3 雪の宮殿
「本当にここ?」
と、マリは言った。「ここなの?」
「俺《おれ》が知るか」
と、ポチは言った。「そう書いてあるんだろ?」
「うん……」
マリはメモを見て、それから今自分たちが降りたバス停の名前を見比べた。
「間違いなく、ここよ」
と、マリは言って、「でも、どこに働くような場所があるの?」
——山の中腹だった。
ゴトゴトとふもとの駅からバスに揺られること二時間。降りたのは、周囲に何もない、林の中。
もちろん、木はあり、かつ、二メートル近いかと思うほどに積った雪もあったが、そこに仕事場があるとは、とても思えなかったのである。
「——どうしよう?」
「だって、知ってんだろ、向うだって」
「そのはずよ」
「じゃ、きっと迎えに来るさ」
「そうか。——そうね。じゃ、待ってよう」
「それにしても、寒いな」
ポチが言うのももっともだった。
雪国、といっても、マリは、こんな凄《すご》い雪の積っている所は初めてだった。
当然、寒い。——都会での寒さとは、桁《けた》が違っていた。
一応マリもオーバーを着て(古着だが)マフラーも巻いていたが、寒さはじわじわと肌《はだ》に伝わって来る。
曇っていて、日は射《さ》していないので、昼間のはずなのに、夕方のように薄暗いのだ。何だか心細くなる状況だった。
「——腹が減ったな」
と、ポチが言った。
「私だってよ。向うへ着けば、何か出してくれるでしょ」
「そうかな。——あったかいスープとか?」
「肉マン、ギョーザ、牛《ぎゆう》丼《どん》」
生活の状態が知れるというものである。
「よせ。ますます腹が減る」
「私も……」
マリは、足踏みして、何とか体をあっためようとした。——三十分くらい待っただろうか。
「あ——」
と、マリは言った。
誰かが迎えに来てくれたわけじゃなかった。——雪が降り出したのである。
「おい……。やばいぜ」
「そうね。でも——すぐやむわよ、きっと」
マリの希望的観測とは逆に、見る見る内に雪は、除雪した道に降りつもり、真白に染め上げていった。
「どうする?」
「そうね……。困ったわね」
「このままじゃ、二人とも雪ダルマになっちまう」
「犬の雪ダルマって、どんな格好?」
冗《じよう》談《だん》を言っている場合じゃなかった。——雪は、ますます激しくなって、視界を遮《さえぎ》るくらいになってしまった。
「——どうしましょ?」
「何とかしろよ! お前天使だろ?」
「だからって何よ!」
仕方ない。じっとしてたら、本当に死んじゃう。
「——歩きましょ」
「どこへ?」
「この近くに、仕事場があるはずだわ——。道らしい道っていえば、あの、山の上の方へ上る階段だけよ」
「あれ、上るのか?」
「ここで雪に埋るよりいいでしょ」
「分ったよ……」
不服そうながら、ポチも同意した。
二人は、新雪に足をとられながら、道を渡り、階段——といっても、クネクネと続く、自然の石段みたいなものだったが——を上り出した。
「おい……。もう少しゆっくり行けよ!」
と、ポチがハアハア言っている。
「しっかり! もう少しで上り切るわ」
マリだって、息が切れているのである。
「ほら、ここで階段が終り——」
マリは、呆《ぼう》然《ぜん》として、目の前に広がる雪原を眺めた。なだらかな上り斜面で、その上の方に、また林がある。
「おい……。ここが仕事場か?」
「雪かきの仕事かもしれないわね……」
と、マリは言った。「でも——あの上にはきっと——」
「本当か?」
「だって、今の所、下りる?」
ポチは、下の道を見下ろして、
「いや」
と、首を振った。
「じゃ、行きましょ。——もう少し頑《がん》張《ば》って!」
雪一色の中へ、足を踏み出したマリは、「ワッ!」
と声を上げた。
雪が、腰の辺りまで来てしまったのだ。
「おい、凄《すご》いぜ、この雪」
「ちょっと——進むの大変そうね」
と言っている内に、雪はいっそう激しく降り出した。
しかも風も強まって、吹雪《ふぶき》になってしまったのである。白い煙のように雪が舞って、何も見えない。
「——どこなの!」
「おい! こっちだ!」
「見えない……。ポチ!」
もう、とても相手を捜してはいられない。マリは、吹雪の中、一寸先も見えない状態で、雪をかき分けるように進んで行ったが……。
ついに力尽きて、雪の中に倒れた。
もう、冷たさも感じない。——雪は、まるで暖かい毛布のように、フワフワして、すっぽりとマリを包んでくれた。
ああ……。このまま眠るんだわ。
そして、また天国へ帰れる。——大天使様、すみません……。
マリは、雪が自分の上に羽毛のように降りかかるのを感じながら、意識を失っていった……。
——いい湯だな。
マリは思った。天国にも温泉ってあったんだっけ?
