15 決 断
マリはふっと目を覚ました。
あ、寝ちゃったんだ。——そう気付いてから、少し戸《と》惑《まど》った。ここは、どこなんだろう?
星が見える。それも、ずっと頭上じゃなくて、すぐそこに見えるような気がする。
おかしいな。天国へ帰って来たのかしら?
でも、いつの間に?
「目が覚めたかい」
と、声がして、マリはびっくりした。
中山が隣にいる。——ヘリコプターに乗っていたのだ。
ヘリコプターは、二人を乗せ、夜空を飛んでいた。マリも、やっと思い出した。
総本山へ帰るところなのだ。
「どうだい、疲れたろう」
中山は微《ほほ》笑《え》んだ。
「いえ……。眠ったら、ずいぶん楽になりました」
と、マリは答えた。
「いや、大変なスケジュールだったものね。よく頑《がん》張《ば》ってくれた」
——結局、加奈子は目の前で晃男が毒を飲んで死ぬのを見ていたショックから、ひどくふさぎ込んでしまって、水科尚子が付き添って、先に総本山へ帰ってしまったのだ。
後のすべてのスケジュールを、マリが加奈子の代役として、こなさなくてはならなかった。それも、あのパーティでのTV中継のせいもあって、インタビューやTV出演が倍にもふえた。
マリは、おかげで五分刻みのスケジュールの三日間を過さなくてはならなかった。眠る時間も切りつめられ、せいぜい四時間。
寝不足の天使、じゃ、お話にもならないわ、と、マリは心中ひそかに文句を言っていたものだ。
その一方で、ある種の「充実感」があったことも確かである。大勢の人に顔を知られ、挨《あい》拶《さつ》され、歓迎されるのは、悪い気分じゃなかった。
でも、これは私《ヽ》に対してのものじゃないんだ。「教祖」に対して、加奈子さんに対してのものなんだ、とマリは自分へ言い聞かせた。
言い聞かせる必要があった、ということも、マリには分っていた。その意味するところが……。
マリはチラッと足下を見た。ポチが真黒な胴体を横たえて、スヤスヤ眠っている。
「中山さん」
と、マリは言った。「お話があるんですけど」
「僕の方にもある」
と、中山はすっかり気が楽になった様子で言った。「もしかして、同《ヽ》じ《ヽ》こ《ヽ》と《ヽ》かもしれないね」
「たぶん……違うと思います」
と、マリは言った。
「まあいい。ともかく——もう少しで総本山だ。着いてから、ゆっくり聞こう」
「もう着くんですか」
と、マリはびっくりした。
「空を飛ぶと早いんだ」
中山は、まるで少年のようにはしゃいでいた。「君にも分るだろ、天使なんだから」
マリはつい笑い出してしまった。
「天使っていっても、別に空中を飛び回れるわけじゃありません。スーパーマンじゃないんですもの」
「何だ、そうなのか。残念! 君におぶってもらって、空中散歩をしたかったのにな」
「おあいにくさま」
と、マリは言ってやった……。
ポチが目を覚まして、アーアーと大《おお》欠伸《あくび》すると、
「ラブシーンなら、着いてからやれ」
と、言った。
「大きなお世話」
と、マリが言ったので、中山は目をパチクリさせていた。
「——見ろよ。総本山だ」
中山が指さす方を見ると、夜の闇《やみ》の中に、照明に照らし出されて、巨大な総本山の建物が浮かび上っていた。
それは、無条件に美しくて、壮大で、心を打つ光景だった。
「すばらしいと思わないか」
「ええ……。美しい!」
と、マリは心から言った。
ヘリコプターが近付くと、建物の屋上のヘリポートが光の環《わ》で四角く囲ってあるのが、まるで遊園地の飾りみたいで、きれいだった。
「人がいるわ」
と、マリは見下ろして、言った。
「みんなが君を出迎えてるんだ。——さあ、手を振って」
「でも——」
出迎えられているのは私じゃない。加奈子さんなんだ。
「いいんだ。君のことを、喜んで迎えてるんだから」
