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天使よ盗むなかれ01
日期:2018-09-28 18:03  点击:340
 1 はねられた犬
 
 
 フロントガラスが、ふっと曇《くも》った。
「雨だわ」
 と、加津子《かづこ》は呟《つぶや》いた。「あんなに晴れてたのに」
 ワイパーを動かす。
 雨。——そうね、空が私に同情してくれたのかもしれないわ。
 同情? いいえ、笑っているのかもしれない。笑い過ぎて涙《なみだ》が出るってことだって、あるんだから。
 誰《だれ》が——誰が同情なんてしてくれるもんですか。あんたの失恋《しつれん》なんかに。
「いい年齢《とし》して、火遊びなんかするからよ」
 という、誰とも知れない声が、耳もとで聞こえたような気がした。
 もちろん、ここは走っている車の中で、乗っているのは、加津子一人だったから、他人の声など、聞こえるはずがない。それに、気が付くと、今の声は、加津子自身の声に似ているようにも思えた……。
 でも——私は恋《こい》をしてはいけないのかしら? もう四十二|歳《さい》だから? それとも、私がお金持だから?
 私は独身で、自由なのだ。それなのに、どうして恋をしてはいけないの?
 どうして誰も彼《かれ》も、私から逃《に》げて行くのかしら。——あの人[#「あの人」に傍点]のように。
 彼もまた「あの人」のように、私から逃げて行ってしまった。私は、何もかも投げ出して、彼について行くつもりだったのに。
「年齢の差なんて、問題じゃないよ」
 私を抱《だ》きしめて、彼はそう言ってくれたのだ。あれは嘘《うそ》だったのかしら。
 彼もまた、私の「お金」だけが、目当てだったのだろうか?——いいえ! いいえ! それでは、あんまり寂《さび》し過ぎる……。
 彼の言葉の中に、ひとかけらも真実がなかったなんて、信じたくもない。たとえ結果は同じでも。
 彼だって、少しは[#「少しは」に傍点]私を愛してくれていたのだ。きっと、そうだ。——きっと。
 どうしたの? どうしてワイパーが動かないの?
 フロントガラスが一向にきれいにならないのを見て、加津子は戸惑《とまど》った。そして、気が付いたのだ。
 雨じゃない。雨が降っているのではない。涙《なみだ》なのだ。
 涙が、次から次へとあふれ出て、視界を曇《くも》らせているのだと気付かずに、雨だと思っていた……。こんなに泣くなんて。
 男が一人、去って行っただけなのに。前から分っていたことなのに。どうしていちいち泣くのよ?
 まるで、決った手続きのように。フルコースの料理のデザートのように。でも、こんなしょっぱいデザートなんてあるかしら?
 危いわ。——前がよく見えない。
 加津子は、ワイパーを止めて、左手の甲《こう》で涙を拭《ぬぐ》った。もちろん、ほんの一、二秒のことだったのだが——。
 再びしっかり前方を見据《みす》えた時、何か黒いものが、車の前に飛び出して来た。
 加津子は、頭で、
「犬だ」
 と、分っていた。「このままじゃ、はねてしまうわ」
 あまりに突然だった。——加津子は決して下手《へた》なドライバーではない。しかし今は、最も悪い状態だったのだ。
 ブレーキを踏《ふ》む。その直前に、加津子はその黒い犬を追って、もう一つの影が——人間[#「人間」に傍点]が、飛び出して来たことに気付いた。
 危い! 初めて、加津子は恐怖《きようふ》を感じた。しかし、その時には、もう加津子の運転する車は、その二つの影を、はねてしまっていたのだ。
 車は停《とま》っていた。
 ——どうしたの? 何があったの?
