかった。
空気が、音をたてそうなほど、張りつめている。
しばらくしてから、
「——何をしろっていうんだ」
と、常市が言った。
「人質の子を助けたい。それだけなんだ」
「だから?」
「手を貸してくれ」
「どうするんだ」
「君たちも手を貸してくれるか」
と、勇治がマリを見る。
マリは肯《うなず》いた。ポチが不安げに、
「お前、けがしてんだぜ。忘れるなよ」
と、言った。
建物の中は、静かだった。
幸江は、もうすっかり涙もかれてしまっている。
殺される……。そう思っていた。
怖かったのをもう通り越して、諦《あきら》めかけていたのだ。
今井は、のべつしゃべり続けていた。——どんなに幸江を大事にして、可愛《かわい》がっていたか、ということを、だ。
「なあ幸江」
今井はナイフをしっかりと握って、幸江の胸もとに当てていた。「——長生きしたって、いいことなんかないんだよ。父さんが言うんだから、本当さ。なあ、だから父娘で仲良く一緒に死のう。それが一番だよ……」
やさしい声なのが、却《かえ》って怖い。幸江は何も言えなかった。
すると——背後の廊下がキイッときしんだ。
「誰《だれ》だ!」
今井がキッと振り返った。「出て来い! 隠れたってだめだ! 分ってるんだぞ!」
プレイルームの一方の戸が開いて、作業服の男が立っていた。
おじちゃんだ……。幸江は嬉《うれ》しかった。
助けてくれるんだろうか? ともかく知っている顔を見て、幸江は泣きたくなって来た。
「お前か。出て行け!」
と、今井は甲高い声で言った。
「落ちつけよ」
と、その男は言った。「その子を返してくれ」
「殺すぞ! 近付くと……貴様も一緒に、殺してやる!」
今井は幸江をしっかり押えて立ち上った。ナイフの切先は、幸江の喉《のど》に向けられている。
「僕を殺すつもりか」
と、その男は言って笑った。
「何がおかしいんだ!」
「僕は二人[#「二人」に傍点]いるんだ。同時には殺せないぜ」
「何だと?」
その時、プレイルームの反対の端の戸が開いて、もう一人、男が入って来た。
おじちゃんが二人いる[#「二人いる」に傍点]!——幸江は目を丸くした。
今井も、唖然《あぜん》とした。全く同じ顔が右と左に立っている。——何だ、これは?
今井の顔が右、左と動いた。
一瞬の隙《すき》だった。
庭を這《は》って進んできていたポチが、窓から猛然と中へ飛び込んで、一飛びで、今井の顔面にぶつかって行く。
「ワッ!」
今井が仰向けに引っくり返る。幸江が今井の手から離れて転がった。
勇治が幸江の方へ駆け寄ろうとしたが、今井は、すばやくナイフを手に起き上っていた。
「畜生!」
と、勇治の方へと向く。
マリが、庭から、窓越しに飛び込んで来た。
「来て!」
幸江に駆け寄って、パッと抱き上げると、窓へ走る。
「受け止めて!」
と、叫んで、マリは、必死の思いで、幸江を窓から放り投げた。幸江の体が宙を飛ぶ。庭で立ち上った邦子が両手を広げて——幸江の体をしっかりと抱き止めた。
「やった!——逃げて!」
と、マリは叫んだ。
邦子が幸江を抱きかかえて、駆けて行く。
「こいつ!」
今井がナイフを振りかざしてマリへと向って来る。マリは、逃げようとして——傷口の焼けるような痛みに、よろけた。
「待て!」
と、勇治が今井に飛びかかる。「君は早く逃げろ!」
しかし、マリは、駆け出そうとして、膝《ひざ》をついてしまった。目がくらむ。また出血したのが分った。
今井が暴れて、勇治を振り離した。そして——ナイフの刃が、勇治の腹へ突き刺さっていた。
そこまで、ほんの数秒間の出来事だった。
勇治は、腹を押えて、よろけた。血がふき出すと、たちまち、足下の床へと流れ出て行く。
「ざま見ろ!」
今井が、血のついたナイフを手にわめいた。
その時——銃声が古びた建物に轟《とどろ》いた。
今井は、びっくりしたように見ていた。自分の胸に広がる血を。
「おい……。何だよ……」
コトン、とナイフが落ちる。今井はよろけて、
「痛いじゃないか……。何するんだよ……」
と、文句を言った。
常市が、もう一度、引金を引いた。弾丸《たま》は、額を撃ち抜いて、今井の体は、後ろ向きに吹っ飛んだ。
勇治が、その場に膝《ひざ》をつき、うずくまった。——常市はゆっくりと、弟の方へ歩み寄った。
「——借りは返したな」
と、弟のそばへ膝をつく。「そうだろう?」
「兄さん……」
勇治は、大きく息をついて、「ありがとう……」
と言うと——体の力が抜けて、床に伏せ、動かなくなった。
マリは、痛む傷口を押えて、何とか起き上った。
常市は、じっと弟を見下ろしていた。その顔には、不思議な表情が刻まれていた。
それはまるで——マリには、そう思えたのだ——自分自身[#「自分自身」に傍点]の死体を見下ろしているかのようだった。
常市は立ち上ると、マリの方を見て、苦々しげに笑うと、
「一発しか残らなかったぜ」
と、言った。「こいつのおかげだ。——このお節介の弟の」
そしてフラッと、常市は開いた戸から、廊下へ出て、マリの視界から消えた。
ポチがマリのそばへ駆けて来た。
「あんた……。よくやってくれたね」
「野犬狩りで助けてくれた礼さ」
と、ポチは言った。「おい、大丈夫か?」
「うん……。常市は——」
と、言いかけた時、銃声が廊下の奥で聞こえた。そして、それきり何も聞こえて来ない。
「どうやら、自分でかた[#「かた」に傍点]をつけたらしいな」
と、ポチが言った。
「そうだね……」
マリは、歩き出そうとしたが、そのままバタッと倒れて、意識を失ってしまったのだ……。