1 大《たい》安《あん》吉《きち》日《じつ》
「いい加《か》減《げん》にしろい、全くもう!」
やくざまがいの男が言ったのなら、このセリフ、別に何の不思議もないのだが、今年やっと二十一歳《さい》という、若《わか》き女《じよ》性《せい》が発したとなると、ちょっと苦々しく眉《まゆ》をひそめる向きもあろう。
しかし、そこには、多少、無《む》理《り》からぬ事《じ》情《じよう》もあって……。
ところで、この日は十月の初め、そろそろ秋風が時に冷たくも感じられるころ。しかし、この日は晴天で、動き回ると少し汗《あせ》ばむような暖《あたた》かさであった。
北の風、風力3、気《き》圧《あつ》は——いや、そんなことは、差し当り問題ではない。
場所は東京の、ある結《けつ》婚《こん》式場。言葉を発したのは——いや、その前に結婚式場のどこなのかを記しておかなくてはならない。
そりゃそうだろう。結婚式場ったって、玄《げん》関《かん》から披《ひ》露《ろう》宴《えん》会場、調理場からトイレまで、甚《はなは》だ広いのだから。
そしてここは花《はな》嫁《よめ》の控《ひかえ》室《しつ》なのである。これから、キリスト教式の結婚式を挙げようという物《もの》好《ず》きが——いや、幸せそのものの花嫁がチョコンと椅《い》子《す》に腰《こし》かけている。
当然、衣《い》裳《しよう》はウエディングドレス。白いヴェールが、フワリと顔の前にかかって、お世辞にも奥《おく》床《ゆか》しいとは言えない顔をカバーしてくれている。
ただし、断《ことわ》っておかなくてはならないが、冒《ぼう》頭《とう》の捨《す》てゼリフを吐《は》いたのは、この花《はな》嫁《よめ》ではない。そのそばについている、制《せい》服《ふく》を着た若《わか》い女で、当然、制服を着ているからには、この式場の従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》なのである。
仕事で毎日毎日、結《けつ》婚《こん》式《しき》を見ていると、ちっとも感《かん》激《げき》しなくなるとはいえ、それなりに、一生一度の晴れ姿《すがた》(最近は一度とは限《かぎ》らないようだが)が、少しでも引き立つようにと駆《か》け回っている。
しかし、今日ばかりは……。
全く、いい加《か》減《げん》にしろ、と言いたくもなったのである。
「だって……」
花嫁の方は、グスン、グスンと、風《か》邪《ぜ》でも引いたみたいに、鼻をすすり上げている。泣《な》いているのである。
「もうここまで来たんだから、諦《あきら》めなさいよ!」
と、制服の娘《むすめ》は言った。「どうせ、ここで辞めたって、大した男が出て来るわけじゃなし、さ」
「そりゃ私だって……」
と、すすり上げ、「あの人となら一《いつ》緒《しよ》になってもいいと思ったから……グスン、ここまでついて来たのよ」
「じゃ、いいじゃないの!」
「だけど……あの人ったら、他に女がいて……子《こ》供《ども》まで作って……グスン、それが、ゆうべになって初めて分って……」
「じゃ、ゆうべやめりゃ良かったじゃないのよ」
「そんな……いい笑《わら》い者だわ」
「だけどねえ、今さら、気が変りましたから帰りますなんて言われたって、困《こま》んのよね。ともかく、今日は何の日か知ってる?」
「——私の結《けつ》婚《こん》式《しき》」
「馬《ば》鹿《か》。大《たい》安《あん》吉《きち》日《じつ》なの。大安吉日。分る? 大ラッシュなのよ。この式場」
「私は仏《ぶつ》滅《めつ》だって良かったのよ。でも彼《かれ》のお母さんが大安でなきゃだめだって——」
「そんなこと関係ないでしょ!」
と、制《せい》服《ふく》の娘《むすめ》は、かみつきそうな顔で言った。「いい? ともかく、時間通りに式を始めてくれないと、後がつかえてんの。次の組までに五分しかないんだから!」
