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天使は神にあらず10
日期:2018-09-20 20:55  点击:272
 10 マリの休日
 
 
「うーん」
 とマリは鏡に映った自分を眺めて、満足気に肯《うなず》いた。「これこそ、私だわ!」
 ポチが、ちょっと鼻を鳴らして、
「自分のことはよく分ってるじゃねえか」
 と、からかう。
 マリは決して天使にあるまじき「うぬぼれの罪」を犯しているわけではなかった。もちろん人間には多少の「見《み》栄《え》」というものは必要で、それが人間を醜《みにく》い行いから救ったりもするのだが、その点は天使だって同じことだ。
 ただ、今のマリは、誰が見たって、天使でも「教祖様」でもなかった。丸ぶちメガネをかけ、古くて半ばすり切れたオーバーを着込んだ田舎《いなか》の少女としか見えない。
「——さ、出かけましょ」
 と、マリは言った。「それともあんた、留守番してる?」
「いや、付合うぜ」
 と、ポチが伸びをして、「晩飯が食えるように少し腹を空《す》かしとかないとな」
「もう、あんたは食べることばっかりね」
 と、マリは、苦笑した。
 二人は部屋を出た。——廊下を歩いて行くと、向うから水科尚子がやって来る。
「水科さん、ちょっと出かけて来ます」
 と、マリが声をかけると、水科尚子はキョトンとしてマリを見ていた。
 それから、プッとふき出して、
「ああ、びっくりした! 誰かと思ったわ、その格好!」
「ぴったりでしょ、私には」
 と、マリも微《ほほ》笑《え》んで言った。「今日は中山さんからお休みをもらったんです」
「そうだったわね。私も聞いてるわ。——教祖は久しぶりに一日ここにいるみたいだし」
「私、ちょっと近くの町まで、買物に行って来ます」
「何でも言いつければ、買って来てくれるのに」
「それじゃ面白くないんですもの。自分で見て、少しでも安くていいものを選ぶのが、買物の楽しみってもんです」
「分ったわ。車でも出しましょうか?」
「いえ、バスで行きます。今日は結構あったかいみたいだし」
「そう。じゃ、気を付けてね。——ポチがいれば、何かの時には守ってくれるわね」
「こいつはだめです。人が不幸になると喜ぶ性《た》質《ち》ですから」
 と、マリは言った……。
 マリとポチは、〈職員用通用口〉と書かれた矢印の方へと歩いて行った。
 ——本物の教祖、加奈子が戻《もど》って来てから二週間たっている。中山の方も気をつかって、マリが加奈子と顔を合わせなくてすむようにしてくれていたし、何しろ本物がいるのだから、マリの出《ヽ》番《ヽ》も、それほど多くなかった。
 それでも、歩き方、微笑み方から、サインの練習までという日課は変りなく続いていたし、最近は短いスピーチまで暗記させられるようになっていた。
 部屋は、初め入っていたほど豪《ごう》華《か》ではなかったが、これまでの暮しから比べれば充分すぎる広さがあり、快適だった。ポチも、時にはブツクサ言っていたが、食べるものは豊富に出るので、満足しているようだ。
「——ねえ、ポチ」
 と、マリが言った。
「ポチなんて呼ぶな。それは世間向けの名前だぞ」
「じゃ、『あんた』でいいの?」
「そいつも気に入らないけど、しょうがねえな。本当は地獄でつけてくれた立派な名前があるんだ」
「へえ。聞かせてよ。何て言うの?」
「よく憶《おぼ》えてねえよ」
「自分の名前を忘れちゃうの?」
「悪魔の名前は長いんだ。全部言うと五分はかかる」
「呆《あき》れた。地獄ってよっぽどヒマなんだ」
「大きなお世話だい」
 と、ポチは鼻を鳴らした。
「でもさ——」
 と、通用口へ続く階段を下りながら、「あの、心中したことになってる、加奈子さんのご両親、その後、どうなったのかしら」
「さあね。誰も気にしねえのさ、あんな奴《やつ》らが死んだって。ま、地獄じゃ大歓迎してくれてるだろうけどな」
「でも……殺人だとしたら、犯人がいるわけなのよ。それに死んでも構わない人間なんて、一人もいないわ」
「甘い、甘い。世の中にゃ、善意なんてもんの通用しない奴がいくらもいるんだぜ」
 それはそうかもしれない。マリはあちこち歩いて来て、そう思うことがあった。でも、天使が人間を、人間の良心を信じなかったら、一体誰が信じるだろう?