下級の天使は知らないけど、結構、えらい天使は、こっそり温泉につかって、鼻歌でも歌ってんのかもしれないわ。ずるい!
それにしても……。手足の感覚が戻《もど》って来て、とっても気持いい。
あーあ。まるで天国みたい、って言ったら、おかしいかしら?
白いものが見えた。
湯気が立ちこめている。真白い。そして、白いタイルの壁。豪《ごう》華《か》な浴《よく》槽《そう》に、自分が横たわっている。
ここは……天国のスイートルームかしら。
だって……大理石のお風《ふ》呂《ろ》なんて!
マリは、そっと左右へ目をやった。
広いバスルーム一《いつ》杯《ぱい》に湯気が立ちこめて、鏡や洗面台が、ぼんやりと目に入った。
これは——現実?
マリは、お湯でバシャバシャと顔を洗った。耳や鼻が、ひりひりと痛い。足の指先、膝《ひざ》の辺りも、何だかまだ冷えてる感じだ。
どうやら助かったんだ、とマリは思った。
でも、どうしてこんな凄いお風呂に?
すると——誰かがバスルームへ入って来た。
「気が付いたかい」
男の声に、マリはびっくりした。
「あの……」
「いや、良かった。もう少し遅かったら、君は凍え死んでたよ」
湯気が少しずつ薄れると、五十がらみのスマートな紳士が、背広姿で立っているのが目に入った。
「私……」
「すまなかったね。君らの着くのを、明日と勘《かん》違《ちが》いしていて、迎えに行かなかったんだ。——ああ、私は中《なか》山《やま》というんだ」
「マリです。あの……ポチは、どうしたんでしょう?」
「ああ、君の黒犬だね。大丈夫。一足先に目を覚まして、せっせと食事中だよ」
「そうですか」
マリはホッとしたが……。
「君も、何か食べた方がいい。出たら、用意させるからね」
「ありがとうございます」
「他に何かほしいものは?」
「あの……」
「何でも言ってごらん」
「すみませんけど、出てていただけますか」
中山という男は、ちょっと笑って、
「こりゃ失礼! レディの入浴を覗《のぞ》いてしまったね」
と、言うと、「では、また後で会おう」
と、バスルームを出て行った。
マリはホッと息をついた。——なかなか魅《み》力《りよく》のある人だ。
でも……。マリは少し不安だった。
十八歳の女の子を雇うにしては、こんな待遇は、不自然だろう。——一体こんな所で、何の仕事をするんだろう?
でも、ともかく、今は「生き返る」ことだ。
——お風《ふ》呂《ろ》を出て、置いてあったバスローブをはおり、バスルームを出ると、
「何だ、気が付いたのか」
ポチが、ソファの上に、のんびり寝そべっている。
「ここは?」
マリは唖《あ》然《ぜん》として、まるで『アラビアンナイト』の宮殿みたいな、豪《ごう》華《か》な部屋の中を眺めていた。
「どこだか知らねえよ、俺《おれ》も。でも、いいじゃないか。おかげで生き返ったしよ」
床に並んだ皿は、どれも、きれいになめ尽くされて、空っぽになっている。
「よく食べたわね」
「出してくれたものは、平らげるのが礼儀さ」
ポチは大《おお》欠伸《あくび》した。「腹が一《いつ》杯《ぱい》になったら、また眠くなった」
ドアをノックする音がして、マリは、
「どうぞ」
と、言った。
高級ホテルのボーイみたいな制服の若い男が、ワゴンを押して入って来た。
「お食事でございます」
「はあ、どうも……」
マリは、急にお腹がグーッと鳴って、顔を赤くしたのだった……。
これからの数分間は、目をつぶっておくのが礼儀というものだろう。うら若き乙《おと》女《め》が、息をする間も惜しいくらいの勢いで食事をしているさ《ヽ》ま《ヽ》は、あまりみっともいいものじゃないのだから。
料理のワゴンが来て五分ほどしてから、さっきの中山という男が、平たい箱をわきにかかえて入って来て、
「食事中お邪魔するよ」
と、微《ほほ》笑《え》むと、「味の方はいかが——」
と言いかけて、ほとんどの皿が空になっているのを見て、一瞬唖《あ》然《ぜん》とし、
「味も悪くなかったようだね……」
と、付け加えた。「君の服は、ひどい状態になっていたから、全部こっちで処分したからね。ここに一《ひと》揃《そろ》い、着るものを持って来た。まあ、好みには合わないかもしれないが、着てみてくれないか」
「はあ……。どうも」