 加津子は、しばらく呆然《ぼうぜん》として、座っていた。——ここが車の中で、家の居間に座っているわけではないことも、忘れていた。
「誰かいないの?」
 と、声に出して、呼んでいた。
 いるわけがない。——そう。ここには私一人しかいない。
 一人? いいえ。——あと一人。そして一匹の犬。
 車が真直ぐに停っていたのは、奇跡《きせき》とでも言うべきものだったかもしれない。いくらアンチロックブレーキでも、こんな急ブレーキをかけたのでは……。
 雨もなく、路面が乾《かわ》いていたことも、幸いしていたのだろう。
 目を閉じて、加津子は何度も息をついた。人をはねてしまった。
 このまま、逃《に》げてしまおうか。
 我に返って、初めに頭に浮んだのは、この言葉だった。——逃げろ。誰も見てやしないさ。
 確かに、人目はないはずだ。
 ここは大分|郊外《こうがい》に出た道である。幹線道路でもないので、車の量も少ない。今、加津子の車の他《ほか》に、全く車は見当らなかった。
「しっかりして!」
 と、加津子は言った。「あなたは、細川《ほそかわ》加津子でしょ!」
 実業界や、社交界にも名を知られている人間なのだ。もしここで逃げて、それが後で分ったら、どうなるか。
 細川産業グループは、根底から引っくり返ることになる。——たとえ何億円払っても、あの、はねた相手が、命を取りとめさえすれば……。
 そう。スキャンダルは、あらゆる手を使って、食い止め、もみ消すことができる。刑事《けいじ》事件にさえ、ならなければ。
 ともかく、はねた人と犬のことを、見に行かなければ。加津子は車のドアを開けた。
 道に黒い犬が倒《たお》れている。そして、少し手前に、女の子が一人、起き上ったところだった。
 良かった! 生きてるんだわ!
 加津子の、青ざめていた顔に、血の気が射《さ》して来た。駆《か》け出して行きながら、
「大丈夫《だいじようぶ》? ごめんなさい!」
 と、加津子は声をかけていた。
 車は、二十メートル近くも先まで行ってしまっていた。少女は足音を聞いて、加津子の方を見た。
「どこを打ったの? 足は?」
 と、加津子が少女を助け起こす。
「いえ……。私、大丈夫です」
 十六、七|歳《さい》という感じの少女だった。小柄《こがら》で、ふっくらとした丸顔。ワンピースは、大分くたびれていたが、腰《こし》の辺《あた》りが裂《さ》けているのは、今、車に触《ふ》れたせいだろう。
「しっかりしてね。——腰を打った?」
「あ、いた!」
 と、少女は腰に手を当てて、叫《さけ》んだ。「ちょっと……打ったみたいです」
「病院へ行きましょ。けがは? 血の出てるところは?」
 少女は、ぼんやりして頭を振《ふ》っていたが、黒い犬が、ぐったりと倒れているのに目を止めると……。
「ポチ!」
 と、叫んで、駆け寄った。「ポチ! しっかりして! 死なないで!」
「ポチっていうの、その犬?——ほら、生きてるわよ」
 気休めではなかった。その黒い、大きな犬は、確かに、呼吸をしていた。
「ポチを病院に——私は大丈夫ですから!」
 少女は泣き出しそうだった。
「心配しないで、ちゃんと手当てをするわ。ともかく、私の車に」
 加津子は走って車へ戻ると、バックさせて、少女が犬を抱《だ》きかかえている所まで来て停めた。
「——さ、乗せましょ。手伝うわ」
 後部座席のドアを開けると、加津子は、黒い犬を、少女と二人で運び込《こ》んだ。大きいので、かなりの重さである。
「じゃ、あなたも乗って。この近くの病院に——。どうしたの?」
 少女が頭をかかえてふらついたのを見て、加津子はびっくりした。
「何だか——めまいがして」
「乗って……。横になっているといいわ」
「ええ、すみません、私——」
 と、言ったきり、少女は、犬の上に覆《おお》いかぶさるように倒《たお》れてしまった。
 加津子はドアを閉め、運転席に戻《もど》った。
 ——どうしよう?