「——その角を曲ったとこよね、確か」
 と、マリは言った、「ここ、本当に広いんだもの。それに方向音痴だし」
「天使が方向音痴じゃ、死んだ奴をちゃんと導けないんじゃないのか」
 と、ポチが笑った。
 二人は角を曲って——足を止めた。
 パッと離れた二人……。男の方は加東晃男で、女の方は白い衣をまとった加奈子だった。
「あの——失礼しました」
 と、マリは赤くなって頭を下げた。
 晃男と加奈子は、どう見ても柔道の試合をしていたわけではなく、抱き合ってキスしていたのである。
「いいのよ」
 加奈子は思いの他《ほか》明るい笑顔になって、「どうせ仕事に戻《もど》らなきゃいけないから。——またね、晃男さん」
「うん」
 晃男も、やや頬《ほお》を紅潮させて、しっかり肯《うなず》く。
 加奈子は、マリに、
「今日はお休み?」
 と、声をかけた。
 この間の不《ふ》機《き》嫌《げん》さとのあまりの違いに、マリは戸《と》惑《まど》ったが、
「ええ。ちょっと買物に……」
「そう。ね、何かおいしいお菓子があったら、買って来て。一緒に食べましょ」
 加奈子はそう言うと、マリの肩をポンと叩《たた》いて、足早に立ち去った。
「ああ、びっくりした!」
 と、マリは胸をなで下ろして、晃男の方へ、「うまく行ったようで、良かったわね」
「うん。——彼女、ちっとも変ってない。いや、むしろぐっと大人になったね。やって来たかいがあったよ」
 と、晃男は言って、「君のおかげだ」
「そんなことないわ」
「おっと! 急いで戻らないと。じゃ、また!」
 と、晃男が駆けて行く。
「良かったね、二人が元の通りに……」
 と、マリが言うと、
「そうか? 俺《おれ》はなんだか気に入らねえ」
 と、ポチは首をかしげた。
「どうして?」
「うん……。どうして、って訊《き》かれると、よく分らねえけどな」
「あんたは人が幸福そうだと面白くないんでしょ」
 と、マリは言ってやった。「さ、出かけましょ!」
 二人が道へ出ると、ちょうどバスがゴトゴト揺れながらのんびりとやって来るところだった。
「外は寒いね」
 と、マリが首をすぼめる。
「そりゃ、この雪だからな」
 バスが来て、二人は乗り込んだ。——これが都会のバスだと「犬はだめ」とか言って、乗せてくれないところだが、この辺のバスは全然気にしない。地元の人が、犬はもちろん、ニワトリや豚(!)まで連れて乗っていたりする。
 さすがに牛や馬は乗っていないけど、至って呑《のん》気《き》なムードであった。
 二人を乗せてバスがゴトゴト動き出すと、
「待ってくれ!」
 と、大声で呼ぶ声がして、扉をドンドン叩く男がいる。
 扉が開くと、
「や、すまんすまん」
 と、乗って来たのは、少し頭の薄くなった中年男。
「——何だか生活に疲れた感じね」
 と、マリがそっとポチの方に話しかける。
「中身も着てるもんもくたびれてるな」
 と、ポチは言った。「だけど、この辺の奴《やつ》じゃないだろう」
 確かに、雰囲気から見て、この地方に住んでいる人間とは思えなかった。
 マリとポチがバスの一番奥に座っているのをチラッと見ると、その男は、出入口の近くに腰をかけて、くたびれたコートの前をギュッと引張って合わせたのだった……。
 
「——このおしるこ、おいしい!」
 と、マリは言った。「いいわねえ、やっぱり。勝手に歩き回って、好きな所へ好きな時に入る、っていうのは」
「だけど、それができるのは、金があるからだぜ」
 ポチは、マリの椅《い》子《す》のそばに座って、おしるこのおモチをもらって、「あちち……」と、目を白黒させたりしている。
「何よ、猫舌とは言うけど、犬舌とは言わないわよ」
 と、マリは笑った。
「おい」
「何?」
「あのおっさん、バスに乗って来た奴だぜ」
「本当? どれ」
 と、マリは店の中を見回したが、「いないじゃないの」
「よく見ろ。あの隅に一人で座ってる奴。さっきはメガネかけてなかったけどな」
「そう?——何となく似てるけどね。コートが違うじゃないの。別の人よ」
「俺の目を信じろよ。あのコートは、裏返して着てるんだ」
「え?」
 裏返して?——確かに、その気で見ると、そんな風にも見える。
「でも……どうしてそんなことを?」
「そりゃ、後を尾《つ》けてるのを気付かれないようにするためさ」
「私たちの後を尾けてるの? どうして?」
「知るかい。訊《き》いてみな、本人に」
「そうね」
 マリは、おしるこを食べ終えて、お茶を一口飲むと、ヒョイと立ち上って、「じゃ、訊いて来るわ」
 と、その男の方へトコトコ歩いて行った。
 ポチは呆《あき》れて、