あわてて口の中に入っていたものをのみ込んだマリは、やっとの思いで、礼を言った。
「じゃあ、三十分くらいしたら、また来るからね」
と、出て行きかける中山へ、
「あの——」
と、マリは呼びかけた。「お礼を……。助けていただいて、その上、こんなにごちそうまで……。本当にありがとうございます」
「いやいや、これぐらいのこと、何でもないんだよ」
「それで——私、どんな仕事をすればいいんでしょう? お皿洗いなら、大分あちこちでやって上手なんですけど。ただ——こんな高級な食器には向きません、日に一、二枚は割ってましたから」
中山は、ちょっと笑って、
「君にそんなことはさせないよ。ともかく、後でゆっくり仕事の話もするから、今は一息ついていたまえ」
「ありがとうございます」
マリは、深々と頭を下げた。
「——何も焦《あせ》って働くこたあねえじゃねえか」
と、ポチがウトウトしながら言った。
「私はね、あんたみたいな怠け者じゃないの。働く喜びってのを知ってるのよ」
「勝手にやってろ。俺《おれ》は一眠りするからよ……」
言うより早く、ポチはフガーッ、グォーッと派手な寝息をたてながら寝入ってしまった様子。マリは呆《あき》れて眺めていたが、
「じゃ、いただいちゃいましょ」
と、食事のわ《ヽ》ず《ヽ》か《ヽ》な《ヽ》残りを、平らげにかかった。「——だけど、あの中山さんって、なかなか渋くてすてきねえ……」
などと、食べながら独り言。
天使とはいえ、マリも今は生身の女の子である。すてきな男性には胸がときめくし、恋なんてものも、地上研修のついでに(?)してみたい、などと考えているのだ。
上級天使が知ったら、またお目玉を食らうかもしれないけれど。
ほんの何分かの間で食事は完了し、マリはポットに入っていた熱いコーヒーを、ゆっくりと味わった。
そして、すっかり元気を取り戻すと、中山が持って来てくれた箱を開けてみることにしたのだが……。
「——すてき!」
可《か》愛《わい》いすみれ色のニットスーツで、マリなんかが着ると、ちょっと大人びた感じになりすぎるかもしれないが、でも本当に——高《ヽ》そ《ヽ》う《ヽ》だった! つい、値段で考えてしまう、というのが、マリの生活感覚だろう。
下着まで全部揃《そろ》っているのを見て、マリは少し顔を赤らめたが……。でも、せっかく揃えてくれたんだ。早速着てみよう。
ポチは相変らずグーグー寝ていたが、一度マリは服を全部かかえてバスルームへ入り、ロックした。
鏡の前で、服を身につけてみると、何だか自分であって自分でないような……。やっぱり女の子として、胸の弾むものを、マリは感じていた。
化粧台のブラシを使って、髪を整え、一応、見っともなくない程度になったと納得すると、マリはバスルームを出た。
「あ——」
さっき料理のワゴンを押して来てくれた若者が、ワゴンに空の皿を重ねているところで、マリは、
「どうも、ごちそうさま」
と、声をかけた。
マリの方を見たボーイ風の制服の若者は、なぜかハッとした様子で、
「加奈子!」
と、言った。
「え?」
マリが面食らっていると、若者はあわてて、
「いえ——失礼しました。何でもないんです。どうも……」
と真赤になって、ワゴンを押して出て行ってしまう。
「妙ね……」
マリは首をかしげて、「加奈子……。どこかで聞いた名だわ」
と、呟《つぶや》いた。
つい最近、どこかで「加奈子」という名を聞かなかっただろうか?——やっぱり、まだ少しボーッとしているのか、思い出せないのだ。
ドアをノックする音がした。
「あ、どうぞ」
と、マリが声をかけると、中山が入って来る。
一目マリを見て、
「すばらしい!」
と、ため息をつく。「私の見立ても、なかなかのもんだ。そうだろ?」
「本当にすてきです。あの……このお代は……」
中山は、ちょっと笑って、
「君はなかなか律《りち》儀《ぎ》な子だね。それは言うなれば『仕事着』だ。こっちで君に着てもらったんだから、心配することはないよ」
「どうも……」
「じゃ、よかったら、こっちへ来てくれないか」
「はい!」
と、歩きかけて、「あの——ポチはどうします?」
「ああ、寝かしときゃいい。番犬の役にはあまり立たないようだがね」
ポチが、ウーッと唸《うな》った。マリの耳には、ちゃんと、
「大きなお世話だい」
と言っているのが聞こえたのである。