6 突然の客
「だめだめ!」
と、鋭い声が飛んで来た。「小学生の遠足じゃないのよ! 両手をそんなに大きく振って歩いちゃ、威厳がないでしょ」
「はい」
マリはもう一度やり直した。
「——そうそう。両手はほとんど体につけたまま。——はい、頭が上下してるわよ!——そう!——椅《い》子《す》に座って」
マリはスッと音もなく椅子に腰をおろす。
「ま、いいでしょ」
と、六十過ぎのその「先生」は肯《うなず》いた。「背筋がもっと自然にスーッとのびてないと。でも、大分良くなったわ」
「そうですか」
と、マリは言った。
「初めは、毎日、工事現場で土掘りでもやってたのかと思ったわよ」
と笑って、時計へ目をやり、「午前はここまで。午後はサインの練習よ」
「はい。——ありがとうございました」
マリは、深々と頭を下げて……。
「先生」が出て行くと、マリはソファにドサッと倒れ込んだ。
「疲れた!」
「何だい、大して働いちゃいねえくせに」
ポチが寝そべって言った。
「こんなことやるくらいなら、皿洗いの方がよっぽど楽!——くたびれる!」
「だけど、何となく教祖様らしい感じが出て来たぜ」
「やめてよ」
と、マリは顔をしかめた。「仕方ないからやってるけど……。本当は今一つ、気乗りしないのよ」
「俺《おれ》は気に入ってるぜ」
「そりゃあんたは、ぐうたらしてるだけだもん。太るわよ、ゴロゴロ寝てばっかりいて。少しエアロビクスでもやったら?」
「犬が?」
「ともかくね、人を騙《だま》してるみたいで、いやな気分なの」
——マリがこの総本山へ来て三日たった。
当の「教祖」はまだアメリカから帰らないので、マリは三回ほど、来訪者の前に「身代り」で姿を見せた。
口はきかず、肯いて見せるぐらいで、向うは感激して、涙まで浮かべていたものだ。それだけだから、別にぼ《ヽ》ろ《ヽ》は出ていないが、マリとしてはひやひやものである。
こうして毎日、「特訓」を受けて、歩く時の姿勢やら、足の運び方から、信者に向って話をする時の手の挙げ方、挨《あい》拶《さつ》の時の会《え》釈《しやく》と微《ほほ》笑《え》み方(!)まで、細かく指導されているのだ。
サインの練習も、毎日。芸能人じゃあるまいし、と思うのだが、これも教祖として、大切な仕事らしい。
サインした色紙一枚、何十万円(!)という金額で買って帰って、額に入れて飾っている人が大勢いるのだ。
マリも、初めはいやだと言った。それこそ、代理のサインじゃ、「偽もの」を売ることになる。
しかし、中山に、
「これはあくまで非常用だよ。万一、教祖が急病にでもなった時、誰もサインできなくては困るんだ。分るね?」
と、説得されてしまった。
教祖とそっくりのサインができるようになるまで、何百枚も色紙がむだになるのである……。
こういう訓練はきつかったけど、それを除けば、確かに待遇は抜群にいい。
「やはり雰囲気を身につけなくては」
という中山の意見で、本当の教祖に劣らぬ豪《ごう》華《か》な部屋を当てがわれて、いいものも食べている。
ポチじゃないが、マリの方も、気を付けないと太っちまいそうである。
「いつかやって来た、教祖の母親って人、どうしたのかしらね」
と、マリは言った。
「ああいう奴《やつ》は、そう簡単に諦《あきら》めないぜ。きっとまた来るよ。それとも、追い帰されてるのかもしれない」
「お金、お金ね……。何だか哀《かな》しいわ」
「俺たちだって、金なしじゃ生きてけないんだぜ」
「分ってる。でも、それが目的になるのと、手《ヽ》段《ヽ》だって考えるのとじゃ、ずいぶん違うでしょ」
「どっちにしたって、金が大切ってことにゃ代りはねえさ」
「いいわね、あんたみたいに割り切っていられたら。でも、当然か。悪魔なんだもんね、あんたは」
マリは、ちょっと笑って、「時々、あんたが悪魔だってことを忘れそうになるわ」
と、言った。
ポチはチラッとマリの方を見た。——何だか、今のマリの言葉が、いやに気になったのである……。
ドアをノックする音がして、
「お食事をお持ちしました」
と、声がする。
「あ、どうぞ」
マリはあわててソファから立つと、スカートの裾《すそ》を直した。
ワゴンを押して入って来たのは、あのボーイ姿の若者である。
「待ってたぜ」
と、ポチがいそいそとやって来る。
「ありがとう、いつも」
と、マリは言った。「いいわ、自分でやるから」
「はい」
料理にかけてあったナプキンをたたんで、
「では、後で下げに参ります」
と一礼して出て行こうとする。
「待って」
と、マリは呼び止めていた。
「はあ」
「あなた……私がここへ来た時、私のこと見て、『加奈子』って呼んだでしょ」
「そ、そうでしたか——。よく憶《おぼ》えていませんが」
と、どぎまぎしている。
「落ちついて。私、他の人にも『加奈子』って呼ばれたことがあるの」