 車を動かす前に、よく考えなくてはならない。病院へ運ぶとしても、どの病院にするか。この近くに、どんな病院があるか、加津子はよく知らないのだ。
「そうだわ」
 加津子は、自動車電話を取った。——うまく捕《つか》まるといいが。
 幸いすぐに向うが出た。
「市川《いちかわ》君? いたのね、良かった!」
「社長。どこからですか?」
 と、市川|和也《かずや》の、いつもながらの明るい声を聞くと、加津子はホッとした。
「車よ」
「何だ。彼氏とベッドの中かと思いましたよ。それとも気分を変えて車の中で?」
 市川の言い方はカラッとしていて、腹を立てられない。
「あのね、大変なことになったの」
「何です?」
「人をはねたの」
 少し間《ま》があって、
「確かですか?」
 さすがに市川の声が変っている。
「ええ。女の子と、犬」
「犬?」
「黒い大きな犬。女の子は、十六ぐらいかしら」
「犬はどうでもいいです。女の子の方は——。ちょっと待って下さい」
 少しの間があった。「——すみません。社長室のドアが開いていたので。女の子は、生きてますか?」
「と、思うわ」
 チラッと後部席へ目をやって、「息をしてる。でも、意識がないみたいなの」
「今、どこです?」
「家へ帰る途中《とちゆう》。あの間道の半分くらい来た所よ」
「そんな所に、どうして人がいたんでしょうね」
 言われて、加津子も初めて気が付いた。そういえば、こんな所で、この少女と犬は、何をしていたんだろう?
「分らないわ」
 と、加津子は言った。「でも、ともかくはねたことは確か。どこの病院へ運べばいい?」
「待って下さい」
 と、市川は言った。「病院はまずい。警察へ連絡《れんらく》が行きます」
「でも——」
「社長を刑務所《けいむしよ》へ入れるわけにはいきませんよ」
「だって、私がはねたのよ」
「命さえ取り止めれば、後は金で話はつけられます。うちの社の誰かに、私が運転していてはねました、と自首させればいい」
「だって、ここには——」
「いなくたって構やしません。いいですか。僕《ぼく》に任せて下さい。最善の方法を考えます」
 正直なところ、加津子は、市川がそう言ってくれるのを待っていたのである。意識していなかったのかもしれないが、市川へ電話をかけた時から、そう言ってくれることを、期待していたのかもしれない。
「——分ったわ」
 と、加津子は言った。「どうしたらいいの?」
「ともかく、一旦《いつたん》、お宅へ戻《もど》られて下さい」
「女の子と犬を連れて?」
「犬は放《ほ》っといていいんじゃないですか」
「もう乗せてしまったわ。それに女の子が、犬がいなくなったら、騒《さわ》ぐかもしれない」
「なるほど。それもそうだ。じゃ、ともかくお宅へ。僕もすぐに社を出て、お宅へ向います」
「分ったわ」
 と、電話を切ろうとして、「——え? 何?」
「いや、何も言いません」
「そう。ごめんなさい。まだ何だかボーッとしているみたいで」
「しっかりして下さい。社長」
 社長、という言葉に、市川は、力をこめて言った。それが加津子を立ち直らせる、と知っているからである。
「ええ、大丈夫《だいじようぶ》よ」
 と、加津子は肯《うなず》いた。
「安全運転で。焦《あせ》ったら、また事故を起こしかねません」
「ええ」
「いいですね。社長がはねたわけじゃないんですよ」
 ——本当に、頼《たよ》りになる秘書だわ。
 加津子は、市川の声で、大分落ちつきを取り戻《もど》した。
 後ろの座席を見ると、少女と黒い犬は、まるで眠《ねむ》っているかのように、目を閉じてじっと動かない。
 一瞬《いつしゆん》、死んでしまったのかしら、と思ったが、少女の胸がゆっくり上下しているのに気付き、ホッとした。
「——さ、落ちつくのよ」
 と、声に出して言ってから、加津子は車をスタートさせた。
 細川家の屋敷まで、二十分ほどだ。
 加津子のハンドル捌《さば》きには、もう全く何の不安もなかった。
 ——もし、加津子が、もう一度後ろの座席を振り返っていたら、今度こそ大事故を起こしていたかもしれない。
 意識を失っているはずの、少女と犬が、お互いに[#「お互いに」に傍点]ウィンクし合っているところだったのだから……。

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