マリが手を振ると、ヘリポートの周囲に集まった百人近い人々が一《いつ》斉《せい》に手を振って応《こた》えた。ヘリコプターが降下して行くと、風が巻き起ったが、誰も、手を振るのを、やめなかった。
マリは胸が熱くなり、そしていつしか目に涙が溢《あふ》れて来ているのを感じたのだった……。
「お帰りなさい」
と、水科尚子が、マリを出迎えて、言った。
「加奈子さん、どうですか?」
と、マリはすぐに訊《き》いた。
「あんまり良くないわ、ずっと寝込んでいるの」
「病気ですか」
「疲労がたまって……。あなたも、あんまり無理しないでね」
「ええ……」
マリは曖《あい》昧《まい》に言った。
「さ、もう休んでくれ」
中山はマリの肩に手をかけた。「部屋まで送るよ」
マリは、水科尚子に会《え》釈《しやく》して、歩き出した。——送られるだけでは終らないことを、マリは知っていた。
「すまなかったね」
中山は、マリたちの部屋へ入ると、「——デートの約束が果せなくて」
「そんなこと、仕方ありません」
「色々あったが、まあ何とか切り抜けた。後も大変だと思うよ。これで一般のマスコミも我々に注目する」
中山は、興奮している様子だ。
「——中山さん」
「何だい? 君の方の話ってのは?」
「中山さんの方もお話が……」
「うん。——僕の話は簡単だ」
中山はじっとマリを見て、「君に、このまま、教祖でいてほしい」
と、言った。
「だめです」
と、マリが首を振る。
「どうして?」
「私は加奈子さんの代理です」
「あの娘にはもう無理だ」
と、中山は肩をすくめ、「分るだろう? 神経も参ってるし、あのままでは、ノイローゼになる。君だって、そうさせたくはないだろう」
「でも、それなら次の教祖を、誰か別に決めるべきです」
「それが君だっていいじゃないか」
「私は、あの人の替え玉です。信者の人たちは同じ人間だと思うでしょう。そんなの、詐《さ》欺《ぎ》と同じです」
「君は全く真《ま》面《じ》目《め》な子だね」
と、中山は笑って、「しかし、どっちにしても——」
「私はともかく、だめです」
と、マリは、中山から目をそらして、言った。
「どうして?」
「ここを辞めます」
中山が一瞬、詰まった。思いもかけなかったようだ。
「辞める?——どうして?」
マリは黙っていた。
「何か不満なのか? 言ってくれ。もっと広い部屋にでも移るかい」
「そんなことじゃないんです」
「じゃ、何?」
マリは、おずおずと中山の目を見て、
「怖《こわ》いんです」
と、言った。「ここにずっといてしまいそうで」
「いればいいじゃないか」
マリは首を振った。
「私には役目があるんですもの。それに——私がここにいたいと思う動機が、純《じゆん》粋《すい》じゃありません」
「どんな動機?」
「自分が偉くなったみたいな気がして……。そんなわけないのに。いい気分なんです、でも、そんなの罪です」
中山は、マリと並んで、ソファに腰をおろすと、
「それだけかい?」
と、訊いた。
「いいえ……」
マリは、消え入りそうな声で言った。「中山さんのそばにいられる、と思うと……」
中山の腕がマリの体に巻きついて、力強く抱きしめた。逆らってもかないっこない。
マリは中山の胸に身をあずけ、顔を上げると……。
ポチは、マリが中山にしっかり抱かれてキスされるのを見て、やれやれ、と思った。
「あれであいつも終りだな」
あのままベッドへ運ばれて、なすがまま。そうなりゃ、あいつはもう天使にゃ戻《もど》れなくなる……。
俺が地獄へ大いばりで戻れる日も近いってもんだぜ。——なあ。
マリは、もう何がどうなっても構わない、って気がして、中山に抱きつき、目をつぶった。心臓の鼓《こ》動《どう》の激しさで、体中が震動しそうだ。
切ない思いがこみ上げて来て、嬉《うれ》しいのか悲しいのか、分らなかった。ともかく——今はただ、流れに身を任せているしかない……。
ワン、ワン!——ワン!