「あの馬鹿!」
 と呟《つぶや》いたのだった。
「——失礼ですけど」
 と、マリはその男に声をかけた。「そのメガネ、外してみていただけません?」
「え?」
 和菓子を頬《ほお》ばっていた、その男は面食らった様子で、「何だい、一体」
「すみません、そのメガネを外してみていただきたいんですけど」
「何の話だね?」
 と、顔をしかめて、「子供の相手をしてる時間はないんだよ」
「でも、ずいぶんゆっくりお菓子を食べてらっしゃるし」
「そんなの、俺の勝手だろ」
「ともかく、メガネを。それと、コートを裏返してみていただけますか?」
 マリの言葉に、男は和菓子を食べる手を止めた。そして、ちょっと笑うと、
「こりゃ参った。——たかが子供、となめちゃいかんね」
 メガネを外すと、やはりバスに遅れて乗って来た男だ。そして、コートを元の通りに裏返すと、
「話がある。——もう食べ終ったんだろ。かけないか」
 と、言った。
 マリは、自分の席から伝票を持って来た。ポチもついて来て、
「払わせちゃえ」
 と、つついている。
「私はこういう者だ」
「わあ、重そうな手帳。でも、カッコ悪いデザインですね」
「そうかな……」
 と、その男はまじまじと警《ヽ》察《ヽ》手《ヽ》帳《ヽ》を眺めた。「ま、確かに、女の子の喜びそうなデザインじゃない」
「刑事さんなんですか」
「浦《うら》本《もと》というんだ。県警の刑事だ」
「私のこと、どうして尾行してるんですか? 悪いことした憶《おぼ》え、ありませんよ。それとも、ポチが何かしたのなら、謝ります。電柱にオシッコでもかけました?」
「俺はそんなことしないぜ」
 と、ポチが文句を言った。
「私は阿部哲夫とユリエの心中事件を調べている」
 と、浦本という刑事は言いながら、頭の薄くなった辺りへ、そっと手をやった。
 無意識のしぐさらしいが、気にしている証拠なのだろう。
「阿部さん……」
 加奈子の両親のことだ。ではやはり、何《ヽ》か《ヽ》見付かったのだろうか?
「知ってるね、その二人のことは?」
「母親の方は一度会いました」
「父親には?」
「会ったこと、ありません」
「ふむ」
 浦本は手で顎《あご》をなでながら、「君は正直らしいな」
「そりゃ天使ですから」
「何だって?」
「いえ、別に」
 と、マリはあわてて言った。「あの心中、本当は自殺じゃなかったんですか?」
 余計なこと言うな、とポチが鼻先でマリの足をつつく。
「どうしてそう思うんだね?」
「だって……。そうでなきゃ、警察の人が乗り出さないでしょ」
「なるほど。君は頭がいい」
 それぐらい、私にだって分るわ。マリは何だか少し馬鹿にされているような気がした。
「阿部ユリエの方には男がいた。知ってるね?」
「ええ、野口さんでしょ」
 と、マリは肯《うなず》いた。
「その男は、今どこにいるか、知ってるかね」
「教団で働いてます」
 と、マリは答えた。
 野口は、ユリエが死んで、東京へ戻《もど》っても、食べさせてくれる相手は、すぐには見付からないので、何か食べていけるだけの働き口はないか、と中山に相談し、雑用をやらせてもらうことになったのである。
 今まであんまり働いて稼ぐ、ということをしたことのない野口だったが、却《かえ》って「仕事」というのも新鮮らしく、今のところは結構楽しんでいるようだ。
「そうか……」
 浦本は肯いて、「あの総本山の中にね」
「ええ」
「ところで——君は、あそこで何をしているんだ?」
 マリは、ちょっと詰まった。
 教祖に「代理」がいることは、あくまで教団内の秘密なのだ。——嘘《うそ》をつくのは好きじゃないけど、今は、教団の職員という立場である。
「事務です。あの——今日はお休みで」
 と、マリが言うと、浦本は、
「なるほど」
 と、あっさり肯いた。「君のことはね、少し調べたよ」
「え?」
 調べた、って……。天国に照会しても返事は来ないだろうけど。
「君はどうも『マリ』しか名がないようだね」
 と、浦本は言った。
「ええ、まあ……。これも、『ポチ』しかありませんから」
「君に仕事を紹介した所でも訊《き》いて来た。いつもそうして犬を連れて歩いてるんだね」
「ええ、そうです」
「まあ、私としては、君の身《み》許《もと》をあばくのが仕事ではない。殺人事件の犯人を捕えればいいわけでね」
「殺人……。じゃ、あのご夫婦、やっぱり殺されたんですか」
「やっぱり、というのは?」
「あの——何となく、自殺なんてしそうもない人だったので。特にあのお母さんの方は」
「確かにね。二人とも睡眠薬をのんで、あの雪の中で眠り込み、凍死……。心中と見えるが、解剖の結果、薬は紅茶と一緒に胃へ入っていることが分った」
