7 古い敵
「今度はずいぶん短命でしたね」
と、市川が車を運転しながら、言った。
「あんなにだらしのない男だとは思わなかったわ」
加津子は後ろの席でご機嫌《きげん》が悪い。「ニューヨークに着くなり、モデルの子に言い寄ったりして!」
「ま、今の若いのは、あんなもんじゃないですか」
と、市川は肩《かた》をすくめて、「帰りの旅費なんかやることなかったんですよ」
「お金が惜《お》しいわけじゃないのよ」
と、加津子は言った。「ただ、自分に腹が立つの。あんな男のことが見抜《みぬ》けなかったのかと思って」
車は、屋敷の近くまで来ていた。
「ま、もう少し近い年齢《ねんれい》の男を捜《さが》した方が無難かもしれませんね」
「もう年齢《とし》なのね」
と、加津子は、ため息をついて「考えなきゃ。——色々とね」
「もう屋敷です。まだ朝早いから」
「和代《かずよ》さんは来てないでしょ。あの人は八時からだから」
「あのいつかの娘《むすめ》はまだいるんですか」
と、市川が訊《き》いた。
「マリちゃん? いるわよ」
「マリちゃんか。お人形ですね、まるで」
「でも、真面目《まじめ》な子よ。本当によく働くって、和代さんが言ってたくらい」
「あの人がそう言うんですか。そりゃ大したもんだ」
「犬も一緒《いつしよ》」
「——ご用心なさった方がいいですよ」
「何を?」
「あの娘です」
「まだ言ってるの?」
と、加津子は笑った。「ずいぶん疑り深い人ね」
「よく働くっていうからです。残念なことですが、当節、人並《ひとな》み以上によく働く人間には、下心があると思った方がいいんですよ」
「なるほどね」
加津子は、半ば呆《あき》れ、半ば感心して、肯いた。「よく憶《おぼ》えとくわ」
「あの娘、記憶《きおく》の方は?」
「一向に。——こっちも、別に訊《き》いてもみないし」
「そうですか。やっぱり——おや」
と、市川が言った。「門が開いてます」
「こんな時間に?」
加津子もびっくりした。
時間に係《かか》わりなく、門は、開けてもすぐに閉めているはずだ。開け放してあれば、防犯装置が働く。
「おかしいですね。警察を呼びましょう」
「でも——あの娘《こ》が中にいるのよ」
「もし、誰《だれ》かが押し入ったのなら、もう手遅《ておく》れですよ」
車のブレーキを踏《ふ》んで、市川は、自動車電話で警察へ連絡した。
「——五分以内に来るでしょう」
車は門の二、三十メートル手前で、停《とま》っていた。
加津子が、ドアを開けて、外へ出た。
「社長!」
「あの娘《こ》が心配だわ」
加津子は、門へ向って、駆《か》け出して行く。
「待って下さい!」
市川は、あわてて加津子を追って駆けて行った。
「——玄関《げんかん》も開いてるわ。防犯装置が役に立たなかったのね」
「しかし……。何を狙《ねら》ったんですかね」
「分らないわ。——マリちゃん!」
中へ入って、加津子は大声で呼んだ。「マリちゃん!」
返事はなかった。
「取りあえず、寝室《しんしつ》を見てみましょう」
と、加津子は言った。「金目のものといえば、あそこの毛皮ぐらいよ」
二人は階段を上って行った。
「——例の日でなくて幸いでしたね」
と、市川は言った。
加津子は何も言わずに、自分の寝室のドアをサッと開けた。
「社長! 気を付けて——」
加津子は、寝室の中を見渡した。
部屋着やドレスが散乱している。
「毛皮を持って行ったようね」
「大した被害じゃありませんな。まあ良かった」
加津子が、ピタリと足を止めた。
「——社長、どうしました?」
「マリちゃん」
ベッドの向う側に、白い足が覗《のぞ》いている。
加津子は駆け寄った。——市川も覗いて、
「おやおや」
と、首を振《ふ》った。
マリが、気を失って倒《たお》れている。