「え?」
「座って」
その若者は、少しためらってから、椅《い》子《す》に腰を落とした。
「あなた、お名前は?」
「僕は……加《か》東《とう》晃《あき》男《お》といいます」
「堅苦しくしないで。私は本物の教祖様じゃないわ」
「ええ……」
と、息をついて、加東晃男は少し気を楽にした様子だった。
「ね、加奈子さんっていうのが、本当の名前なの?」
「教祖様ですか? ええ、たぶん……。僕も、直接見たことがないんです。ずっと遠くからしか」
「そう。でも、母親だっていう人も、私のことを加奈子さんだと思ったわ」
加東晃男は目をみはって、
「お母さんが? 加奈子の母親が来たんですか」
「ええ。知ってるの?」
「少し……。といっても、見かけたぐらいですけどね」
「あなたは、その加奈子さんと……」
「一応ボーイフレンドというか……。僕の方の片思いだったんですけどね」
「お付合いはしていたの?」
「何度か。僕は大学生だったから、そうひんぱんに、というわけじゃなかったですが」
「加奈子さんはどうしてここへ来たのかしら?」
「さあ。——もし本当に加奈子だとしての話ですけどね。彼女、家を飛び出したんだと思います。父親が借金こしらえて蒸発しちゃって、母親の方はこれ幸いと若い男を家へ住まわせてたんです。加奈子は、いやになってましたよ」
「そりゃそうでしょうね」
「そしてある日突然、学校へ出たまま、姿を消したんです。——それからどうなったのか、僕も知りません。ただ、ある日、大学の食堂でTVを見てたら、ここの教祖ってのが出てて、それ見て……」
「加奈子さんだってわけね」
「大学、休み取って来たんです。でも、なかなか彼女には近付けなくて」
と、加東晃男は言った。「ともかく——彼女が間違いなく加奈子なのかどうか、それだけ確かめられたら、と思うんですが……」
「私で何か力になれることがあったら」
と、マリは言って、「私、マリ。あの犬はポチっていうの」
「ポチ? またクラシックな名前だなあ」
と、加東晃男は笑った。
「好きでつけた名じゃねえや」
と、ポチはふてくされている。
「——それにしても」
と、加東晃男は首を振って、「加奈子のお母さんも図々しい人だなあ。彼女がいなくなっても、捜索願も出さなかったんですよ」
「そう」
「あ、もう行かないと」
「ごめんなさい、引き止めて」
「いいえ。心強いです」
と言って、加東晃男はシャンと立つと、「では失礼いたします」
と、頭を下げ、出て行った。
「なかなか感じのいい人じゃない。ねえ?」
と、マリは言った。
「そうかい?」
「恋人を追って、こんな所まで、大学を休んで、ですってよ。よほど加奈子さんのことを愛してるのね」
「怪しいもんだ」
と、ポチは鼻を鳴らした。「あのお袋と同じ穴のむじなかもしれないぜ」
「何のこと?」
「金目当てってことさ。あわよくば、教祖の亭主になって……」
「もう! あんたは、そんな風にしか考えられないの? 恋ってのはね、神聖なもんなのよ」
「神聖か。だけど、恋のおかげで、人殺しだの盗みだの、って犯罪が、やたら起きてるんじゃねえのか」
「そりゃ話が別よ」
二人がやり合っていると——やり合いながらも、二人ともしっかり食事をしていたのだが——あわただしくドアをノックする音がして、
「食事中、すまないね」
と、中山が入って来た。
「いいえ。——あの、何か?」
「突然客が来ることになったんだ」
と、中山は言った。「本当は来週のはずだった。その時には、教祖も帰って来ているしね。しかし、向うの都合でどうしても、ということになって……」
「それで……私、何かするんでしょうか」
「君が相手をするんだ。他に手はない」
「相手ですか。ただ、黙って座ってればいいんでしょ」
中山は首を振って、
「今回はそうはいかない。特別な客だからね、これは」
「でも——」
と、マリが言いかけると、
「中山さん」
と、水科尚子が入って来た。「今、ヘリでこっちへ向っておられるそうです」
「すると、あと何分でもないな」
「二十分ほどでお着きです」
「二十分か」
中山は腹を決めた様子で、「よし。着替えるんだ。客を出迎える」
「はい」
マリはあわてて、お茶を飲んで、むせ返った。
「手伝うわ」
と、水科尚子が言った。
「頼む。僕は幹部を呼び集める」
中山は駆けるように出て行ってしまった。
マリは、そんな中山を見るのが初めてだったので、びっくりした。
「さあ、仕度よ」
と、水科尚子が促す。
「はい。——水科さん。一体どなたがみえるんですか?」
マリは着ていた服を脱ぎながら言った。
「あなたもたぶん知ってる人よ」
「私も?」
「そう。総理大臣だからね、日本の」
ワン、とポチが吠《ほ》えた。
電話……。
え? 電話?——やめてよ! こんな所まで!
