19 転 落
「どこだ!」
「こっちだ!」
「庭へ出たぞ!」
屋敷《やしき》のあちこちから声が飛《と》び交《か》って、却《かえ》って大混乱になってしまった。
「——変だわ」
と、マリは言った。「あの人、本当にお金をとる気なんてなかったのよ」
「じゃ、誰がやったんだ?」
と、ポチが言った。
「分らないけど——見張ってたガードマンが全員、薬で眠らされてたって」
「フーン。何億円ったって、その気になりゃ、結構《けつこう》簡単なもんだな、盗むのは」
と、ポチは、感心している。「おい」
「何よ」
「今度、二人でやろう、強盗《ごうとう》」
「勝手にやんなさい」
マリたちが、庭へ出て行くと、ライトを手に、警官たちが右往左往している。
「犯人は警官の制服姿だぞ!」
と、畑健一郎が叫んでいる。「気を付けろ!」
「捜してるのも警官なのに、あれじゃ分んないよね」
と、マリは言った。
「なかなか頭のいい奴だな。地獄で、歓迎してくれるぜ」
「地獄なんか行かないわよ、あの人は。我が子の幸せのためにやったんだからね」
「へっ、甘い奴だな」
「何よ」
と、やり合っていると、
「おい、そこの犬! 犯人でも追っかけたらどうだ!」
と、警官がポチに向って怒鳴った。
「ふざけんじゃねえや。飯の一回だって、食わしてもらったこともないのに」
ポチはそっぽを向いてしまった。
その時、
「いたぞ!」
と、声が上った。
「おい!」
「上だ! 屋根の上!」
「光を当てろ!」
ライトが、高い屋根へと向く。——かなり傾斜《けいしや》の急な、屋根の上に、明りに照らされて、浮かび上ったのは……。
「まあ」
と、マリは言った。「着替えたんだわ」
タキシード姿の、〈夜の紳士〉が立っていたのである。
「やあ、ご苦労さん」
と、池上は、地上の警官たちに向って、手を振った。「なかなかいい眺めだよ」
「おい! 囲まれてるぞ! 諦めて下りて来い!」
と、怒鳴っているのは、畑健一郎である。
「そっちから来いよ」
と、池上が愉快そうに、「高所恐怖症《こうしよきようふしよう》で、上れないんだろ?」
「ど、どうして知ってる!」
と、健一郎が顔を真赤にした。
「囲まれてる、か。——なに、そっちの電柱《でんちゆう》へ飛び移るのは簡単さ。ではまた会おう」
と、池上は、器用にバランスを取りながら、屋根の天辺《てつぺん》を歩き出した。
「待て! 撃《う》つぞ! 止《とま》れ!」
健一郎が拳銃《けんじゆう》を抜いて、空に向って一発撃った。
しかし、もちろん池上はまるで気にもしない様子。
「——無理だぜ」
と、ポチが言った。
「え?」
「電柱に飛び移るなんて、鳥でもなきゃな」
マリは、息を呑《の》んで、見守っていた。池上は死ぬつもりなのだ。
「止れ!」
健一郎が、もう一度怒鳴った。「撃つぞ!」
健吾が、
「僕が屋根に上る!」
と、言うなり、雨樋《あまどい》に向って、駆けて行った。
「馬鹿、やめろ!」
メリメリ……。雨樋がこわれて、健吾が引っくり返る。
「撃て!」
と、健一郎が叫んだ。「おい、健吾! 撃て!」
「僕が?」
「そうだ! 早く撃て!」
健吾が拳銃を抜く。銃口がゆっくりと重たげに屋根の上に向いたが……。
「何をしてる! 撃つんだ! 逃げちまうぞ!」
健一郎の声に、健吾が、ギュッと拳銃を握り直した。その時、
「やめて!」
と、叫んで、江美が飛び出して来た。「撃たないで!」
その声にギョッとした弾《はず》みだったが、拳銃が火を吹いた。
アッ、と声にならない声が、庭に満ちた。
屋根の上で、池上の体がグラッとよろけたのだ。
マリも息をのんだ。——池上が、屋根を転がり落ちて来た。
ドサッと、音をたてて、池上が庭へ落ちる。
マリは、急いで駆けて行った。
「——金は見付かりません」
と、畑健一郎は首を振って、言った。「既《すで》に邸外《ていがい》へ持ち去ったものと考えていいかもしれませんな」
「そうですか」
加津子は、地味《じみ》なスーツを着て、居間のソファに、身じろぎもせずに座っていた。「ご苦労様でした」
「いや、どうも……。できることなら、生かして捕えたかったんです」
「そうですね」
と、加津子は言った。「お引き取り下さいな」
「分りました」
健一郎は、居間を出ようとして、「——おい、行くぞ」
と、健吾へ声をかけた。
「うん……」
健吾は、眉を寄せて、考え込んでいる。
「あの場合、仕方なかった。まあ、気にするな」
と、息子の肩を叩く。
二人が廊下へ出ると、江美がやって来た。
「江美さん」
と、健吾は言いかけた。
「何も言わないで」
と、江美は言った。
「知らなかったんだ。あの人が君の——」
「もうすんだことだわ」
江美の表情は固《かた》かった。「あなたは間違ってなかったでしょうけど。でも、やっぱり私、気持の上で、忘れることはできないと思うの。——ごめんなさい」
「じゃ……。もう、これで?」
「ええ。さよなら。——いい刑事さんになってね」
江美が居間へ入って行く。
健吾は、重い足取りで、父の後をついて行った。
「やれやれ……」
市川《いちかわ》は、汗を拭《ぬぐ》った。「全く、危いところだった」
中村《なかむら》の奴、どこへ行っちまったんだ! 肝心の時に!