「死んでるんですか?」
「生きてるわよ! すぐ救急車の手配」
「分りました。しかし——分りませんね、僕《ぼく》にゃ、犯人の気持が」
「早くして!」
市川が、電話へと駆け寄る。
「——可哀《かわい》そうに」
と加津子は呟《つぶや》いた。
マリは、殴られたらしく、左の顎《あご》の辺りがあざになっていた。そして、パジャマが引き裂《さ》かれて、むき出しになった白い腿《もも》には、引っかいたような傷がある。
加津子がマリを抱《だ》き起こすと、マリは目を開けた。
「もう大丈夫《だいじようぶ》よ。心配しないで」
と、加津子は急いで言った。「今、救急車が来るからね」
「私……。泥棒《どろぼう》——泥棒《どろぼう》が!」
と、マリが大声を出す。
「もう逃げたわ。心配ないのよ。ね、落ちついて」
加津子がしっかり抱いてやると、マリは体を震《ふる》わせて、息を吐《は》いた。
「もう警察が来るでしょうから、外へ出ていますよ」
と、市川は言って出て行った。
「——悪かったわね。あなたを一人でここに置いといたのが、間違《まちが》いだったわ」
「いえ……。私こそ、役に立たなくて」
と、マリは、うつむいた。
「泥棒が入ったら、何もできやしないわよ。ともかく無事で良かった」
無事[#「無事」に傍点]ではないかもしれないのだが……。加津子は、あえて「無事」と言ったのである。
「一人でした。泥棒は——」
「そう。後でいいわ。ゆっくり聞くから」
「手袋《てぶくろ》が——」
「手袋?」
「ベッドの上にありませんか」
加津子は、大きなベッドの上へ目をやった。——白い、布の手袋の片方が、置かれている。
「あるわ。私のじゃないわね」
「置いて行ったんです」
「泥棒が?」
「はい……。ちゃんと警察に言えって。——〈夜の紳士《しんし》〉だ、と」
「〈夜の紳士〉? 何です、それ?」
と、畑健吾は電話の相手に訊《き》き返した。「——はあ。そうですか——分りました。じゃ、謹慎《きんしん》はもう——」
向うでガミガミ言っているのが聞こえて来て、健吾は受話器を離した。
「——分りました。急行します」
電話を切って、健吾は、大|欠伸《あくび》をした。
謹慎になってからは、あんまり朝早く起きる必要もないので、つい夜ふかしになっているのである。
何のための謹慎かと、我ながら首をかしげたりしていた。
コーヒーでも飲まなきゃ、目が覚めないよ、全く。
台所へ入って、お湯をわかしていると、
「おい、電話か?」
ヌッと父親が出て来て健吾はびっくりした。
「お父さん! さっき帰って来たばっかりじゃないの?」
「二時間も寝《ね》た。もうすっきりだ」
畑健一郎はそう言って、ブルブルッと頭を振《ふ》った。
かなわねえな、全く、と健吾はため息をついた。
「今のは僕《ぼく》にだよ。強盗《ごうとう》事件」
「そうか、じゃ、謹慎はとけたのか」
「うん。忙《いそが》しくて人手がないからって」
「よし。——今度こそ、犯人を挙《あ》げろよ」
父親にバン、と肩《かた》を叩《たた》かれて、健吾は顔をしかめた。
「——大仕事か」
「狙《ねら》われたのは大きな屋敷《やしき》らしいよ」
と、健吾は言った。「犯人がね、メイドに名乗って出て行ったんだって」
「フン、キザな奴《やつ》だな」
「〈夜の紳士〉だってさ。白い手袋を片方、ベッドに残して、と来るからね。きっと映画の見過ぎ——」
「おい!」
健一郎が、もの凄《すご》い声を出して、健吾は腰《こし》が抜《ぬ》けそうになってしまった。
「お父さん! 気を確かに!」
「誰《だれ》がだ」
と、健一郎は顔をしかめた。「お前の方がよっぽど気を確かに持たんと、犯人は挙げられんぞ」
「お父さん、知ってるの、〈夜の紳士〉って泥棒《どろぼう》を?」
「知ってるどころか……」