ここまで来れば、電話で叩《たた》き起されることもないと思ったのに。——誰かいないの? 誰か出てよ。ねえ。
加奈子は、何とか目を開けた。時差で、睡眠時間が狂って、まだ慣れない。やっと慣れたころには、日本へ帰ることになるのだろう。
ベッドの中で、何とか這《は》って進むと、鳴り続ける電話へ手をのばした。
「——はい。——もしもし」
と、かすれた声で言う。
わきを見ると、名前も憶《おぼ》えていない男が、口を開けて、眠りこけている。ゆうべは、逞《たくま》しく、力強く見えた男も、朝の光の中では、ただ薄《うす》汚《ぎたな》い、つまらない男にすぎない。
こんな男に抱かれたのか。いつもと同じ、苦い悔恨の気持がわき上って来た。
「もしもし」
妙にくぐもった声だった。
「誰?」
と、加奈子は呼びかけた。「誰なの?」
「あなたは、捨てられますよ……」
と、その奇妙な声は言った。
「何ですって?」
「アメリカにいる間に、本山では、あなたの身代りが育てられています……」
「私の、何が?」
「あなたは消されてしまいますよ」
加奈子は目が覚めた。——電話はどうやら日本からだ。
しかし、誰の声か、さっぱり分らない。
「ご忠告ありがとう」
と、加奈子は言った。「用心するわ。もうじき帰るから」
「首相がみえています」
「誰?」
「首相です。金《かね》坂《さか》首相」
「首相は来週のはずよ。外遊の前でしょ」
と、加奈子は言った。
「早まったんです、外遊が」
と、その声《ヽ》は言った。「調べてごらんなさい」
その声は忍び笑いをしているように聞こえた。
「今、首相は本山へみえてるんですよ」
「私がいないのに?」
「あなたの代《ヽ》り《ヽ》がいます。もうあなたはいなくてもいいんですよ……」
「馬鹿言わないで!」
と、加奈子は叩きつけるように言った。「あんたは、誰なの?」
フフフ、と低い笑いが聞こえ、そして電話が切れた。
——加奈子は、しばらく、沈黙した受話器を見ていたが、やがて肩をすくめた。
「馬鹿らしい」
そして、もう一度ベッドの中へ潜り込もうとして、隣に寝ている男を見て、顔をしかめると、ベッドから出た。
隣の部屋を開けて、
「ねえ、あの男、もう帰して」
と、眠たげな目をパチパチさせているメイドに言った。
「は、はい……」
と、よく太った若いメイドは、眠っていたソファから立ち上って、「あの、もう一度とか……」
「あんなの一度で沢山」
と、加奈子は首を振って、「シャワー浴びてるから、その間に追い出して。いつもと同じお金をやっといて」
「はい」
メイドが、ベッドでぐっすり眠り込んでいる男を起しにかかるのを横目に、加奈子はバスルームへと入って行った。
シャワーを浴びる。——これでも少しも気分はすっきりしないだろう、と分っていた。
でも、浴びないより、少しはま《ヽ》し《ヽ》だ。
加奈子は疲れていた。ほとんど、ぐっすり眠ったことがない。この何か月というもの。
「教祖様」か……。
初めの内は抵抗があった。こんなことしてていいのか、と思っていた。
しかし、何万という信者に歓呼の叫びを上げさせる快感、誰もが——もちろん信者の、だが——自分を見るだけで言葉を失うくらい感動している、その様子……。
それはもう、麻薬のように、一度味わったらやめられない快感である。
その代り、加奈子は超多忙だった。次から次へと予定をこなさなくてはならない。
ほとんどアイドルタレント並みだった。
体もきつい。しかし、加奈子は満足していた。教祖という「役割」は、少なくとも、加奈子に充実した時間を与えていたのである。
しかし、同時に加奈子には、自分に戻る時間が——「教祖」から「加奈子」に帰る時間がなかった。そのストレスは、ああして、見知らぬ男との一夜で、発散させているのだ。
頭がすっきりすると、さっきの電話の内容を思い出した。
私の代《ヽ》り《ヽ》?——冗《じよう》談《だん》じゃない!
教祖が二人もいてたまるもんか。私一人で充分だ。
でも、あの電話が完全にでたらめとは、思えなかった。あのしゃべり方の中には、一部は真実が含まれていた、と加奈子は思った……。
もう、あなたはいらなくなる……。
消されてしまうだろう……。
「馬鹿げてるわ」
と、加奈子は呟《つぶや》いた。
しかし、バスルームを出ると、加奈子は日本へ電話を入れた。本山へではなく、首相のスケジュールを押えている秘書あてに、であった……。