「だって……これは一生の問題ですもの」
と、花《はな》嫁《よめ》の方は、まだこだわっている。
「迷《まよ》うんなら、もっと早く迷いなさいよ!——ああもう時間じゃないの。前の組が終るころだわ。いい? ちゃんと式を済《す》ませてね!」
と、制服の娘は、控《ひかえ》室《しつ》を飛び出した。
前の組が終って、ゾロゾロと出て行く。
これで式場を空にし、飾《かざ》りつけや花を、注文のあった通りのものに取り替《か》える。それから、両家の参列者を案内して来て、着席させる。
これを十分間でやってしまわなくてはならないのだ。——式場が空になるのを待って、中へ飛び込《こ》む。
さて、制《せい》服《ふく》姿《すがた》の娘《むすめ》が、この物語のヒロインである。名前は明子。
「あきこ」と読む。
姓《せい》は——忘《わす》れた。いや、本当は永《なが》戸《と》というのだが、ともかく、誰《だれ》でも、ちょっと知り合いになると、
「明子」
としか呼《よ》ばない。
それくらい「明子」という名が、ぴったりしているのである。
二十一歳《さい》——という年《ねん》齢《れい》は、先に述《の》べた。大学生である。
といって、ここでさぼってアルバイトをしているわけではない。わけあって、停学処《しよ》分《ぶん》を受けているのだ。
その辺の事《じ》情《じよう》はまた改めて述べるとして、この永戸明子、いかにも現《げん》代《だい》っ子らしく、スマートで、足もスラリと長い。ちょっと見には、きゃしゃな体つきなのだが、その実、当人も美《び》貌《ぼう》よりは体の方に自信があるというのが本音。
色は健康に陽《ひ》焼《や》けして、夏に海へ一週間行っていたのが、今もってき《ヽ》い《ヽ》て《ヽ》いる。
クリッとした目、大きめの口、さぞかし食べるだろうな、と思わせる。そして事実、よく食べる。
それでいて太らないという、羨《うらや》ましい体《たい》質《しつ》である。
特《とく》別《べつ》に美女というわけではない。六《ろつ》本《ぽん》木《ぎ》あたりを歩いていても、「モデルにならない?」と声をかけられたことは一度もない。
可愛《かわい》くないわけじゃない。いつも、ボーイフレンドには、
「可愛いよ」
と言われている。
言わせている、という方が正《せい》確《かく》かもしれない。
しかし、ともかく、明子は人気がある。性《せい》格《かく》が、サッパリしていて、クヨクヨとか、グズグズとは縁《えん》がないせいだろう。付き合っていて、気持いい、というタイプなのだ。
元気がよくて、さっぱりした気《き》性《しよう》。少々元気がよすぎるのが玉にキズであるが……。
——さて、明子は、式場の手配をすっかり終えると、ホッと息をついた。
これで、参列者を呼《よ》びに行けば、後は式に移《うつ》れる、というわけである。
あんな風に、間《ま》際《ぎわ》になって、何のかのと言い出す花《はな》嫁《よめ》も、いないではない。そういう手合は、せかしてさっさと事を運んでしまうのが一番なのである。
「どうぞ式場の方へ」
と、両家の控《ひかえ》室《しつ》へ声をかけると、明子は花《はな》嫁《よめ》の控室へ戻《もど》って来た。
「さあ、すぐ式ですよ。覚《かく》悟《ご》はできま——」
変なところで言葉が切れた。
明子はポカンとして、そこに脱《ぬ》ぎ捨《す》てられたウエディングドレスを見つめていた……。
オルガンが、結《けつ》婚《こん》行進曲を奏《かな》でる。
花《はな》婿《むこ》は先に牧《ぼく》師《し》の前に立っている。花嫁の入場である。
白いウエディングドレスに身を包んだ花嫁は、いやにうつむいて、足もとが危《あぶな》い感じで進んで来る。