畑健一郎は、そう言ってから、ゆっくりと深く呼吸した。「やっぱり生きていたんだな。あいつ……」
「生きていた、って?」
「姿を消したんだ、ある日突然な。それから——もう二十年近くになるだろう」
「へえ」
「おい、湯が沸《わ》いてるぞ。コーヒーを俺《おれ》にもいれてくれ」
「うん……」
健吾と健一郎、二人してコーヒーを飲むというのは、珍《めずら》しいことだった。
「——こんな風に話すのは、久しぶりだな」
と、健一郎は言った。
「そうだね」
「しかし、妙《みよう》な縁《えん》だ。あいつを二十年前に追いかけていた俺の息子が、またあいつを追うことになる」
健一郎の言い方は、懐《なつか》しげですらあった……。
「有名な泥棒だったの?」
「一時は結構|騒《さわ》がれたもんだ。しかし、〈夜の紳士《しんし》〉って名は、いつも名乗っていた。白い手袋《てぶくろ》の片方を置いて行くのも同じだ。あのころは、まだ大|邸宅《ていたく》に現金を置く人間も多かったしな」
「今はほとんどいないよ」
「そうだ。おそらく、奴《やつ》が足を洗ったのも、その辺を見きわめたからだろう、と俺《おれ》は思っていた」
「頭のいい奴だね」
「そうだな」
健一郎はニヤリと笑って、「やり過ぎる、ということがなかった。その点はみごとなもんだ。潮時《しおどき》を心得てたってことではな」
「じゃ、人を殺したりとか——」
「それはない。あいつは殺したり傷つけたりはしない男だ」
「でも、今度は若いメイドを襲《おそ》った、って——」
「何だと?」
健一郎は眉《まゆ》を寄せた。「けがさせたというのか?」
「いや……。若い子らしいよ。十六、七の。でも乱暴されたらしいって……」
「それは妙《みよう》だ」
健一郎は考え込《こ》んだ。
「——二十年もたってるから、人間も変ったんじゃないの?」
「それも考えられるが……」
「それでなきゃ、別の犯人かもね。その格好だけ真似《まね》して」
健一郎は、立ち上った。
「俺《おれ》も行く」
「父さんが? だけど——今、かかってる事件があるんじゃないの?」
「いや、あれはもう目処《めど》がついた。俺がいなくても、どうってことはない。おい、すぐに出るんだろう」
「うん」
「のんびりしてる奴があるか!」
「分った」
健吾は、あわててコーヒーを飲み干そうとして、むせ返った。
——どうしてこうも違《ちが》うのか?
ネクタイをしめながら、健吾が階段を下りて来ると、もう父親は玄関《げんかん》で待っている。
「お前、モデルでもやってるのか?」
と、いやみを言われる。
「これでも精一杯《せいいつぱい》——」
と、言いかけると、電話が鳴った。「僕が出る」
出てみると、結城江美からだった。
「やあ。実はね、今、事件で出かけるところなんだ」
「あら。それじゃ仕事に戻《もど》ったの?」
「うん、そういうことさ」
「良かったわね」
「これで、また何かへま[#「へま」に傍点]やりゃ、同じことだけどな」
「しっかりしてよ。——ね、いつかのおじさんだけど」
「ああ、池上さん、だっけ?」
「行方《ゆくえ》が分らないの。何だか心配だわ」
「でも、連絡は——」
「ええ、あったわ。だけど……。ともかく、また今度ゆっくりね」
「うん。——それじゃ」
玄関へ戻ると、健一郎が、
「例の娘《むすめ》か」
と、言った。
「うん。あの——」
「まあいい」
健一郎は、ちょっと笑って、「一度|紹介《しようかい》しろ」
と、言った。
「お父さん……。本気?」
健吾がポカンとしていると、
「事件だ、事件! お前がボーッとしていると、俺がその娘をかっさらうぞ」
と、健一郎がドン、と息子の背中を叩《たた》いた。
健吾は、一瞬《いつしゆん》、息が詰《つま》って、目を白黒させたのだった……。