「紅茶ですか。ブルックボンド? トワイニング?」
「そこまでは知らないがね」
 と、浦本は笑って、「あの雪原で二人が死んだとなると、一体どこで紅茶を飲んだのかということになる。あの近くに喫茶店はないからね」
「それはそうですね」
「薬をのんで、効果が現われるまでに二十分としても、あそこには車もなかったから、歩いたということになる。二十分じゃ、あの雪の中、どこまで行けたかな。——つまり、どうやら二人とも、どこかで紅茶を飲んで眠り込み、あそこへ運ばれて来た、というのが事実らしいんだ」
 マリは肯《うなず》いた。その辺は大体見当をつけていた通りだ。
「君、いいかね」
 と、浦本は少し声をひそめて言った。「私の協力者になってくれないか」
「協力者って……」
 と、戸《と》惑《まど》うと、
「警察の捜査に協力してくれれば、君の過去については、目をつぶる」
「私の過去って——何のことですか」
「何《ヽ》も《ヽ》なけりゃ、『マリ』だけで、あちこち旅して歩いてることもあるまい。そうだろう?」
 浦本はニヤリと笑うと、言った。「決して君の損にはならないよ」
 この刑事の考えていることも、分らないではなかった。確かに、警察の人間から見たら、マリのように、身《み》許《もと》もはっきりしていない人間は「怪しい」と思えるだろう。
「でも」
 と、マリは訊いた。「どうしてあの二人が私と関係があると思ったんですか?」
「死体を確認しただろう。そして連絡先があの教団になっている」
「あ、そうか」
「いいかね」
 と、浦本は座り直した。「阿部ユリエは、男も好きだが金も好きな女だった」
「人間はたいていそうさ」
 と、ポチが言った。
「何を唸《うな》ってるんだね、この犬は」
「いえ、別に。時々、気が向くと浪花《なにわ》節《ぶし》を唸ります——っていうのは、もちろん冗《じよう》談《だん》ですけど」
「君は面白い子だね。——いいか、阿部ユリエのことを、住んでいた家の近所で聞き込んでみた。すると、あの教団に何か用事があって行くつもりだ、と洩《も》らしているんだ」
「どんな用事ですか」
「そこまではしゃべってない。しかし、金が絡んでいたことは確かだ。何百万か借金をかかえてたんだが、借りた相手に、旅行から戻ったら必ず返す、がっぽり金が入るんだ、と言っていたらしい。それもどうやら本気だったようだ」
「どうして大金が入ることになってたんでしょうね」
「鍵《かぎ》はあの教団さ」
 と、浦本は言った。「私はね、こうにらんでいる。あの阿部ユリエという女は、あの教団をゆするつもりだった、とね」
「ゆする?」
「ユリエは、何か教団の弱味、大切な秘密をつかんでいたんだ。それをネタに、金をゆすり取ろうとした。そして——殺された、というわけさ」
「じゃあ、教団の人が殺した、と?」
「私はそうにらんでる。あんなインチキ宗教、裏じゃ何をやってたっておかしくない。そこで、あれこれ調べてる内に、君があの中にいると分ったのさ」
「そうですか……。でも、インチキかどうか分らないでしょう。それに、人殺しまで——」
「分るとも!」
 と、浦本はなぜか突然強い口調になった。「あんなもんは、人を惑《まど》わせ、まだ何も分ってない若者をエサにして太って行くんだ。私は絶対にあんなものは認めない!」
 その剣幕に、マリは口をつぐんでしまった。——浦本は、ちょっと息をついて、
「いや、すまん」
 と、言った。「ともかく、君に頼みたいことがある。まず一つは、野口という男に会わせてほしいんだ。ユリエから何か聞いているはずだからな」
「野口さんなら、教団の事務局へいらっしゃれば、いつでも会えます」
「いや、あの中では会いたくない」
 と、浦本は首を振った。「教団の幹部連中に、私が捜査していることを悟られては困る。もし、私と話しているところを見られたら、野口も消されるかもしれん。証人だからね。生かしておきたい」
 どうやら、浦本は教団のことを、マフィアか何かだと思っているらしい。マリとて、あの教団が、建前ほど無私の情熱で運営されているとは思わないが、それにしてもギャングと一緒にされるのも、やはり「教祖代理」としては抵抗があった。
「いいね」
 と、浦本はぐっと顔を近付け、「野口に、外で私と会うように言うんだ。分ったね」
 浦本の言い方は有無を言わせぬものだった。
 マリは当《とう》惑《わく》して、ポチとそっと目を見交わしたのである……。

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