大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かな、というように、花婿は首をかしげた。——しかし、辛《かろ》うじて、転びもせずに花嫁が到《とう》着《ちやく》する。
花婿はホッとして、微《ほほ》笑《え》みかけた。花嫁が顔を上げる。——花婿は、アッと声を上げるところだった。
花嫁は別人だったのである。
「君……」
と言いかけた花婿のわき腹《ばら》を、花嫁が肘《ひじ》でどんとついた。
「静かに」
と低い声で囁《ささや》く。
「どうしたんだ?」
「彼女《かのじよ》、逃《に》げちゃいましたよ」
「何だって?」
「気が変ったんですって」
「君は……」
「私、ここの従《じゆう》業《ぎよう》員《いん》」
「一体どうして——」
「困《こま》るんですよ、もめごとは。ちゃんと時間通りに終ってくれないと」
「だけど——」
「この場はともかくおとなしくして下さい。対《たい》策《さく》を立てるのは、後で」
もちろん、この花《はな》嫁《よめ》、明子である。
式が終って送り出しちまえば、明子の責《せき》任《にん》の範《はん》囲《い》の外になる。——何とか、そこまでは強引に持って行きたい。
「参ったな……」
と、花《はな》婿《むこ》は当《とう》惑《わく》顔《がお》(当然だ)。
「自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》でしょ」
「うん……しかし……。君、披《ひ》露《ろう》宴《えん》の方にも出てくれるの?」
「冗《じよう》談《だん》じゃない! 忙《いそが》しいんですよ」
「じゃ、どうすりゃいいんだ?」
「知るもんですか」
明子は肩《かた》をすくめた。
——何しろ、この大《たい》安《あん》吉《きち》日《じつ》。こんなとぼけた事《じ》件《けん》はあったのだが、この程《てい》度《ど》のことなら、あまり害はない。
もっと大きな事件が、明子を待ち構《かま》えていたのだ。
ところで、この式、そのものは、一《いち》応《おう》無《ぶ》事《じ》に終った。
明子は控《ひかえ》室《しつ》へ戻《もど》ると、急いでウエディングドレスを脱《ぬ》いだ。——これでこっちはお役ごめんだ。後のことなんか知るか!
制《せい》服《ふく》を着ようとしていると、急にドアが開いて、明子は、飛び上りそうになった。
「いや——失礼」
見れば、たった今、式を挙げた花《はな》婿《むこ》である。
「何よ! 出てって!」
「いや——つまり——その、今、一《いつ》緒《しよ》に式を挙げて、君に惚《ほ》れちまったんだ」
「何ですって?」
「ねえ、どうせ、これから披《ひ》露《ろう》宴《えん》だし。僕《ぼく》と結《けつ》婚《こん》しないか?」
「気は確《たし》かなの?」
「もちろん! いや、そうでもない」
と、いきなり花《はな》婿《むこ》は控《ひかえ》室《しつ》へ入りこんで来ると、「君を離《はな》さないぞ!」
と、叫《さけ》んで、下着姿《すがた》の明子めがけて飛びついた。
ここで、ヴァイオレンスポルノ並《な》みの強《ごう》姦《かん》シーンを期待される向きにはお気の毒ながら、明子は、そんなときにキャーキャーとわめいているだけの娘《むすめ》ではないのである。
明子がサッと身を沈《しず》めると、花婿の方は目標を失って前のめりになる。
次の瞬《しゆん》間《かん》には、花婿の体は宙《ちゆう》を一転して、床《ゆか》へいやというほどの勢いで叩《たた》きつけられていた。ウーン、とうめいて、花婿、しばし起き上る気力もないらしい。
「甘《あま》く見ないでよ」
と、明子の方は息も乱《みだ》さず、制《せい》服《ふく》を着ると、
「じゃ、毎度どうも。この次もぜひ当式場でね」
とPRしてから、控室を出て行った……。