「君の犬が吠《ほ》えてるよ」
と、中山が言った。
マリは、振り向いた。ポチがそっぽを向いて欠伸《あくび》をしている。
なぜ吠えたの? どうして——。
マリは、ふと部屋の隅の鏡に目をやった。ドレッサーの鏡に、自分が映っていたのだ。中山に抱かれている自分が。
ハッとした。——そして、急速に、体が冷えて行った……。
「どうしたんだい?」
と、中山は言った。「大丈夫。何も心配しなくてもいいんだよ。君は、初めてなんだろう?」
マリは、黙って肯《うなず》いた。それから、もう一度鏡を見て、
「お願い」
と、言った。「お風《ふ》呂《ろ》に入って、少し気分をほぐしたいんです。疲れてるし」
「いいとも。入っておいで」
「恥ずかしいわ」
と、マリは目を伏せて、「あと一時間したら来て下さい。——お願い」
中山は微《ほほ》笑《え》んで、マリの額に唇《くちびる》をつけると、
「分ったよ」
と、立ち上った。「じゃ、僕も自分の部屋で、一《ひと》風《ふ》呂《ろ》浴びて来ることにしよう」
「ええ、そうして下さい」
中山は立ち上った。
マリは、ドアを開け、
「一時間したら、ね」
「一時間だ」
中山は、肯いて見せると、部屋を出て行った。
マリは、ドアを閉じると、背中をつけてもたれかかり、大きく息を吐いた。——何てこと! 何をするところだったんだろう!
ポチが、マリを見ている。
「ありがとう、あんた」
と、マリは言った。
「何が?」
と、ポチはとぼけた。
「吠《ほ》えてくれたじゃない。あれで、我に返れたわ」
「そうかい?」
ポチは欠伸《あくび》をして、「俺《おれ》は腹が空《す》いただけさ」
「さ、急いで仕度」
マリは、着ていたものを手早く脱いだ。そして、スラックス姿に、分厚いコートをはおると、
「出発よ。この服はもらってっちゃうけど、仕方ないわね。初めの服は、もうないんだから」
「給料は?」
「少しはお金あるわ。何日間かは困らないわよ」
「今から出るのか? 寒いし、バスももうないぜ」
「トラックとか通るでしょ。それにヒッチハイクで乗せてもらいましょ」
「分ったよ」
ポチも、文句は言わなかった。
「さ、忘れもの、ないわね」
「置き手紙でも?」
マリは、ちょっと考えて、
「いらないわ。どっちにしても、私の役目なんか、あの人が理解してくれるわけがないしね」
「そりゃそうだな」
「それより、できるだけ早く、ここから離れるのよ。——行こう」
マリは、部屋を出て、廊下を急いだ。
通用口から、バスの通る道へ出れば、何か車の一台ぐらいは通るだろう。
中山のことを、マリは頭の中から一生懸命に追い出そうとした。——胸が痛んだ。
恋か。これが恋ってものなのか……。
でも、天使が研修中に恋なんかしてちゃいけないんだ。恋は、人《ヽ》間《ヽ》の《ヽ》も《ヽ》の《ヽ》なんだ……。
自分へそう言い聞かせながら、マリとポチは通用口へと急いだ。
もう少し。——パッと角を曲って、マリは足を止めた。
「お出かけ?」
と、目の前に立った水科尚子が言った。
「水科さん……。私、ここを出ます」
と、マリは言った。
「何ですって?」
「中山さんには言ってません。色々お世話になって申し訳ないとは思うんですけど、これ以上、ここにはいられないんです」
尚子は、マリを見ていたが、
「あなた……本当に、出て行くの?」
「ええ。加奈子さんによろしく言って下さい。私に、教祖なんて、とてもつとまりませんからって」
「そう」
尚子は微《ほほ》笑《え》んだ。「じゃ、悪いけど、連れてってほしい人がいるの」
「え?」
「その人たちよ」
と、尚子がマリの後ろへ目をやる。
マリは振り向いて、目を丸くした。
加奈子が、何だかくたびれた様子の中年男を、支えるようにして、立っている。
「加奈子さん……」
マリは、その男を、どこかで見たことがある、と思った。「この人は?」
「私の父よ」
と、加奈子が言った。