やっと警官も引き上げて、邸内は静かになっていた。
市川は、金を置いていた小部屋へ入ると、壁の絵を少しずらして、その下の壁をいじった。——カタッ、と音がして、床の一部が、凹《くぼ》んだ。
「——これで、俺《おれ》も助かった、というわけだ」
この隠し場所は、市川が、加津子の旅行中に、こっそり作らせたものだ。
まさか盗まれた部屋に隠してあるとは思わないだろう……。
市川は蓋《ふた》を持ち上げた。——鉄のケースがスッポリと納まっている。
「さて、どうやって運び出すか」
と、呟《つぶや》くと、
「手伝いましょうか」
と、声がした。
市川が飛び上った。——マリが、ポチと並んで、ドアの所に立っている。
「見たな!」
「そりゃ、目があるからね」
市川が、上着の下から拳銃を出した。
「ほら、何とかしなよ」
と、マリがポチをつついた。
「やだよ。俺は悪魔なんだぞ。正義《せいぎ》の味方じゃねえや」
と、ポチが文句を言う。
「ステーキ、おごるからさ」
「ステーキ? 本当か?」
「もちろんよ」
「デザートは、上等のサバランだぞ」
「分ったわよ。本当に食い意地がはってんだから」
と、マリがため息をつく。
「何をグチャグチャ言ってるんだ」
と、市川が言った。「命が惜《お》しかったら——」
ポチが、ワッと飛びかかった。——バアン。
引金《ひきがね》を引くのが、少し遅かった。
市川は、ポチに飛びかかられて、引っくり返りざま、頭を机の角にしたたか打ちつけて、気絶してしまったのである。
「何だ、弱いの」
と、ポチが鼻を鳴らした。
そこへ、畑親子が駆けつけて来た。
「ここにいたのか!」
と、健一郎が息をつく。「金もここか」
「この人が、池上さんを撃ったんですよ」
と、マリは言った。「ほら、二発撃ってるでしょ」
健吾は、その拳銃を受け取って、
「じゃ……僕の弾丸は当らなかったのか!」
「あれで当ったら、奇跡《きせき》ね」
と、マリは言ってやった。
「——何事?」
加津子と江美もやって来た。
「江美さん! 見てくれ!」
と、健吾が飛び上りそうになる。
事情を聞いて、加津子は唖然《あぜん》とした。
「市川さんが、横領《おうりよう》?」
「そうです」
と、健一郎は肯いた。「その穴埋《あなう》めに、この金を、狙《ねら》ったんですな。うまく〈夜の紳士〉に罪をかぶせて、金だけは自分のものにしよう、と」
「何てこと……」
と、加津子は呟いた。「人を見る目がないんだわ、私って」
「でも、刑事さん、どうしてそれを知ってたんですか?」
と、マリが訊いた。
「奴が教えてくれたのさ」
「奴って?」
「〈夜の紳士〉当人[#「当人」に傍点]さ。——市川は〈夜の紳士〉を殺すのと、金を隠しておいて運び出すのに、中村って男を雇った。ところが、その中村ってのは、実は〈夜の紳士〉当人だったのさ。それで前もって、電話でこっちに市川のことを知らせて来たってわけだ」
「呆れた。じゃ、一人で困ったでしょうね」
と、マリは市川を見下ろして言った。
「相棒がいれば、きっと金も運び出していたんだろうな」
健一郎は、江美の手をじっと握りしめている健吾へ、「おい、人を呼んで来い! 金を調べろ」
「うん。——それからお父さん」
「何だ?」
「僕、刑事を辞めるよ。やっぱりこの仕事にゃ向いてない」
健一郎は、ちょっと笑って、
「そうか。じゃ、せめて辞表《じひよう》ぐらいは自分で書けよ」
と、言った……。
何人か警官が来て、金のケースを、穴から出した。
「一応開けてみましょう」
「ええ。じゃ、鍵《かぎ》が……」
加津子が、鍵をあける。——そして、誰もが呆気に取られることになってしまった。
ケースの中は、空だった[#「空だった」に傍点]!
「どうなってるんだ!」
と、健一郎が目をむく。
「何か入ってます」
と、マリがケースの底から、一枚の紙を取り出した。「ええと……。〈長い間、お世話になりました。退職金のつもりでいただきます。大山和代[#「大山和代」に傍点]と名乗っていた女〉……」
誰もが、しばらくは声も出なかった。
そして——加津子が、楽しげに笑い出したのである。
マリも笑った。ポチも……笑ったのだが、誰もそうは思わなかっただろう……。